空の下で

  京都の夏といえば、川床料理である。が一度行ってみたいと言っていて以前から約束もしていたのだが、何となく延び延びになってしまっていた。そのうち梅雨に入り、梅雨明けを待って漸く今日、二人で食事をするという運びになったのである。
 鴨川の川べりで食べるのだから涼しいかと思っていたが、特に家の中にいるより涼しいというわけではないようだ。けれど、外で食事というのは開放感があって良い。こういうものは、雰囲気を楽しむものなのだろう。
「暑いですねぇ」
 ぱたぱたと扇子で扇ぎながら、は独りごちる。鼻の頭に薄っすらと汗をかいて本当に暑そうだ。
 対する蒼紫は、扇子で扇ぎもしないし、汗一つかいてもいない。昔からあまり汗をかかない体質だったし、気合で暑さを封じ込めることが出来るらしい。心頭滅却すれば火もまた涼し、というやつだろうか。
 忙しなく扇子で扇ぐの様子に、蒼紫は小さく笑って、
「日が落ちたから、大分マシにはなってますよ。そんなに暑いなら、冷酒でも頼みますか? 明日は仕事が休みなら、少しくらい飲んでも大丈夫でしょう」
「そうですね、お料理もまだ来ないようですし」
 最近気付いたことであるが、は案外いける口らしい。一人で飲むことも時折あるらしく、家に小さな清酒の瓶があるのを見かけたことがある。
 は仲居を呼ぶと、清酒を二本注文する。
「四乃森さんも飲むでしょう?」
「や、俺は………」
 蒼紫は下戸である。全く飲めないというわけではないのだが、体質が受け付けないのだろう。飲んだらすぐに眠くなってしまうし、次の日は確実に二日酔いになるのだ。
 が、はそんなことを知らないから、遠慮をしているだけだと思っているらしい。一緒に何かを食べる時は、蒼紫はいつもの好きなものを自分の分からも譲ってくれるから、今回も好きな酒を好きなだけ飲ませてやろうとしていると思っているようだ。
「四乃森さんも明日はお休みなんだし、大丈夫でしょう? 一人で飲んでもつまらないわ」
「いや、恥ずかしい話なんですが、俺は下戸なんで………」
「じゃあ、一寸だけ。一杯だけだったら大丈夫でしょう?」
「はあ………」
 そこまで言われると嫌とは言えず、押し切られてしまった。まあ、一杯くらいだったらそれほど酔いはしないだろう。
 そんなことを話しているうちに、料理と酒が運ばれてきた。鱧だの鮎だの、気候が暑い分、盛り付けは涼しげである。
「まあ、美味しそう!」
 手を叩いて、は華やいだ声を上げた。ずっと食べたいと言っていたから、感激も一入ひとしおなのだろう。こうやって喜んでもらえると、蒼紫も嬉しい。
 蒼紫は硝子の徳利を取ると、早速に勧める。
さん、どうぞ」
「あら、いけないわ」
 くすくすと笑いながら、は蒼紫の手から徳利を取り上げる。そして硝子の猪口を渡して、
「こういうことは、男の方が先に。ね?」
「じゃあ………」
 そう言われればそうかもしれない。蒼紫は遠慮がちに猪口を差し出した。
 日頃から酒を飲まないから、酌をしたりされたりというのが蒼紫にはどうして良いものかよく分らない。もあまり慣れていないのか、酌をする手つきがぎこちなくて、変に力が入っているのか徳利を持つ手がぷるぷると震えている。
「手酌で良いですよ」
 今にも中身を零してしまいそうな危なっかしいの手つきに、蒼紫が心配そうに言った。が酌をしてくれるのは嬉しいが、料理の上にでも酒を零されたら元も子もない。
 が、は意地を張るように、
「いいえ、大丈夫です」
 その言葉とは裏腹にの目には全く余裕が無く、全神経を徳利の注ぎ口に集中させているようだ。それにつられて、蒼紫も全神経を注がれている酒に集中させる。とろとろと注がれる酒が何かの拍子に一気に注がれそうになったら、即座に徳利を取り上げるつもりだった。
 普通なら楽しく話しでもしながら注しつ注されつというところだろうが、二人の間には息詰まるような緊張感が漲っていて、話をするなんて余裕など無い。それでも何とか零さずに猪口を満たすと、二人の口から同時に安堵の溜息が漏れた。
「じゃあ、次は俺が」
 蒼紫がの手から徳利を取ろうとしたが、はすっと手を引いて、
「私は手酌で良いですよ」
 にっこりと微笑んで柔らかく断ると、はさっさと手酌で猪口に注いでしまった。どうやら蒼紫の酌は自分より下手だと思っているらしい。
