喧嘩
最近、屯所の雰囲気が悪くなったと、は思う。いや、雰囲気が悪くなったのはもっと以前、土方と山南の関係が思わしくなくなってからだと思うが、その山南が脱走の咎で切腹になってからは更に悪くなったような気がする。山南は土方に遠まわしに粛清されたのだと言う隊士もいるが、には難しいことはよく分からない。優しい山南のことは好きだったし、鉄の意志で新選組を率いている土方のことも尊敬している。それは山南が切腹した今でも変わらないし、だからどちらが悪いとか、そういうことはには言えない。ただ、ずっと一緒にいた人がいなくなったのは寂しかったし、人伝に聞いた山南と明里の別れの話は悲しかった。
山南が死んでから土方の独裁体制になったことで、隊内の雰囲気は明らかに変わったけれど、それよりも最近新しく入隊してきた伊東甲子太郎とかいう人とその仲間も雰囲気を変えた原因の一つだと思う。
「人が増えると、いろいろあるみたいだよねー」
縁側で丸まっている祇王に、は話しかけた。が、祇王は我関せずといった感じで、大きく欠伸をして寝る体勢に入っている。人間の世界で揉め事があっても、祇王には何の関心も無いらしい。
「ねー、祇王ー。寝てないで話聞いてよぅ」
丸まっている祇王の身体を揺すって起こそうとするが、祇王は意地でも昼寝をするつもりらしく、どんなに揺すられても目蓋をピクリともさせない。いつも遊んでやっているのに、これだから猫は恩知らずで駄目なのだ。これが犬だったら、少しはの話を聞いてくれていたかもしれない。
ひっくり返しても抱え上げても目を開けない祇王に、のほうが根負けしてしまった。は小さく溜息をつくと、膝に頬杖を付いて所在無げに庭を眺める。
最近は斎藤も忙しいらしくて、あんまりの相手をしてくれない。この前言っていた“一寸大きな仕事”が入ったのだろう。表向きはとても静かだけれど、山崎も何だか忙しそうだし、の知らないところで何か大きなことが行われているらしい。これからどうなるんだろう、とは一寸不安になる。
これからどうなるにしても、は斎藤と山崎に付いていくつもりだ。けれどもし、斎藤と山崎が全く正反対の方向に進んだら、どっちに付いていけば良いのだろう。
「随分と退屈そうにしていますね」
ぼんやりとしていたの頭の上で、男の声がした。ぼーっとしたまま男を見上げたの顔が、そのまま驚いたように硬直する。そこにいたのは、伊東甲子太郎とその取り巻きたちだったのだ。
は伊東のことをよく知らないが、山南や藤堂と同門の男で、剣の腕も立つし、学もあるらしい。剣が強くて学があるなんて山南に似ているけれど、でも山南とは決定的に違う嫌な感じがして、は好きではない。役者のような男前だけど、何となく気障な感じがするのが嫌なのかもしれない。生理的に受け付けない、というやつだ。
無意識のうちに伊東と距離を取ろうと身動
「そんなに怖がらなくても良いですよ。それとも、知らない男の人と口を利いてはいけないとでも言われましたか?」
まるっきり子ども扱いの伊東の言い草に、は怒りと恥ずかしさで顔を紅潮させる。
「別に怖がってません!」
怖いんじゃなくて嫌いなのだとは流石に言えなくて、は上目遣いで睨んだまま言葉に詰まってしまう。
そんな様子もまた可笑しいのか、伊東は笑いながらに近付く。それに合わせるように、は更に身を引いた。まるで警戒する猫のような様子に、伊東どころか取り巻きたちまで可笑しそうに低く笑う。
「そんなに退屈でしたら、私たちがお相手をして差し上げましょうか?」
その言い方もからかうような嫌な感じで、やっぱりこいつらは嫌いだと思う。
「結構です!!」
横で寝ている祇王を抱え上げて憤然と立ち上がると、は小走りにその場を離れていった。
その後姿を見ながら、伊東は目を細めて喉の奥で笑う。
「新選組では、随分と可愛らしい“猫”を飼っているようですねぇ」
