頼れるあなた

 11月18日、夜―――――


 伊東が以前から話していた金策の話をするために、近藤の休息所に来ることになっていた。伊東は一人で来るそうで、迎えるのは近藤とその妾のお幸、そしてである。
 和やかな酒宴に見せかけてが伊東にしこたま酒を飲ませた後に、帰り道に待ち伏せている隊士が暗殺する手筈になっている。泥酔した相手に斬りかかるなんて卑怯といえば卑怯であるが、相手は北辰一刀流の免許皆伝であるし、何より確実に仕留めなければならないのだから、いざ尋常に勝負とはいかない。それにあっちだって、近藤の暗殺計画を立てているくせに、その近藤に金の無心をするのだから、お互い様だ。尤も、その暗殺計画を持ちかけたのは、斎藤らしいけれど。
 その斎藤は今、紀州藩士の三浦休太郎の下で潜伏しているそうで、今回の暗殺には関わらない。大金を持って遊女と遠くへ逃げたはずの斎藤がこの辺りをうろついているのを、他の御陵衛士に見付かってはまずいということなのだろう。こんな大仕事なのだから斎藤についていて欲しいとは思うのだが、仕方が無い。
 今回の仕事が成功するかどうかはにかかっているのだと、山崎たちにしつこいくらい言い聞かされている。監察方の仕事は何度も手伝っているであるが、こんなに責任のある仕事を任せられたのは初めてだ。
「伊東先生、お一つどうぞ」
 伊東の隣に座って、は杯が乾く間も無く酒を勧める。
 酒がすすむように濃い味付けの料理を用意させたし、喉が渇くように伊東には喋らせっぱなしだ。もともとお喋りな男であるから、こちらが黙っていても勝手に喋っているのだが、その上にたちがもっと喋るように仕向けるのだから、もう伊東の独壇場である。
 天下国家のことについて論じていて、多分良いことを言っているのだろうとは思うのだが、伊東の言うことはにはさっぱり解らない。近藤はもっともらしく頷いて時々意見を差し挟んでいるが、隣にいるお幸はと同じでよく解っていないらしく、人形のように黙って微笑んでいる。が、ただ微笑んでいるのではなく真剣に聞いているように見える微笑み方で、流石は太夫をやっていただけはあるとは妙に感心してしまった。
 とりあえずが口を挟むのは無理そうなので、杯が乾かないように注意をしながら、時々同意を求められた時だけ相槌を打つ。お幸のように上手には笑えないけれど、それでもにこにこと笑って酌をするの姿に満足しているのか、それとも思う存分持論を展開できて満足なのか、伊東は上機嫌だ。勧められるままに杯を重ね、も飲み干すたびに酒を注ぐ。
「そういえばさん」
 それまで近藤と国家論を展開していた伊東が、思い出したようにの方を見た。
さんは斎藤君と随分親しかったようですが、最近は会っていますか?」
「………え?」
 伊東の言葉にドキッとして、は一瞬顔を強張らせた。
 斎藤の脱走について探りを入れているのだろうか。それとも、斎藤が間者であることがバレたのか。否、斎藤の正体がバレているとしたら、伊東は今頃こうやって酒を飲んではいないだろう。ということは、単に斎藤の居場所を探ろうとしているだけなのか。
 はすぐに悲しそうに目を伏せると、小さく首を振る。
「いいえ………。出て行った人だし、山崎さんにも会っちゃ駄目って言われているし………。それにもう、お別れした人ですから………」
 言っていることは嘘じゃない。脱走後は斎藤に会ってないし、山崎にもこの件が終わるまで会ってはいけないと言われているのだ。
 今にも涙が零れそうに睫毛を震わせるを、伊東は探るように見ている。その視線が全身に突き刺さるようで、疑われているのだろうかとは内心はらはらするが、騙し通せる自信はあった。言っていることに嘘は無いし、斎藤と会えなかった頃の気持ちを思い出したら、本当に悲しい気持ちになる。悲しい表情も、一応嘘じゃない。
、そんな暗い顔をしたら、場が白けるだろう。ほらほら、伊藤先生にお酒をお注ぎしなさい」
