結婚
荷物を全部運び出されてがらんとしてしまった部屋を掃除していたの足許に、祇王が絡み付いてきた。今朝から荷物を運び出したりガタガタさせていたのを猫なりに不審に思っていたらしく、不安そうな顔でを見上げている。畳を雑巾で乾拭きしていた手を止めて、は祇王の頭を優しく撫でた。
「明日から、斎藤さんの家で暮らすんだよ」
改めて口に出して言ってみると、恥ずかしいというか照れ臭いというか、は頬を染めて小さく笑った。明日からいよいよ斎藤と暮らすのだと思うと、嬉しくて嬉しくて、胸の中がむずむずするような、その辺をゴロゴロ転がり回りたくなるような、とにかく落ち着かない気持ちになる。
浮かれたように一人で照れ笑いを浮べている主人の様子に、祇王はますます不審そうな顔をして首を傾げる。この間までずっと泣いていて、それから暫く姿が見えなくなったと思ったら、今度は一日中浮かれているのだから、それは祇王でも不思議がるだろう。祇王が口を利けたなら、「お前は一体何なんだ!」と突っ込まれていたに違いない。
祝言も挙げない、嫁入り道具も無い、まるで夜逃げか何かのように慌ただしい結婚だけど、でもそれを悲しいとは思わない。にはよく解らないけれど、今はそんなにのんびりしていられる状況ではないらしいし、祝言を挙げなくても嫁入り道具が無くても斎藤と結婚するという事実は変わらないのだ。山崎に花嫁姿を見せたかったという気持ちはあるけれど、それはまたいつか世の中が落ち着いたら見せればいいと思う。
今頃、斎藤の借家にの荷物が運び込まれていることだろう。山崎もあっちに行っているはずだが、斎藤と何を話しているのだろうかと想像する。楽しく世間話をしているところなんて想像もできないけれど、でも今までみたいに意地悪なことを言ったりはしていないだろうとは思う。大方、最後のお説教をしているのかもしれない。向かい合って正座をしている二人の姿を想像したら、は思わず吹き出してしまった。当人たちは笑い事ではないだろうが、それでも可笑しくて堪らない。
笑いをおさめると、はがらんとしてしまった部屋の中を見回す。若い女にしては調度品をあまり持たないだったが、それでも全部無くなると部屋の中がとても広く感じられる。かれこれ2年近くこの部屋で暮らしてきたけれど、こんなに広い部屋だったのかと初めて気付いた。
「こんなに広かったんだよねぇ………」
祇王を膝に抱えると、はしみじみと呟いた。
が此処を出て行ったら、誰がこの部屋を使うのだろうかと一寸考える。無理をすれば二人でも使えそうだし、もしかしたら小姓の誰かが使うことになるのかもしれない。そうなると、もう此処にはの居場所はなくなるわけで、それは少しだけ寂しく思う。
「ま、斎藤さんのところが私の居場所なんだけどね」
自分に言い聞かせるように、は明るく言ってみせた。此処に自分の場所がなくなるのは寂しいけれど、でもその代わりにまた新しい場所を手に入れられるのだ。しかもそこは、一番好きな人と一緒の場所。そう思うと、寂しいよりも嬉しい気持ちの方が強くなる。
明日からは毎日、斎藤にご飯を作ってあげて、一緒にご飯を食べて、一緒に眠るのだ。何を作ってあげようかなとか、あの何も無い殺風景な家をどういう風に飾ろうかと思うと、それだけで楽しくて堪らない。“生活”をするのだから、楽しいことばかりじゃないことは、も勿論解っている。嫌なこともあるだろうし、喧嘩をすることもあるかもしれないけれど、でも今の気持ちを忘れなければきっと大丈夫だ。
「早く明日にならないかなあ」
明日からのことを考えると楽しくて胸がはちきれそうで、は祇王を抱き締めると小さく笑った。
その日の夜。
はあまり道具持ちではなかったから引越しもすぐ終わるかと思ったが、結局一日仕事になってしまった。久々の力仕事で足腰が痛いし、山崎は早い時間から床に入っていた。
明日からは、斎藤の家で暮らすことになる。昼間は此処に食事を作りに来ることになっているから毎日会えるし、嫁に出したら盆と正月にしか会えない他所の親に比べれば山崎は幸せな方だと思う。けれど、いくら目の届く所にいるとはいっても、やはりが嫁に行くというのは寂しい。
