お酒を呑もう!

 九州の県警から警視庁に転勤の辞令が出た。
 地方から中央への異動だから、普通に考えると栄転なのだが、の場合は体の良い厄介払いという印象が強い。というのも先日、警護していた議員を思いっきりぶん殴った直後の異動なのである。
 というわけで、県警から匙を投げられた形で警視庁に押し付けられたであるが、本人は別に気に病んではいない。こういう配置換えは慣れているし、新しい上司の下で心機一転というのは悪くない。
 新しい上司は、藤田五郎という警部補らしい。も同じ警部補なのに上司と部下になるというのはおかしな話だが、肩書きは据え置きの事実上の降格人事なのだろう。こういうことも慣れている。
 聞いた話によると、藤田警部補とやらは、なかなかやり手の密偵らしい。かつて西南戦争にも抜刀隊として従軍し、報奨金と勲章を貰ったらしいから、剣の腕も立つのだろう。上司として、不足は無い。あとは、彼の人となりである。
 実は、いつだったかの異動の原因は、上司を殴ったことだった。今度の上司とは、そんなことが無いことを祈りたい。
 上司が控えている部屋の前に立つと、は緊張を解きほぐすように一つ深呼吸をした。そしてゆっくりと扉を二回叩く。
「どうぞ」
 落ち着いた低い声で返事があった。とりあえず、声は悪くない。これは男としても期待できそうだと不謹慎なことを考えながら、は扉を開けた。
「失礼しま―――――」
 部屋の主を見た瞬間、はそのまま硬直してしまった。
 執務机に座っていたの“上司”は、明治になる以前にも上司だった男だったのだ。否、それだけではなく、かつては親密な関係を持っていた男―――――
「斎藤一………」
 大きく目を瞠ったまま、の唇から男の名が漏れた。
 明治になる以前、この国が新時代に向けて走り出していた頃、二人は新選組として激動の京都を生きていた。斎藤は三番隊組長として、そしてはお抱えの密偵として。基本は別行動だったが、組んで仕事をすることも多く、自然とそういう仲になった。けれど、時勢に押されて斎藤たちは京都を離れ、女のはそのまま取り残されて、それっきりになってしまったのである。
 風の噂では、斎藤は会津で死んだと聞いていた。けれど、目の前にいる男は紛れもなく斎藤一で、は血の気が引いた白い顔のまま、足許から崩れそうになった。
「久し振りの再会で、そんな顔はないだろう」
 幽霊でも見たような顔をしているを見て、斎藤は皮肉っぽく口許を歪めた。そういう笑い方も昔と全く同じで、懐かしさでは涙が出そうになる。
「………死んだって聞いてた………」
「そう簡単にくたばらんことは、お前が一番よく知ってるだろうが」
 子供のような頼りない声で呟くに、斎藤が苦笑した。が、そんな優しい表情は一瞬で、すぐに仕事用の無表情になって、
「地方に凄腕の女の密偵がいると聞いていたが、お前だったとはな。しかしまあ、お前の経歴も華々しいもんだ」
 の経歴が書かれている書類を手に取って、斎藤は皮肉っぽい口調で言う。その書類には、斎藤のこれまでの異動歴とその理由が書かれている。
「京都では署長を殴り、福岡では県議に肘鉄。高知では貴族院議員相手に抜刀―――――って、何をやっているんだ、お前は? いくら何でも抜刀はないだろうが」
「スカートに手を入れられた」
 呆れたように言う斎藤に、はそのときのことを思い出したのか、不快そうに顔を歪めて答えた。
 密偵の仕事が無い時は、は政治家の護衛もやっているのだが、守られる側は護衛とは思ってない輩も多いらしい。料亭に連れて行かれて芸者のように酌をさせられるのは良い方で、肩を抱かれたり髪を触られることなど日常茶飯事なのだ。
 まあ、それくらいであれば、も大人であるから、にっこりと笑って軽くあしらうことも出来るのだが、それ以上の接触となるとそうはいかない。彼女の華々しい異動遍歴は、それに対する抵抗が原因なのだ。
 勿論、もこの状況を放置していたわけではない。制服は男物に変えたし、化粧もやめた。自慢だった黒髪だって、男のように断髪したのだ。それなのに助平オヤジの魔手は止まることを知らず、今に至っているのである。
「で、その格好か」
 男装の麗人といった形のをしみじみと見遣って、斎藤は言った。
 なりに考えた格好なのだろうが、美人の男装というのは倒錯的で、逆に男心をそそっているのではないかと斎藤は思う。が、そんなことを言うと、今度は彼が殴られてまた異動ということにもなりかねないので、黙っている。
