姫抱き

 座高よりもずっと高い草むらの中にへたり込んだまま、は途方にくれたように小さく溜息をついた。ひどい捻挫をしてしまったらしく、右の足首の腫れは時間が経つに従ってどんどんひどくなってきて、左足に比べると倍近くになってしまっている。
 足の痛みがひいたら帰ろうと思っていたのだが、この分では家に帰れないかもしれない。助けを求めたくてもこんな草むらまで誰も来てくれないし、日も暮れ始めているし、だんだん心細くなってきた。このままずっと動けなくて、何日もこのままの状態が続いたらどうしよう。は一人暮らしだから、家に帰らなくても不審に思う者は誰もいない。ヘタしたら、誰にも気付かれないまま此処でひっそりと死んでしまうかもしれない。
 たとえ2〜3日此処に放置されたところで死ぬなんてことはまず無いのだが、こういう状況ではそんな最悪なことも考えてしまう。は死ななくても、文鳥の“ちぃちゃん”は死んでしまうかもしれない。水も餌も余分に入れていないし、がこのまま家に帰れなくなってしまったら、絶対に衰弱して死んでしまう。それを考えると、自分が家に帰れないかもしれないという不安よりも、そっちの方が不安で涙が出そうになってきた。
「どうしよう………」
 だんだん暗くなっていく空を見上げて、は途方にくれて小さく呟いた。





 事の起こりは、些細な行き違いだった。
 その日、いつものように蒼紫と外出していた。神社に見世物小屋が立って、南洋の珍しい鳥がいるから見に行こうと誘われたのだ。
 人の言葉を喋る鳥やら、染料で染められているのではないかと疑いたくなるような色鮮やかな鳥がいて、聞いたことの無い声で鳴くのが面白い。が飼っている文鳥とは姿も鳴き声も全く違っているけれど、それはそれで可愛らしいと思った。
 そうやって蒼紫と二人で檻の中を眺めていたのだが、不意に彼が繋いでいた手を振り払うように離したのだ。びっくりして蒼紫を見上げると、その視線の先には老人と髪を三つ編みにした小柄な少女がいた。
「蒼紫様!」
 少女がこちらに気付いて、明るい笑顔でこちらに駆け寄ってきた。どうやら蒼紫の知り合いらしい。彼の話に時々出てくる“操”と“翁”という人たちだろう。
「ああ」
 いかにも今気付いたといった様子で、蒼紫は小さく声を上げる。そうしながら、二人の間に微妙に距離を置いたのを、は見逃さなかった。知り合いに女と手を繋いでいるところを見られたくなくて手を離すのは許せるけれど、振り払うように離したり、何でもない相手のように距離までとるなんて。
 蒼紫の態度に少しムッとしたけれど、それを顔に出すのは大人気ないような気がして、は表面上は何でもない顔をしている。知り合いに紹介してもらうのに、不機嫌な顔をしていたら感じも悪いし。
「蒼紫様も来てたんだぁ。あ、その人、誰?」
「ああ、うん………」
 少女に問われて、蒼紫は一寸困ったような複雑な表情をした。
 二人の関係は、まだまだ微妙な感じである。家に遊びに行ったり、手を繋いだり、まだ数えるくらいしかしていないけど口付けも交わすけれど、でも“恋人”と他人に言うにはまだ心許無い関係で。まだ喋り口調も他人行儀だし、お互いの気持ちを手探りで探っているような、そんな感じだ。
 ここで“恋人です”と言ってくれたら卒倒するくらい嬉しいけれど、蒼紫の性格から考えると、そんな大胆なことは言ってくれないだろう。“友達です”とか“一寸親しくしている人です”とかしか言ってくれないだろうが、は仕方が無いと思っている。こういう性格の人だから、あんまり高望みは出来ない。
 諦めと期待の入り混じった目で蒼紫を見上げ、は次の言葉を待つ。“友達”でも“一寸親しい人”でも、蒼紫の知り合いに紹介してもらえるのは、周りの人にも自分とのことを明らかにしてもらえるのだから、嬉しい。
