水着
今年の夏は記録的な猛暑らしい。しかも湿度が高いくせに夕立が来なくて、蒸し暑くて不快なことこの上ない。せめて、カラッとした空気であったなら、もう少し過ごしやすいのだろうが。新聞記事によると、今年の夏は例年に比べて喧嘩や傷害殺人事件が多発しているらしい。あまりの暑さに、誰も彼も怒りの沸点が低くなっているのだろう。猛暑の年はイライラ殺人というか、そんな些細なことでと思うような動機での事件が多いのだ。そういえば斎藤も、密偵以外での出動が増えている。
新聞を捲りながら、斎藤は向かいの机に座っているに目をやった。は上に提出する書類を何やら書いている。この暑い中、真面目に働いて結構なことではあるのだが―――――
「おい。その格好は何とかならんのか」
「何が?」
呆れ顔の斎藤に、は筆を動かす手を止めて不思議そうに訊いた。何が斎藤の気に食わないのか、全く解らない様子だ。
この猛暑の中、制服をきっちりと来ている斎藤に対し、は上着を脱いでシャツ一枚になっている。女らしい丸みのある身体の線が出てしまっているのは、この際どうでも良い。部屋にいるのは斎藤だけだし、今更のそんな格好を見ても別になんとも思わない。問題は、その下だ。
暑さ対策のつもりなのか、ズボンを膝まで捲り上げて、裸足の足を水を張ったバケツの中に突っ込んでいるのである。それで扇子でぱたぱたと扇ぎながら書類を書いているのだから、女としてどうかという以前に、部下としてその格好はどうかと思う。独りで残業の時ならともかく、いくら昔からの知り合いで階級は同じとはいえ、実質上の上司に当たる人間の前でその格好は無いだろう。
無言で見詰める斎藤の視線に漸く察するところがあったのか、は得意そうに笑った。
「足を冷やすと、結構涼しいのよ。九州にいた時に石岡君が教えてくれたの。斎藤さんもやる?」
「いくらこの部屋には誰も来ないからといって、そんなみっともない格好するな。つか、石岡君って誰だ?」
「石岡君は九州にいた頃の同僚だよ。
暑いの我慢すると、熱中症で倒れちゃうわよ。今年は暑くて死んでる人も多いんだから。斎藤さんも上着くらい脱いだら? やせ我慢は良くないって」
「うるさい」
斎藤がきっちり制服を着ているのは、別にやせ我慢というわけではない。几帳面というか潔癖というか、昔から着崩すということができないのだ。
多分自分は暑さ寒さに鈍いのだろうと斎藤は思う。反対には、暑いといっては癇癪を起こし、寒いといっては文句を言うような女だから、斎藤と同じようにしたら倒れてしまうだろう。同じ人間なのにこうも違うというのは、面白いことである。
そんなつまらないことを考えていると、斎藤の目に変わった記事が飛び込んだ。軍医・松本良順に関する記事だ。
「おい、松本先生、憶えてるか?」
「ああ、あの熊みたいな禿の先生?」
「あれは、禿じゃなくて剃ってたんだがな。
先生の記事が出てるぞ」
今は軍医として明治政府に仕官している松本良順は、かつては新選組の医者だった。勿論、斎藤もも世話になったことがあるし、そんな世話になった人間が新聞記事になっているというのは、妙な感慨がある。
も興味を持ったらしく、バケツから足を抜くと、ろくに拭きもせずに裸足のまま斎藤の机の前に立った。斎藤は一瞬不快そうな表情を見せたが、何も言わずに新聞記事を見せてやる。
「海水浴とやらが健康に良いからと勧めているらしいな。大磯海岸に海水浴のための旅館を建てたんだと」
「海水浴?」
初めて聞く言葉に、は怪訝な顔をして聞き返す。“海水浴”というからには、海水を浴びるのだろうか。
は漁師の家の出だから、子供の頃は親を手伝って素潜りでウニや貝を採っていたが、それが体に良かったかどうかは正直よく分らない。日焼けはするし髪の色は抜けるし、美容にはあまり良く無さそうな気はするのだが、医者が言うのなら健康には良いのかもしれない。
“海水浴”という言葉は斎藤にも初めて目にする言葉らしく、記事を読み進めながら説明する。