4年ほど前、を拾った時は早く大人になって嫁に行ってくれないかと思っていたのだが、いざ本当に嫁ぐとなると寂しいだの何だの思うのだから、勝手なものである。かといっていつまでも片付いてくれなかったら、それはそれで困ってしまうのであるが。
「山崎さん」
襖越しに、が声を掛けてきた。
その声に、それまで布団の中でうつ伏せになってぐったりしていた山崎が、反射的に軽く身を起こす。
「何だ?」
「今日で最後だから、一緒に寝ようかなーって思って」
襖を開けると、は返事を待たずに布団を持ち込んで山崎の隣に敷き始める。
新選組に来たばかりの頃は一緒に寝起きをしていたのだが、屯所を移転したのとが成長したのを機に一緒に寝ることはなくなっていた。布団は別とはいえ、大人になったと一緒に寝るなんて、山崎は一寸緊張してしまう。
が、そんな山崎の様子など気付かない様子で、は楽しそうに布団を敷いて子供のように軽い動きで中に滑り込んだ。こういう姿を見ると、まだまだお子様といった感じだ。
「山崎さんと寝るなんて、久しぶりだねぇ」
「そうだな」
何だか浮かれた様子のに、山崎は気の無い返事をする。と一緒に寝るのは嬉しいのだが、何を話して良いのか見当も付かないのだ。本当の親子だったらどんな風に最後の夜を過ごすのだろうかと、山崎は不思議に思う。
本当なら夫婦の心構えとかいろいろ話したりするのだろうが、何せ山崎自身が結婚したことが無いのだから、何を言っても説得力が無い。かと言ってお涙頂戴の浪花節なことを言うのもあんまり趣味じゃないし、難しいところだ。いつもと同じことを話せばいいのだろうが、どうも構えてしまっているせいか、いつものように言葉が出てこない。
何を話そうかと真剣に考え始めた山崎に、の方から声を掛けてきた。
「山崎さん、今まで一杯心配かけて、ごめんね。これからはもう、山崎さんが心配しなくても大丈夫だから、安心してね」
じっと目を見詰めて真顔で言うに、山崎は胸を衝かれるような思いがして、思わず視線を逸らしてしまった。はただのお礼のつもりで言ったのだろうが、まるで永の別れの言葉のように感じられたのだ。「安心してね」という言葉も、肩の荷が下りたと思うよりも、もうに必要とされなくなってしまったのだと寂しく思ってしまう。
が嫁いで、やっと身軽になったと清々した気分になるべきなのだろうとは、山崎も思う。が片付いたら今度は自分の人生を楽しもうと思っていたし、実際そのつもりだった。けれどいざがいなくなってしまうと、たとえようの無い喪失感を覚えてしまう。これからも毎日顔を見ることが出来るとはいえ、もう自分が独占できるものではなくなってしまうのかと思うと、やはり寂しい。
別に、が子供の頃に言ってくれた「大きくなったら山崎さんのお嫁さんになる」という言葉を期待していたわけではない。そんなのは子供の戯言だと割り切っていたし、そんなつもりでを育てていたわけではないのだ。けれどこんな喪失感を覚えてしまうのは、やはり少しは期待していたのだろうか。山崎自身もよく解らない。
「山崎さんのお嫁さんになるっていう約束、破っちゃってごめんね」
山崎の思いを見透かしたようなの言葉に、年甲斐も無くドキッとしてしまった。顔が紅くなるのが自分でも判って、そんな顔をに見られないように、山崎は布団の中に頭まですっぽりと潜ってしまう。
そんな山崎の反応が可笑しくて、はくすくすと小さく笑う。
子供の頃は、本当に大人になったら山崎と結婚するのだと思っていた。優しくて頼り甲斐があって、そんな大人の男の人は山崎しか知らなかったし、山崎以上の男も周りに見当たらなかったからだ。けれど新選組に来たら山崎以外の大人の男の人が沢山いて、その中には山崎よりも一寸好いかななんて思える人も現れて。
最初は、顔だけで男前の土方を好きになった。だけど彼はあまり子供が好きではなかったらしく、と遊んでくれなかったから、よく一緒に遊んでくれる山南や沖田の方が良くなってきた。そしてそのうち、見た目は恐いけれど意外と優しくしてくれる斎藤と遊ぶようになって、今に至るというわけだ。思い返してみると、自分を可愛がってくれる人に付いていっていることに気付いて、は一寸微妙な気持ちになる。もしかして、いつまでも誰かの“娘”でいたいのだろうか。
