手料理をどうぞv

 目を醒ますと、いつもと違う天井板が見えた。
「ああ………」
 昨夜はの家に泊まったのだと、蒼紫は今更のように思い出した。欠伸をしながら上半身を起こすと、寝起きのまだはっきりとしない頭で昨日の出来事をゆっくりと思い返す。
 昨日は二人で鴨川で食事をして、それからの家で茶を飲んで、風呂まで入って泊めてもらうことになって、それから―――――一気に頭に血が上って、一瞬にして目が覚めた。
 そう、昨夜は初めてと夜を共にしたのだ。ただ一緒の部屋に寝たのではない。男と女がするべきことをしたのだ。改めてそう思うと、今更ながら顔が紅くなる。
 の肌の感触も、温かな吐息も、いつもとは違うあの時の声も、全部鮮明に覚えているけれど、それでも昨日のことは夢だったのではないかと思ってしまう。既に隣にはがいなくて布団も一組しか敷いてないからだろうか。ああいうことをした次の朝に、隣に相手がいないというのは、何となく寂しい。
「あ、起きられました? もうすぐ朝ごはんが出来ますから、すみませんけどお布団上げておいてもらえます?」
 厨房からひょっこりと顔を出して明るく言うの姿はいつもと同じで、昨日の余韻は全く無い。普通、初めて夜を共にした次の朝は、何というかこう独特の雰囲気があってしかるべきだと蒼紫は思うのだ。初々しいぎこちなさだとか、逆に一寸淫靡な空気とか。なのににはそれのどれも無くて、ますます昨日のことは夢だったのではないかと思えてくる。
 惚けた顔で見上げている蒼紫に、はくすっと小さく笑って、
「いくら夏でも、いつまでもそんな格好でいたら風邪引きますよ」
「………あ」
 に指摘されて、蒼紫は漸く自分が何も着ていないことを思い出した。
「す……すみませんっっ!!」
 一瞬で真っ赤になると、蒼紫はばっと布団を被って身体を隠す。男なのだから、上半身の裸を見られても恥ずかしいことなどないのだが、あんなことをした後のに見られるのは、何故か恥ずかしかった。
 布団から腕だけを出して脱いだ着物を引きずり込んでいる蒼紫に、は可笑しそうにくすくす笑いながら厨房に引っ込んだ。





 厨房に戻ってまな板の前に立った瞬間、は茹でられたように真っ赤になってしまった。蒼紫の前では余裕の態度を見せていたけれど、昨日あんなことをした後で顔を合わせるのはやっぱり恥ずかしい。
 まさかまだ蒼紫が裸でいるなんて思わなかった。きちんと着付けていろとは言わないけれど、せめて着物を羽織ってくれていれば良いのに。こっちが恥ずかしくて、目のやり場に困ってしまうじゃないか。
 心臓がバクバクしているのを落ち着かせるように一つ深呼吸をすると、味噌汁に入れる小ねぎを刻み始める。小気味の良い音を立てながら刻んでいると、後ろから蒼紫の衣擦れの音が微かに聞こえた。やっと着物を着ているのだろう。
 それにしても、とは考える。昨日の夜は明かりを消して真っ暗だったから判らなかったが、蒼紫は結構筋肉質な身体をしていた。若旦那風の容貌で、着物の上からでは線の細い人のように見えていたから、一寸意外だった。それにあの体中の傷。あれは密偵をしていた頃に受けたものなのだろうか。あんなに傷だらけになるような仕事なんて、どんなことをしていたのだろう。
 まあ、傷は古いもののようだから、今は危険なことはしていないと思う。筋肉が衰えていないように見えるのは、今でも鍛えているのだろうか。あんまり筋肉隆々な身体は一寸嫌だけど、あれくらい筋肉質なのは良いなあと思う。裸で抱き締めてもらう時の感触が、凄く気持ちが良い。