 警視庁としても優秀な女の密偵というのは喉から手が出るほど欲しい人材だし、それが気心の知れたであれば斎藤としても都合が良い。可能であれば、このまま定年まで警視庁にいてもらいたいくらいだ。
 斎藤は書類を机に放って、
「ま、こちらでは問題を起こすなよ。俺も気を付けておくが」





 就業時間が終わって、斎藤が飲みに行こうと言った。
 他の男であればも警戒して断っただろうが、相手は斎藤である。積もる話もあるし、“そういう状況”になった時はその時に考えれば良い。も斎藤に負けない酒好きなので、二つ返事で承諾した。
 斎藤が連れて行ってくれたのは、警視庁から少し離れた所にある小さな居酒屋だった。仕事帰りに時々寄っているらしい。
「料理も安いし、感じの良い店じゃない」
 座敷に上がってお品書きに目を通しながら、が機嫌よく言う。久々のお酒、しかも斎藤が奢ってくれるそうなのだ。といっても、後で経費で落とすらしいのだが。
 まあ、金の出所などどこでも良い。自分の懐が痛まず、ついでに斎藤の懐も痛まないということは、食べ放題飲み放題ということである。
「えーと、何にしようかなー」
「少しは遠慮しろよ。お前はチビのくせに、男並みに飲み食いするから」
 楽しそうに料理を選ぶに、斎藤が釘を刺すように言う。そして煙草に火を付けて、
「吸うか?」
「え? ああ……うん……」
 差し出された煙草の箱を受け取ると、も一本咥えて慣れた手つきで火を点けた。煙草を吸うようになったのは、警官になってからだ。今日はまだ一本も吸っていないのに、どうして斎藤に気付かれたのだろうと、は不思議に思う。
 二人が殆ど同時に煙を吐いた。
「京都で別れたきりだから、かれこれ12、3年振りか………」
 斎藤がポツリと呟いた。それに対し、は頬杖をついて目だけで笑う。
「22と二十歳で別れて、いきなり三十路のオジサンとオバサンなんだから。びっくりしちゃう」
「まったくだ」
 お互い歳を取ったものだと、は改めて思う。斎藤は昔から老け顔だったから、人相にはそう代わりはないが、それでもやはり老けたと思う。多分、斎藤も同じように感じているだろう。12年というのは、そう思わせるのに十分すぎる歳月だ。
 店員が注文を訊きに来たので、酒と料理を適当に頼む。注文する料理が、昔だったら絶対注文しないあっさり風味のものが殆どであることに気付いて、店員が去った後にはニヤリと笑った。
「食べるものまで老けちゃって」
「夜に重いものを食うと、胃もたれがするようになってな」
 自嘲するように斎藤が苦笑する。
「確かに昔のようには食べられなくなったね。あと、前日の酒が残ったりしない?」
「それは無いな―――――って、辛気臭い話になってきてるぞ」
 斎藤の突っ込みに、は声を立てて笑う。胃もたれだの前日の酒が残るだの、全く辛気臭い話だ。昔の男に会ったのに、色気もへったくれも無い。
 今更、昔のような関係に戻りたいとは思わないし、戻れるとも思えない。正直言って、二十歳やそこいらの頃の情熱がもう互いの中に残っていないことは、だって解っている。けれど―――――
 は煙草を揉み消して言った。
「また、昔みたいに一緒に仕事が出来るなんて、思わなかったわ」
「ああ………」
 斎藤も煙草を揉み消して、静かに応える。続けて、
「まさかお前も警官になっていたとはな」
「まあ……いろいろあってね」
 言葉を濁すに、斎藤はそれ以上追及はしない。“いろいろ”というのは、まあ“いろいろ”なのだろう。京都で別れてから、にいろいろあったように、斎藤の人生にもいろいろあった。その中には話したいことも勿論あるし、それはも同じだろう。
 何となく黙り込んでしまった二人のもとに、酒と料理が運ばれてきた。押し黙っている二人に店員は一瞬妙な顔をしたが、二人の顔を見ないように皿を並べると、そそくさと席を離れた。
「じゃ、いただきますか」
 何となく重なってしまった空気を払うように、は必要以上に明るい声で言うと、パンと手を合わせた。
 とりあえずは口当たりの良い清酒、斎藤は焼酎を飲みつつ、黙々と食事をする。食事をしながら会話をするという習慣は、二人の間には無い。
 食事をする斎藤を見ながら、相変わらず綺麗な食べ方をする人だと、は思う。斎藤の取り皿は猫が舐めた後のように綺麗で、彼の神経質な性格を表しているようだ。こんなに綺麗な食べ方をする人を、は他に知らない。
「お前―――――」
