何度でも言う

 「お茶を飲んで行って下さい」と言われての家に上がったものの、本当にお茶を出されて蒼紫は唖然としてしまった。お茶なんて口実で、すぐにそういう雰囲気に持ち込めると思ったのだが、まだ守りは堅いらしい。
 出された茶を啜りながら、どうやって事に持ち込もうかと蒼紫は考える。の気が変わる前に何とかしないと、機会を逃してしまう。一度機会を逃したら、また暫くはこの状態が続くのは間違いない。
 の気持ちを優先したいと思っていたが、ここまできたらもう最後まで行くしかないとさえ思えてくる。今日だけは少しくらい強引にしても良いと思う。否、少し強引にしなければ先には進めない。ここで先に進めなければ、永遠に接吻から先に進めないような気さえしてきた。
 向かい合って座るは茶を出したきり俯いて一言も口を利かず、非常に気まずい。の緊張が部屋の空気を支配しているようで、蒼紫まで息苦しくなってしまう。
 こちらから口を開かねば一晩中口を利かなそうなの様子に、蒼紫は小さく息を吸って口を開く。
「何だか、今頃になって汗が出ますね」
 湯呑みを置くと、蒼紫は正座をしている膝に掌を擦りつけた。の緊張がうつったのか、蒼紫自身が緊張しているのか、掌がしっとりと汗ばんでいる。
 緊張した蒼紫の声に、はビクリと身体を震わせる。そして同じく緊張した面持ちで、おずおずと言った。
「お風呂……用意しましょうか?」
 お風呂、という単語に、蒼紫は自分でも驚くほどドキッとした。一気に顔が紅くなるのが、自分でも解る。落ち着かなければとは思っているのだが、そう思えば思うほど焦ってしまって、心臓は早鐘のように鳴るし、掌はますます汗ばんでしまう。
 風呂に入るとなったら、もう泊まるのは確実だ。風呂に入って汗を流したところで帰れとは、も言わないだろう。風呂から上がった後のことにまで考えが及んでしまって、蒼紫は身体の中が熱くなるのを感じた。
 妄想を振り払うように蒼紫は小さく頭を振ると、に気取られないように小さく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「そうですね。お願いします」
「はい」
 蒼紫の視線を避けるように顔を俯けたまま立ち上がると、は逃げるような早足で部屋を出て行った。
 が出て行くと同時に、蒼紫は一気に気が緩んで盛大な溜息をついた。こんなにも息苦しいほど緊張したのは、初めて実戦を経験した時以来だ。初めて女を抱いた時でも、こんなには緊張しなかった。
 は本当にこれで良いと思っているのだろうかと、蒼紫はもう一度考える。今夜だけは少し強引に行こうと決心したばかりなのに、あれほど緊張した姿を見せられると、その決心も煙のように掻き消えてしまう。やはりには無理をさせたくないし、無理強いをするような真似もしたくはない。
 こういう状況まで持ってきて、それでもまだぐずぐず考えるなんて、自分でもどうかしていると思う。のことは好きだし、これからのことも真剣に考えている。遊びではないのだから、そうなることに何一つ迷うことはないはずだ。そうは思っているけれど、そう思うことさえもに気持ちを押し付けて無理強いしているのではないかと思ってしまう。
 はきっと、誰よりも特別な女なのだろう。他の女だったら、そんなところまで深く考えたりはしない。
 考えれば考えるほど最初の決心が鈍ってしまい、それを奮い立たせるという繰り返しだ。昔からそうだったが、一人で悶々と考えるのは蒼紫の精神には非常に良くない。
 自分はこんなにも決断力の無い男だったのかと、蒼紫は他人事のように呆れてしまう。そんな自分が情けなくて肺が空になるほどの深い溜息をついた時、が遠慮がちに声を掛けてきた。
「あの……お風呂、用意できましたけど………」
「あ…は、はい」
 みっともない姿を見られたのではないかとどぎまぎしながらも、蒼紫は何事も無いように取り繕って立ち上がった。