<―――――って、何考えてるの、私!!>

 昨日の蒼紫の身体の感触を思い出して、は全身を真っ赤にする。
 昨日のことは、一つ残らず憶えている。初めての身体に触れた蒼紫の掌の感触も、何度も「好き」と囁いてくれた声も、初めて何も着けずに触れ合った肌の感触も、全て憶えている。あの時は凄く緊張したし恥ずかしかったけれど、でも凄く嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、またしたいなあと思う。

<だから何を考えてるのよ、私っ!!>

 朝っぱらから何て事を考えているのか。朝っぱらからこんなことを考えているなんて蒼紫に知られたら、なんて恥知らずな女だろうと呆れれられるに違いない。
 こんなことを考えてしまう自分が恥ずかしくて、それを誤魔化すようには真っ赤な顔で包丁を何度もまな板に叩きつける。
「何をそんなに激しく切っているのですか?」
 ただ事ではない包丁の音に不審に思ったのか、蒼紫がの背後からまな板を覗き込んできた。
「ひゃあっ?!」
 いきなり声を掛けられて、は間抜けな悲鳴を上げる。いつの間に後ろに立たれていたのか、全く気付かなかった。もしかして、昨日の事を色々考えていた時の顔も見られてしまっただろうか。
 蒼紫が身体をくっつけるようにして手元を覗き込んでくるから、はますます真っ赤になってしまう。昨日まではこうやって身体をくっ付けるようなことはしない人だったのに、そういう関係になったらやっぱり親しみが増して、そうすることに抵抗が無くなるものなのだろうか。
 密着しているわけではないけれど、でもやっぱり一寸触れ合うとドキドキしてしまう。蒼紫はそんなことには全然頓着してないようで、だけ恥ずかしがっているのは馬鹿みたいだけど、顔が紅くなるのは自分でも止められない。
 せめて紅い顔を見られないように俯いて、は緊張で上擦った声で応える。
「お味噌汁に入れる葱を………」
「………随分と斬新な斬り方ですね」
 の手元を見て、蒼紫が呟いた。
「あ………」
 まな板の上にあったのは、乱切りというか微塵切りというか、とにかくめちゃくちゃに切られ、まな板の周りに散らばってしまっている悲惨な小葱の姿。自分でやったくせに唖然としているに、蒼紫は慰めるように言った。
「まあ、胃に入ってしまったら同じですから」