「隊士の話によると、監察方の山崎君が連れてきた娘だとか。三番隊組長の斎藤君といい仲だと聞きますが………歳の割には一寸足りない子のようですね。ああやって一日中猫と遊んでいるくらいですから」
「ほう………」
いろいろな意味で面白そうな娘である。興味深そうな目をして、伊東はの姿が見えなくなるまでその後姿を見詰めているのだった。
藤堂が江戸から連れてきた伊東一派の動きが、どうも怪しい。隊士を個別に酒宴に誘って、自分の派閥を作っているかのようだ。
浪士組だった頃とは比べ物にならないほどの大きな組織になったのだから、派閥の一つや二つできてもおかしくはないのだが、そういうものを作られるのは土方としては非常にまずい。浪士組だった頃、芹沢派と近藤派でいつも揉めていたので“派閥”というものには拒否反応を覚えるのだ。
そもそも、土方は学のある人間というのがあまり好きではない。自分に学が無い劣等感の裏返しなのかもしれないが、学がある人間というのは理屈ばかりで実際には役に立たない者が多いような気がするのだ。伊東は北辰一刀流の使い手らしいので、口ばかりの男ではないのかもしれないが、男の癖に饒舌なのがどうもいけない。まあ、馬が合わないというやつなのだろう。これだったら、山南の方がまだマシだった。
しかも始末が悪いことに、近藤はあの伊東という男を買っているらしい。あの人は学がある人間に弱いから、ああいう弁舌爽やかな男にころりと騙されているのだろう。素直といえば素直なのだが、こういうときは厄介である。
「どうやら、伊東一派は隊士を連れての離脱を考えているようです」
不機嫌顔で煙管を吸う土方に、山崎が報告した。
土方の命令でずっと伊東一派の周りに張り付いていた山崎だが、このところの伊東一派の動きの早さには目を瞠るものがある。主だった隊士を連れて祇園や島原に繰り出し、かなりの数を篭絡しているようだ。特に伊藤を連れてきた藤堂は、完全に彼らの方に付いている。
多分、近いうちに伊東は自分の派閥を引き連れて此処を出て行くだろう。もともと、勤皇派の彼らと公武合体派の新選組が共にあるというのは無理な話だったのだ。だが、どうやって抜けるつもりなのか。普通に抜けたら“脱走”と見なされて、山南のように切腹だ。
「近藤さんも、ろくでもない奴を入れちまったな」
いつにも増して苦虫を噛み潰したような顔で、土方は独りごちる。今更言っても仕方ないが、だから藤堂が奴らを連れてきた時、あれほど入隊を反対したのだ。
伊東一派が出て行くのは、土方としては別に構わない。が、隊士を引き連れて、しかも浪士組からの幹部である藤堂まで連れて行くとなったら話は別だ。藤堂が抜ければ、隊内にも動揺が走るだろう。もともと寄せ集めの集団なのだから、一寸した動揺が命取りになる。
さてどうしようかと考えていると、障子の向こうで人が動く気配がした。
「失礼します。よろしいでしょうか?」
「おう、入れ」
音も無く障子が開けられ、斎藤が入ってきた。
斎藤の姿を認めると、さっきまで無表情だった山崎の顔があからさまに不機嫌になり、彼の姿が視界に入らないように視線を逸らす。
先日、斎藤がを自分の借家に引き入れて以来、山崎はますます斎藤への警戒を強くしている。あれ以来、を屯所の外に出さないし、斎藤と接触しないように部下を使って監視しているくらいなのだ。
山崎の敵意たっぷりの雰囲気に、斎藤は気まずい思いをしつつも部屋に入った。
山崎との間に不自然なほど距離を取って、斎藤はぎこちない動きで正座する。いつもの彼からは想像できない落ち着きの無い様子であるが、土方はそんなことには気付かないのか、気付かないふりをしているのか、表情を変えずに早速本題に入った。
「一寸君に、頼みたいことがある」
「伊東のことですか?」
伊東のことは、以前からそれとなく聞いていた。時が来たら始末をしろと、土方から遠回しに言われ続けていたのだ。