 じっと見詰める伊東の注意を逸らすように、近藤がを窘める。続けて伊東に、
「自分から振ったくせに、まだ斎藤君のことが忘れられないようでしてな。女心というのはよく解らんものですなあ。なあ、お幸」
 豪快に笑いながら同意を求められ、お幸は小さく笑って頷いた。それを見て、伊東も同意するように笑う。
 かなり飲ませたはずだが、伊東は相変わらず滑舌も良いし意識もはっきりしている。優男風に見えるが、どうやら酒は強いらしい。これでは近藤の方が先に潰れそうだ。
 伊東の視線が離れた隙に、は袂に忍ばせておいた粉薬を徳利の中に入れた。山崎が持たせてくれた、意識が酩酊する薬だ。どれくらい効くのか判らないが、山崎が効くと言うからそれなりに効くのだろう。
 中で薬がよく混ざるようにさり気なく揺らしながら、は伊東に話しかけた。
「斎藤さんは、今どうしてるんですか?」
 斎藤の失踪は、新選組には伝わっていないことになっている。
 一瞬、伊東は言葉に詰まったような妙な顔をしたが、すぐに作り笑いを浮べて、
「ええ、元気にしていますよ」
「そうですか」
 流石に公金を横領して女と逃げたとは言えないらしい。脱走だけならともかく、かなりの額の公金を横領されたなんて、確かに恥ずかしくて言えない。
 本当のことを知っているは、見え見えの嘘に可笑しくて笑いが出そうになったが、内心とは裏腹に、ほっとしたような微笑を浮べた。こういう曖昧な笑顔を作っていれば、とりあえず怪しまれない。
「何でしたら、山崎さんに内緒で会いにいらしたらどうです? 斎藤君もきっと喜びますよ。あ、近藤先生の前でこんなことを言ったらまずいですねぇ」
 出来もしないことを楽しげに言うと、伊東はからからと笑った。顔色は相変わらず変わっていないが、こんな軽口を叩くところを見ると、少しは酔っているようである。
 この調子では薬を使う必要は無かったかとは思ったが、入れてしまったものは仕方が無い。色も味も変わらないと山崎は言っていたし、多分飲ませても大丈夫だろう。酔って味覚も鈍くなっているだろうし。
「斎藤さんが会ってくれると良いけど………。それに、山崎さんが知ったらまた怒られるから………。
 あ、お酒、もっと飲んでください」
「いやいや。もう酔ってしまったようだ。これ以上飲んだら、一人で帰れなくなってしまいますよ」
 更に酒を勧めようとするを、伊東がやんわりと掌で制する。やはり自分でも酔っ払っていることは自覚しているらしい。自分の限界を知っているというのは感心なことであるが、こういう時は困る。
 もう少しふらふらになってもらわないと、一発で仕留めるのは難しいかもしれない。折角酒にも薬を仕込んだのだし、薬効を試してみたいという気持ちもある。は伊東の手を除けるようにして、杯になみなみと酒を注いだ。
「大丈夫ですよ。私が送って差し上げますから」
「ああ、そうだな。それが良い。駕籠が捕まるところまでを送らせましょう。話し相手にくらいはなるでしょうしな」
 豪快に笑うと、近藤も一緒になって酒を勧める。二人がかりで勧められると、伊東ももともと嫌いな方ではないらしく、言われるままに杯を重ねていく。
 薬が底に沈殿しないようにさり気なく徳利を動かしながら、は杯を傾ける伊東の横顔を観察していた。




 
 いつの間にやら金策の話も有耶無耶になってしまい、酒宴はお開きになってしまった。山崎の薬が効いたのか、単に酔いが回っただけなのか、休息所を辞する頃には伊東の足許は少々おぼつかなくなっている。
 良い感じに酔いが回っているのか、金の話は出来なかったのに伊東は非常に上機嫌だ。いつもより口が軽いし、歩きながら鼻歌なんかも歌ったりしている。どこから見ても隙だらけのだらしない様子で、これならでも簡単に暗殺できそうだ。
 どうでも良い話をしながら木津屋橋通を東に進み、油小路に向かう。山崎の話では、この辺りの板塀の陰に監察方の大石鍬次郎たちが待ち伏せしているらしい。の仕事は此処で伊東を足止めして、彼の気を逸らすことだ。
