健康的

 は女にしては珍しく煙草好きであるが、寝起きの一服と食後の一服は美味いと思う。特に満腹した後の一服は、格別だ。こういう時、煙草を吸っていて良かったと思う。
 勿論、だって煙草の害については知っている。男性に比べて体が小さい女性は特に悪影響を受けやすいと、新聞記事でも以前読んだ。また、喫煙女性は早産の可能性も高いという。まあ、独身のまま三十路に突入してしまったには、もう子供を持つ気は無いのだが。今のところ、その予定も無いし。けれど、喫煙者は非喫煙者に比べて寿命が短いと言われると、一寸禁煙してみた方が良いかなとも思うこともある。
 とはいえこれを止められないのは、それがもう習慣になっているからなのだろう。朝起きて一服しないと頭が回らないし、食事の後に一服しないと食事が終わった気がしない。仕事で煮詰まった時も一服すると頭が冴えるような気がするし、暇な時も一服すればそれなりに時間が潰せる。改めて考えると、煙草無しには一日が回らない状態だ。完全に依存症である。
 というわけで今日も、警視庁の食堂で昼食をとった後、は斎藤と珈琲を飲みながら一服している。珈琲を飲むようになったのはごく最近なのだが、珈琲と煙草というのは非常に相性が良い。
「ところで君」
 珍しく煙草を出さない斎藤が、おもむろに口を開いた。
「“君”っ?!」
 二本目の煙草に火を点けようとしたが、大きく目を見開いて頓狂な声を上げた。
 警視庁に転勤になって4ヶ月、斎藤から名前を“君”付けで呼ばれたのは、これが初めてだ。いつも「お前」とか「おい」とか、名前で呼ばれたことなんか一度も無い。それがいきなり“君”である。斎藤の脳内で何が起こったのか判らないが、不気味だ。
 煙草を人差し指と中指に挟んだまま固まっているの様子は無視して、斎藤は話を続ける。
「君は―――――」
「“君”ぃっ?!」
 は更に頓狂な声を上げた。斎藤の口から“君”なんて上等な単語が出てくるなんて、信じられない。“藤田五郎警部補”として他の部下に「君」と呼びかけることはあるようだが、“斎藤一”として接しているにだけは、絶対にありえないことだ。目の前にいるのは、本当に斎藤なのか?
 信じられないものを見るような目で見るに、斎藤は不愉快そうに舌打ちをして、
「いちいち復唱するな、鬱陶しい」
「あんたこそ一体何なのよ、気色悪い」
 やっといつもの斎藤に戻って、もほっとして反論する余裕が出た。雑に扱われてほっとするなど情けない限りだが、習慣なのだから仕方が無い。
 煙草を咥えて今度こそ火を点けようとしただったが、マッチの火が煙草に移る前に斎藤が煙草を取り上げる。
「ちょっ………!」
「お前、煙草を止める気は無いか?」
「は?」
 意外な斎藤の言葉に、は怒ることも忘れて間抜けな声を出してしまった。が、の間抜け面とは対照的に、斎藤は神妙な顔をして、
「禁煙しようと思うんだが―――――」
「誰が?」
「俺が」
「はぁ?」
 またまた意外な言葉である。斎藤が禁煙するなんて、太陽が西から昇るくらいありえないことだ。
 も煙草を吸う方だが、斎藤はそれに輪をかけた愛煙家だ。一日の消費量は数えたことが無いから判らないが、愛煙家のでさえ、お前は煙突かっ?! と突っ込みたくなるほどなのだから、一日で2箱は吸っているだろう。それを止めるというのである。斎藤の中で何があったのだろうと、は訝った。
 確かに煙草を止めるのは、身体にはとても良いことである。禁煙に成功した同僚によると、煙草を止めた途端に階段を上っても息切れをしなくなったし、肌の色つやも良くなったそうである。息切れ云々はともかくとして、肌の色つやがよくなるというのは、には魅力的な話だ。三十路に突入して、更にお肌が気になるお年頃なのである。
 斎藤も息切れが気になるお年頃なのだろうか。彼も34なのだから、そろそろ身体にガタが来るお年頃ではある。
「何でまた?」
「子供が出来た。2ヶ月だとさ」
「はあっ?!」
 これにはも、頭が一瞬真っ白になるほど驚いた。いや、斎藤は結婚しているし、既に男の子が一人いると聞いているから、更に一人出来たと言われても今更驚くことではない。けれど、子供が出来たというのはつまり、妻とそういうことをしているというわけで、そのことが“昔の女”には妙に衝撃的だったりするのだ。
 そっち方面でも衝撃的なのだが、出来た時期も衝撃的だ。仕込んだと思われる時期を逆算すると、あの頃はいくつも仕事が重なって、も斎藤も殆ど家に帰ることができなかった時だ。密偵の仕事もあったし、書類の提出が間に合わなくて連続で徹夜をしたこともあった。あんなクソ忙しい時期に、どうやって子供を作ったんだ?
