大丈夫
近頃斎藤は、“志摩屋”という遊郭に入り浸っている。どうやらそこの遊女に夢中になっているらしく、殆ど毎日午前様だ。遊女を相手にして大失恋の痛みを癒しているのだろうというのが、御陵衛士の仲間たちの見解だ。斎藤がに手酷く振られたことは、みんな知っている。だから斎藤の女遊びも、多少は大目に見ていた。だが、こう毎日午前様では、そうも言ってられない。
「斎藤君のは、“女遊び”というより“女狂い”ですねぇ」
嘲笑するように小さく息を漏らして、伊東が独り言のように言う。
今夜も斎藤は“志摩屋”に行ったきりまだ帰ってこない。この調子では、今夜は泊まりだろう。よくもまあ毎日遊女を相手にして身体がもつものだと感心してしまう。
が、対する篠原は不快そうに口許を歪ませて、
「笑い事ではありませんよ。規律も乱れるし、あちこちから不満の声も上がってる。それに―――――」
と、急に声を潜めた。伝えるか伝えまいか一瞬迷うような表情を見せたが、意を決したように口を開く。
「斎藤君が、公金を横領しているという者がいます。しかも、それがかなりの額になっているとか」
「ほう………」
これには伊東も、驚いたように軽く目を見開いた。そして、考え込むように眉根を寄せる。
堅い男だと思っていたのだが、公金横領というのはまずい。女遊びは大目に見られても、これは立派な犯罪行為である。これが事実なら、しかるべき処罰が必要だ。
しかしまあ、女のために金を横領するなんてよくある話だが、まさか斎藤のような真面目な男がそんなことをするとは。否、真面目な男だからこそ、女に狂うと一直線になるのかもしれない。
「斎藤君が戻ったら詳しい話を聞かなくてはいけませんねぇ」
そう言うと、伊藤は手にしていた扇子をパチンと鳴らした。
食事をするを見ながら酒を飲むというのは、本当の夫婦になったようで良いものだと、斎藤は思う。ただ残念なのは、が遊女の装束で、食べているのが料亭からの仕出し料理だというところだ。まあ、遊女というのは、本来はものを食べてはいけないので、ものを食う遊女と思って見れば、それはそれで面白い。
ここのところ毎日、斎藤は“志摩屋”に通っている。大抵午前様で帰るのだが、泊まっていく日も増えた。そろそろ御陵衛士の間でも良くない評判が立ってきたことだし、そろそろ引き上げるには良い時期だろう。近藤からもそろそろ引き上げろと、を通して再三言われている。
「、今日で引き上げるぞ」
突然の斎藤の提案に、は箸を咥えたままきょとんとした顔をした。が、すぐに不満そうに顔を顰めて、
「え〜〜〜〜〜〜!」
「“え〜”じゃない。遊びに来てるんじゃないんだぞ」
「だってぇ………」
一寸恐い顔をして窘める斎藤に、は面白くなさそうに口を尖らせる。
この遊女の装束にもやっと慣れてきたし、毎日食べさせてもらっている仕出し料理も楽しみだったのだ。それより何より、誰にも邪魔されずに斎藤と一晩一緒にいられるのが嬉しかった。この仕事が終わったら、また暫く斎藤と離れ離れになってしまう。
山崎の話では、斎藤はこのままでは新選組に戻れないから、暫く紀州藩士の三浦という人のところに身を潜めて、ほとぼりが冷めた頃に隊に戻るのだという。ということは、それまでは斎藤に会えないということで、いくら結婚の約束はしていても、顔も見られないのは辛い。ほとぼりが冷めたら、というけれど、何を基準に“ほとぼりが冷めた”と言えるのかも判らないのだ。
「また斎藤さんに会えなくなっちゃうじゃない。次はいつ会えるの?」
可愛いことを言ってくれるに、斎藤は思わず頬を染めてしまった。こんな可愛いことを照れも無く言うから、との会話は油断ならないのだ。
子犬のような目でじっと見詰められると、そのままを押し倒してしまいたい衝動に駆られるが、今はそんなことをしている場合ではない。抱き締めたい衝動をぐっと堪えて、斎藤は優しい声で言う。
「御陵衛士の件が片付いたら、一緒に暮らせるさ。そんなに先のことじゃない」
斎藤が脱走したら、すぐに伊東を暗殺して他の衛士たちも始末する手筈は付いている。全てが終わったらすぐにでもと一緒に暮らすことも、山崎との間で話をつけていた。二人が離れ離れになるのも、そんな長いことではない。
その言葉に、は安心したように微笑むと小さく頷いて、
「そうだね。
でも、急に斎藤さんがいなくなって、伊東たち怪しまないかなあ」
何の前触れも無くいきなり斎藤が消えたら、伊東たちに妙に思われるかもしれない。無事に脱走するに越したことは無いのだが、不審に思われるような脱走の仕方では意味が無いのだ。もし、斎藤と新選組がまだ繋がっていることを勘付かれたら、全ての計画が水の泡になってしまう。
