泣かないで

 三寧坂の食事処で、斎藤はそばを食べていた。最近、御陵衛士が東山に屯所を移したので、この辺りで食事をすることが多くなっている。
 斎藤はつるむのが嫌いということになっているので、大体一人で出かけることが多いし、一人で出かけても誰も怪しんでいない。今のところ、伊東たちは斎藤のことを全く疑っていないようだ。
「相席してよろしいでしょうか?」
 汁を啜っている斎藤に、行商の男が声をかけてきた。
 丼を置き、斎藤は頬かむりをした男の顔をちらりと一瞥する。
「『今日は清水さんは大変な人のようだ』」
「『それでも世間は不景気のようで』」
 取り決められた合言葉を交わすと、行商の男は斎藤と対面に座って頬かむりを取った。
「変わり無いようだな」
 お品書きを見る振りをしながら行商の男―――――山崎が言った。
 山崎の変装姿は初めて見たが、なかなか堂に入っている。化粧で10歳は老けて見せているし、歩き方も姿勢も発声も、いつもの山崎とは全く違う。対面で座っているから斎藤も相手が山崎だと気付いたが、一寸離れていたら誰だか判らなかっただろう。これが彼の仕事だとはいえ、大したものである。
 いつも思っているのだが、山崎は本当にただの町医者の息子なのだろうかと、斎藤は改めて疑いの目を向けてしまう。ただの町医者の息子が、どこでこんな変装術を勉強したのだろう。というか、もし山崎が新選組に入らなかったら、親の跡を継いで“変装も出来る神出鬼没な町医者”になっていたのだろうか。そんな医者は一寸嫌だ。
「まあ……お陰様で………」
 以前から山崎と二人きりになるのは苦手だったのだが、とのことがあんな風になってからは、斎藤はますます山崎のことが苦手になっていた。顔をまともに見られないし、何を言われるというわけでもないのにこうやって対面で座っていると、息が詰まりそうになる。
 新選組との連絡は、山崎以外の者にしてくれと頼んでおいたはずなのに、わざわざ彼が出張ってくるとはどういうことなのか。山崎だって、本来なら斎藤には会いたくないはずだ。
 山崎は店員ににしんそばを注文すると、表情を固くする斎藤をじっと見た。無言で凝視されると、斎藤はますます顔を強張らせる。
 息詰まる沈黙がどれくらい続いたか、山崎が漸く口を開いた。
「今日は、仕事の話ではないんだが―――――いや、少しは仕事の話になるかな。まあ、そう固くならずに聞いて欲しい」
 固くなるなと言っているくせに、言っている山崎の方が声も表情も硬い。いつもと違って口調もひどく歯切れが悪いし、何を言い出されるのかと斎藤も緊張する。
「これからの連絡のことなんだが、こうやって外で会うのではなく、個室で会うようにしようかと思っている。そっちの方が人目を気にしなくても良い」
 何を言い出すのかと身構えていたら、そんなどうでも良いような事だったので、斎藤はあからさまに脱力してしまった。そんなことを言うために、わざわざ山崎が会いに来たのか。否、それだったら、他の者でも事足りるはずだ。
 本題を促すように、斎藤は山崎を見た。それに対し、山崎も緊張を解すように小さく息を吐くと、更に表情を固くして口を開く。
「祇園に“志摩屋”という遊郭がある。そこの女将と局長が懇意にしていてな、密偵を置かせてもらうことにしたんだ。これからは、それに連絡事項を伝えてもらいたい」
「ああ………」
 遊郭なら用意された密偵と二人きりになることが出来るだろうし、独り者の斎藤が足繁く通っても怪しまれることは無い。座敷に入れば人目を気にすることも無いし、情報を流すには都合の良いことだらけではある。
「送り込むのは来週辺りになるかと思うが、“若紫”という源氏名の遊女を買ってもらいたい」
「…………女ですか?」
 てっきり太鼓持ちに扮した監察方の人間が接触してくると思っていたので、斎藤は驚いたように片眉を上げた。
