兎部下さんシリーズです。
悠久
悠久 【ゆうきゅう】 はるかに長い時間。
結婚というのは、役所に届けを出せば完了というわけではなく、いろいろと面倒な手続きがあるものだ。付き合っている時は考えもしなかった家族のこととか、の苗字が変わることで発生する諸々の手続きとか、全てが終わるまでに、斎藤もも何度心が折れそうになったか解らない。こんな大変な思いをするなら、もう二度と結婚なんかしないと思ったくらいだ。そんなこんなで必要と思われる手続きを何とか済ませ、あとは最大の難関の式である。この時点で疲労困憊の斎藤としては顔合わせ程度の食事会で良いような気もするのだが、はしっかりとやっておきたいらしい。
「普通に料亭でやるんじゃなくて、神前式っていうのも良いですねぇ。神様の前でお式って、いいなあ」
神社で式を挙げたという変わった夫婦のことが、新聞記事で取り上げられていたらしい。何が良いのかはうっとりしている。
そんな妙な式は、流石にまずかろうと斎藤は思う。こういう人生の一大行事に変なことをしたら、後々まで話の種にされるのだ。結婚式は女の晴れ舞台であるから、“私だけの式”というのをやりたい気持ちは解らないでもないが、とりあえず目を覚ませと言いたい。
「無難に済ませとけ。新聞記者が来たらどうするんだ」
「記念になりますねぇ。あ、その新聞記事はとっておきましょうね」
斎藤が目を覚まさせようとしても、頭が花畑のは聞いてはいない。これは氷水を頭からぶっかけるか、親に説教してもらうしかないだろう。
いきなり親に頼るのはどうかと思い悩む斎藤をよそに、は話を進めていく。
「白無垢と黒振袖、どっちが良いと思います?」
「黒振袖にしとけ。普通が一番だ。普通に角隠しと黒振袖で良い」
放っておくととんでもないことになりそうだから、斎藤はしっかり釘を刺しておく。
“無難”だの“普通”だのが気に入らないのか、は面白くなさそうに膨れた。
「何でそうやる気が無いんですか? 一生に一度なんですよ!」
確かに二度も三度もやることではないが、のように張り切りすぎてとんでもない方向に走ってしまうのは如何なものか。結婚式は両家の親族の顔合わせなのだから、神前式なんて訳の分からないことをする必要はない。衣装だって何処ぞの姫君ではないのだから、黒振袖で十分だと斎藤は思うのだ。
正直、斎藤は式が面倒臭くなってきた。手続きは全部済ませたのだから、このまま結婚生活に雪崩込みたいくらいである。そんなことを言ったら、が激怒しそうだが。
「やる気が無いわけじゃないが………」
口ではそう言ってみるが、声はやる気のなさが全開である。その態度がを更に怒らせてしまったらしく、膨れるのを通り越して怒鳴られてしまった。
「どうでも良いのが見え見えじゃないですか!あたしの花嫁姿を見たいと思わないんですか?! 一生に一度なんですよっ!」
「えーと………」
そんなことを言われても、斎藤も困る。の花嫁姿は勿論見たいが、そこに行き着くまでが面倒なのだ。だから普通にしろと言っているのに、が妙な方向に張り切るから、ますます面倒になってしまう。
はで、自分だけが頑張って、斎藤が適当すぎることが不満なのだろう。それはまあ斎藤も少しは悪いかなとは思ってはいるが、こればかりは仕方が無い。歳を取ったせいか、何事にもほど熱心になりにくいのだ。
何と言って落ち着かせようかと考えていると、は今度は目を潤ませた。これは本格的にまずい。
「一さん、本当はあたしと結婚したくないんじゃないですか? だからお式も衣装もどうでもいいんだ………」
「いや、それはない! そんなことはないぞ!」
流石にこれには、斎藤も全力で否定した。式は面倒臭くても、結婚まで面倒になったわけではないのだ。
「式だってしたくないわけじゃない。俺は男だから、衣装とかあんまり興味無いっていうか………」