 が、蒼紫はいかにも素っ気無く、
「知り合いだ。さんという」

<………へ?>

 予想外の返答に、は頭の中が真っ白になってしまった。
 いくら紹介に困る間柄だからって、“知り合い”はいくら何でも無いだろう。知り合いなんて、限りなく他人に近い響きではないか。
 繋いでいた手を振り払われたり、間に距離を置かれたりして、挙句にこれである。悲しいのか怒っているのか自分でもよく分からないけれど、頭がくらくらして相手が何を言っているのかよく聞き取れない。二人がに話しかけてくるけれど全然頭に入らなくて、適当に相槌を打った。
「気分でも悪いのですか? 顔色が悪い」
 白い顔で上の空で相槌を打つに、蒼紫が心配そうに声を掛けた。その声にはっとして、は蒼紫の顔を見る。
 の異変の原因を、蒼紫は全く気付いていないようだ。本気で気分が悪くなったのだと思っているらしい。心配してくれるのはありがたいけど、その鈍感さには腹が立ってきた。
「人酔いしたみたいです。申し訳ありませんが、これで失礼します」
 いつもよりも他人行儀な冷たい声でそう言うと、は二人と蒼紫に頭を下げて踵を返した。
「待って下さい。送りますよ」
 挨拶とほぼ同時に足早に去っていくを蒼紫が慌てて追いかける。引き止めるように手を握ろうとした蒼紫の手を、は思い切り振り払った。そして、きっと蒼紫を振り返って、
「結構です! 一人で帰れます」
 今日はもう、蒼紫の顔は見たくなかった。自分の親しい人間にのことを満足に紹介できない男の顔なんて、見たくない。明日になって感情が落ち着いたらまた変わるだろうけど、今日一日は蒼紫の顔を見るのも嫌だった。
 いつもだったら人込みの中を歩くのは苦手なであるが、今日は興奮しているせいか感覚が鋭くなっているらしく、人の間をすいすいとすり抜けていく。逆に蒼紫の方が人込みに紛れてあわあわしてしまい、それを良いことにはさっさと神社を出て行ってしまった。
 蒼紫に捕まらないように、は神社を出てからも土手沿いの道を走った。蒼紫は足が速いから、この人通りの少ない一本道で見付かったら、すぐに追いつかれてしまう。
 それにしたって―――――走りながら、は考える。家族同然に一緒に暮らしているという翁や操に、あんな紹介の仕方は無いと思う。それでが傷付いているのに全然気付いてくれなくて、それってのことをちゃんと見てくれていない証拠だ。そりゃあ、「好き」とか「ちゃんとお付き合いしましょう」とか言われたことは無いし、男女の仲にもなっていないけれど、でもあの紹介の仕方はひどい。
 走りながら振り返ると、蒼紫が鳥居から走って出てくるのが見えた。此処で見付かったら、すぐに捕まってしまう。
 は咄嗟に、土手の草むらに向かって飛び降りた。





 ―――――で、着地の時に足首をひねってしまったらしく、立ち上がれないくらいひどい捻挫をしてしまったのである。
 の望み通り蒼紫には見付からなくて済んだけれど、この状態では他の人にも発見されないということで、これはとしても非常に困る。今日は昼食を早く済ませてしまったからお腹も空いてきたし、日も暮れ始めて、川が近いせいか蚊も出てきて、だんだん心細くて悲しくなってきた。
 このまま暗くなったらどうしよう。この辺りは最近物騒だと聞いているし、もし犯罪に巻き込まれたりしたら目も当てられない。此処で何か起こったとしても、近くに民家も無いから誰にも助けてもらえないだろう。
「どうしよう………」
 どんどん最悪なことを想像してしまって、は心細くて涙ぐんでしまった。こんなことだったら、素直に蒼紫に捕まっていれば良かった。