 確かに、やったことは無いが自分は酌をするのは下手だろうとは蒼紫も思う。にだけ酌をしてもらって自分はお返しはしないというのは一寸気が引けるが、でも一寸ほっとした。危なっかしい手つきだったとはいえ、がきちんと酌が出来て、蒼紫が猪口から酒を溢れさせでもしたら一寸立場が無い。
 はきゅっと一気に飲み干すと、小さく息を吐く。と、白い頬にふわっと赤みが差した。酒は好きでも、すぐに顔に出てしまうらしい。
 はたぶん皮膚が薄いのだろうと、蒼紫は思う。酒を飲んでいなくても、怒ったり笑ったり一寸興奮すると、こんな風にふわっと頬が赤くなる。いつも磁器のように白いの頬がこうやって薄紅に染まるのを見るのが、蒼紫は好きだった。
「どうしました?」
 自分をじっと見る蒼紫の視線に気付いて、が怪訝そうに首を傾げた。
「いえ、別に」
 の頬が紅くなる様を見ていただけだと言うのも何だか恥ずかしくて、蒼紫は素っ気無く応える。そして話を逸らすように川の方を眺めながら、
「川床といえば、貴船の方にも川べりで食べさせる料亭や旅館があるそうです。あっちは山の上ですし、此処よりもずっと涼しいでしょう」
「そうでしょうね」
「来年は、貴船まで足を伸ばしてみましょうか」
「でも、貴船は………」
 さり気なく言う蒼紫の言葉に、は少し困ったように口ごもった。
 貴船まで行くとなったら、日帰りは一寸きついかもしれない。早朝から出かけて夜遅くに帰るという強行軍で行けばやれないことはないが、流石にそれは辛いし、食事だけして終わりということになってしまう。かといって蒼紫と一泊するというのは、まだ抵抗があった。
 来年の夏までには、多分二人の関係はもっと進展しているだろうとは思う。もう二人とも大人なのだから、いつまでも口付けまででは済まないだろうということも解っている。いつかはそれ以上のことを求められるだろうし、自分の中にもそれを待っているような微妙な気持ちが存在していることも気付いている。けれど今、蒼紫に一泊旅行を誘われても、承諾する勇気は無い。
 目を伏せて黙り込んでしまったに、蒼紫は少し焦りすぎたかと後悔した。
 貴船に行くとなったら、一泊の小旅行になるだろう。一泊するということは、つまりと一晩過ごすということで。もう子供ではないのだから、布団を並べて眠るだけでは済まないことは解りきっている。かといって二部屋取るというのも何だかわざとらしいし、となると蒼紫との一泊旅行を承諾するということは、いくところまでいっても良いと言っているのと同じ事で、それは今のにはまだ返事がし難いに決まっている。
 先日、剣心たちに会った時に「まだやってないのか」だの「随分と奥手だ」だの言われたのを、無意識に気にしていたのかもしれない。焦らなくても良いと思っている反面、早くそんな仲になりたいという気持ちがあるのは、認めないわけにはいかない。蒼紫だってもう子供ではないのだし、普通の男なのだ。
「まあ、来年の話ですから、ゆっくり考えてください」
 硬くなった空気を和ませるように、蒼紫は務めて軽い調子で言った。その声に、はほっとしたように小さく息を漏らす。
「そうですね。来年のことですから」
 呟くように言いながら、来年の今頃は自分たちはどうなっているのだろうと、はふと思った。





 食事を終え、月明かりの下を二人で歩いていると、鴨川の土手にぽつぽつと座っているらしい人影が見えた。人影はどれも二つ並んでいて、そういう決まりがあるのかのように一組ずつ一定の距離を保っている。
 ふと足を止め、は興味深そうに人影を見下ろした。鴨川の土手は逢い引きの名所だとは聞いているし、こんな珍景が見られるというのも知ってはいたけれど、実際に目の当たりにするのは初めてだった。何もあんな茂みのような処で逢い引きしなくても、他にも行く所がありそうなのに、何故此処なのだろうと不思議に思う。
 は一度、土手で痛い目に遭っているので、こんな所で逢い引きをする気持ちが全く解らない。たぶん蚊も出るだろうし、もっと涼しい所で会えば良いのにと思う。
「どうしました?」
 足を止めて土手の人影を凝視しているに気付いて、蒼紫が訊いた。
「いえ、別に………」
 そう言いながらも、は人影から目を離せない様子だ。余程興味を引かれたのだろう。
 子供のようにじっと見詰めているに、蒼紫は苦笑して、
「そんなにじろじろ見るもんじゃありません」
「あの人たち、どうしてあんな所で逢い引きをするのかしら? それにあんな茂みの陰にいる人なんか、折角の夜景も見えないわ」