「私だって、本当は小口切りくらいちゃんと出来るんですよ。今日は一寸考え事をしてたんで失敗しましたけど」
 朝食を食べている蒼紫に、は言い訳がましく説明する。葱の失敗を余程気にしているらしい。
「お魚だって三枚に下ろせるし、大根のかつら剥きだって本当は凄く上手なんですから。大根が無いからお見せできませんけど」
 まだ一人でブツブツ言っているに、蒼紫は黙々と食べながら笑いそうになってしまう。この様子では、もし目の前に大根があったら、食事を中断させてかつら剥きを披露しそうだ。は歳の割には大人っぽいと思っていたけれど、こういうどうでも良いことには子供じみたところがある。
 葱の切り方くらいでそんなにくよくよしなくても良さそうなものだが、それはの気持ちの問題なのだろう。味付けは上手いし、漬物も自分で漬けているくらいの腕前なのだから気にすることは無いと蒼紫は思うのだが、なまじ料理上手なだけに葱の失敗は自分の中で許せないらしい。
さん」
 箸を置いて、蒼紫は優しく呼びかける。
さんが料理が上手なのは解ってますから、葱くらいでそんなにくよくよしなくても良いですよ」
「でも………」
 独りで食べるものならどんなものを作っても良いけれど、蒼紫に出す食事は見た目も味も完璧なものを出したかったのだ。『葵屋』では“白さん”と“黒さん”と呼ばれている板前が作っているから舌が肥えているだろうし、それと比べられても恥ずかしくないものを出したかった。特に今日のは、蒼紫に出す初めての料理だったから。
 初めて蒼紫に出す食事がこんなことになってしまって、は自分が情けなくなってしまう。あんなことを考えて失敗してしまったことにも腹が立つし、それよりも蒼紫に葱も満足に切れないと思われるのが辛い。
 さっきから食事に手も付けずにしょげ返っているに、蒼紫は慰めるように言う。
さんが作ってくれるものは『葵屋』で出されるものよりも美味しいんですから、葱の切り方なんて気にもなりませんよ」
「『葵屋』で出されるものよりも、っていうのは言いすぎでしょう」
 蒼紫の大げさな慰めの言葉に、やっとが小さく笑う。
「いやいや。さんが作ってくれるものなら何でも、高級料亭で出されるものより美味しいです」
「それって料理の腕、あんまり関係無いみたい………」
 が作るものなら何でも美味しいと言われるのは嬉しいけれど、それって料理の腕以前の話だ。料理を褒めて欲しかったのに、何だか複雑な気分になる。
 嬉しいような困ったような微妙な表情を見せるに、蒼紫は可笑しそうに口許を吊り上げた。
「料理というのは、同じものでも、誰が作ってくれたかとか誰と食べるかで味が変わるものですから。さんが作ってくれて、一緒に食べるなら、美味しいに決まってる。勿論、料理もお上手だと思いますけどね」
 蒼紫は「好き」という単語は言ってくれないけれど、こんな聞いてて恥ずかしくなるようなことは、サラッと言ってくれる。そういうことを言ってもらえるのは凄く嬉しいけど、は恥ずかしくなって返答に困ってしまう。
 何と言っていいのやら解らなくて、は頬を染めて俯いてしまった。けれど、蒼紫にそういう風に言ってもらえると、葱の失敗なんかどうでも良いことのように思えてきて、は漸く箸を取った。
 やっとが立ち直ってくれて、蒼紫はほっとする。葱くらいでこんなに落ち込むなんて、女というのは案外面倒くさいものだ。けれど、そんな面倒くさいのも、だったら可愛らしく見えるのだから、不思議なものである。“恋は盲目”というか“痘痕あばた笑窪えくぼ”というか、そんな言葉は自分には無縁だと思っていただけに、新鮮な感じがする。
 食べているを見ながら、蒼紫がふと思い出したように言った。
「しかし、葱を切るくらいのことを失敗するなんて、何を考えていたんですか?」
 その質問に、は食べていた卵焼きを詰まらせそうになってしまった。
 何を考えていたかなんて、言えるわけがない。朝っぱらからあんな、昨夜のことを思い出して照れていたなんて、恥ずかしくて言えない。
 そう思ったらまた思い出してしまって、の頬はみるみる朱に染まっていく。
「喉に詰まりましたか?」
 箸を咥えたまま真っ赤になって硬直しているに、蒼紫が心配そうに尋ねた。紅い顔のまま俯いて、はふるふると小さく首を振る。
 そんなの様子をじっと見ていた蒼紫だったが、思い当たるふしがあったのか、ニヤリと笑う。
「昨日のことを思い出したんですか?」
「………………っっ!!」
 顔だけ紅かったのが、箸を持つ指先まで真っ赤になってしまった。
「図星ですか?」
「………知りませんっ」
 楽しそうに追求する蒼紫に、は俯いたまま小さく応える。
 こんなことを言う人だっただろうかと、は俯いたまま思う。初めて会った頃の蒼紫は無口で生真面目というか、冗談も言えなさそうな硬い感じの人だったけれど、最近はこんな軽口も叩いたりして、何だか違う人みたいだ。それだけに打ち解けてくれたということなのだろうか。
 の素直な反応に、蒼紫は可笑しくて声を出して笑いそうになってしまう。けれど笑うとますますが怒ってしまいそうだから、堪えるように口を結んでから目を逸らした。
 心を落ち着かせるように深呼吸をして、蒼紫は話題を変えた。
「着替えなどがあるので一旦『葵屋』に戻りますが、この後はどうしましょうか。行きたいところがあるなら―――――」
「あ……今日は………」
 蒼紫の言葉に、真っ赤になっていたの全身が、一瞬で元の色に戻った。
「今日は一寸行かなくてはいけないところがあるので………」
「どちらへ?」
 蒼紫は何気ない世間話のつもりで訊いたのだが、その言葉には表情を硬くする。卓袱台に視線を落としたまま沈黙するの様子に蒼紫は怪訝な顔をしたが、今日の日付を思い出して納得したように小さく声を漏らした。
 毎月この日だけは、は蒼紫と会わずに独りで過ごすのだ。その理由については一言も言わないし、蒼紫も深く追求しない。この日がにとってどういう日か蒼紫も知っているし、だからこの日だけはを誘わないようにしていたのだか、今日はうっかりしていた。
 重くなってしまった空気を払うように、蒼紫は務めて明るい声を出した。
「じゃあ、明日はどうですか?」
「明日なら、大丈夫です」
 ぎこちなく微笑んで、は応えた。