 そういえばあの頃、「このままでは過労で死んでしまうから、一度家に帰らせてくれ」と斎藤に拝み倒されて、丸々一日休ませたことがあった。もしかしてあの時か?
「あんた、過労で死ぬとか言いながら、子供を作る体力はあったんだ? そういや昔っから、そっち方面は体力が有り余ってたもんねぇ」
 腹が立つというより呆れて、は冷ややかに言う。その言葉に、斎藤にしては珍しくうろたえた様子で顔を赤くして、
「ふっ…夫婦なんだから、たまの休みぐらい良いだろうがっ!! つか、昔の事を持ち出すなっっ!!」
「ええ、たまにしか会えないんですから、さぞかし濃厚な一日を過ごされたんでしょうねぇ。夫婦円満で結構ですなあ」
 ニヤニヤと笑いながら、それでも思いっきり皮肉を込めた口調である。別に嫉妬をしているわけではないのだが、意地悪を言ってしまうのが自身も不思議に思う。
 とりあえず頭を冷やそうと、は箱から煙草を取り出して火を点ける。深く煙を吸って吐くと、何となく気分が落ち着いたような気がした。
 何回かそれを繰り返し、は漸くいつもの調子に戻った。
「で、あんたに子供が出来たのと、私の禁煙と、何の関係があるの?」
 斎藤も珈琲を飲んで気持ちを落ち着けると、いつもの調子で、
「時尾が、子供の体に悪いからいい加減煙草を止めろとうるさくてな。一人で禁煙しても良いんだが、連れがいた方が長続きするだろ。大体、女が煙草を吸うのは男よりも体に悪いらしいじゃないか。だから、いい機会だからお前も止めろ」
 いつの間にか命令形である。斎藤の辞書には“お願いします”という言葉は無いのだろう。
 止めろと命令されるのは何だかムカつくが、禁煙自体は悪いことではない。止めた方が良いかなーとは、一寸は思っていたし。斎藤が禁煙友達になるなら、意地で禁煙できそうな気がするし、にとっても良い機会かもしれない。
 は煙草を揉み消すと、恩着せがましく言った。
「ま、どうしてもって言うなら、一緒に禁煙してアゲル」





 そんなわけで二人で禁煙することになったのだが、いつもの習慣が一つ無くなったというだけで、何だか重大なことが欠落したような落ち着かなさがある。一日が妙に長く感じられて、自分は喫煙にこんなにも時間を割いていたのかと驚かされる思いだ。
 最初の三日は、口寂しかったり時間を持て余したりと落ち着かなかっただが、それを過ぎると身体が煙草の無い生活に慣れたのか、これといって苦にならなくなったようだ。突発的に吸いたくなる時もあるが、飴を舐めてどうにか誤魔化せている。禁煙は辛いと聞いていたが、に関して言えば、案外そうでもない。
 が、問題は斎藤の方である。彼は最初の三日どころか、一週間経とうとする今も落ち着かないようだ。気が付けば筆の尻をガリガリと噛んでいたり、人差し指でトントントントンと苛立たしげに机を叩いている。眉間の皺もいつもより深くて、その険悪な雰囲気に以外の人間が近付けないくらいだ。
 飴を舐めながら書類を書いていたが、真向かいに座る斎藤の様子を盗み見る。相変わらず眉間に皺を寄せて不快そうな様子の彼に、は筆を置いて尋ねた。
「また頭が痛いの?」
 煙草をやめると身体の調子が良くなると聞いていたが、斎藤はその逆だ。禁煙を始めてから頭痛がするだの胸が苦しいだの、常に調子が悪いらしいのだ。眉間の皺は、煙草を吸えない苛々よりも、そっちが原因らしい。
 医務室に詰めている医者の話によると、これは煙草に含まれている物質の禁断症状らしい。煙草には麻薬のような依存性の強い物質が含まれていて、斎藤のように重度の喫煙者になるとその物質の中毒者になってしまうらしいのだ。そういうわけで、身体の中から依存物質が完全に抜けるまでこの症状は続くのだと、医者は言っていた。
「頭も痛いが、吐き気もする」
 “苦虫を噛み潰したような顔”というのはこういうものなのかと思うような苦々しい顔で、斎藤は不快そうに言った。