 蒼紫だって、別に悪気があってそんなことを言ったのではないのだ。ああいう状況に慣れていなくて、何を言って良いのか分らなくて、それでつい“知り合い”と紹介してしまったのだと思う。あの人は変に自信が無いところがあるから、迂闊なことを言ってに即座に否定されることを恐れていたのかもしれない。
 落ち着いて考えればあんなに怒ることでもなかったと、は思った。思ったけれど、やっぱり自信を持って「親しくしている人です」くらいは言って欲しかったとも思う。どうしたらそうやって言ってもらえるのだろうか。やはり、最後までしないと言ってもらえないのだろうか。でも、最後までするのはまだ一寸早いような気がする。
 腕を刺す蚊をパチンと叩いて、は小さく溜息をついた。蒼紫には素っ気無く扱われるし、こんな草むらの中で蚊に刺され放題で、自分が世界で一番惨めな女に思えてきた。世の中にはもっと惨めな人はいるだろうけど、今この瞬間はが一番惨めだと思う。
 と、の後ろで草むらがカサッと音を立てた。
「ひっ………?!」
 一瞬にして血の気が引いて、は思わず悲鳴を上げそうになったが、慌てて口を押さえる。
 そういえば先月、この辺りで強姦殺人があったと新聞に載っていた。犯行はこんな人目につかない草むらの中で行われたそうで、まだ犯人は捕まっていなかったような気がする。
 この足では、何をされても逃げられない。最悪の状況を想像してしまい、それに連鎖するように明日の新聞の見出しやら、記事までご丁寧に考えてしまう。
 悲鳴が漏れないように両手で口を覆って、は身をかがめて気配を消そうとする。これをやり過ごすことが出来たら、多分今夜は大丈夫だ。こんな所に分け入ってくる人間なんて、一日に一人いれば多い方に決まってる。
 が、の努力も空しく、真後ろの背の高い草が掻き分けられた。
「そんな所にいたんですか」
 身体を縮こまらせているの上から降ってきたのは、慣れ親しんだ蒼紫の声。
 まさか蒼紫が此処に来るなんて想像もしてなくて、は驚きで大きく目を瞠ったまま固まってしまう。此処にいることに、どうして気付いたのだろう。
 硬直しているの前にしゃがんで、蒼紫はいきなり腫れ上がった右足首を掴んだ。
「………っ!!」
 少しでも動かされると、声も出ないほど痛い。顔を顰めるに、蒼紫は硬い表情で、
「折れてはいないようだが、筋を痛めているようですね。暫くは歩けませんよ」
「………どうして此処が………?」
 自分が暫く歩けないことよりも、蒼紫が自分を見つけ出せたことの方が、にとっては重大なことだった。上から見下ろしてもの姿は見えないはずだ。それなのに蒼紫は、に呼びかけることもなく、多分一直線に此処まで来た。千里眼でも持っていなければ、そんな芸当は出来ないだろう。
 じっと見上げるに、蒼紫は苦笑して、
「どうしてと言われても困るけれど………さんの声が聞こえたような気がしたんですよ。しかし、まさかこんな所にいたなんて………。道理で何処を捜しても見付からないはずだ。どうしてこんな所にいたんですか?」
「それは………」
 蒼紫から隠れようとしたからとは言えなくて、は口ごもって俯いてしまった。そんな子供のような真似をしたなんて、恥ずかしくて言えない。
 が、の様子から蒼紫は大体の事情を察したらしく、小さく息を漏らすように笑った。そして、の膝の後ろと脇の下に腕を回す。
 刹那、の視界が急に高くなる。横抱きに抱え上げられたと気付くのに、数秒の間があった。
「やっ……?! ちょっ………下ろしてくださいっ!!」
 蒼紫に子供のように抱き上げられるのも、体温が感じられるほど身体が密着するのも恥ずかしくて、は顔を真っ赤にして悲鳴のように叫ぶ。
 蒼紫の身体から離れようとじたばたともがくを押さえるように、蒼紫は腕に更に力を込める。