「それって、あたしの衣装なんてどうでも良いってことじゃないですか!」
一度悪く取ると、どこまでも悪い方に考えてしまうものらしい。確かに斎藤は、ほど衣装やら何やらに強い拘りはないが、どうでも良いとまでは思ってはいない。
結婚前というのは人生で一番楽しい時期だと聞いていたが、こんなにも大変なものだとは思わなかった。これを乗り越えた世間の既婚者は大したものだと、斎藤は心から感心する。それとも斎藤とが特殊なのだろうか。
一番楽しいはずのこの時期に心が折れそうになったり、こんなに揉めたりするなんて、斎藤は先々が不安になってきた。結婚生活もこの調子だとしたら頭が痛い。そう思っているのはお互い様かもしれないが。
結婚が決まる前のは、一寸子供っぽいところはあったものの、可愛い女だったはずだ。こんなに斎藤の言葉尻を取ったり、すぐに癇癪を起こすような女ではなかった。両親への挨拶を済ませたところで本性を出したのかと思うほどの変わりようである。
多分、結婚に向けていろいろなことが一気に押し寄せてきたから、神経がささくれ立っているだけだろう。そう信じたい。これを乗り切ることができれば、元の可愛いに戻るはずだ。
斎藤の無関心も、の神経をささくれ立たせる一因ではある。機嫌を取るというわけではないが、歩み寄りの姿勢も大事だ。
「何でも新しいものに飛びつくより、昔からのものが良いと思ったんだが。黒振袖は嫌か?」
斎藤が優しく尋ねると、の表情も少し和らいだように見えた。
「嫌っていうか……白無垢の方が可愛いですし………」
口調はまだ拗ねているようだが、声は大分落ち着いている。やはり歩み寄りは大事だ。
白無垢だと綿帽子であるから顔が見えないのではないかと斎藤は思うのだが、本人が可愛いと思っているのなら、白無垢にしてやるべきか。衣装だけなら、神前式なんて妙な真似をやられるよりはマシである。
衣装はに譲って、式は斎藤の思う無難なものにする、というのが落とし所か。どうやって納得させるかと斎藤は考えた。
斎藤の歩み寄りは上手くいって、神前式の阻止には成功した。の気持ちも落ち着いたようで、あのいらだちは夢だったのかと思うほど、いつの間にやら元に戻っていた。
そして今日、やっと結婚式である。嬉しいというより、やっとあの煩わしさから解放されるという安堵感で一杯だ。
「いやあ、本当にお前が結婚するとは思わなかったぜ」
晴れの日だというのに、左之助はいつもと変わらず失礼である。ここが新郎控え室だから良いようなものの、に聞かれでもしたらまた臍を曲げてしまう。
斎藤は身内だけでやるつもりだったのだが、がどうしてもということで、神谷道場の連中と恵を呼ぶことになってしまったのだ。薫と恵はの控え室にいるはずである。
本当に、こいつらが来るなら、神前式なんて妙なことをしなくて良かった。こいつらの前でそんなことをしたら、一生言われる。
晴れの日だというのに、斎藤は苦虫を噛み潰したような顔で煙草を咥えた。
「お前らな、結婚は本当に大変だぞ。今日まで俺がどんなに神経を擦り減らしたか」
剣心も左之助も独身者だから、人生の先輩として助言してみる。
本当に、今日までに気を遣ってばかりだった。気を遣いすぎて、少し窶れたのではないかと思うほどだ。
が、剣心は斎藤をじっと見て、
「その割には痩せた様子は無いでござるな」
本人に悪気が無いのは、声を聞けば判る。が、悪気が無ければ良いというものではないだろう。
端から見れば、斎藤の苦労は苦労のうちには入らないのかもしれない。結婚までの過程で多少揉めるのは、割と普通のことだというのも、最近になって知った。そうだつぃても、あれはもう二度と経験したくないのだが。
「お前らも実際にやってみたら分かる。女は変わるぞ」
左之助は相手すらいないが、剣心はそのうち薫とくっつくことになるだろう。薫は以上に面倒臭くなりそうだ。へとへとになる剣心の姿が、斎藤には鮮明に見える。