斎藤は暗殺や粛清などの汚れ仕事の殆どを引き受けていたから、伊東の粛清もそのうちやるだろうとは思っていた。だが、近藤が買っている男を、何の理由を付けて粛清するつもりなのか。それにこのことは、伊東一人を殺して済むようなことではない。
次の言葉を待つ斎藤に、土方は煙管を打ち鳴らして灰を捨てて言う。
「君は伊東たちと何度か飲みに行っているようだが―――――」
「ええ。仲間になれと何度も言われています」
大したことでもないように、斎藤はさらりと答える。実際、伊東たちと酒を飲んだところで、後ろ暗いところは何も無いのだ。飲み代はあちら持ちだし、何度も仲間になれとも言われているが、寝返る気は無いので、彼にとっては良い財布代わりでしかないのだ。
第一、伊東たちと飲みに行った時は、逐一土方に報告している。伊東が隊士を連れて新選組から分裂しようと画策しているというのも、斎藤からの情報なのだ。
「それは好都合だな。じゃあ、伊東と行動を共にしてもらおうか」
「密偵として潜入しろということですか?」
斎藤の表情が緊張する。暗殺や粛清は慣れているが、敵方に潜入して内通するなんてやったことが無いのだ。失敗したら確実に命が無い。否、今更命を惜しみはしないが、それでもやはり危険な仕事には緊張する。
しかし、何故斎藤にこの仕事が振られたのだろうか。勿論監察方の人間がやるにはあからさま過ぎるから違う人間を、というのは解る。それにしたって―――――
斎藤は、隣に座る山崎をちらりと見た。まさかとは思うが、の件が絡んで、山崎がわざとこの仕事を振ってきたのではないかと疑ってしまう。
が、山崎は眉一つ動かさずに斎藤を横目で見て、
「行きっぱなしになっては困るから、こちらでも定期的に監視を付けるけれどね。何、君ほどの男なら、あいつらも簡単に欺けるから大丈夫だろう」
何だか妙に皮肉っぽい口調である。やはり先日のことを根に持って、山崎が斎藤を推薦したのだろうか。
そういうつもりなら、こっちにだって考えがある。いつもだったら唯々諾々として受けるところだが、今回はいい機会だから条件を付けてやろうと、斎藤は決心した。
斎藤は居住まいを正すと、土方と山崎を見た。
「わかりました。その代わり、こちらとしても命懸けの仕事ですから、条件があります」
「条件?」
斎藤がそう言うのを予想していたかのように、土方が面白そうな顔をした。
「そうだな。流石に今回はいつものようにとはいかないだろうから、出来ることなら何でも聞こう」
そう言いながら、土方はちらりと山崎を見た。意味ありげな目で見られて山崎は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにもとの冷ややかな顔に戻る。
斎藤は緊張を和らげるように小さく息を吐くと、硬い表情で山崎の方を真っ直ぐに向いた。そして両手をついて、畳に額を擦り付けんばかりに頭を深々と下げる。
「お父さん。さんを私に下さい」
伊東たちが絶対に近付かない土方の部屋の近くまで走って、は漸く足を止めた。逃げるような形であいつらから離れたのは癪だけど、でもあれ以上あいつらと話すのはもっと嫌だった。どうしてこんなにも伊東たちを嫌うのか自分でもよく解らないが、とにかく何となく嫌なのだ。
さてこれからどうしようかと、ゆっくり歩きながら考える。引き返してまた伊東たちと鉢合わせるのは嫌だし、かといっていつまでも此処をうろついているわけにはいかない。土方の部屋は大事な話をする所だから、あまりうろうろしてはいけないと山崎に言われているのだ。
「どうしようねぇ?」
の肩にちょんと顔を乗せて気だるい顔をしている祇王に、小声で尋ねる。が、祇王はどうでも良いと言いたげに大きな欠伸をした。せっかく気持ちよく寝ていたのに無理やり起こされて、機嫌が悪いらしい。