 場所が場所なだけに、太鼓持ちと二人きりで座敷に籠るよりは、遊女と籠っていた方が自然に決まっている。が、事の重大さから考え合わせると、女を使うにしても余程信用できる女で無いと困る。ヘタを打ったら、斎藤の命が無いのだ。
 まさか、“志摩屋”とやらの遊女は使わないだろう。となると、誰かの妾を使うのだろうか。否、新選組には密偵として使える女が一人いた。最近は仕事が無くてブラブラしていたのですっかり忘れていたが、ずっと以前から女の密偵を飼っていたのだ。
「まさか―――――」
を連絡係に使う。嫌がっても間違いなく送り込むから心配するな」
「いや、そうじゃなくて………」
 今更二人を会わせてどうしようというのか。しかも、二人きりでである。お互い気まずくて、連絡どころではなくなるのは確実だ。
 もうは斎藤と別れると決心してしまったのだ。今更二人で会って斎藤がどんなに説得したところで、の心は変わらないだろう。それなのにいくら仕事とはいえ斎藤に引き合わせるなんて、を傷付けるだけでしかない。山崎だって、それは分かっているはずだ。
 山崎は緊張した固い声で言葉を続ける。
「君たちの事は、もう何も言わない。だから、と元に戻って欲しい」
 斎藤が屯所を去ってからは流石に少しは諦めがついたのか、は以前に比べれは食事もするようになったし、少しは部屋の外に出るようにもなった。けれど表情の暗さは相変わらずで、笑いもしないし、あんなにお喋りだったのに殆ど口も利かない。部屋に籠っていた頃に比べると状態は良くなっているが、それでも暗い顔をしているを見るのは辛かった。
 斎藤に会わせればが元に戻るかといえば、そんな単純なものではないかもしれない。けれど、このままの状態にするよりは、少しは元に戻るかもしれないではないか。
 いつの間にやら、は山崎だけの手には負えないほど大人になっていたのだ。拾ったばかりの頃は、山崎が付きっ切りでいてやれば良かった。けれど今は、山崎が傍にいてもの心の傷は癒されない。もうは、山崎など必要としていないのだ。それを思い知らされたのは辛いけれど、それが大人になるということなのだろう。山崎自身だって、そうやって生きてきた。
 親というのは空しいものだと思う。あんなに可愛がって育てたのに、あっという間に他の男に攫われてしまうのだから。しかも、山崎が長年思い描いていた“娘の婿殿”とは全く違う男に、である。世の中とは、そういうものなのだろう。本音のところでは諦めがついたわけではないが、それでもが幸せになってくれるのなら、諦めるしかない。
 頭を下げる山崎を、斎藤は信じられないものを見るように見詰めた。当然だ。今までに近付こうとすれば苦無は投げるわ、棒術で足腰が立たなくさせられるわ、山崎は必死で斎藤とを引き離そうとしていたのだ。それが「元に戻ってくれ」と頼むなんて、信じられない。そんなことを山崎に言わせるほど、の状態は悪いということなのだろうか。
 けれど、山崎がとのことを認めてくれるというのは、斎藤にとっては正直に嬉しい。山崎が認めてくれれば、だって斎藤との結婚に躊躇いも無くなるはずだ。
「ありがとうございます」
 言いたいことは色々あるけれど、胸が一杯で何も言えなくて、斎藤は深く頭を下げることしかできなかった。





 女将の後ろに付いて、は廊下をゆっくりと歩いていた。もっと早く歩きたいのだが、幾重にも着せられた着物や頭に飾られた鼈甲の簪が重くて、思うように歩けない。
 土方の命令で、近藤がよく知っている“志摩屋”という遊郭に潜入することになったのだが、正直帰りたくて仕方が無い。遊郭にいるのも嫌だし、遊女の格好をするのも嫌だし、何もかもが嫌なのだ。普通の精神状態だったら別に気にならなかっただろうが、今はまだ仕事が出来る精神状態じゃない。そんな自分を誰かに見られるのも嫌だった。