剣心は思い当たる節があるのか、何やら考え込むような顔をしたが、左之助は相変わらず気楽なものだ。対象になる女がいないから、斎藤の言っていることを理解できないのだろう。
「でも、若くて可愛い嫁が来たんだから良いじゃねぇか。多少のことは目を瞑れよ」
「うーん………」
そう言われると、斎藤は返す言葉がない。
一回りも年下で、薫のような料理下手でもなく、恵のようにキツいことを言うわけでもないのだから、はかなりの優良物件だ。多少は苦労しろというのが世間の見方だろう。斎藤だって他人事なら、苦労しろと思う。
ということは、あの程度で済んだのは幸運だったと思うべきか。がおかしくなったのは式についてだけで、今は以前と変わらず可愛いのだ。
そう思うと、やはり斎藤は人並み以上に恵まれているのだろうか。との付き合いが当たり前になりすぎて、自分でもよく分からなくなってきた。
「俺は恵まれているのか………?」
「何だよ、俺らの口から言わせたいのかよ」
左之助に笑い飛ばされて、どうやら本当に恵まれているらしいことを知った。斎藤の不満は不満にもならないものらしい。
付き合いが長すぎて、がどんなにできた女か、すっかり忘れていた。仕事を言い訳にあまり構わなかったり、何処かへ連れて行くことも少ないのに、はほとんど文句を言わずにいたのだ。それでいて斎藤や兎の世話をしてくれていたのだから、これで不満を言ったら罰が当たると言うものだ。
左之助に気付かされたのは癪だが、の良さを思い出せたのは良かった。こんなにもできた女なのだから、一生大切にしようと思う。
「お時間でござます」
部屋の外から仲居の声がした。
結局、神前式は却下されてしまったが、白無垢が着れたので良しとする。斎藤は黒振袖が良いと言っていたけれど、こんな着物を着られるのは一生に一度なのだ。
「ちゃん、おめでとう」
花嫁控え室に恵と薫が入ってきた。
「白無垢なんだぁ。いいなあ」
の衣装を見て、薫がうっとりしたように溜め息をつく。きっと自分の結婚式のことを想像しているのだろう。
「黒振袖とどっちにするか迷ったんだけどね。白無垢が可愛いかなって」
「うんうん、こっちが可愛いって」
恵が力一杯同意する。恵にそう言われると、本当にこっちで良かったと思えてきた。
この姿を見たら、斎藤も白無垢で良かったと思ってくれるだろうか。“普通”とか“無難”をやたら繰り返していたけれど、一生に一度のことなのだから、一生で一番可愛いと思ってほしい。
式が決まるまで喧嘩したりいろいろあったけれど、ここまで漕ぎ着けて本当に良かった。あんなに大変なことを乗り越えられたのだから、きっとこれからも大丈夫だ。
「そういえば、あの人には見せたの?」
「まだ。お式の時に初めて見てもらうのが良いかなって」
薫の質問に、はふふっと笑って答える。
試着の時に見てもらおうかとも思ったのだが、やはりこういうものは本番までとっておくものだろう。先に見せてしまったら、感激も薄れるというものだ。
ただ、斎藤が緊張して、せっかくの晴れ姿を覚えてない、なんてことにならないか心配である。いつも落ち着いている人だから大丈夫だとは思うが、今日は特別な日だから心配だ。
「でも、緊張して覚えてない、なんて言われないか心配………」
「あー、それはない。そんな神経の細い奴じゃないから」
の不安を、恵は笑い飛ばした。薫も同意見のようである。
以前から気になっていたが、と恵たちでは、斎藤に対する認識が違うようだ。とんでもない本性を隠しているということはないだろうが、何となく気になる。
今更引き返せないが、思い切って訊いてみた。
「一さんって、恵ちゃんや薫ちゃんの前ではどんな人なの?」
「えーと………」
恵と薫が困ったように顔を見合わせた。