ご機嫌斜めな祇王の背中を撫でながら、は小さく溜息をつく。今日は山崎も斎藤も、祇王まで自分の相手をしてくれない。そのくせ伊東たちには絡まれるし、最悪の日だ。
ぽてぽてと歩いていたら、いつの間にか土方の部屋の前まで来てしまっていた。中から山崎と斎藤の声が聞こえてきて、どうやら“大切な話”をしている最中らしい。
見付かったら山崎にまた叱られてしまう。が、慌てて引き返そうとするの耳に、斎藤の声が聞こえた。
「お父さん。さんを私に下さい」
その声に、の脚が石のように硬直してしまった。嬉しいはずなのに、身体から血の気が引いていくのを感じた。
この前、「折を見て言う」って言ってたのに、そんな急に言われたら、山崎がまた怒ってしまう。が斎藤の家に行って以来、山崎はこれまで以上に神経質になっているのだ。そんな時にこんなことを言ったら、頭の血管が切れるかもしれない。
案の定、山崎の反応はの予想通りで―――――
「ふっ……ふざけるなあっっ!!! お前なんかに大事な娘をやれるかっっ!!」
障子が震えるほどの怒声に、までぎゅっと全身を強張らせてしまった。自分が怒鳴られたわけでもないのに、恐ろしくて泣きそうになってしまう。山崎がこんな声を出すなんて、初めてだ。
山崎がどうしてここまで斎藤を嫌うのか、には解らない。斎藤はとてもいい人だと思うし、歳の割にはもの凄く大人だし、その辺の若い男よりもずっと良いと思う。暗殺とか、隊の汚れ仕事をしているのが気に入らないのだろうか。だけどそれは誰かがやらなきゃいけない仕事だし、はそれを引き受けている斎藤を偉いと思っている。山崎は違うのだろうか。
「山崎君」
激昂する山崎を嗜めるように、土方が静かな声を出した。
「斎藤君の何が不満なんだ。良いじゃないか、二人とも好き合っているようだし。まさか旗本あたりに嫁がせようと思っているわけではあるまい?」
「そんなことは考えてはいませんけどね。商人でも職人でも誰でも良いんですよ、が好きなら。だけど、斎藤は―――――新選組の隊士だけは駄目なんですよ」
土方の前であることを思い出したのか、山崎は一寸声を落ち着かせて言う。
自分だって新選組じゃないか、とは心の中で突っ込んだ。何で職人や商人は良くて新選組が駄目なのか。そりゃあ、京の街では新選組を嫌っている者も多いけれど、でもそんなことはは気にしてない。そんなことを気にするくらいだったら、屯所に住んだりはしない。
山崎が長くて重い溜息をついた。そういう溜息をつく時の山崎は、とても悲しそうな顔をする。多分今も、悲しそうな顔をしているのだろう。
「前にも話したと思いますが、あの子は目の前で親を殺されてるんですよ。幸い、本人には記憶が無いみたいですけど、拾った初めの何ヶ月かは泣きもしないし笑いもしないし、昼も夜も傍にいてやらなきゃいけないような状態だったんです。それがやっと立ち直って普通の娘になったのに、いつ死んでもおかしくない新選組の男と一緒にして、また同じことを繰り返させたくないんです。斎藤君が悪い男ではないことは判っているけれど、でも駄目なんですよ」
部屋の中が、水を打ったように静かになる。斎藤や土方はどんな顔をしているのだろう。
山崎が言った通り、には親を殺された時から数ヶ月の記憶が無い。気が付いたら山崎の所にいたという記憶しかなくて、それでもそれ以前のことには深く考えたことが無かった。多分、考えるのか怖くて、無意識に避けていたのだろう。山崎も、その話題には全く触れようとしなかったし、あからさまに避けていた節があった。
山崎が何故あれほど斎藤との仲を心配していたのか、にもやっと解った。単に斎藤のことを嫌っているのではなくて、山崎はもっと先のことを考えていたのだ。それは取り越し苦労というものなのかもしれないけれど、昔のを知っている山崎がそこまで心配する気持ちも解る。