 禁煙に失敗した者の話によると、この頭痛も吐き気も、煙草を吸ったら一発で治るのだという。禁断症状で苦しむ阿片中毒患者が、阿片を吸ったら気分が和らぐのと同じ理屈なのだろう。正直、斎藤自身もここまで中毒症状が進んでいるとは思わなかった。
 だが、ここで煙草を吸ったら、今までの苦しみが水の泡である。それよりも、自分から禁煙を誘っておいたくせにそれを破っては、に何を言われるか分かったものではない。苦しくても今日まで禁煙が続いているのは、時尾に言われたからとか子供のためとか当初の目的のためではなく、に対する意地だけである。そういう意味では、を禁煙に巻き込んで成功だったといえる。
「完全に中毒だね。どう? このまま続けられそう?」
 大して心配をしている様子も無く、それどころか一寸小馬鹿にしたようにが訊いた。こうやって上から見下ろすように斎藤に声を掛けるのは、これまでの付き合いで初めてのことだ。今まで雑に扱われていた反動で、そうできるのが嬉しくて嬉しくて、はどうしても顔がにやけてしまう。
 今のところ、禁煙勝負はが圧倒的に有利である。煙草を咥えるという行為が出来ないことに苛々するものの、斎藤のような禁断症状は無い。この調子ならすっぱりと禁煙できそうだ。斎藤より先に煙草と縁が切れるのは確実だから、その暁には彼を思いっきり見下してやるつもりである。
 それが分かっているから、斎藤は更にむっつりとして、
「続けんと、お前に何を言われるか分かったもんじゃないからな」
「せいぜい頑張って頂戴よ。愛する妻と子供のためにもね」
 からかうような口調でそう言うと、は偉そうに鼻先で笑った。





 禁煙10日目。は以前いた九州の県警からの御指名で、大物貴族院議員の遊説会の警備のために出張に出ることになった。といっても議員の護衛だとまた問題が起こる可能性があるので、今回は現場指揮である。
 この頃になるとも煙草の無い生活に完全に慣れたようで、苛々するほどの口寂しさというのはあまり感じなくなっていた。考え事をしていて、それが煮詰まっている時は一寸吸いたくなることもあるが、それも何とか我慢できている。この調子だと、今月中には完全に禁煙できそうだ。
 県警の執務室で会場の見取り図を片手に警備の人配を考えているの前に、突然煙草の箱が現れた。
「?!」
「吸うだろ?」
 驚いて顔を上げるに、口の端に煙草を咥えた男が言った。彼はが此処にいた頃に親しくしていた同僚で、石岡という。今回、をこちらに呼びつけたのも、彼だった。
「今、禁煙してるんだ」
「へぇ………どういう風の吹き回しだ?」
 にっこりと笑って断るに、石岡は目を丸くして驚いた。此処にいた頃のは石岡よりも煙草を吸っていたのだから、そんな彼女の禁煙宣言に驚くのは無理も無い。
「今の上司の禁煙に付き合ってやってるんだよ。一人じゃ続けられないから、一緒にやってくれって言われてさ」
「へぇ………」
 の答えに、石岡はますます驚いた顔をした。上司に付き合ってやるなんて、彼の知っているにはありえないことだ。
 石岡が知っているは、上司との付き合いも同僚との付き合いも完全に仕事上のものと割り切っていて、私生活にまで入り込まれることを極端に嫌う人間だった。石岡とだけは個人的にも親しくしていたが、それは彼がの女の部分に触れなかったからだ。あわよくばと思っている上司や同僚の中で、石岡だけはそうではなかったから、も安心していたのだろう。
 の新しい上司である藤田五郎とかいう男は、噂によると凄腕の密偵らしい。どんな性格の男かまでは石岡には伝わっていないが、の様子から察するに、彼女にとっては良い上司なのだろう。そうでなければ、あの煙草好きのが禁煙を付き合ったりなどしない。やっと良い上司に恵まれて落ち着く場所を得られたのかと、石岡は他人事ながら嬉しくなる。
 けれどそれは、もしかしたらと藤田とかいう男が特別な関係になっているのではないかと、石岡としては心配になる。彼は一度もそんな素振りは見せたことは無かったが、本当はずっと前からのことが好きだったのだ。