「伊東さん」
 伊東と並んで歩いていたが、ふと足を止めた。それにつられるように、伊東も足を止める。
 大石たちはどの辺りに潜んでいるのだろうか。伊東に気付かれないように物陰に視線をやりながら、は硬い表情で口を開いた。
「このまま私を、月真院に連れて行ってくれませんか?」
「え………?」
 伊東の気を引くような気の利いた言葉が思いつかなくて、不自然なくらい突拍子の無いことを言ってしまったが、彼の気を引くことには成功したらしい。一瞬驚いたように目を瞠ったものの、すぐに面白そうにを見下ろす。
 大方、もういない斎藤の後を追っている馬鹿な女だと思っているのだろう。伊東の口の端が冷笑するように吊り上がっている。その笑い方がなんとも嫌な感じで、は顔を顰めたくなる。斎藤もああいう笑い方をすることがあるけれど、彼がそういう風に笑うのは全然嫌じゃないのに、伊東だと虫唾が走るくらい嫌だと言うのは、自分でも不思議だ。
 が、はそんなことはおくびにも出さずに、相変わらず緊張したような表情を作って、
「山崎さんが別れろって言ったから斎藤さんとの結婚をお断りしたけど、でもやっぱり私………。それに伊東さんたちのお話を聞いていたら、新選組にいるより御陵衛士のお世話になった方が良いかなって」
 自分でも感心するくらい、嘘がすらすらと出てくる。案外こういう芝居の才能があるのかもしれない。
 伊東はの言葉を全く疑っていないようで、逆に感心したような目で見ている。後半の言葉が効いたのだろう。二人の話を聞いて自分で判断したということで、少しは知恵が回る女だと思っているのかもしれない。
 だが、伊東に感心されたところで、は少しも嬉しくない。それよりもいつになったら刺客が飛び出してくるのかと、そればかりが気になっていた。早いところ実行に移してくれないと、間がもたなくなってしまう。
 約束の場所は此処で合ってるはずなのに、とは少し不安になる。時間も間違ってないはずだし、まだ隙を窺っているのだろうか。もうこんなに隙だらけなのに。
 の内心の不安など全く気付いていない様子で、伊東は彼女の方に一歩踏み出す。思わず一歩退きそうになっただが、そこはぐっと堪える。伊東に嫌悪感を持っていることがバレたら、今までのことが全部水の泡だ。今のは、御陵衛士に入りたくて、伊東に好感を持っていることになっているだから。
「それはそれは………。でもそれなら、私たちの敵ではないという証拠を見せてもらいたいですねぇ」
 そう言いながら、伊東はの頬をすぅっと撫でた。その感触に、はおぞましくて総毛立つ思いがしたが、必死に我慢する。大石たちが手を下すまでの我慢なのだ。此処でが逃げたりしたら、何もかもが無駄になってしまう。
「………証拠?」
 演技ではない怯えたような震える目で、は伊東を見上げた。この様子では、何を要求されるかは大体察しが付く。察しが付くだけに、早く大石たちが出てこないかと、そればかり考えてしまう。
 伊東が更に一歩、に近付いた。酒臭い体臭が鼻をついて、は一瞬思わず息を止めてしまう。
「あなたは土方君の腹心の娘ですから、こちらとしては間諜ではないかと疑ってしまう。私が疑わなくても、周りが疑うでしょう。だから、証拠を見せて欲しいんですよ」
「じゃあ……どうすれば良いんですか?」
 この助平オヤジが………と内心舌打ちをしながら、それでも表面上は不安そうな顔は崩さない。
「“どうすれば”って―――――」
 その言葉と同時に、伊東はの身体を板塀に押し付けた。が小さく悲鳴を上げたが、そんなものは聞こえないように、伊東の手に力が込められる。
「あなたが私のものになれば良いんですよ。私の妾になれば、周りも納得するでしょう」
 新選組にいた時から、には一寸目を付けていた。見た目も可愛らしいし、知恵の廻りは少し遅いようだけどその分素直な気性であるようだし、遊びで囲うには格好の女だ。何でも言うことを聞きそうだから自分好みに染める楽しみもあるし、飽きたら他の誰かに払い下げれば良い。