「その足では立つことも出来ないでしょうが。そんなに暴れたら落ちますよ」
「落としてくれて結構です!」
「じゃあ、どうやって帰るんですか? こうしないと帰れないでしょう」
「最初から野宿するつもりだったから平気ですっ!」
 本当は平気なんかじゃないけれど、つい変な意地を張ってしまった。頭を冷やして一旦は許したけれど、さっきのことがまだ心に引っかかっているのだろう。
 の言葉に、蒼紫は困ったように小さく溜息をつく。
「何言ってるんですか。このあたりは夜になると物騒だし―――――」
「平気だって言ったら、平気なんですっ!!」
 一度意地を張ったら止まらなくて、は子供が駄々をこねるように甲高い声を上げる。いつもことのだったらこんな子供じみた事はしないのに、今日は何だか変だ。怪我をして気が立っているのだろうか。
 流石の蒼紫もこれには一寸ムッとしたらしく、独り言のようにボソッと呟いた。
「…………可愛げの無い」
 その言葉に、は怒りでかぁっと顔が熱くなる。自分がこんなつまらない意地を張るのは、そもそもは蒼紫が原因なのに。それなのに蒼紫は全然そのことを解ってなくて、その鈍感さに改めて腹が立った。
「やっぱり私のことを可愛げの無い女だと思ってるんだ! だから私のこと、“知り合い”なんて言ったんでしょう?! 私が可愛げの無い女だから、あの人たちに紹介したくなかったんだわっ!!」
 話が前後しているが、興奮しているにはそこまで頭が回らない。言っているうちに自分の声でますます興奮してきて、目まで潤んでくる。
 紅い顔で目に涙を溜めているを見て、蒼紫はぎょっとしたような顔をした。いつも穏やかで感情の波がそれほど無いが、泣きそうな顔できいきい声を上げるところなんて、初めて見た。にもこんな感情の起伏があったのかと、蒼紫は知らない女を見るような気分になる。
 けれどその言葉で、が何故、見世物小屋で急に怒り出したのかやっと解った。関係を表す言葉は何であれ、蒼紫のに対する気持ちは変わらないのだから、翁と操に“知り合い”と紹介するのも彼にとっては何でもないことだった。けれどにとっては、そうではなかったらしい。言葉なんてどうでも良いことなのに、面倒なことである。
「わかりました。じゃあ今から『葵屋』に行きましょう。あの二人に、あなたのことをちゃんと紹介しますから」
「…………へ?」
 蒼紫の言葉に、は思わず動きを止めてきょとんとした顔で見上げる。
「どうせその足では生活にも不便でしょうから、暫くうちにいれば良い。『葵屋』は旅館もやっているから、空いている部屋はいくらでもあります」
「それは一寸………」
 突然知らない女が転がり込んできたら、『葵屋』の人たちも迷惑だろう。確かにこの足では料理をするにも洗濯をするにも不自由するが、でも知らない人たちに面倒をかけるわけにはいかない。
 口をもごもごさせて遠慮するに、蒼紫は有無を言わせない強い口調で宣言した。
「大丈夫です。さんの世話は全部俺がしますから、遠慮しないで下さい」
 それもどうかと思ったが、早くも蒼紫は張り切っているし、断るとそれも悪いような気がして、は黙り込んでしまうのだった。





 勝手口の上がり口にを座らせると、蒼紫は足を洗う盥を持ってくると言って外に出てしまった。
 『葵屋』は身内だけでやっている料亭兼旅館だと蒼紫が以前言っていたから、民宿よりも少し上等な旅館なのだろうとは勝手に思い込んでいたのだが、予想外に高級な旅館だった。敷地はそんなに大きくないけれど、一見さんお断りな雰囲気が漂っていた。
 此処で蒼紫は生活をしていて、仕事もしているのかと思うと、は何だか不思議な感じがする。外で会う時は生活感をまったく感じさせないというか、仕事をしているところや生活しているところが全く想像できない人だったから、そんな彼の生活空間に入り込んでいることが、まだ信じられない。