「どうやら銭湯みたいに海水に浸かるものらしいな。ほら、この挿絵みたいに」
斎藤が指す挿絵には、海水浴の風景として、海の中に立てられた杭にしがみついている男女の姿が書かれている。しかも海には真ん中から分断するように縄が張ってあって、それこそ銭湯の男湯・女湯のように男女別にされているらしい。何だか奇妙な風景だ。
予想外に間抜けな光景に、は眉間に皺を寄せてますます怪訝な顔をした。挿絵を見た感じでは、“海水浴”とやらはあまり楽しそうではない。まあ、遊びではなく健康法なのだから、楽しいとか楽しくないとかは関係無いのだろうが。
けれどまあ、全身を水に浸けるのだから、涼しそうではある。子供の頃、真夏に海に潜るのは気持ち良かった。
「気になるなら、一緒に行くか? “ビクトリア風水着”とやらが日本橋のデパートメントで売ってあるらしいぞ」
挿絵を食い入るように見ているに、斎藤が面白そうに提案する。が関心を持ったから誘うというよりも、自分も気になったから誘ったらしい。普段はそう見えないが、意外にもハイカラなものが好きなようだ。
「ビクトリア風水着?」
「これさ。広告が出てる」
斎藤が指差した広告には、妙な装束の女の姿絵が付いていて、『英国女王御用達・ビクトリア風水着』と大書きされていた。どうやら舶来品であるらしいが、人並みに舶来ものに憧れを持つでさえ、少々首を傾げたくなる妙な代物だ。
というのもこのビクトリア風水着、西洋人が着ているドレスと大して変わらない作りをしているのだ。色は黒いらしく、きっちり首まで覆う長袖で、スカートも脹脛くらいまである。その下には裾が窄まったゆったりとしたズボンのようなものを穿いていて、何だか暑苦しそうだ。露出しているのは顔と手足だけで、今のの格好の方が何倍も涼しいと思われる。まあ、海の中に入れば涼しくなるのだろうが。
とはいえ、流石のも、こんな奇天烈なものを着て海に入る勇気は無い。もし沖に流されてしまったら、こんなものを着てては溺れてしまうではないか。本当に英国の女王はこんなものを着て海に入っているのだろうか。
「いやあ、これは………」
「面白そうじゃないか。着てみろ。何だったら水着代、半額出してやるぞ」
渋るとは反対に、斎藤は興味津々のようだ。ハイカラなものへの興味もあるのだろうが、が嫌がっているから余計に着せてみたいらしい。が嫌がることをわざとさせたがるのは、昔から変わらないようだ。
それが分っているから、はますます嫌そうな顔をする。
「やだよ、こんな格好。つか、どうせなら全額出してよ。そしたら考えるから」
「何でお前なんかにそんな金使わなきゃならんのだ。半額出してやるだけでもありがたく思え」
「あんたが私の水着姿を見たいんでしょうが。私は水着なんか要らないんだから」
「じゃあどうやって海水浴に行くんだ? 裸でやるつもりか?」
「………海水浴行くの、決定なわけ?」
斎藤の言葉に、は軽く眉間に皺を寄せて訊く。海水浴の記事を読んでいるだけのつもりが、斎藤の中では既に海水浴に行く話しになっていたらしい。勝手に話を進める男である。
大磯海岸といったら、此処からだと日帰りでは行けない距離だ。もしかして、泊りがけで行くつもりなのだろうか。たとえ同じ部屋で寝ても何も無いことは分かっているが、男の上司と女の部下が私生活でも一緒に遊びに行くなんて、世間的には少々まずいと思う。しかも、斎藤の妻は現在妊娠中である。妻の妊娠中に女の部下と海水浴なんて、傍から見たら非常にまずいだろう。
が、斎藤はそんなことには頓着していないらしく、当然のように、
「お前が暑そうにしているから、連れて行ってやるって言ってるんだろうが。優しい上司に感謝しろ」
「や、それは………」
偉そうに言う斎藤に、一体どこから突っ込んでやれば良いのやら、は頭を抱えたくなった。もはや斎藤の脳内では、海水浴行きは決定事項らしい。
斎藤の誘いが、純粋にへの思いやりだけでないことは確実だ。純粋に、あのビクトリア風水着とやらを見てみたいだけに決まっている。でなければ、しか使わないものに対して「半額出してやる」なんて言うわけが無い。