これからは“人妻”になるのだから、今まで通りじゃいけないと自分でも思う。明日からはちゃんとしっかりした奥さんになろうと、は密かに決心した。
「ねえ、山崎さん。寝ちゃった?」
布団を被ったまま動かない山崎に、はそっと声をかけてみる。まだちゃんと、お別れの挨拶をしていないのだ。このまま眠ってしまわれたら困る。明日の朝はきっと忙しいから、今じゃないと言えない。
「起きてるよ」
布団を被ったまま、山崎は怒ったようなぶっきらぼうな声で応える。どうやらこのまま布団から顔を出す気は無いらしい。
本当はちゃんと顔を見て言いたかったけれど、仕方が無い。無理やり布団を剥ぐわけにはいかないし、よく考えたら顔を見て話すのもこっ恥ずかしいような気もしてきた。
腹這いになったまま、は山崎の方ににじり寄る。
「あのね、今まで育ててくれて、ありがとうね。いろいろあったけど、山崎さんと一緒にいられて、楽しかったよ」
「……………」
俺もだよ、と応えてやりたかったが、喉に何か大きなものが詰まったようで、言葉が出ない。声を出したら、涙も出そうだった。
無言の山崎に、は一寸困ったように首を傾げた。こういう時は何か反応があるものではないかと思っていただけに、何も言われないと続く言葉が見付からない。
眠っているわけではないと思う。布団を被って顔は見えないけれど、山崎が起きている気配はする。けれど待っていても返事は無さそうだから、これだけはちゃんと言っておこうと思っていたことを言った。
「生まれ変わったら、今度は本当のお父さんになってね」
の言葉に、山崎の布団が小刻みに震えているように見えた。泣いているのだろうかと思ったが、訊いたら怒られそうだったのでは黙っている。
布団の中から嗚咽を堪えているような声が聞こえてきて、その声を聞いていたらまで何だか悲しくなってきた。明日からも毎日山崎には会えるはずなのに、なんだか永遠の別れのような気分になってしまったのだ。
「おやすみなさい」
このままでは泣いてしまいそうで、それだけ短く言うとも頭から布団を被ってしまった。
花嫁衣裳は用意できなかったけれど、来年の正月用に作った着物を着て行きなさいと、山崎に言われた。桜色の綺麗な振袖だ。こんな綺麗な振袖を作ってもらったのも初めてだったし、袖を切って留袖にも出来る柄の着物で、もしかしてこの着物を作った時点で山崎はこの日のことを予感していたのだろうか。
花嫁衣裳とは少し違うけれど、この晴れやかな色の振袖は、今まで見たどの花嫁衣裳よりも綺麗だとは思う。見送ってくれる人もいない、たった一人での嫁入りだけど、でもそれを悲しいとも不幸だとも思わない。何も無くても、山崎が祝福してくれて、一番好きな人と結婚できるのだから、それだけで十分だ。
いつもは下ろしている髪も今日は結い上げて、正月用に買ってもらっていた簪を挿す。化粧もきちんとすると、部屋の隅で寝ていた祇王を抱き上げて外に出た。
外にはすでに駕籠が待っていて、その傍には山崎が立っていた。
「山崎さん」
何か言わなくてはとは思うのだが、喉に何か詰まったようで何も言えない。これからも毎日食事を作りに屯所に通うのだから、明日から何が変わるというわけでもないのに、これでお別れのようでは涙が出そうになる。
今にも涙を零しそうなの顔に、山崎は困ったような、一寸怒ったような顔をする。
「新しい門出なのに、そんな顔をするんじゃない。斎藤君も待っているんだから、早く乗りなさい」
「はい」
言いたいことは、昨日全部言ったのだ。は万感の思いを込めて深く頭を下げると、駕籠の中に入った。戸を閉める寸前、何処からともなく黒猫が走ってきて、ぴょんと中に入る。祇王が此処を出て行くのを察して、一緒についていく気らしい。
当たり前のように駕籠の中に座る黒猫を見て、その図々しさには思わず笑ってしまった。
「そうそう。そうやって笑ってなさい。向こうに着いてお前が泣いていたら、斎藤君もびっくりするからな」
「はい!」
山崎の言葉に笑顔で元気よく応えると、は静かに駕籠の戸を閉めた。
斎藤の家の前で駕籠を下りると、は小さく深呼吸をした。
此処に来たのは、今日で2回目だ。初めて来た時も凄く緊張したけれど、今日も最初の時と同じくらい緊張している。