 アジの開きを食べているに、斎藤がいきなり声を掛けた。
「魚食うのだけは、昔から巧いな」
「子供の頃、魚ばっかり食べさせられてたから………」
 何故か赤くなって、は弁解するように言う。
「そういえば、親が漁師だったと言ってたか」
「そんなこと、憶えてたんだ」
 自分の生まれのことは、ずっと昔に一度話したきりのはずだ。そんなことを今も憶えていてくれたことが嬉しい。
 思わず口許に笑みを浮かべるに、斎藤は照れたような苦笑いを見せて、
「そういうことは妙に憶えているものなんだ」
「そっか………」
 確かに、自分でもどうしてこんなこと憶えてるんだろうと思うような細かいことの方が、案外よく憶えているものだ。仕事上の大切なことはコロッと忘れてしまうことが結構あるのに、人間の脳というのは不思議なものである。
 清酒のコップを傾けたが、何かを思い出したように小さく笑った。
「そういえば貴方、お酒を飲むと人を斬りたくなってたけど、今も?」
「厭なことを憶えてるな」
 斎藤が面白くなさそうに顔を顰める。
 斎藤の酒好きは昔からだったが、どうも酒乱の気があって、よく一緒に飲んでいたは手を焼いていたものだ。平素は物静かな男のくせに、酔うと何かが切れるのか、一寸したことで抜刀する。しかも、それが暴れて抜刀というのなら只の酒乱だが、据わった目で静かに抜刀するのだから、本気で斬る気らしい。がその場をとりなして丸く収めたことが、何度もあった。
 その当時のことを思い出し、は盛大に溜息をついた。
「まったく、あの頃は私、貴方と飲みに行く時は酔うことも出来なかったんだから。貴方を止められるのは私しかいないって、誰も手を貸してくれないし」
「それは済まなかったな」
 昔の恥を穿り返されて、斎藤は憮然とするが、反論はできない。あの頃は本当に、には世話になっていたのだ。大人の子供ほど身長差がある上に、新選組で一、二を争う剣豪だった彼を止めるのは大変だっただろうと、斎藤は思う。
 もう酔いが回ったのかは意味も無く喉の奥で笑って、
「今だから言っちゃうけど、あの頃ね、いつも私、どうしようもなくなったら貴方を殺して私も死のうと思ってたのよ」
「えっ?!」
 今更の告白に、斎藤はぎょっとした顔をした。が、はそんな反応など見ていないように、遠くを見るような目をして続ける。
「だって、酔っ払った時の貴方って、本当に誰彼構わず斬りそうな時があったのよ? このままじゃ、いつか関係の無い人を殺しちゃうかもしれないって。その前に何とかしなきゃって、追い詰められてたのよねぇ………」
 の口調は、まるで他人事である。そんなことも、今では思い出に変わってしまったのだろう。
 そう思って油断していた斎藤が焼酎に口を付けた時、がコップを叩きつけるように置いた。そして忌々しげに、
「ほんとに何回か本気で殺そうかと思ったこともあったけど、あんたなかなか死なないし、お酒さえ飲まなきゃ良い人なんだし、こっちも情が移ってるしで、結局今に至るわけなんだが!」
 言っているうちに昔のことを思い出して腹が立ってきたのか、の語気がだんだん荒くなっていく。
 どうやらは、酔うと愚痴っぽくなるらしい。酔ったところを見たことがない斎藤にとっては、初めて知る彼女の一面である。
 もしあの頃、二人が一緒に酔っ払っていたら、さぞかしウザい組み合わせだっただろう。に理性が残っていて良かったと、今更になっては思う。
 昔世話になっていた分、今度は斎藤が世話をしてやらなければならないようだ。一升瓶から酒を注ぎ足すに、斎藤がなだめるように言う。
「まあな、昔はそうだったが、今は違うから大丈夫だって」
「ほんとに〜〜?」
 疑うような上目遣いで、が酔っ払い特有のねっとりとした口調で聞く。これは完全に酔っ払っているらしい。
 見ると、丸々一升あった酒が、いつの間にやら半分に減っている。昔だったら平気な量だった筈だが、引越しの疲れと初登庁の緊張で、酔いの回りが早くなっているのだろう。それとも、単に加齢によるものなのか。
「当たり前だ。これでも一応警官だぞ」
「歳取って人間が丸くなったんだ」
 からかうように言うと、今度は喉の奥でくくっと笑う。暫くそうやって笑っていたが、何だかとまらなくなったらしく、腹を抱えて笑い出した。どうやらは、絡み酒な上に笑い上戸であるらしい。うるさい酔っ払いである。