「で……でも私には斎藤さんがっ………!」
 本格的に身の危険を感じて、は本気で悲鳴のような声を上げた。ここまで自分の方に気を引きつけているのに、どうして刺客が出て来ないんだ。このままではの貞操が危ない。
 顔を真っ青にして完全に落ち着きをなくしているに、伊東は耳元で低い声で囁く。
「斎藤君はとっくにあなたのことなど忘れて、他の女に夢中ですよ。だからあなたも―――――」
 そう言いながらの顎を持ち上げ、伊東の顔が近付いてくる。これは本格的にまずい。
 もう大石たちを待ってはいられない。は伊東から逃れるように身を捩りながら、後ろに手を回して帯の結び目に指を差し入れた。そして次の瞬間―――――
「―――――――――っっっ!!!」
 の手に握られた苦無が、伊東の首を貫いたのだ。頸動脈を貫通させたらしく、噴き出すように溢れる鮮血がの手を濡らす。
 念のためにと帯の中に仕込んでおいた苦無が役に立つとは思わなかった。とっさに刺してしまったが、勿論が人を殺すのは初めてで、苦無を握った手はカタカタと震えている。
 が、首を刺されたにも拘らず、伊東は憤怒の形相で抜刀した。
「………っ?!」
 苦無から手を離し、は跳ねるように伊東から逃れる。同時に、伊東の背後から大石の槍が肩を貫いた。
「大石さんっ!!」
 やっと来た大石の顔を見て、はほっとしたように嬉しそうな声を上げた。本当に、このまま誰も来てくれなかったらどうしようかと思った。
 が、ほっとしたのも束の間、これだけの怪我を負っているにも拘らず、伊東は振り向きざまに大石に斬りかかろうとしたのだ。刹那、ともに潜んでいた横倉甚五郎が伊東に躍りかかる。
 これで絶命するかと思いきや、それでも伊東はまだ倒れない。鬼のような形相でそれでもなお斬りかかろうとしている。
 首の傷だけでも致命傷だというのに、まだ剣を振るえるなんて信じられない。せめて一太刀という執念だけで動いているのだろうが、その執念が恐ろしい。もはや人ではないものを見ているようで、は恐怖で一歩も動けなくなる。
君、逃げろっ!」
 呆然とした表情で立ち尽くしているに、大石が怒鳴った。
 武器を持たずに突っ立っているだけのは、彼らにとっては邪魔者でしかない。それは解っているのだが、足が竦んで動けないのだ。人が斬り合うのを間近で見るのは初めてではないけれど、伊東の気迫に圧されているのかもしれない。
君っっ!!」
 横倉が悲鳴のような声を上げた。
 伊東の剣がに斬りかかる。逃げなくてはとは思うのだが、足が石になってしまったかのようにびくとも動かなくて、は観念したように身を硬くしてぎゅっと目をつぶった。
 が、痛みは襲ってこないまま、ぼたぼたと地面に血が落ちる音だけが聞こえる。不審に思ってそっと目を開けると、そこにあったのは腹を日本刀で貫かれている伊東の姿。そして、その刀を持って背後に立っているのは―――――
「さ……斎藤さんっ?!」
 三浦のところで潜伏しているはずの斎藤が、目の前にいたのだ。
 斎藤が身体から刀を抜くと、伊東は漸く木が倒れるように地面にうつ伏せに倒れた。刀は握り締めたまま、ピクリとも動かない。今度こそ、本当に死んだらしい。
 目玉が零れ落ちそうなほど大きく目を瞠ったまま、はその場にへたり込んでしまった。今まで張り詰めていた緊張の糸が切れて、腰が抜けてしまったみたいだ。声も出せなくて、唖然とした顔のまま伊東の死体を見詰めている。
 斎藤は刀に付いた血を払うと鞘に収めると、の前に膝をついた。そしてどこにも怪我が無いか確かめると、安心したようにの身体が折れてしまいそうなほど強く抱き締めた。
「よかった………。おかしな胸騒ぎがするから駆けつけてみたら………まさかお前がこんな仕事をしていたなんて………」
「痛いよ、斎藤さん。もう大丈夫だから。それに人が見てるって………」