 心の底から不思議そうに尋ねるに、蒼紫は返答に困ってしまった。あんな所で茂みに隠れてやることなんて、決まっている。
 蒼紫を困らせようと思ってわざと言っているのだろうかとの表情を窺ったが、本当に不思議に思っているようだ。そういうことは蒼紫の方が疎いと勝手に思っていたが、案外も疎い方らしい。そっち方面に疎い二人がくっ付いているのだから、道理で弥彦にも奥手と言われるはずである。
 何だかおかしくなって、蒼紫は小さく息を漏らすように笑った。
「茂みに隠れている者は、夜景を眺める余裕などありませんよ」
 蒼紫の言葉に、はますます不思議そうに首を傾げる。それでもまだ察することが出来ないらしい。余程鈍いのだろうか。
 蒼紫は困ったように小さく溜息をつくと、種明かしをするような口調で言った。
「大人の男と女が、人目に付かないことですることなど、決まっているでしょう」
「あ………」
 此処まで言われれば流石に察するところがあったのか、はぱっと顔を紅くして土手から目を逸らした。
「でも、外ですよ?」
 火照った顔を冷ますように両手で顔を覆って、は小声で言った。
 その様がまるで初心な少女のようで、蒼紫はその表情をもっと見たくて、の顔を覗き込むようにしてからかうような口調で言う。
「外でもできないことはないですよ。食事と同じで、外の方が案外開放感があって良いものかもしれないですしね」
 蒼紫の言葉に、はますます顔を紅くした。耳まで真っ赤になって、何を想像しているのか熱を持ったように目も潤んでいる。
「し……四乃森さんも、そう思ってるんですか?」
 俯いたまま、は蚊の鳴くような声で尋ねる。外であんなことをするなんてには想像もつかないが、蒼紫にはそうでもないことなのだろうか。に説明する時の口調も実に落ち着いていたし、もしかして外でそういうことをしたことがあるのだろうか。
 の問いに、今度は蒼紫が紅くなる番だった。さっきからは、答えに困るようなことばかり訊いてくる。
「俺は別に………」
 何と言って良いのか分らなくて、蒼紫もあらぬ方を向いて口の中でもごもごと呟く。
 とんでもないことを言ってしまったと、蒼紫は激しく後悔した。今夜は暑い中で酒を飲んだから、いつもより酔いが回っているのかもしれない。シラフだったら、こんな軽口は叩かなかった。
 何となく気まずくなってしまって、蒼紫ももあらぬ方向を向いたまま黙り込んでしまった。何も言わないとますます気まずくて、お互いどうすれば良いのか分らなくなってしまう。
 どれくらい沈黙が続いたか、の方から思い切ったように口を開いた。
「………やっぱり、ああいうことはした方が良いのでしょうか」
「………え?」
 が何を言ったのか一瞬理解できず、蒼紫はきょとんとした顔で彼女の顔を見た。もう一度頭の中での言葉を反芻して、今度は驚いた顔でしげしげと彼女の顔を見詰める。
 冗談で言っているのかと思っていたが、の目は真剣だ。深刻な顔をして、蒼紫の目を見返している。
「何を言って………」
 あからさまにうろたえて視線を泳がせている蒼紫とは反対に、は真っ直ぐな視線を向けて真剣に言う。
「この前、お友達の方たちが仰ってたでしょ? 私たち、何も無いのはおかしいって。しないのは変なのでしょうか」
「聞いていたのですか?」
「あんな近くで話していたら、聞こえないはずが無いでしょう。あんな狭い家ですもの」
「それはそうですが………」
 あの時の左之助たちの話を聞かれていたとは、迂闊だった。もしかしては、あの日からずっとそのことを気にしていたのだろうか。あの日もその後もあの会話には全く触れていなかったから、蒼紫は聞こえていないものと思い込んでいた。
 貴船行きを誘った時にが黙り込んでしまったのも、それが引っかかっていたのだろうか。左之助たちに焚きつけられて誘ったと思っていたのだろうか。を貴船に誘ったのは、それだけが目的ではなかったのに。
 確かにそろそろとはそういう関係になりたいと思ってはいた。春先に初めて出会ってもう真夏なのだから、時期的にもそうなっても良い頃だ。最近は三日と空けずに会って、お互いがどんな人間かは理解し合えていると思っている。お互いいい加減な気持ちで付き合っているのではないということも解っているし、そうなるのは自然の流れだ。
 しかしそれはあくまでも“自然に”そうならなければならないことで、“そうしなければならない”という義務感ですることではない。周りがそう言うからといって、の気持ちを置き去りにして身体を意のままにしても、そんなことは蒼紫の望むことではないのだ。