しかし、そんな好奇心だけでと海水浴に行こうと考えるなんて、大した情熱である。は呆れて溜息をついてしまった。
「私のことにはお構いなく。来年、子供が生まれてから、奥さんに買ってあげたら?」
そんなに水着が見たいなら、妻に着せてみればいいのである。夏は毎年来るのだし、水着も海水浴場も逃げはしない。と行ってわざわざ誤解を招くような真似をするより、家族4人で楽しく海水浴を楽しめば良いじゃないか。
が、斎藤は憮然として、
「とりあえずお前が着てみて具合が良さそうなら、あれにも買ってやる」
「何じゃ、そりゃ?!」
斎藤の忌憚のない言葉に、は思わず頓狂な声を上げてしまった。
自分のことを一番に考えてもらえているとは最初から思ってはいなかったが、こんな実験台みたいに言われたら、いくらでも腹が立つ。ものには言い様ってものもあるだろうに、それさえも考えない斎藤の態度も腹立たしい。
「そんなんだったら、絶対着ない! 海水浴なんか、絶対行かないんだから!」
憤然として怒鳴りつけると、は自分の席に戻った。そして不機嫌な顔のまま、自分の仕事を再開させる。
が斎藤にとっての“一番”だったのは昔の話で、今は時尾が彼の“一番”なのだから、何事も時尾優先なのは分かっている。かつては恋人であったとしても、今のは何でもないただの部下だということも。けれど、だからといってそんな時尾の実験台みたいな扱いは、いくら何でも酷すぎる。
一番の目的はビクトリア風水着を見てみたいという好奇心だったとしても、と海水浴に行きたいのだと思いたかった。別に今更斎藤とどうにかなりたいとは思わないけれど、一寸はそんな自分に調子良いように勘違いしたかったのだ。それなのに、黙っていれば良いものを、斎藤はそんな小さな望みまで徹底的に否定して。その思いやりの無さにも腹が立つ。
考えれば考えるほど腹が立ってきて、苛々してくる。苛々しているのがまるで時尾に嫉妬しているみたいで、そんな自分にも腹が立って、刺々しい感情がの中で堂々巡りになってしまう。そんな自分が情けないやら腹が立つやら、目まで潤んできた。
の反応に、流石に一寸言い過ぎたと反省したか、斎藤は新聞を畳んで急に優しい声で言った。
「別に、お前を実験台にしようとか思ってるわけじゃないぞ? まあ確かに、あの水着の実物を見てみたいというのは本音だけどな。だけど、お前を海水浴に連れて行ってやろうと思ったのも本当だぞ」
「…………………」
が機嫌を損ねると、急に機嫌を取るように優しいことを言うのは、斎藤のいつもの手だ。それでが機嫌を直したら、またすぐにいつもの調子に戻ってしまうのも、全部分っている。言っていることの半分は口から出任せに違いないけれど、でも斎藤に優しい言葉をかけられると一寸ぐらっときてしまう。
馬鹿だなあとは自分でも思う。こんな見え見えの手に引っかかってしまうのは、昔もそうだった。でも、昔はすぐに機嫌を直したけれど、今はこうやって一寸考えるのだから、あの頃に比べると歳を取った分だけ少しは賢くなったのかもしれない。
下を向いたまま何も言わないに、斎藤は困ったように小さく息を漏らす。いい歳して臍を曲げていると呆れているのだろう。
もういい大人なのだから、こんなことで臍を曲げるのは大人気ないとはも思っている。けれどすぐに機嫌を直すのもいかにも頭が悪そうで、どのあたりで顔を上げれば良いのか落としどころを探っているのだ。
と、突然、強い力での顔が持ち上げられた。いつの間にやら斎藤が前に立っていて、の顎を掴んで上向かせたのだ。
「何だ、泣いてるわけじゃないのか」
拍子抜けしたように言う斎藤に、は顔を真っ赤にする。これくらいのことで泣いていると思われていたなんて、心外だ。はもう三十路を越えた大人なのだ。いつまでも二十歳やそこいらの小娘じゃない。
は荒々しく斎藤の手を払って、
「泣くわけないでしょ! いつまでも子供扱いしないでよ!」