 厨房の方で女の声がする。声を掛けた方が良いだろうかと思ったが、夕食を用意する一番忙しい時間帯に挨拶をするのも悪い気がして、それもできない。どうしようかと考えているうちに、小さな盥と手ぬぐいを持った蒼紫が戻ってきた。
「これで顔と手を拭いてください」
「………ありがとうございます」
 濡れ手拭いを受け取ると、は俯いて顔を拭く。今までこうやって男の人に世話をしてもらったことが無いから、気恥ずかしくて蒼紫の顔をまともに見ることが出来ない。蒼紫という人がまた、これまでずっと周りにかしずかれて生きてきたような雰囲気の人だから、余計に居心地が悪いのかもしれない。
 何か言わなければ余計に気まずくなるのは分かっているのに、何を言えば良いのかには分らない。さっき、あんなに興奮してきいきい声を張り上げてしまった後なだけに、余計に言葉が出ないのだ。
 と、蒼紫が突然の足首を掴んだ。
「ひゃっ………?!」
 が小さく悲鳴を上げたが、そんなことは意に介さないように、蒼紫は無言での足を洗い始める。
 他人に足を洗ってもらうなんて、小さな子供の頃を除けば初めてのことだ。しかも蒼紫に洗ってもらうなんて、恥ずかしくては顔を真っ赤にして慌てた声を上げた。
「あっ……あのっ、自分でできますからっ………!」
「今日はお客様なんですから、遠慮しなくても良いですよ」
 楽しそうにそう言うと、蒼紫はの足を丁寧に拭った。それから右の腫れ上がった足を、壊れ物を扱うように優しく洗う。
 足を洗ってくれている手を振り払ってしまいたいくらい恥ずかしいのだが、洗っている蒼紫の様子が楽しそうなので、そうするのも悪いような気がしては何もできない。いつも周りに傅かれているから、誰かの世話をするのが新鮮で楽しいのだろうか。
 の後ろから、ぱたぱたと軽い足音か聞こえてきた。
「蒼紫様、お帰り―――――」
 が振り返ると、そこには驚きの表情で絶句している操の姿があった。“蒼紫様”と傅いている男が、知らない女の足許に跪いて使用人のように足を洗ってやっているのだから、当然だ。
 この状況をどう説明して良いのか分らなくて、も振り返ったまま硬直してしまう。別に自分が頼んでしてもらっているのではなくて、蒼紫が好きでやってくれているのだと正直に話したところで角が立つし、いかにも感じの悪い女になってしまう。かといって蒼紫の手を振り払うわけにもいかない。
 もう夏なのに、と操の間の空気は氷点下まで下がったように感じられる。大きな目で睨まれると、は居た堪れない気持ちになってきた。
「どうして蒼紫様がこの人の足を洗ってるの?! どうしてこの人が此処にいるの?!」
 叫ぶような甲高い声で、操が質問を重ねる。見世物小屋で“知り合い”と紹介した女にここまでするなんて普通はありえないから、そう叫びたくなるのも当然だ。
 の足を拭いながら、蒼紫がゆっくりと頭を上げた。
「さっき紹介したさんだ。足を怪我したので、暫く此処で世話することにした」
「あ、あの……お世話になります」
 蒼紫の感情の無い声にはっとして、は慌てて頭を下げた。けれど、操のに対する視線の強さは相変わらずで、まだ胡散臭そうに見ている。
「どうしてうちでお世話するの? ただの知り合いなのに」
「それは………」
 どこか棘のある声で質問する操の勢いに押されて、蒼紫は一瞬口ごもってしまった。今日紹介したばかりの女を連れてきて、いきなり今日から暫く一緒に暮らすと言われたら、そりゃあ誰だってびっくりするし戸惑うだろうということは蒼紫にも解る。だが、どうして操がこんなに怒ったような反応をしているのかは解らない。