 この仕事を請けたのは、山崎が頭を下げて頼んできたからだ。ずっと心配かけてきた彼から頭を下げられたら、断れない。
「“若紫”、そんな暗い顔をしないの。お客さんが白けるじゃないの」
 俯き気味に歩くを振り返って、女将が叱咤するよう言う。擦れ違う客を意識しての言葉なのだろう。沈んだ顔をした遊女を叱るのは、女将だったら当然のことだ。
「すみません………」
 叱られると悲しくなって、はますますうな垂れてしまう。
 これから接触する密偵が誰なのか、土方にも山崎にも教えられていない。隊から抜けた者の誰かだとは思うのだが、誰なのかには見当もつかない。まあ、ごときに見当を付けられるようでは、密偵として使えないのだが。
 誰が密偵にしろ、今のには会うのがとても憂鬱だ。だから暗い顔になってしまう。
 座敷の襖の前で、女将が正座した。続いても正座して、深々と頭を下げた姿勢で待機する。
「失礼致します」
 女将が静かに襖を開けた。
「“若紫”でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
 淑やかな声で挨拶をすると、はゆっくりと顔を上げた。そこにいたのは―――――
 上座で酒を飲んでいる斎藤の姿を認めた瞬間、は脊髄反射でその場から逃げ出してしまった。
 もう何が何だか分からない。斎藤が此処にいるのも理解できないし、それを知っているはずの山崎がに頭を下げてまでこの仕事をさせようとしたのも理解できない。山崎にこれ以上いらない心配をさせたくなくて斎藤と別れたのに、どうして山崎は斎藤と会わせようとするのだろう。今まで、と斎藤が会うのをあんなに嫌がっていたくせに。
 斎藤も斎藤だ。あんな別れ方をしたくせに、どうして普通の顔をして此処にいられるのだろう。もうとの事は、斎藤にとっては過去のことになってしまったのだろうか。
「待てよっ!」
 それほど走らないうちに、斎藤に捕まってしまった。じたばたと暴れるが、の力ではとても逃げられるものではない。犬か猫の仔のように小脇に抱えられると、そのまま座敷に連れ戻されてしまった。
 事情を全く理解できずに唖然とした顔をしている女将を下がらせて襖を閉めると、斎藤はの身体を畳に放り投げた。
「他人の顔を見ていきなり逃げ出すなんて、どういう料簡だ?」
 不愉快そうに眉を顰めて、斎藤はを見下ろす。
 どういう料簡だと言われても、逃げた自身もよく分からない。斎藤だと思った瞬間、身体が勝手に動いてしまったのだ。
 ずっと、斎藤に会いたいと思っていた。顔を見たくて、声を聞きたくて、気が狂いそうだった。けれど実際に斎藤の前に出されると、居た堪れない気持ちになって、消えてしまいたくなる。消えてしまいたいけれど、でも斎藤の顔を見れたのは、泣きたいほど嬉しい。
 矛盾した気持ちで、頭がどうにかなりそうだ。どっちの気持ちに従えば良いのか判らなくて、は斎藤を見上げたまま固まってしまう。
「まあいい。やっと顔を見て話せるんだ。朝までたっぷりと時間もあることだし―――――」
 斎藤の言葉など耳に入っていないかのように、は忙しなく視線を動かして逃げ場を探す。斎藤はと話をしたいようだが、はまだそんな心の準備ができていないのだ。とにかく一度どこかに逃げ込んで、この混乱している頭を落ち着けたかった。
 完全に落ち着きをなくしているの姿に、斎藤は思わず口の端を吊り上げてしまった。何だか、気の弱い小動物みたいだ。
「残念だが、此処には押入れは無いぞ」
「………っ!!」
 斎藤の言葉に、は顔を紅くする。押入れに籠るなんて叱られた子供みたいだったと、今だから思うけど、あの時は必死だったのだ。思い出すだけでも恥ずかしいのに、斎藤の口から蒸し返されるともっと恥ずかしい。
 居た堪れないのと恥ずかしいのとで顔を紅くして俯くの前に、斎藤がゆっくりとした動きで片膝を付いた。