「お前、もしかして、今の上司と何かあるのか?」
「はいぃ?」
 目の奥を探るように真顔で聞いてくる石岡に、は何を言っているのかと眉を顰めた。禁煙を付き合ってやるのがどうしてそういう解釈になるのか、には意味が解らない。
 の反応に自分の心配が杞憂であることが判って、石岡は内心胸を撫で下ろした。そして場を誤魔化すように乾いた笑い声を上げて、
「冗談だよ、冗談。だけど付き合ってるからって、ちゃんと禁煙できているなんて凄いなあ」
「当たり前だよ。吸ったのがばれたら、何言われるか分かったもんじゃないからね。全人格を否定してくるよ、奴は」
 憎々しげに口を歪めては言うが、それでもその目は楽しそうに笑っている。口では何と言っても新しい上司と上手くやっているらしいことは、石岡にも見て取れた。
 にとって、どうやら今の場所は居心地が良いらしい。これで彼女の転勤生活が打ち止めになるのなら石岡にとっても喜ばしいことだが、その反面、此処にはもう戻らないのだろうなと思うと寂しくもある。
 が、石岡は表面上は嬉しそうに微笑んで、
「新しい人と上手くいってるみたいで安心したよ。このままずっと警視庁にいるつもりか?」
「うーん………それはどうだろう。でも、いれたら良いねぇ」
 石岡の言葉に、は一寸考えて答えた。
 斎藤は口は悪いけれど、いい奴だと思う。自己中なところがあって偉そうで俺様な男だけど、の希望を聞いて護衛の仕事は一切させないし、酒席でお偉いさんに酌をさせることも絶対に無い。いつもが仕事をしやすいように考えてくれているし、良い上司だとも思う。
 昔馴染んでいた男だということもあるのかもしれないが、斎藤の下にいるのはとても居心地が良い。できることなら、定年までずっと一緒にいれたらいいなあと思うのだ。斎藤にそう言ったらいい気になるに決まっているので、絶対に言わないが。
「ふーん………」
 が新しい職場に馴染んで楽しそうなのは、石岡も嬉しい。けれど、新しい職場に馴染んでしまうというのは、もう此処に戻ってくることは無いかもしれないということで、そう思うと石岡の思いは複雑なのだった。





 出張を終えて、は三日振りに警視庁に出頭した。
「ただいまー。これ、あっちの地酒だって。それとこっちはお饅頭。みんなで分けてね」
 朝っぱらから元気一杯に挨拶すると、は斎藤の机の上に酒瓶と饅頭の箱を置いた。
 禁煙して2週間が経って、は完全に煙草の無い生活に慣れてしまったらしい。出張の間、指示通りに動いてくれない警官に苛々したことがあったが、それでも煙草で紛らわしたいとは思わなくなっていた。それどころか石岡が吸う煙草の煙が異常に煙たく感じられて、彼が煙草を吸う度に臭いだの煙いだの怒り出す始末。自分だって一寸前まではそうだったくせに、勝手なものである。
 煙草を止めてから、朝の空気が爽やかになったような気がする。肺の中が綺麗になったのだろう。食事も美味しいし肌の調子も良いようだし、煙草を止めて良いことずくめである。
「朝っぱらから元気だな、お前は」
 朝刊から目を離した斎藤が、感心したように言う。
 出張前までは身体の不調を訴えて不機嫌全開だった斎藤だが、今日は調子が良いらしい。顔色もいいし、相変わらずの無表情だが、周りを怯えさせるような険悪な雰囲気はどこにも無い。禁断症状がやっと切れたのだろうか。
 饅頭の箱を開けて茶の用意をしながら、は機嫌良く話しかける。
「煙草を止めてから、身体の調子が良くてね。朝も爽やかだしご飯も美味しいし、健康的ってカンジ?
 あ、そういや、そっちは調子どう?」
「ああ、止めたよ」
 朝刊を捲りながら、斎藤は何でもないことのように答える。
「へー、止められたんだ。あれだけきつそうだったのに、大したもんだわ。奥さんもびっくりしたんじゃない?」
「いや、禁煙を止めたよ」
「………え?」
 斎藤の言葉に、は自分の耳を疑った。「煙草を止めた」じゃなくて「禁煙を止めた」と言ったのか、今?