 いつもなら困った人を何も言わずに助けてやる優しい娘なのに、何故に限ってこんな反応をするのだろうと蒼紫は不思議に思う。操は蒼紫を慕っているから、慕っている自分の知り合いなら、なおのこと親切にしようとするのが筋ではないかと思うのだ。
「あの……私、やっぱり―――――」
「いえ」
 困った顔で蒼紫を見るの言葉を制して、蒼紫は心を落ち着けるように小さく息を吐く。ちゃんと紹介するとに宣言したものの、いざ紹介するとなるとやはり緊張してしまうものだ。もしかしたら、人生で一、二を争うくらい緊張しているかもしれない。
 心を落ち着かせると、蒼紫は意を決したように操を見上げて口を開いた。
「この人は―――――」
「どうしたの、操ちゃん。何の騒ぎ?」
 「俺の大切な人だ」と言おうとしたまさにその時、操の声を聞きつけて厨房から二人の女が出てきた。折角決心がついた勢いに乗じて言おうと思ったのに、また最初からやり直しである。蒼紫は小さく溜息をついてしまった。
 出てきた二人に、操が訴えるように甲高い声で言う。
「お近さん、お増さん、大変なのっ! 蒼紫様がこの人の足を洗ってあげてて、暫く此処でお世話するって………」
「あらあらあら」
「それはそれは………」
 お近とお増と呼ばれた二人も、驚いたように目を見開いての顔をまじまじと見る。操より人生経験があるせいか、がどういう関係の女であるか察するところがあったらしい。二人の目が意味ありげに笑うように、半月形になった。
 黒目がちの切れ長の目の、色の白い女である。潤んだ目に一寸色気があるなかなかの美人で、こういうのが蒼紫の好みなのかと、二人はの様子を観察する。着物の趣味が渋いせいか、すっきりと巻き上げた髪型のせいか、歳不相応に落ち着いた雰囲気を纏っていて、若年寄風な蒼紫には似合いの女かもしれないとも思う。
 操に睨まれるのも居た堪れないが、お増とお近に興味津々の目で見られるのも居心地が悪い。目のやり場に困っては目を伏せてしまった。
「そんなにじろじろと見たら、さんも困るだろう。
 足を怪我して生活にも困る状態だから、良くなるまで此処でお世話をすることにした。この人の世話はは全部俺がするから、お前たちの手は煩わせん」
「へー………」
 蒼紫の宣言に、お近が呆気に取られたような間抜けな声を上げた。他の二人も、唖然とした顔をする。
 蒼紫が誰かの世話をする姿なんて、想像もできない。そこに座っているだけで周りが世話を焼いてくれる生活をしているくせに、どうやって他人の世話をするというのだろう。一日もしないうちにお近やお増に世話が回ってくることは確実だ。
「では、そういうことだ。奥の空き部屋を使わせてもらうぞ」
 一方的に話を打ち切ると、蒼紫は再びを抱え上げて廊下を歩いていった。
 その後ろ姿を唖然と見ていた三人だったが、突然お近が腕を組んで感に堪えないような唸り声を上げた。
「蒼紫様にも遅い春が来たのねぇ………」
「蒼紫様がお姫様抱っこだものねぇ。しかも“この人の世話は全部俺がする”だって。昔からは考えられないわ」
 お増もしみじみと呟いた。
 昔の蒼紫だったら、人の足を洗ってやったり人前でお姫様抱っこをしたり、ましてや“俺が全部世話する”宣言なんかしなかったはずだ。女が出来て変わる男は数多くいるけれど、蒼紫の場合は変わりすぎである。という女は、蒼紫にとってはそれほどまでに魅力的な女らしい。
 まあそういう女が出来て良かったといえば良かったのだが、けれど物事はそう単純にはいかなくて―――――
「えー?! あのって人、蒼紫様の恋人なの?!」
 泣きそうな顔で、操が驚きの声を上げる。昼に会った時はただの知り合いと言っていたから安心していたのに。