 蒼紫が風呂から上がると、既に布団が二組敷いてあった。どうやら客用の布団があったらしい。の家に泊まる者などいないはずだから客用の布団など無いだろうと勝手に思い込んでいただけに、二組並んだ布団には拍子抜けしたというか、がっかりしたというか、微妙な気分だ。
 入れ替わりにが風呂に行った後、蒼紫は客用の布団の上に座った。風呂に入っている間、布団が一組しか用意されていなかったらどうしようとか、調子の良い妄想を逞しくしていたが、まあ現実はそんなに都合よく運ばないということか。二つの布団の間にも微妙な距離があって、その距離がの中の葛藤を表しているようだ。
 布団と布団の間から見える畳を腕組をしたままじっと見詰めていたが、蒼紫はの敷布団を掴むとそのままするすると自分の方に引き寄せた。いきなり一つの布団で寝るのは無理でも、これくらいならも許してくれるだろう。それに、布団をくっ付けておいた方が、後々やり易い。
 布団をくっ付けると、この後のことが妙に生々しく想像できて、蒼紫は顔を紅くする。こんなことをするのは初めてではないのに、想像するだけでこんな生娘のような反応をしてしまう自分が可笑しくて、蒼紫は自嘲するように口許を緩めた。そもそも、する前からあれやこれやと妄想を逞しくするのも、我が事ながら可笑しい。
「………あ」
 腕組をしてあれやこれやと考えいているうちに、も風呂から上がったらしい。くっ付けられている布団のを見下ろして、驚いたように小さく声を上げた。
 が、勝手に布団を動かされたことには何も言わず、はそのまま自分の掛け布団を捲った。
「灯り、消して良いですか?」
 相変わらず緊張した声でが尋ねる。いよいよその時が来たのだ。
 灯りを消すと真っ暗になってが見えなくなってしまうが、最初の夜から灯りを点けたままでというのは、には少し酷だろう。それに、明るいままだと蒼紫のことも見えるわけで、彼の傷跡だらけの身体を見たら余計に怯えてしまうかもしれない。
 応える代わりに、蒼紫は自分で灯りを消した。ふっと部屋が暗くなって、それと同時に隣から衣擦れの音が聞こえる。どうやら布団に入ろうとしているらしい。
 これからが本当に自分のものになるのだと思うと、蒼紫はそれだけで心臓が破裂しそうになる。今すぐの身体に抱きつきたい衝動に駆られたが、焦っては全てがぶち壊しだ。の緊張を解してやってからでないと、先には進めない。
さ―――――」
「おやすみなさい」
 に手を伸ばしかけた蒼紫のことを知ってかし知らずか、は小さな声で言った。
「え………?」
 に向けられた手を伸ばすことも引っ込めることも出来ず、中途半端なところで蒼紫は固まってしまった。“おやすみなさい”ってことは、このまま眠ってしまうということなのか? ここまで御膳立てが整って、蒼紫は完全にその気になってしまっているのに、その仕打ちは無いだろう。
 確かに今日は沢山歩いて疲れただろうし、酒も飲んだからいつもよりも早く眠くなったのかもしれない。それとも、風呂に入っている間に何か思うところがあって、やっぱりしたくないと思ったのだろうか。
 どちらにしても、最初から無理強いすることはできない。蒼紫はがっかりしたように項垂れると、のろのろと布団の中に入った。溜息の一つもつきたかったが、そうすれば何だかへの当てこすりのようで、それもできない。
 横になって隣を見ると、は蒼紫に背を向けて寝ているらしく、夏用の薄い布団越しになだらかな身体の曲線が暗闇の中に淡く浮かんでいる。華奢な肩からなだらかに腰のくびれの部分まで下り、それから急な上り坂になって再びなだらかに脚に向かって下る線を見ると、どうやらは意外と安産型らしい。着物を着ている時は気付かなかったことだ。着痩せする質なのだろうか。
 の姿を見ながらあれこれ考えていると、妙な気分になってくる。もともとその気で家に上がったのに土壇場でお預けを食らったのだから、そうなるのも仕方が無いだろう。仕方が無いけれど、その気持ちは抑えなければとも思う。抑えなければ、それを目当てに家に上がり込んだと思われてしまう。けれど―――――