 まあ、暴れられるよりはマシかと、斎藤は諦めの溜息をついた。昔だったら多分、そんな鬱陶しい酔い方をされたら、一発殴って大人しくさせていたところだ。このあたりも、人間が丸くなったのだろう。の言う通り、歳を取ったせいかは解らないが。
「お前は丸くなっていないようだが」
 斎藤がおもむろに煙草の火をつけた。
 その言葉に、の笑いがぴたりと止まる。そして、台に身を乗り出して、
「あれはー、私は一つも悪くないの! みーんな、あいつらが悪いんだから! 料亭で芸者みたいに酌させられて、いきなり指三本握られて、“月々これでどうだ?”とか言われるのよ? でもって、胸を鷲掴みにされたり、お尻を撫でられたりするんだから! あたし、全然悪くないのにー」
 今度は泣きそうな顔になったので、斎藤は慌てて酒を注いでやりながらなだめる。
「そうだよな、うん。お前は何も悪くない。悪いのはみんなあいつらだ」
「あたし、もう護衛の仕事はやりたくないよぅ」
「うん。今度からは密偵の仕事だけしような」
 絡み酒で笑い上戸で泣き上戸だとは思わなかった。随分と忙しい酒癖である。
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、は酒を一気に飲み干す。それを見ながら、斎藤は小さく溜息をつくのだった。





「大丈夫なのか?」
 店を出て、ふらふらしながら立っているに、斎藤が心配そうに問う。
 結局あれから、は丸々一升飲んでしまったのだ。意味も無く笑ったり泣いたり愚痴ったり大変だったが、あれだけ飲んで意識も失わずに立っていられるのは、大したものである。
 ふらふらとしながらも、はご機嫌で両手を大きく振りながら、
「だ〜いじょうぶっ!! へーき、へーき」
 大袈裟な身振りも、よく回らない呂律も、完全に酔っ払いのものである。今はちゃんと自分で立っているが、いつ道端で寝入っても可笑しくない状態だ。の仮の住まいになっている官舎は此処から近いが、それまで一人で帰れるか怪しいものである。
 ふらふらと歩き出すだったが、その方角が官舎とは真逆で、斎藤は慌てて襟首を掴んで引き留める。
「ふぎゃっ………?!」
「官舎はこっちだ。送ってやる」
「送り狼〜?」
 身体を大きく反らせて斎藤の顔を見上げ、は心底楽しそうに笑う。その表情も動きもひどく子供じみていて、斎藤は一瞬、昔に戻ったかのような錯覚に陥ってしまった。二人で飲みに行って、こうやって二人で帰ったことは何度もあった。
 が、今はもう幕末ではなく、新選組も今はもう無い。今は明治で、二人は警官で、何もかも変わってしまったのだ。今更昔の関係には戻れない。
 斎藤は両手をの肩に置くと、くるりと方向転換させる。そして呆れたような、けれど優しい声で、
「阿呆か。さっさと帰るぞ」
 二人で並んで歩きながら、は次第に酔いが醒めていくのを感じる。回復の速さは、昔とそう変わらないらしい。
 こうやって二人で並んで歩くのも、12年振りだ。この後屯所に戻らずどちらかの借家に転がり込んで夜を明かしたことも、よくあった。このまま官舎まで送ってもらったら、あの頃のように斎藤は泊まって行ったりするのだろうかと、は一寸思う。もし泊まっていくと言ったら、自分はどうするだろう。
 妙な期待をしている自分に気付いて、は自嘲する。あれから12年も経っているのだ。斎藤があの頃と変わらぬ思いを自分に抱いていると思うなんて、図々しすぎる。
「どうした? 気分が悪いか?」
 すっかり大人しくなってしまったに、斎藤が訊いた。それに対して、は無言で小さく首を振る。
 そうやって無言で歩いているうちに、官舎に着いた。が鍵を開けて、戸を開けながら斎藤を振り返る。
「ありがとう。お茶飲んでいかない?」
 別に変な期待はしていない。送ってくれたから、お礼にお茶を飲ませてやるだけだ。期待しちゃいけない。
 が、斎藤は片手を小さく振って、
「いや、遅くなるから、此処で良い」
「良いじゃない、少しくらい。どうせ待っている人もいないんでしょ?」
 からかうように明るく言うと、は斎藤の腕を掴む。が、斎藤はその手に優しく手を重ねて、この上なく優しい労わるような声で言った。
「いるさ。結婚したんだ」
「へ………?」
 斎藤の言葉が理解できなくて、はきょとんとした顔になった。
 今、斎藤は“結婚した”と言ったような気がする。“結婚”って、何だ? 舶来の食べ物か? 食べたら美味いのか? 否、違う。家で待っているんだから、新種の生き物かもしれない。犬猫みたいなやつか?