 朝食の後、蒼紫は早々にの家を辞した。
 急いで帰っても朝帰りなのは変わらないし、早く帰ろうと遅く帰ろうと翁たちに冷やかされるのは分りきっている。時間稼ぎというわけではないが、いつもよりゆっくりと歩きながら、蒼紫はさっきのの様子を思い出していた。
 以前に比べたらは随分と蒼紫に馴染んでくれて、子供っぽい素の部分も見せてくれるようになった。いつもにこにこしているけれど、時々癇癪を起こして蒼紫にぶつかってくることもあったりして、本音を見せてくれていると思う。けれど―――――

<やっぱり、言えないんだろうなあ………>

 今日は、の死んだ許婚の月命日だった。まだと親しくなるずっと前、蒼紫が寺に座禅をしに通っている時から、毎月この日に墓参りに来ていた。この日以外にも来ていたけれど、月命日は花だの何だの持って来ていたから、蒼紫もその日が特別であることには気付いていた。蒼紫と親しくなってからは墓参りに行かなくなったけれど、月命日だけは今でも律儀に通っているらしい。
 親が決めた許婚だったとはいえ、兄のように慕っていた男だと言っていたし、それを忘れてしまえと言うのは酷な話だろう。蒼紫がそう言って許婚をあっさりと忘れてしまうような女なら、彼がいなくなってもあっさり忘れてしまう薄情な女だということだし、がそんな女だったら最初からこんなに好きにはなっていない。だから蒼紫はに忘れろとは言わないし、言えない。
 けれどやっぱり、心のどこかでは早くその男を忘れてくれることを望んでいて、それをも感じているのだろう。だからは許婚に関することには絶対に触れようとしないし、今日のように墓参りに行くのも、何か悪いことをしているかのように口を噤むのだ。以前、縁日で花火を見た時も、二人きりで見られる特等席を誰に教えてもらったのかと訊いたら、は困ったように黙り込んでいた。
 死んだ人間に嫉妬するのは馬鹿馬鹿しいと思うし、そうするつもりも無い。の心にいつまでも許婚の男が住みついているのを気にならないと言いえば嘘になるけれど、でもその男のことで蒼紫に気を使うを見ている方が辛いのだ。
 今はまだ、そう言っても嘘っぽく聞こえるだろうけれど、いつかに、死んだ許婚のことなど自分は気にしていないと言ってやりたいと思う。気にしていないから、どうか貴女も自分に気を遣わないで下さいと、いつかきっと言ってやろうと蒼紫は思った。
<あとがき>
 よく考えると、このシリーズの二人って、食べてるシーンが他の話に比べて多いような気がする………。
 それはともかく、初めての朝です。お互いが何か一言言うたびに真っ赤になったりとか、相手の指の動きを見て前夜のことを思い出してドキッとしてみたりとか、そういうのを書くつもりだったのですが、何だかこんな話になってしまいました。毎度の事ながら、予定通りの話がかけないですねぇ。
 お題が“手料理をどうぞv”だから、もっと主人公さんの料理について語り合わせたかったんだけど、それも何だか中途半端だし………。今更ながら、お題通りの小説を書くというのは難しいですね。
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