「折角だから、これからのことをゆっくりと話し合おうか」
 この様子では、は山崎から何も聞かされていないらしい。どうせならその辺りもに話しておいて欲しかったと斎藤は思うのだが、それはまあ贅沢というものかもしれない。うかつに話を切り出したらかえってが意固地になったかもしれないから、何も言わずに斎藤に会わせるのが最良だと山崎が判断したのだろう。
 身を固くして、は何も言わない。格好が格好だけに、今のは初めて客を取らされる遊女みたいだ。その姿を見ていると、斎藤は何だか妙な気分になってくる。
 とりあえず緊張を解してやろうと、斎藤はの肩に手を伸ばす。が、それは逆効果だったらしく、は弾かれたように続き部屋に逃げ込んでしまった。
「このっ………!!」
 斎藤の手がの襟首を掴もうとしたが、間一髪のところではぴしゃりと襖を閉めた。
「どういうつもりだ、こらっっ!!!」
 これでは、この前の繰り返しである。斎藤は襖をこじ開けようとするが、も負けじと襖を固定している。小さいくせに、どこにそんな力があるのだろうと思うような強さだが、それだけ必死なのだろう。
 会った瞬間に抱き付かれるとは思っていなかったが、正直ここまで避けられるとも斎藤は思ってなかった。の中ではもう、斎藤との別れは揺るがない決定事項になっているのだろうか。
「俺の顔を見るのも嫌ってことか?!」
「ちがっ………そうじゃないのっ!!」
 切羽詰った悲鳴のような声で、初めてから返答があった。
「心の準備がまだ出来てないの! もう一寸待ってっ!!」
「はぁっ?!」
 言っている意味が判らない。斎藤は頓狂な声を上げた。
 今から何をするというわけでもない。ただ山崎の言葉を伝えて、これからのことを話し合おうとしているだけなのだ。何を心の準備をする必要があるだろう。
「わけの解らないことを言うんじゃないっっ!!」
 怒鳴りながら、斎藤は渾身の力を込めて襖を開けた。
「きゃあっっ?!」
 襖が開いた勢いでの身体が弾かれて、用意されていた二組の緋布団の上に転がる。慌てて身体を起こして逃げ場を探すが、隠れられるような所も逃げられる部屋ももう無い。
 うろたえた顔で斎藤を見上げ、はそれでも逃げようとするように座ったまま後ずさる。これではますます初物の遊女のようだ。
「ほう………此処の女将も気の利いた真似をするじゃないか」
 部屋に足を踏み入れ、斎藤は布団の上のを舐めるように見ながら、妙に芝居がかった口調で言った。気分はもう、初物買いの客である。そんな不謹慎なことを考えている場合ではないとは思うのだが、こんなそそるような真似をするが悪いのだとも思う。遊女の格好をして、緋布団の上で怯えた顔をする可愛い女を見て、平静でいられる男がいるだろうか。
 しかし、布団が敷かれているというのは、斎藤も予想外だった。女将は斎藤との関係は知らないはずだ。此処も連絡場所として利用するとしか聞いていないはずなのに、何故布団まで用意しているのだろう。近藤か土方から何か聞いているのだろうか。
 と向かい合うように、斎藤は布団の上に正座する。そして表情を引き締めて、
「この前、山崎さんに会った」
 驚いたようにが目を瞠った。
「お前と元に戻って欲しいと、頭を下げられた」
「………うそ………」
 唖然としたような呆けた顔をして、は小さく呟いた。
 山崎が斎藤にそんなことを頼むなんて、ありえない。あんなに斎藤とが一緒になるのを嫌がっていたのに。二人が一緒になることで、いつかが傷付くのではないかと恐れていたのに。それなのに、山崎が頭を下げてまで斎藤に元に戻って欲しいと頼むなんて、ありえない。
 けれど、この仕事を嫌がったに、請けてくれと頭を下げたのも山崎だった。情報を持ってくる密偵が斎藤であることは、彼も知っていたはずだ。それを知っていてを此処に送り込んだのは、斎藤と一緒になることを許してくれたということなのだろうか。斎藤の話は本当なのだろうか。