 顔を引き攣らせて振り返るに、斎藤はニヤリと笑って、
「煙草を止めるのを止めたんだよ」
「えっ………だって、あんた………え? 奥さんは………?」
 出張中も斎藤は禁煙していると信じて自分も頑張っていたのに、何なんだ、それは? 予想外のことには上手く言葉が出なくて、あわあわしてしまう。
 自分から禁煙を誘っておいて、がいないうちに勝手に約束を破るとはどういう了見なのか。これはに対する重大な裏切りである。それよりも禁煙を勧めた妻は何も言わないのか。
 怒りと驚きでどうして良いのやら分からなくて表情を目まぐるしく変えるが可笑しかったのか、この期に及んでも斎藤は喉の奥で愉快そうに笑う。
「俺があんまり具合が悪いと言うから、もう禁煙しなくて良いって言ってくれたんだよ。いやあ、時尾は本当に出来た女だ」
「何だそりゃ?!」
 自分で禁煙しろと言っておきながら、亭主が一寸辛そうなのを見たら禁煙しなくて良いなんて、女房も女房だ。禁煙が辛いというのは解りきったことじゃないか。それを辛そうだからもういいなんて、本気で禁煙させる気があったのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。
 っていうか、斎藤の禁煙に巻き込まれて、本当に煙草を止めてしまったの立場はどうなるのか。もそれなりに辛い思いをしていたのに、何だかもの凄く損した気分だ。それより何より、“昔の女”の目の前で平気でのろけて見せる斎藤の無神経さにも腹が立つ。
「のろけてんじゃねぇよ、この馬鹿夫婦がっっ!! 煙草を止めた私の立場はどうなるのよっっ?!」
 癇癪を起こして怒鳴るに気圧されてしまったのか、斎藤はいつもよりも一寸下手に出るように、なだめるような猫なで声で、
「まあまあ。良いじゃないか、煙草を止めて身体の調子が良いんだろ? 煙草を止めるのは良いことだし、俺より意志が強いってことが証明できたんだから。お前は俺よりもずっと偉い人間なんだよ」
「う………それは………」
 そこまで言われると、も怒りが殺がれてしまう。いつも偉そうにしている斎藤からそうやって煽て上げられると、こっ恥ずかしいやら何なのやら、それ以上何も言えなくなってしまうのだ。
 確かに煙草を止めて目に見えて健康になったし、煙草代の節約にもなるから良いことずくめなのだが、それでも損したような気分は消えない。まあ、斎藤よりも意志が強い人間であることを証明できたというのを慰めにするかと、は自分に言い聞かせて怒りを鎮めようとする。いつまでも怒っていても仕方ないし。
 が、が大人しくなったので気を良くしたのか、よせば良いのに斎藤はいつもの偉そうな態度に戻って、
「ま、それより偉いのは、お前に煙草を止めさせた俺なんだけどな」
 斎藤らしい余計な一言である。あまりにも斎藤らしすぎて、は怒るのを通り過ぎて笑ってしまった。
「何偉そうに言ってるのよ、意志薄弱のくせに」
 呆れて笑いながらそう言うと、は茶を淹れて饅頭を皿に載せる。それを机に置くと、早速お茶を啜った。
「あれ? 俺のは?」
 饅頭を食べるに、斎藤がきょとんとした間抜け面で問うた。いつもなら、朝一番のお茶を一緒に淹れてくれるはずなのに。
 湯呑みを置くと、は涼しい顔で、
「おエライ斎藤様にワタクシ如きがお茶を淹れるなんて畏れ多くて」
 笑っていたから油断していたが、はただ事ではなく怒っているらしい。当然といえば当然である。
 は一見さっぱりした気性に見えるが、意外としつこくて執念深いところがある。これは当分、このネタでねちねちと言われるのだろうなあ、と斎藤は小さく溜息をつくのだった。
<あとがき>
 “健康的”ってことで、禁煙ネタ。実はこれ、私が実際にやられた話が基になっています。
 以前職場にいた上司に子供が出来て、「一緒に禁煙しよう」って誘われて付き合ってやったんですけど、この斎藤みたいに私が旅行に行ってる間に勝手に禁煙解除しやがってたんですよ。ええ、もう腹が立つやら何なのやら。私の立場はっ?! ってなもんですよ。しかも「俺が煙草を止めさせてやったんだから」なんて言いやがるし。
 二人で禁煙して、自分は止められても相手に裏切られると、禁煙出来ちゃったことがどうも損したような気分になるんだよねぇ。煙草を吸わないのは良いことずくめなのに、何でだろう? ちなみに現在も私は休煙中(“禁煙”ではない)。一人旅の時に、開放感を味わうために吸ってるんで。
 えー、何だか九州の石岡さんというキャラが出てきましたが、誰だよこいつ? 場繋ぎに即興で作ったんだけど、何だか主人公さんのこと好きみたいだし。何かでまた使うか。ということは、まだこの主人公さんシリーズは続くわけですね。あいたー!
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