斎藤が好きだという気持ちは、もう止められない。だけど、山崎にこんな思いまでさせてまで、斎藤と一緒にはなれない。今まで育ててくれた山崎を苦しめるようなまねをして、自分だけ幸せになれるわけがない。
いつまでもこのままじゃいられない。あの日、いつまでもこのままでいたいと願ったけれど、そんなことさえもう許されないのだ。
目を閉じて、は小さく息を吐く。そしてゆっくりと目を開けると、障子に手をかけた。
「あの………よろしいですか?」
普段と同じ声を出そうと思うのに、声が震えてしまう。部屋の中の空気が張り詰めるのが、障子越しにも感じられた。
「入れ」
硬い声で、土方が返事をした。
障子を開けると、3人が一斉にを見上げる。慣れ親しんだはずの顔ぶれなのに、には知らない人のもののように恐ろしく感じられた。多分3人の顔はいつもと同じなのだろう。違うのはそれを見るの心だ。
が口を開く前に、山崎が先に言った。
「どこから聞いてたんだ?」
「………斎藤さんが……山崎さんにお願いしているところから…………」
山崎の声は怒ってはいないけれど、怒られている時よりも怖い。は震える声で答えた。
「それなら、話は早いな。お前、どうしたい?」
「私は………」
山崎と斎藤を交互に見る。山崎のことも好きだし、斎藤のことも好きだ。二人に対する“好き”の種類は違うけれど、どちらか一人を取らなくてはならないとするのなら、どちらを取るべきか、どちらを取らなければならないのか、には解っている。どちらを取ってももう片方を傷付ける結果になるのなら、もう傷付けたくない人を選ばなくてはいけないのだ。
は祇王を下におろすと、斎藤の方に向いて正座をした。そして、両手をついて頭を下げる。
「ごめんなさい。斎藤さんとは結婚しません」
部屋の空気が凍りついたのを感じた。3人がどんな顔をしているかにも大体想像がつくが、それだけに怖くて顔を上げられない。
今、斎藤の顔を見たら泣いてしまうだろう。顔を見ていない今だって、泣きそうなのだ。
「結婚しよう」と言われた時は、本当に嬉しかった。どんなに時間がかかっても山崎を説得して、斎藤と夫婦になりたかった。けれど、それは無理なのだ。山崎が斎藤を嫌っているだけだったら、反対を押し切ってでも結婚しようと思っていたかもしれないけれど、本当の理由を聞いたらそんなことは出来ない。
斎藤にはどんなに謝っても足りないと思っている。こんなにのことを好きでいてくれているのに、一番傷付けるようなやり方をしてしまった。どんなに恨まれても仕方ないと思うし、一生恨んで欲しいと思う。そうされるだけのことをしているのは、解っている。
「ごめんなさい」
涙声になるのを必死に堪えてもう一度謝ると、は表情を隠すように立ち上がって自分の部屋に走ったのだった。
「っ!! 開けろっっ!!」
の部屋の押入れの戸をガタガタいわせながら、斎藤が必死な声で怒鳴る。
押入れの中では身体を小さくして、斎藤の声が聞こえないように力一杯両手で耳を塞いでいた。悲しいのか申し訳ないと思っているのか、自分でも理由が解らない涙がぼろぼろと溢れて、でも声が外に漏れないように唇を強く噛んで声を殺す。
「一体どういうつもりなんだっ?! 何が気に入らないんだっ?!」
気に入らないことなんて、何一つ無い。斎藤は自分には勿体無いくらいの相手だと思っている。だけど、斎藤では駄目なのだ。斎藤と一緒になったら、山崎を一生悲しませてしまう。
結婚なんか考えないで、今までのような関係をずっと続けたかった。それでも山崎は心配したり怒ったりするだろうけど、一緒に遊ぶだけだったら悲しませるまではしないと思う。沢山悩んだりしたけれど、今思えばああいう関係がそれぞれにとって一番良かったのかもしれない。斎藤の傍にいられるのなら、は“結婚”という形にはこだわらない。
けれど、こうなってしまったらもう元には戻れない。斎藤はから離れてしまうだろうし、だってこのまま斎藤の傍にいるわけにはいかない。何もかもお終いだ。