「嘘じゃない。本当にそう言われたんだ」
「どうして………」
 山崎を安心させたくて、は斎藤と別れる決心をしたのだ。を拾ってからずっと、山崎は気の休まる暇が無かったから、せめてこれからは彼が心配しないで済むようにしたかった。だから、どんなに辛くても斎藤と別れようと決めたのに。
「あんな風に籠城されたら、山崎さんだって考えるさ。あの人はいつだって、お前のことしか考えてないんだからな」
「………………」
 山崎がのことだけを考えてくれていたからこそ、今度はが山崎にとって一番良いようになるようにしたかった。だけどそれは山崎を更に悲しませることでしかなくて、そんな不甲斐ない自分が情けなくて涙が出てきた。斎藤と別れてからずっと、自分が情けなかったり悲しかったり、は泣いてばっかりだ。
 突然泣き出したに驚いて、斎藤は慌てて懐紙で涙を吸い取ってやる。
「泣いたら化粧が崩れるだろうが。そうやってぐずぐず泣いているから、山崎さんだって心配するんだ」
「だってぇ………」
 泣くなと言われても、自分の意思とは関係無く勝手に出てくるのだ。の涙腺は信じられないくらい緩くなっている。ずっと泣いていたから、締めることが出来なくなってしまったのだろうか。
 子供みたいに鼻をぐすぐすいわせながら、は斎藤にされるがままになっている。そういえば子供の頃、山崎にもこんな風に涙を拭いてもらったことがあった。自分では大人のつもりでいたけれど、こういうところは12歳の頃から全く変わらない。そんなだから、山崎はいつまでもを子供扱いするのだろう。
「斎藤さんのことを好きになっても嫌いになっても山崎さんが困っちゃうなんて、どうしたら良いのか分かんないよぅ」
「俺のこと、嫌いになったのか?」
 そんなわけないことは解っているくせに、斎藤はわざとらしく悲しそうな声で訊いた。案の定、は慌てて首を振る。
 斎藤を嫌いになって別れたのなら、こんなにずっと泣いたりしない。こうやって斎藤に涙を拭いてもらったりしない。
「自分のせいで娘が好きな男と別れてしまうことの方が、山崎さんには辛いんだ。そりゃあ俺と一緒になったら山崎さんの心配は尽きないだろうが、それでもお前が幸せになるのなら、それで十分なんだよ。親っていうのはありがたいよなあ」
 斎藤の言葉に、はまた泣けてきた。山崎の気持ちがありがたくて、それに対する自分があまりにも不甲斐なくて情けなかった。山崎はやっぱり大人で、はやっぱり子供だ。
 斎藤のことは好きだ。でも山崎はもう困らせたくない。その気持ちは、今でも変わらない。斎藤とのことを許してもらえたのは嬉しいけれど、それで山崎が思い悩み続けるのは見たくはなかった。けれど、だからといってが斎藤から離れれば、山崎はもっと悩んでしまうだろう。自分はいつまでも山崎の心配の種なのだと思うと、は自分が存在することすら山崎にとっては悪いことなのではないかと思えてくる。
「………私、どうしたら良いの? どうしたら山崎さんに心配かけなくて済むの?」
 泣きながら、は縋るような目で斎藤を見上げた。どうすれば山崎にとって一番良いのか、にはもう解らない。
 ここまで言ってもまだ山崎のことを考えるを見ていると、血は繋がっていなくても父娘の情で強く結ばれているのだと斎藤は改めて驚かされる。実の娘だって、ここまで父親のことを想ってはくれないだろう。こんな優しい娘を持って、山崎は本当に幸せ者だと思う。
 の身体をきゅっと抱き寄せて、背中を優しく撫でてやりながら斎藤は子供に諭すように言う。
「お前がそうやって泣かなくなれば、山崎さんも心配しなくて済むさ」
「でも、斎藤さんと一緒になったら、それでもまた山崎さんが心配しちゃう………」
「俺と一緒になったら―――――」