「斎藤さん」
心臓が破裂しそうなほどドキドキさせながら、は硬い声を出した。
ほどなくして、戸が開けられて斎藤が姿を現す。
「…………今日はまた………」
の姿を見て、斎藤が惚けた声を出した。
化粧をして髪も結い上げ、桜色の振袖を着たは別人のようだ。祝言も無いからてっきり普段着で来ると思い込んでいたから、斎藤は油断して普段着で待っていた。こんなことだったらもう少し良い着物を着ておけば良かったと、一寸後悔した。
そのまま絶句してしまった斎藤を、は不安そうな目で見上げる。
「………変?」
「いや、変じゃない。いつもと違うから、一寸びっくりしただけさ。
まあともかく、中に入れ」
ぎこちなく応えての肩を抱くと、斎藤は中に招き入れた。
綺麗に着飾ったと向かい合って座っていると、斎藤は妙に緊張してしまう。化粧をして髪を上げているといつもより数段大人びていて、初めて会う女みたいだ。
の化粧をしている顔を見るのは初めてではないけれど、でも今日は何だか違う。いつもだったらその頬を撫でたり唇に触れてみたいと思うが、今日のは硝子の箱に入れて床の間に飾っておきたいと思わせる。自分などが触れるのは勿体無いと思わせるくらい今日のは綺麗だと、斎藤は思う。
じっとこちらを見詰めたまま何も言わない斎藤と向かい合っていると、も何だか緊張してしまう。何か言わないといけないとは思うのだが、何を言っていいのやら見当もつかない。
初めて此処に来た時もそうだったなあ、とはふと思い出した。初めて此処に来た時ももの凄く緊張していて、何も言えなくなっていた。あの日から随分経つけれど、まだつい最近のことのように感じられる。
「―――――あの時………」
緊張したの声に、斎藤がドキッとしたように小さく肩を揺らした。
「初めて此処に来た時も、これくらい緊張してたよね」
「そうだったな」
あの日のの様子を思い出して、斎藤は微かに口許を緩めた。
あの日、は可哀想なくらい緊張していて、殆ど口が利けない状態だった。あの頃からとの結婚を意識するようになって、順序が少しおかしくなってしまったけれど、初めて彼女を抱いた。あれから別れたり縒りを戻したり色々あったけれど、この日を迎えられて本当に良かったと改めて思う。
「色々あったが―――――まあ、これからも色々あるだろうが―――――これで誰彼憚ることなく一緒にいられるな」
「そうだね」
斎藤の言葉に、は漸く緊張が解けたように嬉しそうに微笑んだ。
今までずっと、山崎を始めとする周囲の目を気にしていたけれど、これからは堂々と二人でいられるのだ。斎藤と二人きりでいても山崎が心配することも無いし、お説教をされることも無い。それが何よりも嬉しい。
御伽噺ではないのだから、これで「二人は末永く幸せに暮らしました」で終わるわけじゃないことは、勿論だって解っている。これで終わりじゃなくて、これからが始まりなのだ。楽しいことや良いことは沢山あるだろうけど、それと同じくらい嫌なことや辛いことも起こると思う。けれど、きっと斎藤と一緒だったら大丈夫だ。
は一つ深呼吸をすると、三つ指を突いて深く頭を下げた。
「
やっと終わりましたよ、このシリーズ。長かったなあ。一時は本当に終わるのかと心配していたんですが、無事に主人公さんも嫁に出せて、私も肩の荷が下りたっていうか。
しかし、最終回だっていうのに、あんまり斎藤さんの出番がないですね。何だか花嫁の父の話になってますよ。でもまあ、我ながらなかなか良い話にまとめることが出来たと思うのですが、如何なものでしょう? とりあえず自分で褒めてみる。いつも酷使しているから、たまには自分を労わってやらないとね。
実は、これを書いている途中で気付いたんですけど、ちょっと時間の流れがおかしいんですよね、この話。というのも、“ヒミツ”の時期が、山南さんが生きているところを見ると、恐らく慶応元年(元治二年)。で、次の“喧嘩”が御陵衛士の話が出始めているんで、多分慶応三年。“ヒミツ”と“喧嘩”の間はそんなに時間が経ってない描写になっているので、どうやら慶応二年が抜けてるんですよ。
しょうがないので、このシリーズの中では慶応二年は存在してないということにしておいてください。すみません。