「―――――さん」
 緊張で声が上ずってしまいそうなのを抑えて、蒼紫はそっと声を掛けてみた。その声に、の身体がビクッと小さく跳ねる。どうやらまだ起きているみたいだ。
「そっちに行っても良いですか?」
 それだけのことを言うのにも、心臓が破裂しそうになる。拒否されたらどうしようとか、無理強いしているように聞こえたらどうしようとか、悪いことばかり考えてしまう。緊張のし過ぎで頭がくらくらしてきた。
 これまでに無いくらい緊張しているのはも同じらしく、身を硬くしたまま声も出せないようだ。けれど無言のまま身体をずらして、蒼紫が入るくらいの隙間を開けてくれた。
「失礼します」
 わざわざ断るのも奇妙な感じだが、何と声を掛けていいのやら解らず、蒼紫は神妙な声でそう言うと枕を持っての布団にそっと滑り込んだ。蒼紫の身体がに触れると、は怯えたようにビクッと身を硬くする。
 当たらないようにしようとしても、一人用の布団に大人二人が入ろうとするのだから、いくらなんでも無理な話である。それに蒼紫の方は最初から触れずにいようなどとは思ってないのだ。
さん」
 の方に身を寄せながら、蒼紫は熱っぽい声で囁いた。暗闇の中で、の耳朶が紅くなるのを感じる。
「嫌だったらすぐに止めますから、言ってください」
 そう言いながら蒼紫は相変わらず背中を向けているの身体に両腕を回した。
 風呂上りのせいか、他の理由でか、の身体は熱でもあるのではないかと思うほど熱い。首筋に顔を埋めると、まだ湿り気を帯びている髪が頬に当たって、少しひやりとした。
 風呂上りの香りと自身の匂いで、蒼紫は頭の中が痺れるような感覚に襲われた。もし今、が「止めて」と言っても、多分もう止められない。いつもは鉄のような理性が、呆気なく消えてしまうのを感じた。
 腰に回された手が、の寝巻きの帯の結び目を探る。腹の上で蒼紫の手が動くたびに、の身体が堪えるように小さく震えた。
 暫くそうしているうちに、蒼紫の指先が結び目に触れた。一瞬、躊躇うように強張ったが、すぐに両手で解きにかかる。
「あっ…待って………」
 遂に堪えきれなくなったように、が上ずった声を上げた。
 が、蒼紫はそんな声は聞こえていないように、帯を解く手を止めない。その手の動きには急に怖ろしくなって、動きを封じるようにぎゅっと蒼紫の手を握った。
「四乃森さんっ」
 その声にはっとしたように、蒼紫はの首筋から顔を上げた。同時に、結び目にかけられていた手からも力が抜ける。
「………すみません」
 嫌だったらすぐに止めると言ったくせに、あっさりとその言葉を裏切った自分を蒼紫は恥じた。さっきまであんなに無理強いをするまいと自分に言い聞かせていたのに、いざに触れてしまうとこの様だ。自分を抑えることも出来ないくせに、の気持ちを大切にしたいだの何だの綺麗事を並べていた自分が、とんでもない偽善者に思えてくる。
 やはりこうなるには、まだ早過ぎたらしい。蒼紫はの身体から身を離すと、腰に回していた手を引っ込める。
 が、離れようとする腕を引きとめるように、は更に強い力で手を握った。そして震える声で、
「違うんです」
「え?」
「四乃森さん」
 衣擦れの音がして、が仰向けに寝返った。
 目が慣れたのか、御庭番衆で鍛えた賜物か、暗闇の中でもの顔がぼんやりと見えた。風呂上りの時はこれからのことで一杯一杯で気付かなかったが、化粧を落としたは、いつもより少しだけあどけない感じがする。いつも結い上げている髪を下ろしているせいだろうか。いつもは落ち着いた大人の女なのに、本当はこんなあどけない素顔を持っていたのかと、蒼紫は初めて会う女を見る思いがした。
 にはまだ暗闇しか見えないらしく、真正面から見下ろす蒼紫に臆する様子も見せずに、ぱっちりと目を見開いている。
「本当に私のこと、好きなんですよね?」