「ごめんなさい………。どうしても駄目なの。斎藤さんとは結婚しないって決めたの」
一言一言が血を吐くようで、心も身体も痛くて、はぼろぼろと大粒の涙を流す。どこが痛いのか解らないくらい痛くて痛くて堪らないけれど、でもよりも斎藤の方がずっと辛いはずだ。それを思うと、の痛みはますます強くなる。
「だから何が駄目なんだ?! 何が気に入らんっ?!」
「………ごめんなさい」
「“ごめんなさい”じゃ解らんだろうが!! 理由を言えっ!!」
「ごめんなさい………」
その声に重なるように、斎藤が癇癪を起こしたように押入れの戸を思いっきり蹴った。戸が破れるのではないかと思うような激しい音に、はますます身を縮こまらせる。
斎藤に何を言われても、今は“ごめんなさい”としか言えない。順序立てて説明したいけれど、どうしても考えが纏まらない。いつも山崎から「お前はぼーっとしている」とか「お前は頭が良くないから」とか言われたりして、その度にいつもは反発していたけれど、今はそれは正しいと思う。自分の頭の悪さに、腹が立って腹が立って仕方が無い。
斎藤の荒い息遣いが聞こえる。呼吸を整えるような短い沈黙があった後、斎藤は静かな声で言った。
「じゃあ、どうして俺とあんなことをしたんだ?」
「…………………」
好きだったからに決まってる。誰よりも好きで、一生好きだと思ったから、だから斎藤なら良いと思ったからだ。けれど、それはもう言えない。言ってしまったら、また堂々巡りになってしまう。
斎藤とずっと一緒にいたかった。同じ昼と夜を過ごしたかった。同じものを食べて、同じもので作られた身体になって、そしてあの日のように二つの身体を一つにしたかった。そうやってずっと時間を過ごしていきたかった。だけどもう、それは出来ない。
嗚咽を堪えて何も言わないに、斎藤は痺れを切らしたように戸を一つ殴った。
「もういい! 勝手にしろっ!!」
掃き捨てるような言葉の後、斎藤の足音が遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなって、は漸く耳から手を離すと、膝を抱えて額を膝頭に当てた。まだ声を上げて泣くことは出来ないけれど、でももう嗚咽を堪えなくても良い。喉から空気が抜けるような音を出して、はすすり泣いた。
泣きながら、あの日のことは一生忘れないと決心する。たった一度だけだったけれど、あの時の斎藤の身体の熱も、匂いも息遣いも声も、に触れた掌の硬さも、一生忘れない。斎藤がの目の前からいなくなっても、この先、違う誰かと結婚することになっても、あの日のことは一生忘れない。
そして、今日のことも一生忘れない。こんなにも人を傷付けてしまったことは、一生忘れてはいけないのだ。
「ごめんなさい………」
どんなに謝っても許されることは無いけれど、はもう一度呟いた。
ああ、何か話がこじれてきましたねぇ。最近スランプなんで、一波乱起こしたら一寸はマシになるかなーって思ったんですけど、更に纏まらなくなってしまいました。しかも、何だかまた中途半端なところで終わってるし。つか、これって“喧嘩”とはいえないのでは?
成り行きで伊東甲子太郎も出しちゃったんですけど、一度シリーズ全部読み返したら、時系列とか屯所の様子とか、一寸おかしい点とかあるかも。確認してないですけどね。もう今更修正きかないしさ。もし見つけたとしても、生温い目でスルーしてやってください。まさかこんな展開になるなんて、当時は思ってなかったんですよ。すみません。
まあ折角伊東さんも出たんで、油小路の変を入れようかと思います。『新選組実録』(ちくま新書)でも読むかな。
計画では一応ハッピーエンドにすることになっておりますので、どうか今しばらくお付き合いください。よろしくお願いいたします。