「それは大丈夫だろ。そのための下準備もしていることだし」
ニヤリと笑いながらそう言うと、斎藤は懐から膨らんだ財布を出した。そして、紐を解いて中身を畳にぶちまける。
中からざらざらと出てきた小判に、は驚いて大きく目を見開いた。こんな大金、今まで見たことも無い。
「どうしたの、こんなお金?!」
「ああ、駄賃代わりに一寸抜いてきた」
何でもないことのように、斎藤はさらりと言う。
「これだけあれば、“斎藤は女狂いの末に公金を横領して逃げた”と思われるだろ。俺だって、意味も無く毎日此処へ通ってたわけじゃない」
「へーえ………」
畳に散らばった小判を見詰めたまま、は間の抜けた声を上げた。
斎藤が毎日此処に来てたのは、ただに会いに来てくれているのだと思っていたが、ちゃんと後々のことを考えて来ていたのだ。日付が変わるまで此処にいたり、屯所で無断で泊まっていっていたのも、全部作戦だったらしい。二人きりになれると浮かれていたのはだけで、斎藤はちゃんと仕事のことを考えて行動していたのだ。
こういうところがいつまでも子ども扱いされる理由なんだろうと、は自分でも思う。一人前に仕事をしていると自分では思っていたけれど、やっぱりどこかで遊びの延長のように思っていたのかもしれない。
小判を拾いながら、斎藤は話を続ける。
「この金を持って“斎藤一”は“若紫”と一緒に遠くへ逃げて、そのまま行方不明になるんだ。そして新選組には“山口次郎”という新しい隊士が入隊して、“”はそいつと結婚する」
「へ…………?」
斎藤の言っている意味が解らなくて、は怪訝な顔をする。
斎藤が若紫と遠くに逃げるという筋書きはともかくとして、が“山口次郎”なる男と結婚するというのが解らない。若紫とは同じ人間だし、は斎藤以外の男とは結婚しない。第一、斎藤はと結婚すると言い切ったではないか。
不安そうな顔をするに斎藤は優しく微笑んで、
「“斎藤一”のままでは隊には戻れないからな。名前を変えるんだ」
新選組は御陵衛士との間の取り決めで、復隊を禁じている。第一、御陵衛士に参加したというのは、局中法度の“局を脱するを禁ず”の条項に違反しているため、このまま普通に戻ってきたら切腹だ。だから“斎藤一”にはこのまま消えてもらって、“山口次郎”という人間として改めて新選組に入隊するのだ。名前を変えたところで同じ人間なのだが、まあ形式上の問題である。
「じゃあ私、年が明けたら“斎藤”じゃなくて、“山口”になるんだ」
ずっと“斎藤”の苗字になると思っていたから、“山口”には何となく違和感を覚える。“山口”と名前を言う練習をしたら、すぐに慣れるだろうか。
でも“山口”という名前は、悪くない。否、斎藤と同じ苗字になるのなら、どんな珍名や奇名でも、きっと良い名前だと思える。結婚するって、そう思えるってことだ。
“山口”と口の中で呟いて、は小さく笑う。嬉しいような恥ずかしいような不思議な気分になって、胸の中がくすぐったい。早くも“新妻”な気分である。
頬を染めてはにかんだ笑みを浮べるが可愛くて、斎藤はもう我慢できなくて強い力で抱き寄せた。そして囁くような声で、
「いや、この仕事が終わり次第、一緒に暮らすんだ。山崎さんにもそう言ってある」
「………え?」
嬉しそうに笑っていたの顔が、呆然とした無表情になる。
斎藤と一緒に暮らせるのは、勿論嬉しい。だけど、この仕事が終わり次第すぐなんて、嫁入り道具も祝言の準備も間に合わないじゃないか。道具も衣装も無い嫁入りなんて、聞いたことが無い。
「祝言はしないの? 衣装も道具も全然用意してないんだよ? そんなの山崎さん許して―――――」
「山崎さんも賛成してくれた。祝言なんかいつでも挙げられるから、それよりも一日も早く一緒に暮らした方が良いって」
不安そうな顔をするの言葉を制して、斎藤は安心させるように優しく身体を撫でる。
「なんで………?」
何よりも形式を大事にする山崎が、そんなのを無視して斎藤と一緒に暮らせと言うなんて、には信じられない。子供の頃からずっと、「お前の花嫁姿を早く見たいなあ」なんて言っていたのに、それも見なくて良いなんて信じられない。
よく分からないけれど、斎藤は何かを急いでいるような気がする。でなければ、“一日も早く”なんて言わない。何をそんなに急いでいるのだろう。
最近、世の中が大きく変わっていっているというのは、も何となく気付いていた。“志摩屋”に来る薩摩や長州の藩士たちの話を漏れ聞いたりしていると、どうやらこの国は新しい国に生まれ変わるらしい。