「何を今更………」
 何を言われるかと思ったら、そんな当たり前のことを。拒否されるのだと思っていただけに、拍子抜けして思わず笑いを漏らしてしまった。
 が、そんな蒼紫の様子に、は機嫌を損ねたように軽く眉間に皺を寄せる。
「四乃森さん、一度も言ってくれたこと無いから………」
「あ………」
 言われてみれば、確かに「好き」という言葉は口にしたことが無かった。のことが好きなのは当たり前のことで、当たり前すぎたからわざわざ言葉にする必要は無いだろうと思っていたのだ。それに、言葉にするとその感情が非常に薄っぺらなものになるような気がして嫌だった。
 けれどは、そんな当たり前のことでさえも言葉にしてもらいたいらしい。そういえば初めて翁と操に紹介した時も、軽い気持ちで“知り合い”と言ったら激怒したことがあった。がそうなだけなのか、女という生き物がそうなのか、やたらと言葉に拘る。
 大体、好きでなければ足を怪我した時に家に引き取って看病したり、三日と空けずに会ったりはしない。今、こんなことをしようとしているのも、誰よりも好きで、自分だけのものにしたいと思っているからだ。確かに、好きでもないのに体だけが目当てでそうしようとする男もいるけれど、体が目当てだったらもっと早くにやっている。
 蒼紫の心を疑っているわけではないのだろうが、言葉にしてもらわなければ不安なのだろう。目に見えない不確かなものだから、せめて言葉にしてほしいと望んでいるのだろう。言葉にしたところで不確かなものであることは変わらないのだが、それでもが安心してくれるのなら、何度でも言ってやる。
 蒼紫は帯から一旦手を離すと、包み込むようにの頬に手を当てた。
「勿論です。でなければ、こんなことはしません」
「もっと、ちゃんと言ってください」
 一寸拗ねた声で、は呟くように言う。「好き」とちゃんと言わないと、納得してくれないらしい。
 けれど、「好き」と言葉にするのは、かなり恥ずかしい。蒼紫の中では、その言葉は人間に向けて言う言葉ではないのだ。のことが好きなのは揺るがない事実だけれど、それを言葉にするのは勇気がいる。
 恥ずかしいけれど、ちゃんとその言葉を言わないとは納得してくれない。蒼紫は心を落ち着けるように小さく深呼吸をすると、ゆっくりと口を開いた。
さんのこと、好きですよ」
 緊張で強張った声だったが、それでもは嬉しそうに華が綻ぶように微笑んだ。
「もっと言って」
「好きです。本当に好きです。誰よりも一番……今までで一番好きです」
 最初の一言を言ってしまえば、後は楽だ。「好き」を繰り返しながら、蒼紫はの額に、頬に何度も口付ける。「好き」と言う度に、好きという気持ちがもっと強くなっていく気がした。
 蒼紫の口付けを受けながら、漸く緊張が解れたのか、は笑うように小さく息を漏らした。強張っていた身体からも力が抜けて、帯の上で蒼紫の手を掴んでいた手をゆっくりと離す。
「四乃森さん………」
 囁くように名前を呼びながら、は躊躇いがちに蒼紫の背中に両腕を回した。少しずつその腕に力が込められ、布越しに身体が触れ合う。
さん」
 腹の下にの体温と身体の柔らかさを感じながら、蒼紫は優しく唇を重ねた。
<あとがき>
 裏モノにはならなかったですけど、ある意味“裏”より恥ずかしい………。蒼紫、同じことをぐるぐる考えたり、結構妄想系だし。
 私の中では、蒼紫は妄想系の人なんですよ。ああいう人って絶対、無表情で凄い妄想とかしてそうじゃないですか。って、見たのかという話なんだが。でも妄想系で、自分の妄想で一杯一杯になってテンパっちゃうタイプと見た。
 さて、何とかここまでこぎつけた二人ですが、次の課題は“主人公さんを呼び捨てにして、もっと砕けた口調で話す”ですな。まあ、二人の課題は私の課題なわけなんですが。さあ、どうしよう。
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