はじめまして
自分を見つめなおすために寺へ座禅を組みに行くようになって一月が過ぎた。自分の内に住む修羅は消えたのか、蒼紫にはまだ判らない。けれど、何かに取り憑かれていたかのような飽くなき闘争心は、それこそ憑き物が落ちたように消えてしまったように思う。それが良いのか悪いのか、蒼紫自身には判らないが。この日も朝から座禅を組んでいたのだが、昼時になったので休憩をとることにした。この時間、寺の境内を散策していると、必ず会う女がいる。何をしに来ているのか知らないが、彼女の姿を見るのが、いつの頃からか蒼紫の密かな楽しみになっていた。
いつもの順路で散策していると、墓地に向かうあの女性の姿が見えた。手桶を提げ、白い花束をを胸に抱いている。そういえば、毎月この日はこうやって墓参りに来ているようだ。誰か親しい人の月命日なのかもしれない。あの女が参る墓の主は、どんな人間なのだろうか。何となく興味が湧いて、悪趣味だとは思いながらも、蒼紫は女の後をつけてみることにした。
昔取った杵柄とでもいおうか、女は蒼紫につけられていることに全く気付いていないようだ。その後姿はあまりにも無防備で、こんな人気の無いところでどんな人間が潜んでいるのか判らないのだから、少しは警戒した方が良いのではないかと、自分のことは棚に上げて心配してしまう。
艶やかな黒髪をすっきりと結い上げ、歳の割には渋い色合いの着物を粋に着こなした女である。蒼紫と同じくらいか、少し年下くらいだろうか。一瞬すれ違うだけの逢瀬なので、じっくりと顔を見たことは無いが、潤んだような黒目がちの目の、色の白い美しい女である。表情に少し影があるが、一寸心に引っかかるような仄かな色香があると思う。
女は一度も立ち止まることも振り返ることもなく、奥の方にひっそりと佇む小さな墓の前で漸く足を止めた。そして流れるような動作で墓の掃除をし、花を供える。月命日以外にも頻繁にそうやっているのだろう。女の動きは手馴れていて、無駄が全く無い。
墓石に彫られているのは、男の名前だ。あの女の父親か、兄弟か。否、これほど熱心に通っているということは、夫か恋人の墓なのかもしれない。そう思えば、彼女の表情に翳りがあるのも納得できる。きっと彼女は、幸せの絶頂の時に、墓の中の男を失ったのだろう。
墓の前にしゃがんで手を合わせる女の背中を墓の陰から覗いながら、蒼紫は通俗的なことを想像してみる。他人のことについて、ここまで関心を持ったり想像を巡らしたりするのは、初めてのことだ。平穏な生活に馴染んできているせいなのか、それとも、彼女が蒼紫の想像力を刺激しているのか、彼には判断がつかない。
合わせていた手を解き、女はすっと立ち上がる。そして、墓の方を向いたまま、
「そんなところに隠れてないで、出てきたらどうです?」
覗き見られていることに怯える様子も無く、女はぴしゃりと言った。
全く気付かれていないと思っていただけに、蒼紫はその声にびくりと身体を震わせ、大人しく言葉に従う。そして言い訳がましい口調で、
「俺は決して疚しい気持ちや妙な下心で後をつけていたわけではなくて――――」
「そんな気持ちでつけてきていたら、とっくに退治していましたわ」
可笑しそうにくすくす笑いながら、女は蒼紫を振り返る。その顔は蒼紫の行動を咎めるようでもなく、子供の悪戯を見つけた母親のようだ。
それにしても、かつて御庭番衆の御頭を勤めた男を相手に「退治する」とは、なかなか勇ましい女である。おとなしそうな外見をしているが、実は腕に覚えがあるのだろうか。
自分の過去を話すわけにもいかず、思わず苦笑いを浮かべる蒼紫に、女は微笑んだまま言った。
「それにしても、私なんかに気付かれるなんて、間抜けな密偵さんね」
「?!」
発言の内容にそぐわない暢気な口調で言う女とは反対に、蒼紫の表情は一瞬にして強張り、立ち姿勢も反射的に臨戦態勢に入る。
彼の正体を知っているということは、彼女はただの女ではない。蒼紫が御庭番衆であることを知っているのは、かつての彼の味方か、敵だけなのだ。
「貴様、何者だ?」
毎日の瞑想で姿を潜めたはずの修羅が、再び彼の身体を支配しようとする。平穏な生活に馴染もうとしたところで、所詮は戦いの中で育った人間。敵と認識する相手が現れれば、考えるより先に身体が戦いを求めるのだ。