 そこが難しいところだ。がどうなっても、山崎が心配しなくなるわけがない。それが親というものだ。けれど、いつまでもそれを気にしていたら、はいつまで経っても山崎から離れられなくなってしまう。
 斎藤は一寸考えると、名案が思い浮かんだように口許を綻ばせた。
「山崎さんが心配する隙も無いくらい、俺がお前の心配をしてやる」
 自信たっぷりに断言するその言葉に、は一瞬涙を流すのも忘れて、きょとんとした顔をして斎藤の顔を見上げた。そして次の瞬間には、可笑しそうに小さく吹き出す。
 一度笑ったら止まらなくなったのか、は小さくクスクスと笑い出した。笑ったのは、どれくらい振りだろう。自分でも思い出せないくらい久し振りだ。
「それって、全然解決になってない」
 笑いながら、は掌で軽く斎藤の腕を叩いた。
 笑うを見ながら、やっぱりには笑顔が一番似合うと斎藤は思う。泣いているも子供みたいで可愛いけれど、やっぱり笑っているが一番可愛い。
 やっと笑ってくれたのが嬉しくて、斎藤は思わずの頬に軽く口付けた。意外な行動に、は驚いた顔をして斎藤の顔を見る。と、今度はその半開きの唇に斎藤の唇が重ねられた。
 解すように唇を吸われたり甘噛みされたりして、はうっとりしたように小さく息を漏らす。舌を差し入れられても抵抗するような動きは全く見せず、それどころか斎藤を誘うように舌を絡ませてきた。の積極的な動きに今度は斎藤が驚いたが、気を良くして更に口付けを深くする。
「………んっ……」
 頭の芯が甘く痺れて、は小さく声を漏らした。斎藤の腕に触れていた手から力が抜けていく。
 の口腔を思う様に堪能すると、斎藤は漸く唇を離した。頬を上気させ、とろんとした目をしているを見下ろして、斎藤は満足げに微笑む。
「この仕事が終わったら、結婚しよう」
 の瞳の奥を覗き込むように見詰めて、斎藤は静かな、けれど有無を言わせない強い声で言った。その声に後押しされるように、はこっくりと頷く。
 一寸回り道してしまったけれど、やっぱりこうなることが必然だったのだと、は改めて思う。まだ解決しなければならないことは沢山あるけれど、斎藤と一緒ならきっと大丈夫だ。これから先、どんな困難が待っていたとしても、斎藤と一緒ならきっと乗り越えられる。
「じゃあ、仲直りしような」
 耳元で甘く囁くと、斎藤はの胸の下で結ばれている帯に手を伸ばした。
「えっ………?! えぇっ?!」
 突然のことに混乱しているのか、しゅるしゅると帯を解く斎藤の手を止めることも出来ず、は顔を真っ赤にして悲鳴のような声を上げた。折角今もの凄く感動していたのに、何をやらかすんだ、この男は。
「ちょっ……そんっ…そっちはまだ心の準備がっっ………!!」
「仲直りするなら、これが一番手っ取り早いだろ? 折角女将が布団まで用意してくれてるんだしな。ゆっくり脱がしてやるから、その間に心の準備をしてろ」
 斎藤はすっかりその気になっているらしい。の言うことなど全く意に介さない様子で、楽しそうに言った。
 心の準備ができていないだの何だの言いながらも、は斎藤の手を止めようとはしない。斎藤とそういうことをするのは嫌じゃないし、久々の再会なのだから、しても良いかなとも思ってきた。“しても良いかな”が“したい”に変わるまで、それほど時間はかからない。
 帯を取るのを手伝おうかとが手を腹に持っていこうとした刹那、鋭い殺気が二人を貫いた。
「っ?!」
 の身体を抱いて、斎藤はその場を飛びのいた。同時に、斎藤がいた場所に苦無が突き刺さる。
「ちっ、外したか」
 天井から忌々しげな山崎の声が聞こえた。見上げると、天井板を一枚外して斎藤を睨みつけている山崎の顔があった。「君たちのことは何も言わない」と言っていたくせに、やっぱり気になって天井に潜んでいたらしい。
 気付いて逃げられたから良かったが、苦無が突き刺さった場所や山崎の様子から察するに、本気で斎藤を狙っていたらしい。もし突き刺さっていたら、大怪我をしていたところだ。今更ながら、斎藤はぞっとした。