 硬い表情で見上げるに、蒼紫は小さな子供に言うように優しく言い聞かせる。
「周りが何と言おうと、俺たちは俺たちです。さんが“しなければならない”と思っているうちは、まだしなくても良いですよ。無理して急いですることじゃない」
「四乃森さんは、それで良いんですか?」
 心細そうに、はじっと蒼紫を見上げる。本当に心の底からそう思っているのか探っているようだ。
 もし、本当は今すぐにでもあなたとしたい、と言ったらはどうするだろうかと、蒼紫は思う。の気持ちを大切にしたいと思うのも本心だけど、無理をしていると気付いていてもが良いと言うなら、気付かない振りをして自分のものにしてしまいたいという気持ちが一方でもあるのも事実だ。いっそのことその気持ちを認めて、強引に事を進めてしまいたい。
 蒼紫が望めば、きっとは応えてくれるだろう。けれどそれがが心から望んで応えてくれるのか、蒼紫が望んでいるから応えようとしてくれるのかは、まだ判断がつかない。
「俺は―――――」
 ふるふると震えるの瞳に、蒼紫は胸を衝かれる思いがして、そのまま言葉に詰まってしまった。正直にしたいと言うのは、に無理強いをするようで言えない。けれど、しなくても良いと言うと今度は蒼紫が我慢しているのを悟られそうで、何と応えれば良いのか分らなくなってしまう。
 相手の表情の中に答えを求めるように互いに見詰め合っていたが、結局正しい答えは見つからなくて、蒼紫は緊張を解すように小さく溜息をついた。そして、これ以上望めない優しい声で言う。
「今日は、少し酔っているようだ。早く帰りましょう」
「………はい」
 勇気を出して真剣に訊いたのに誤魔化すように逃げられてしまって、は少し悲しそうな声で返事をするとそのまま目を伏せてしまった。




 気まずいような息詰まる空気は結局払拭することが出来なくて、殆ど口を利かないままの家に着いてしまった。
「じゃあ、また」
 気まずいまま別れてしまうのはどうかと思ったが、もう夜も遅い。こんな時間にの家に上がりこむのも非常識だし、次に会う時はいつもの二人に戻っているはずだ。の様子が気にならないではなかったが、蒼紫は後ろ髪を引かれる思いで踵を返した。
 が、帰ろうとした蒼紫の袖を、がきゅっと握った。
「どうしました?」
 振り返る蒼紫に、が少し緊張した面持ちで言った。
「あの………酔い醒ましにお茶を飲んで行って下さい」
「それは………」
 の言葉に、蒼紫は驚いたように小さく目を瞠った。 
 その言葉に甘えて家に上がったら、多分お茶だけでは済まないだろう。もう夜も遅いし、話し込んでしまったらそのまま此処に泊まってしまうかもしれない。泊まってしまったら、何もせずに朝まで過ごす自信は、今の蒼紫には無い。
 だって、そのことに気付いてはいるはずだ。こんな遅い時間にお茶を飲んで帰れなどと言ったら、お茶なんて口実に過ぎないと男は思うことも解っていると思う。それでも誘っているということは、つまり、それは―――――
「良いんですか?」
 硬い声で、蒼紫は念を押すように訊いた。さっきあんな話をしたから、無理しているのではないかと思ってしまう。にはそんな気を遣わせたくはない。
 が、は蒼紫の袖を掴む手に縋るように力を入れて、ぎこちなく頷いた。
「大丈夫ですから、私………」
 そうは言いながらもは身体を微かに震わせている。袖を掴む指先から緊張が伝わってきて、その手を包み込むように蒼紫は自分の手を重ねた。
<あとがき>
 本当は川床デートをねっとりじっくり書くつもりだったのですが、京都旅行が急遽中止になってしまったので、さらっと流させていただきました。空の下で食事をするから“空の下で”というお題のはずだったのですが、何だか書いているうちに“空の下で”というテーマはどっか行っちゃいましたね(汗)。
 とりあえず、二人の関係急展開です。そろそろ展開させないと、私もストーリーの流れ上、苦しくなってくるんで。最後まで行きそうで行かない関係をねちねち書くのは楽しいですが、あんまり続くとねぇ………。つか、いつになったらこの二人の喋り口調は砕けるのか。蒼紫が主人公さんを呼び捨てにするタイミングも見失ってますからね、私。
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