幕府が無くなるとも言っているようだったし、そうなると新選組も無くなってしまうのだろうか。だから斎藤も山崎も先を急いでいるのだろうか。
「“たいせいほうかん”っていうののせいなの? 将軍様がいなくなるから急いで一緒に暮らすの? 急がないと、みんなばらばらになっちゃうの?」
新選組が無くなるなんて、考えたこともなかった。いつまでもみんな一緒にいられると思っていた。確かに新選組を取り巻く状況は日に日に悪化していると肌で感じていたけれど、何かに追い立てられるように斎藤のところに行かなければならないほど切羽詰っているとは思ってなかった。
これからどうなるのだろう。斎藤も山崎もの目の前からいなくなってしまったら、どうすれば良いのだろう。
急に不安になってきて、は泣きそうな顔になる。どんな世の中になっても生きていける自信はあるけれど、斎藤や山崎がいなくなったら生きていけない。
今にも涙が零れ落ちそうなほど目を潤ませているに、斎藤は優しく身体を撫でてやるだけで何も言えない。そんなことはないと言ってやれば良いのだろうが、そんな口先だけの言葉ではも信用しないだろう。安心させる言葉を言ってやりたいけれど、斎藤自身も先のことが全く見えないのだから、それがもっと見えないところにいるを安心させるのは難しい。
難しいけれど、を安心させてやることが、これからの斎藤の仕事だと思う。山崎がこれまでそうしてきたように、今度は斎藤がを守ってやらなければならないのだ。
「大丈夫だ。これからも俺たちは、ずっと一緒だ」
を抱く腕に力を込めて、斎藤は力強く言い聞かせる。その言葉は自分にも言い聞かせるもので、この言葉がずっと続けば良いと思う。
大政奉還されたとはいえ、朝廷にそれを受け入れるだけの準備はできていないと聞いている。幕府は消滅したとはいうが、領地も市中の治安も未だ幕府に委ねられたままだ。恐らく、形式上は朝廷が政権を握るということにして、これまで通り徳川の世が続くのではないかと思う。否、そうであってくれなければ困る。
斎藤の言葉に応えるように、は無言で彼の着物をきゅっと掴んだ。まだ不安は残るけれど、斎藤の言葉を信じたいとは思う。先のことを心配するよりも、今の斎藤の言葉を信じた方が良いに決まってる。
それが現実から目を逸らしているだけだということは、自分でも解っている。いつかの不安が的中する日が来るかもしれない。否、そう遠くない将来、その日は来るだろう。そんな予感がする。けれど、そんな日が来るとしても、今は斎藤の「大丈夫」という言葉を信じたい。
「大丈夫だよね。私たち、ずっと一緒だよね」
念を押すように、は小さく呟いた。
来年の今頃にはちゃんと祝言を挙げて、二人の間に赤ちゃんが生まれていれば良いなと思う。自分が母親になるなんて、子供が子供を生むみたいでピンとこないけれど、斎藤も付いていてくれるのだから、多分何とかなるだろう。そして、今日のこの不安が笑い話になれば良いと思う。
「家族になるんだから、一緒に決まってる」
「家族………」
12歳の時に親を失って以来、にとって“家族”という言葉は一番遠いもののように感じられていた。これまで育ててくれた山崎だって、は“家族”だと思っているけれど、知らない人から見れば“他人”だ。だけど斎藤とは、誰から見ても“家族”になれる。親の記憶を失っているにとっては、初めて手に入れる“家族”だ。
自分の家族ができるというのは、よく分からないけれど無条件に嬉しい。自分の家族が欲しいというのはきっと、動物の本能なのだろう。
この人が自分の家族になるのだと思うと、嬉しくて嬉しくて笑いがこみ上げてくる。さっきまでの不安が掻き消えてしまうくらい、嬉しい。
そう。家族になるのだから、の親のように誰かに殺されたりしない限り、斎藤と離れ離れになることはない。それに斎藤は誰よりも強いから、誰にも殺されたりなんかしない。だから大丈夫だ。
「うん!」
斎藤にきゅっと抱きつくと、は大きく頷いた。
11月10日、御陵衛士・斎藤一は“志摩屋”の遊女“若紫”を身請けした後、失踪。“油小路の変”の8日前のことである。
本当はここで油小路の変を出そうかと思ってたんですが、やっぱり単品が良いかなと思い直した結果、一話増えてしまいました。増えたのは良いけど(良くないけど)、何かまた暗くなりましたね。私、暗い話を書くのが好きなのかなあ………。
次こそは油小路の変です。でもって、一気に結婚に持ち込んで大団円といきたいものですな。暗い話を書いてはいても、「そしてお姫様は王子様と幸せに暮らしました」というラストが好きな女なんで。