 痛いけれど、それだけ斎藤が心配してくれていたのだと思うと、にはその痛さも心地良い。けれど、斎藤の台詞が山崎のものとそっくりで、何だか心配性の父親が二人になったような気分になってしまう。それはそれで嫌ではないのだが、でも何だか可笑しくて、小さく笑ってしまった。
「どうした?」
 を抱いていた腕の力を緩め、斎藤は怪訝そうに顔を覗き込む。自覚が全く無い斎藤の様子がまた可笑しくて、は更に笑ってしまった。
「斎藤さんの言うこと、山崎さんと同じだよ」
「そりゃそうさ。これからは俺が山崎さんの代わりになるんだからな。お前が危ない目に遭っている時はこうやって駆けつけるし―――――」
「あの〜、お熱いところを非常に心苦しいのですが………」
 すっかり二人の世界に入り込んでしまっている斎藤とに、大石が遠慮がちに声を掛けた。
 折角良い感じに盛り上がっていたところに水を差されて、斎藤は急に不機嫌な顔をする。
「何だ?」
「あ、いや、まだこの後の段取りもありますし、それにそろそろ―――――」
「いつまでにくっついてるつもりだ、斎藤?」
 大石の言葉の語尾に、山崎の低い声が重なった。
「わあっ?!」
「山崎さん?!」
 斎藤とが同時に頓狂な声を上げる。いつの間に山崎が此処に来たのか、全く気付かなかった。いつもながら、気配を全く感じさせない男である。
 不快感を露にした表情で、山崎は強引に二人を引き離す。そしてを自分の方に引き寄せて、
「まだ後始末があるんだから、さっさと三浦さんのところに帰れ。誰かに見られたらどうするんだ」
「じゃあ、の仕事も終わったことですし、一緒に帰らせてもらいますよ」
 斎藤も負けじとの腕を引いて、自分の方に引き寄せようとする。が、山崎がしっかりとの身体を抱いていて、びくともしない。
「何言ってるんだ。まだの荷物は全部こっちにあるんだぞ。がそっちに行くのは、荷物を送ってからだ」
「それなら明日一番に運び込めば良いでしょう。一晩くらい荷物無しでも何とでもなります」
「一晩でもに不自由させるわけにはいかん。二、三日のうちにはそっちに行かせるから安心しろ」
「どうするか、君に訊いたらどうですか? 早いところ始末をつけないと、朝になってしまいますよ」
 言い争っている二人に、横倉が冷静な声で提案した。彼にとってはが何処へ帰るかということよりも、目の前の伊東の死体と残りの御陵衛士の始末の方が大事なのである。
 横倉の言葉に、斎藤も山崎も、今の状況を思い出したように黙り込んでしまった。考えてみれば、死体の前でこんなことを言い争うなど、異様な光景でもある。
 答えを待つように、二人がの顔を見る。両方が自分にとって良い答えを期待している目をしているものだから、は一寸困ったように俯いてしまった。
 斎藤とは今すぐにでも一緒に暮らしたいけれど、こんな有耶無耶のままに一緒になるというのは、あまり良くないような気もする。祝言も挙げないし、嫁入り道具を揃えるということもしないで、ただでさえなし崩しに一緒に暮らすような印象を受けるのだ。せめて山崎と“父娘の別れの挨拶”とやらをやってから行きたいような気がする。
 は顔を上げると、困ったような半笑いを斎藤に向けた。
「ごめんね、斎藤さん。今日は屯所に帰るよ」
「そうか………」
 斎藤は残念そうな顔をするが、それとは対照的に、山崎はとても嬉しそうな様子である。
「じゃ、帰ろうか。俺はこれの後始末があるから、終わるまで待ってなさい。すぐ終わるからな。
 斎藤君、何ぼーっとしてるんだ。君も早く帰れ」
 に優しく言い聞かせると、それとは別人のような冷ややかな声で山崎は斎藤に言い放つ。本当に、心の底から鬱陶しげな声と顔だ。これが娘婿に対する態度かと斎藤も言いたくなるが、今まで大事に育てた娘を掻っ攫っていく男なのだから、それも仕方ないのかもしれないとも思い直す。
 しかし―――――山崎に手を引かれて立ち上がるを見ながら、斎藤は考える。あんな頼りないくらいに子供っぽいところのあるに、あの心配性の山崎がこんな危険な仕事をさせているとは思わなかった。伊東の惨殺体を見ても取り乱した様子も無かったし、どうやらこういう仕事は初めてではないようだ。