「そうやってすぐ癇癪を起こすのは子供だからだろうが」
「……………っ!」
冷静に返されて、言葉に詰まってしまった。確かに、大人だったらこんなに派手に癇癪を起こしたりはしない。
口を尖らせて黙りこんでしまう様もとても大人とは言い難くて、斎藤は笑いを堪えるような妙な顔をしての頭に手を乗せる。そして、頭を押さえつけるようにぐりぐりと撫でながら、
「お前、そんなところは全然変わらないなあ」
「うるさい!」
ぐりぐりと頭を押さえつけられ、はますます面白くない。昔はこんな子供扱いが心地良かった頃もあったけれど、今はそうじゃないのだ。
けれど斎藤にはそうやって反発する姿も可笑しいらしく、喉の奥で小さく笑うと、漸くの頭から手を離した。
「ま、気が変わったら一緒に行こう。海に行くなら、お前が一緒じゃないと意味が無い」
「………え?」
斎藤の言葉に、は思わずドキッとしてしまった。“お前と一緒じゃないと意味が無い”って、どういう意味だろう。時尾とではなくと行きたいってことは、つまり―――――
期待しちゃいけないと思いながら、不覚にも顔が熱くなってしまう。妻の妊娠中に泊りがけの旅行、しかも“お前と一緒じゃないと意味が無い”なんて、ただの二人連れの旅行というのじゃなくて、つまり世間で言うところの不倫旅行ってやつだろうか。斎藤がそんなことをする奴だとは信じられないが、でもついドキドキしてしまう。
妻の妊娠中に不倫旅行する男なんて、最低だと思っていた。今だってそう思っている。だけど、嬉しいと思ってしまったり、ドキドキしてしまう自分がいるのもまた事実。こんな自分は最低だとは思うけれど、それでもその気持ちは止められない。
そんなの様子には斎藤は全く気付いていないらしく、席に戻りながら続けて言う。
「お前、子供の頃、親の手伝いで素潜りやってたって言ってただろ? 大磯にもサザエくらいはいるだろうからな。採れたてのサザエをつぼ焼きなんて、美味そうじゃないか」
「へ?」
一瞬、言っていることの意味が分らなくて、は頓狂な声を上げてしまった。もう一度ゆっくりと反芻して漸く理解すると、今度は怒りで顔を紅くする。
「一寸! 私は鵜飼の鵜かっ?!」
斎藤がと一緒に海に行きたがっていたのは、水着よりも何よりも、これが目的だったのだ。斎藤が妻の妊娠中に浮気をするような最低男じゃなかったのは嬉しかったが、でも鵜飼の鵜扱いには腹が立つ。
が、斎藤は全く悪びれた様子など見せず、
「だから水着代を半分出してやるって言ってるだろ。ただでやれとは言ってないんだから、鵜よりはマシだろうが」
この男はどうしてこんなに偉そうなんだ。採れたてのサザエを食べたいので採って下さいって頼めば考えないでもなかったが、こんな偉そうに言われたら絶対に一緒に行ってやらない。
斎藤の言葉に一寸クラッとしてしまった自分が馬鹿だった。そんなこと、今更あるわけないじゃないか。斎藤には勿論腹がたつけれど、妙な期待をしてしまった自分にはもっと腹が立つ。
は小さく息を吸うと、腹の底から声を出してビシッと言った。
「やっぱり絶対あんたとは海水浴には行かない!」
NHKの『ものしり一夜漬け』の海水浴特集を見て思いついたネタです。
“水着”っていうお題だったら、現代ものだったら“夏の日の1993”(by class)みたいな“彼女が意外にナイスバディでドキッ”な話とか、“恋のバカンス”(by ザ・ピーナッツ)や“天使の誘惑”(by 黛ジュン)みたいなビーチの恋とか書けそうなんですけどね(しかし選曲古いな)。ほら、明治12年だし。というわけで、水着を巡る遣り取り。
でも、松本良順が海水浴を健康法として提唱したのは確か明治18年なんですよね。ビクトリア風水着というのも、明治20年以降に普及したと思うんで、時代的にはおかしいし。デパートメントっつーのも、本当は明治後期から登場してるんですけどね。多少、時代的におかしいところがありますが、まあ気にしないで下さい。歴史小説じゃなくてドリームだし。