 言葉の意味は解っているくせに、現実逃避な思考をしてしまう自分が情けない。自分は傷付いているのだろうか。
 斎藤が結婚していたことに驚いたのは事実だ。けれど、彼の結婚に傷付く権利は、にはもう無い。12年もの空白があって、今更どの面下げて傷付いたなんて言える?
 だからは、必要以上に明るい声を出して、斎藤の肩を平手で叩いた。
「なあんだ、結婚したんだ。よかったねぇ、あんたみたいなのでも引き取ってくれる女がいてさ」
「まったくだ」
 まんざらでもないように、斎藤は苦笑した。その顔を見て、彼の妻はきっと良い人なのだろうなあ、とは思う。きっと二人は良い夫婦なのだろう。
 12年というのは言葉にすると軽いけれど、こんなにも変わってしまうほど重いものなのだ。やり直しなんか許されないほど、重い。
「じゃ、奥さん待ってるなら、此処で。今日はありがとうね」
「ああ」
「また飲みに連れて行ってよ」
「給料貰ったらな」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 静かにそう言うと、斎藤は踵を返してもと来た道を戻っていった。彼の姿が見えなくなるのを待たずに、は家に入って何かを締め出すようにぴしゃりと戸を閉める。
 酔いはもう、完全に醒めていた。けれど、現実感の無い足取りで玄関に上がりこむと、そのまま傍に崩れるように座り込んでしまった。

 ―――――結婚したんだ
 
 斎藤の言葉が思い出されて、何故か涙が零れ落ちた。
「あれ………?」
 悲しいわけじゃない。傷付いたなんて思ってない。だって、あれから12年も経っているのだ。斎藤も34になっているのだから、結婚してない方がおかしいじゃないか。
 そう言い聞かせても涙は止まらなくて、泣いているうちに本格的に悲しくなってきた。
 本当は、心のどこかで斎藤が独りでいてくれていることを期待していたのだ。のことを忘れられないでいることを期待していた。けれどそんな調子の良いことは、世の中には無いわけで。
「あ、でも、“泊まっていけば?”とか言わなかったから良かったかも」
 四つん這いで部屋に入ると、鼻紙で洟をかんで、は不意に冷静な声で呟いた。
 あの時、“お茶でも飲んでいけば?” でとどめておいて、本当に良かった。もし、昔の事を持ち出して“泊まっていけば?”なんて言っていたら、とんだ赤っ恥だった。
 そんなことを冷静に考えている自分に気付いて、は可笑しくて小さく吹き出してしまった。
 悲しいだの傷付いただの言ったって、恥かかなくて良かったなんて冷静に考えられるうちは、まだ大丈夫だ。私は自分で思っているよりは、結構逞しい。そう思うと、斉藤の結婚なんてどうでも良いことのように思われてきた。
 斎藤とまたいつか飲みに行こう。男の飲み友達なんてなかなか見つからない。それを手に入れられた自分は運が良い。それに、飲み友達っていうのは、ある意味奥さんより親密だったりするじゃないか。斎藤と結婚していたら、そんな仲にはなれなかった。
 そう考えたら、元気が出てきた。どんな時も自分に都合良く前向きに考えられるのも、年の功だろうか。伊達に32年も生きちゃいないのだ。
 景気良く洟をかむと、鼻紙をゴミ箱に放っては自分を元気付けるように明るく言った。
「明日からお仕事頑張ろう!」
<あとがき>
 長いこと会ってなくて、偶然再会した人が実は結婚してたなんて、この歳になると結構よくある話なんですよね。まあ、この主人公さんみたいに、昔好きで今も忘れられない人が、いつの間にやら結婚していた、なんてことはまだ無いですけどね。
 この主人公さんの話に続編があるとしたら、やっぱり不倫ものになっちゃうんでしょうか。うーん……それはないかな。このキャラで不倫は難しいなあ……。つか、ドリームで不倫は無しだろ、普通。
 でもこのキャラは結構気に入っているので、また使いたいなあなどど思っています。
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