殺気を漂わせる蒼紫を目の前にしても、女は怯える様子など全く見せずに、優雅に微笑んだまま、
「そんなに恐い顔しないで下さいな。別に私は、あなたの敵ではありませんよ」
「では何故、俺を密偵だと?」
「雰囲気で判りますよ。歩き方や立ち姿が、この人と同じ………」
不意に女の顔から笑顔が消え、その表情に翳りが出る。そして、墓石にそっと手を触れ、
「この人も、密偵をやっていたんですよ」
彼女の表情の変化に、蒼紫の中の修羅がふっと姿を消した。何故消えたのか、彼にも解らない。敵ではないと認識したわけでもないのに、何故この女の悲しげな顔を見ただけで、警戒心が消えたのだろう。女の言っていることが真実であると、確実な証拠を掴んだわけでもないのに。
今まで感じたことの無い心の動きに混乱しながらも、蒼紫は必死にそれを押し隠す。
女は続けて、
「維新の頃にね、新選組の動きを探るために一人で屯所に入ったんです。でもすぐに正体がバレちゃって………。逃げようとしたけど隊士に斬られて、死体は河原に棄てられたんだと聞きました。優しくて嘘のつけない人だったから、本当は密偵に向いてなかったのかもしれませんね」
彼女の口調は淡々としているが、それでもどこか血を吐くような、言葉を発するのが苦しげな声だ。維新の頃といえば10年以上前。けれど、彼女の中ではまだ過去にはなっていないようだ。
墓の中の男は、彼女の恋人だったのだろうか。新選組に密偵に入ったということは、世が世なら、蒼紫とは敵対していた立場の人間である。その男と親しかった彼女とも、こうやって言葉を交わすことすら出来なかっただろう。そう思うと、蒼紫にとっての維新はすでに過去のものになってしまっている。
しかし、毎日のように境内ですれ違っているとはいえ、初対面も同然の蒼紫に、何故こんな話をするのだろうか。やはり彼女は蒼紫の正体を知っていて、直接の敵ではないけれど、敵対する立場であった彼に対して敵討ちをしようとしているのだろうか。
訝しがる蒼紫の表情に気付いて、彼女は彼の不審を解こうとするかのように、再び柔らかな微笑を浮かべる。
「ごめんなさいね、こんなつまらない話をして。でも、あの人と同じ密偵をやっているあなたに聞いて欲しかったんですよ。此処でお見かけした時からずっと……」
「この方は、あなたの恋人だった人ですか?」
不粋な質問だと思いながらも、蒼紫は質問してしまう。
「親が決めた許婚だったんですけれど……。それでも、幼い頃から兄のように慕っていた人でした」
「そうですか……」
予想通りの答えだったのだが、蒼紫は何故か軽い落胆を覚えた。親が決めた許婚とはいえ、10年を過ぎた今でもこうやって足繁く墓参りに行くということは、今でも昔と同じくこの男を慕っているということだろう。死んでしまった人間は時と共に美化される。彼女の中に、彼以外の男が入る余地は無いのかもしれない。
「あの頃、この人は18で、私はまだ14の子供でした。それなのに、今では私の方が年上になってしまって……。私だけが歳を取っていって、この人も驚いているでしょうね」
彼女は悲しげに微笑む。死んでしまった男はいつまでも18歳のままで、生きている彼女だけが歳を取っていく。これから先、彼との歳の差は広がっていく一方だ。当たり前のことなのだが、それでも自分だけ年老いていくというのは、悲しい。
この人の中の時間は、14歳のままで止まっているのだろうか。今までもこれからも、共に歳を重ねる相手を見つけることは無いのだろうか。今日初めて言葉を交わした相手だというのに、蒼紫はそんな心配をしてしまう。
彼女はまだ若いし、充分に魅力的だ。その気になれば、共に生きる男を見つけるのは容易いだろう。永遠に少年のままの男を想って生きていくより、共に年老いていく男と生きていく方が、彼女にとっては幸せに決まっている。
「失礼ですが、これからもこの方のために生きていかれるおつもりですか?」
「本当に、失礼な質問ですね」
そう言いながらも怒っている様子は全く無く、彼女は可笑しそうにくすくすと笑う。そして、笑いをおさめて、遠くを見るような目をして、
「そうですねぇ……。本当は、一緒に生きていける人を探した方が良いのでしょうが……」