 が山崎の仕事を手伝っているのは知っていたが、せいぜい張り込みか連絡係くらいだろうと思っていたので、意外だった。もしかしたらは、斎藤が思っているような娘ではないのかもしれない。
が恐ろしくなったか?」
 斎藤の思いを見透かしたように、山崎が皮肉っぽく口の端を歪めて言った。
「この子は俺が新選組に入隊してからずっと、こんな仕事をやってきたんだ。お前の思っているような、可愛いだけの大人しい娘じゃない」
「斎藤さん」
 斎藤を見詰めるの瞳が、心変わりを恐れているかのように小さく震えている。
 新選組の男とはいえ、所詮は普通の男だ。一緒に仕事をするならのような娘が良いだろうが、妻にしたり付き合ったりする女なら、仕事を忘れさせてくれるような守ってやりたくなる女が良いに決まっている。斎藤だってそう思っているはずだ。だからは、自分がこんな仕事をしていることを、斎藤には隠し続けてきたのだ。
 言葉を待つようにじっと見詰めているを見返すと、斎藤は山崎に向かってはっきりと言い切った。
「いえ。こんなことも出来るのだと知ったら、余計に気に入りましたよ。並の女では、俺と一緒にはいられないでしょうしね」
 これは斎藤の本音だ。これまで知っていたも可愛いとは思っていたけれど、実際一緒に所帯を持つとなると、大丈夫なのだろうかと不安に思っていたのもまた事実だ。これから京の町はますます物騒になるだろうし、新選組の幹部の妻ということで狙われることもあるかもしれない。その時に守ってやれるかどうか心配だったのだが、この様子だと少しは安心かもしれない。
 その言葉に、の顔がぱっと明るくなった。嫌われるのではないかと思っていただけに、その言葉は今まで斎藤に言われたどの言葉よりも嬉しい。
 斎藤の言葉に、山崎は意外そうに鼻を鳴らす。が、今度は一寸嬉しそうに口の端を吊り上げて、
「なら、良い」
 斎藤の言葉で山崎が嬉しそうな顔を見せたのは、初めてのことだ。その反応に、斎藤は一瞬きょとんとした顔をしてしまった。
 多分、これが山崎の最後の心配事だったのだろう。けれどそれも今解消されて、漸く安心できたらしい。山崎はこれまで斎藤に向けたことが無い穏やかな表情で、
「明日、荷物を君の家に運ぶから。のことをよろしく頼む」
 山崎に深く頭を下げられたのは、これで二度目だ。これでやっと、本当に山崎に許されたのだと、斎藤は思った。
 多分これから先、新選組を取り巻く状況はどんどん変わっていくだろう。いつまでと一緒にいられるか、正直斎藤にもよく分からない。けれど、絶対にを泣かせるような真似だけはしないと、改めて決心する。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 それ以上何も言えなくて、斎藤は山崎以上に深く頭を下げた。
<あとがき>
 よし、油小路も無事終了! 伊東が何だかエロ爺になってますが、気にしないで下さい。どんなお堅い人だって、酔えばこれくらいにはなるんだよ。
 お題が“頼れるあなた”ということで、主人公さん危機一髪のところを助けに来てくれる斎藤です。ドリームの中ではサラッと流してしまいましたが、実は私の中でのテーマはそれだったのよ。いつの間にやら主人公さんの仕事っぷりがメインになってますけど。ま、それでも良いんですけどね。“(意外と)頼れるあなた”ってことで。
 さあ、次回がいよいよ最終回です。主人公さんのお嫁入りですが、多分また本題から逸れて全然違う話になるんだろうなあ。でもイイ話風にはまとめたいと思ってますんで。あと一話だけ、大変心苦しいのですが、お付き合いお願いいたします。これさえ終われば、他の話も書きますんで。ホント、すみません。
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