 小さい頃から蒼紫のことが好きで、蒼紫が『葵屋』を出て行ってからは日本全国を旅して探し回ったこともあった。やっと『葵屋』に戻ってきてくれてからは、自分が蒼紫の心の傷を癒してあげられる存在になりたいと思っていた。それなのに、その役目を知らない女が引き受けていたなんて。
 操の気持ちは『葵屋』のみんなが知っていることだから、お増もお近も気持ちは複雑だ。蒼紫に好きな人が出来たのは喜ばしいことだけれど、でも操の気持ちを考えると手放しでは喜べない。かといって、蒼紫とを別れさせるわけにはいかないし。
 お増は身を屈めて操の目線に合わせると、優しく頭を撫でながら言った。
「操ちゃんにとっては残念なことだけど、でも蒼紫様は本当にあの人が好きなのよ。だから解ってあげて。ね?」
 お増の言葉に、操は何も応えずに俯くだけだった。





 を部屋に運び込むと、蒼紫は縁側の方の障子を全開にした。暫く使っていなくて“開かずの間”状態だったっから、少し空気が臭うような気がする。
「後で掃除をしますから、埃っぽいけど少しの間我慢してください。そうだ、お茶を持ってきましょう。あんなところにずっといて、喉が渇いたでしょう」
 いつもとは別人のように甲斐甲斐しく動く蒼紫を見上げ、は口を半開きにした唖然としたような顔をしている。の家にいる時はいつも座っているだけの彼がこんなに動いているところなんて、初めて見た。
 間抜けな顔をしているに気付いて、蒼紫は怪訝そうな顔をした。
「どうしました?」
「いえ………こんな四乃森さん、初めて見るから………」
「ああ………。俺だって、こういう時くらいは動きますよ。何も出来ないわけではないんですから」
 蒼紫は苦笑すると、の前に座った。そして急に済まなそうな顔をして、
「また紹介しそびれてしまいました。夕食の時にちゃんと紹介しますから―――――」
「もう良いですよ」
 蒼紫の言葉を制して、はにっこりと微笑む。
 との関係を言葉では表現してもらえなかったけれど、でも“俺が全部世話をする”と宣言してくれた。どこまで本当にやれるかはともかくとして、そう宣言してくれたことがには嬉しかった。人の手を借りずに自分で世話したいと思うような仲の女なのだと、同居人たちに言ってくれたのだ。それ以上の紹介の言葉があるだろうか。
 今日は足に大怪我をした酷い日だったけれど、でもそれ以上に嬉しい日だった。一寸恥ずかしかったけれど、お姫様抱っこしてもらったり、足を洗ってもらったりして、何だかお姫様扱いだったし。その上、「俺が全部世話する」なんて言われて、人目が無ければ手足をばたばたしたいほど嬉しかった。今だって、気を緩めると顔がにやけてしまう。
 ふふっと小さく笑うを、蒼紫は不思議そうに見る。
「どうしました?」
「何でもないです」
 蒼紫に教えるのは何となく気恥ずかしくて、は一人でくすくすと笑うのだった。
<あとがき>
 お姫様抱っこって、どういうシチュエーションでやれば良いのか悩みまくって、少々無理のある設定になってしまいました。何ていうか………私自身、これまでの人生においてお姫様抱っこなんてしてもらったことないからさ。普通、どんな状況でしてもらうものなんですか?
 暫く『葵屋』で療養生活をすることになる主人公さんですが、その間の話も書きたいと思ってます。操ちゃんとの絡みも書いてみたいなあと思ってるんで。つか、操ちゃん、この話では振られ役だから可哀想だなあ。こんなの書いてますが、私、蒼×操推奨なんで。
 ところで、甲斐甲斐しく彼女の世話をする蒼紫って、アリなんでしょうか? 私的にはアリなんですけど。っていうか、一度くらいはいい男に傅かれてみたいですよねぇ?
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