「俺では駄目ですか?」
さらっと、実に自然な感じで口から出てしまった。言ってしまった後、蒼紫は自分の口を押さえて激しく後悔する。
毎日のように境内で見かける顔見知りとはいえ、言葉を交わしたのは今日が初めてなのだ。それなのに、こんな愛の告白めいたこと――――否、告白そのものなのだが――――を言ってしまうとは。どうしてこんなことを言ってしまったのか、自分でも解らない。
大きく目を見開いた驚きの表情のまま、女は固まっている。当然だろう。一寸口を利いただけでこんな不躾なことを言われるなんて、考えもしていなかったはずだ。
何とかこの場を取り繕わなくてはとは思うのだが、言葉が出てこない。冗談で誤魔化すのは失礼だし、何より彼の中では冗談ではない。彼女のことをもっと知りたいと思っているし、ずっと一緒に歳を重ねられるかは解らないが、今は一緒にいたいと思う。少なくとも、その場限りの軽い気持ちで言った言葉ではない。
お互い固まったまま、暫く見詰め合う。実際はそんなに長い時間ではないのだろうが、永遠にも似た静寂の後、彼女が口を開いた。
「密偵の人は、もうこりごりです。また私の目の前からいなくなってしまうかもしれないから……」
「俺はもう、密偵ではありません。今は料亭にいます」
「では、同情ですか? あなたは、私のことを何も知らないでしょう?」
「ずっと前から、あなたのことを見ていました。それだけでは駄目ですか?」
彼女の瞳をじっと見詰めて、蒼紫は真剣な口調で言った。
この寺に通っているうちに彼女の存在に気付き、それからずっと彼女の姿を見るのを楽しみにしていた。彼女が寺に来る時間に合わせて境内を散策し、彼女の姿が見えない日はどうしたのだろうかと心配した。人が“恋”と呼ぶ感情がどういうものか、蒼紫には未だよく解らないが、毎日姿を見たいと思うこと、相手のことを知りたいと思うことを“恋”と呼ぶのなら、自分は多分彼女に恋をしているのだろうと、蒼紫は思う。
蒼紫の真意を知ろうとするかのように、女も固い表情のまま、彼の瞳をじっと見詰める。蒼紫の真意を探りながら、同時に自分の気持ちを探るような目。
そうして見詰め合った後、女は淡雪が解けるように、ふわりと微笑んだ。
「こうやってあなたとお話が出来たのも、この人が導いてくれたのかもしれませんね……。いつまでも死んだ人のことを思っていてはいけないと、あの人が言っているのかもしれない」
墓石に触れていた手をゆっくり離し、その手を蒼紫の手に触れさせる。
「はじめまして。私、といいます。あなたは?」
「四乃森蒼紫です。はじめまして」
彼女の手に自分の手を重ね、蒼紫も穏やかな微笑を浮かべた。
こういう表情を作ったのは、何年ぶりだろう。これまでずっと戦い通しで、こんな風に笑うことは無かった。が傍にいれば、これからはこういう風に微笑むことが出来るかもしれない。彼女の顔を見て、目覚めかけていた修羅が再び姿を潜めたように、はきっと蒼紫を変えてくれる。
そして自分も、そういう風にを変える存在になりたいと思う。悲しい過去を、本当に過去のものとすることが出来るように。死んでしまった男のことを忘れさせることは出来なくても、彼との思い出の中で生きるのではなく、新しい自分自身の幸せのために生きられるように。その手助けを出来る存在になりたいと、蒼紫は心から思った。
うーん………なんていうか、微妙……。えらく中途半端な話だし。続きも多分、ありません。
お題は“はじめまして”です。というわけで、なんのひねりも無く、出会いのお話。少しはひねれ、自分!(笑)
しかし蒼紫、寺以外に行くところ無いのか? つか、寺以外のところにも連れて行ってやれ、私! ………寺以外、どこが蒼紫に似合いますかねぇ?
それにしてもこの蒼紫、一寸変質者が入ってますよね。やばいっすよ。今だったら、絶対警察に通報ものだよ。もっとこう、格好いい蒼紫を書きたいんだけどなあ………。私が書けば書くほど、蒼紫はダメダメ君になってしまうよ。何でかなあ? とりあえず、“格好いい蒼紫”を書けるようになるのが、当座の目標ですね。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。