「山崎さん、あんた仕事はっ………?!」
 まだ心臓をばくばくさせながら、斎藤は天井を見上げて怒鳴る。斎藤の記憶が正しければ、山崎は高台寺周辺に張り込んで伊東たちを監視しているはずである。こんなところで覗きのような真似をしている場合ではない。
 山崎は相変わらず斎藤を睨んだまま、
「島田君に代わってもらった。
 まったく、妙な胸騒ぎがするから来てみれば………。所構わずサカりやがって、お前は犬かっ!!」
「所構わずって………」
 何と言って良いのやら、斎藤は呆然とした顔のまま言葉が返せない。
 此処は、そういうことをする所である。遊女姿のがいて、しかも準備万端といった様子で布団が敷いてあったら、その気になるなと言うのが無理な話だろう。斎藤だって、健康な若い男なのだ。
 まだ抱き合ったまま無言で見上げる二人に、山崎は苛立たしげに言葉を続ける。
「大体、いつまで抱き合ってるんだ。、早くそいつから離れろ。結婚前の大事な身体に傷でも付けられたらどうするんだ」
 「君たちの事は、もう何も言わない」なんて言ったくせに、以前にも増して言いたい放題だ。この様子では、結婚した後もこの調子かもしれない。それは斎藤としては非常に困る。
 いつもだったらこのまま引き下がってしまう斎藤だが、今回は違う。と結婚の約束も交わしたのだということも後押しして、山崎なんかには負けられないと思う。ここで負けたら、一生負けっぱなしだ。
 離れるどころか、逆に山崎に見せ付けるように、斎藤はを抱く腕に力を込めて身体を密着させる。そして片方の口の端を吊り上げて不敵に笑う。
「お言葉ですが山崎さん、俺はもう、の“初めて”は全部戴いてしまっているんですよ」
「なっ………」
 斎藤の言葉に、山崎は大きく目を見開いたまま絶句してしまった。を見ると、耳まで真っ赤にして俯いていて、斎藤の言葉を肯定している。
 薄々は感じていたが、こうもはっきりと事実を突きつけられると、流石の山崎も再起不能である。斎藤を怒鳴りつける気力も、に説教する気力も無くなって、山崎はぐったりと脱力したまま天井裏から部屋に降りてきた。そして世界が終わったような深い溜息をつくと、布団に突き刺さった苦無を抜いて、もぞもぞと布団の中に入る。
 予想外の行動に、二人とも呆気に取られた顔をして膨らんだ布団を見詰めた。が、すぐに斎藤が我に返ったように
「山崎さん、何を………?」
「何か一気に疲れた。屯所に帰る気力も無くなったから、今夜はここに泊まる」
 布団に潜ったまま、山崎はぶっきらぼうに応える。
「え―――………」
 折角の再会の夜だというのに山崎に此処に泊まられたら、今夜は何も出来ないではないか。まさか隣の部屋でするわけにもいかないし。
 今まで、棒術でボコボコにされたり長刀なぎなたで脅されたり色々やられてきたが、今回が一番効いた。折角もその気になってたというのに、直前になってお預けを食らうなんて。これまでの人生で一、二を争う嫌がらせである。
 残念に思っているのはも同じようで、二人で顔を見合わせると、山崎に聞こえないように小さく溜息をつくのだった。
<あとがき>
 漸く無事に仲直りさせることが出来ました。良かった良かった。これで一気にラストまで突っ走れます。
 最初は、斎藤からの改めてのプロポーズのところで終わらせてイイ話で終わらせようかと思ったんだけど、やっぱり“お父さんは心配性”なだけに山崎さんが出てこないと収まりが悪いかなって。って、主役は誰なんだって話なんだが。
 予定ではあと2話で終了です。そうしたら長編と他の短編を再開させますので、もう少しお待ちください。
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