にとっては、優しくて照れ屋で、一寸気難しいところもあるけれど、可愛いところもある男だが、恵たちには違うのだろうか。恵たちから見た斎藤が悪い人だとしたらと思うと、今更ながら不安になってきた。
暗くなってしまったを見て、薫が慌てて言う。
「私たちには難儀な人だけど、さんには優しい人みたいだから大丈夫よ! さんと一緒の時は別人みたいだし」
「そうそう。もしあいつがちゃんに妙なことをしたら、私たちがとっちめてやるから」
恵も冗談めかして付け加える。そう言われると不思議なもので、も大丈夫な気がしてきた。
今まで優しい人だったのだから、いきなり豹変するなんてことは無いと思う。斎藤が難儀な性格なのはも理解しているし、恵や剣心のような友人がいるくらいだから、極端に問題のある性格というわけではないだろう。
何より、にはとても優しい男なのだ。優しくて仕事ができて、他の女には見向きもしないのだから、これ以上望んだら罰が当たってしまう。
「お時間でございます」
部屋の外から仲居の声がした。
介添人に手を引かれて、は廊下を歩いている。綿帽子は見た目は可愛いけれど視界が悪くて、歩くのもいつもよりゆっくりになってしまう。
いよいよ式なのだと思うと、は緊張で胸が破裂しそうだ。式の間は黙って座っているだけで良いけれど、客が自分に注目するのだと思うと、やはりいつも通りとはいかない。
客もだが、斎藤はの姿を見てどう思うだろう。恵たちは可愛いと言ってくれたけれど、斎藤もそう言ってくっるだろうか。あの性格では何も言わないような気がするが、今日くらいは何か言ってほしい。
襖越しに賑やかな声が聞こえてきた。主役が揃わないうちから盛り上がっているらしい。その声を聞いていたら、少し緊張が和らいだような気がした。
が、介添人が襖を開けた途端、部屋の中が水を打ったように静かになってしまった。空気が明らかに変わっている。
部屋中の視線が一斉にこちらに向いて、の緊張は一気に最高潮に達した。今までの人生で、こんなに注目されたのは初めてのことなのだ。
「さ、どうぞ」
緊張で頭が真っ白になってしまったが、介添人の声で我に返った。
「あ、はい………」
今日は自分が主役なのだと張り切っていたけれど、実際に注目の的になってみると、舞い上がって歩くのもままならない。ぎくしゃく歩くのが変に思われないかと気になって、、ますますぎくしゃくしてしまう。
どうにか斎藤の隣に座って一安心と思ったのも束の間、今度は客がを見てひそひそと話し合っている。表情を見れば悪意が無いのは判るが、何だか落ち着かない。
綿帽子の中で落ち着き無く視線をさまよわせていると、隣に座る斎藤が小声で言った。
「白無垢も良いもんだな」
その一言で、は耳まで紅くなった。綿帽子で顔が見えないのが幸いだ。
斎藤のことだから、可愛いとか綺麗とか絶対言わないと思っていたから、この一言だけでも嬉しい。白無垢にして、本当に良かった。
顔の赤みが引いたところで、は顔を上げて斎藤を見た。
紋付き姿の斎藤は、いつもより凛々しく見える。制服姿も格好良いと思っていたけれど、やっぱり紋付きは別格だ。
この人が自分の旦那様になるのだと思うと、本当に嬉しい。明日も明後日もずっと一緒で、そのうち子供が生まれて―――――これからのことを考えると楽しくてたまらない。斎藤も同じように思ってくれているだろうか。
「一さんも、格好良いですよ」
「うん、まあ………」
照れているのか、斎藤は気まずそうな顔で唸る。その様子が可愛らしくて、は下を向いて笑った。
100のお題の最後は、兎部下さんシリーズです。これで本当の完結。長かったなあ。
神前式って、意外にも明治に入ってからの儀式のようです。明治十二年の新聞に、奇妙な結婚式として取り上げられています。内容は今の神前式と同じなんですけどね。
お話の中では触れませんでしたが、兎部下さんは兎なだけにきっと多産系。斎藤、家族計画はしっかり立てとけよ(笑)。