妙音
妙音 【みょうおん】 なんともいえない美しい音楽や声。
気が付けば、一年も終わりである。十二月に入ったと思っていたら、あっという間に月末になってしまった。最近は本当に時間の流れが速い。歳を取るというのは、そういうことなのだろう。「藤田さんはお正月はどうされるんですか?」
「どう、って?」
の質問の意味が解らずに、斎藤は聞き返す。
「実家に帰るとか、お仕事とか」
「ああ………」
実家とは随分前から疎遠になっているから、今更顔を出すつもりは無い。仕事は大晦日までで、正月三が日は休暇の予定である。連休は久々であるが、特に予定は立っていない。
「まあ、寝正月かな」
「じゃあ、お正月は斎藤さんのお家にお邪魔しちゃおうかしら」
悪戯っぽく笑うの言葉に、斎藤は口に含んでいた酒を噴き出しそうになってしまった。
が家に遊びに来るのは構わないが、正月からいきなりというのはどうだろう。正月というのは、家族とか恋人とか、そういう特別な相手と過ごすものだ。無粋な斎藤でさえ、そう思っている。
逆に、そういう日であるからこそ、誰かと過ごしたいと思うものなのかもしれない。世間が楽しく団欒している一方で自分は独りというのは、余計に孤独が身に滲みるものである。一人が気楽な斎藤にはよく分からないが、はそういう日に一人でいたくないのだろう。
恋人というにはまだ微妙すぎるが、そういう日を一緒に過ごす相手として斎藤を選んだということは、の方も彼をそれなりの相手とは思っているのだろう。もっと古い常連客もいるというのに斎藤が選ばれたとは、光栄なことである。
「それなら大掃除をしておこう」
大晦日まで仕事ではあるが、が来るというのなら家の中もそれなりにしておかねばなるまい。忙しくても日頃の掃除は欠かさないでおいて良かった。独身の同僚たちのように家のことはほったらかしにしていたら、地獄を見るところだった。
掃除については問題は無いが、問題は食料だ。寝正月のつもりだったから、何も考えていなかった。酒と蜜柑くらいは用意できるが、餅やお節は今から注文しても間に合わないだろう。
「正月らしいものは何も用意できんのだが………」
「いいですよ、そんなの」
斎藤が申し訳なさそうに言うと、全く気にしていないようには笑った。それくらいは予想していたのだろう。
そう言ってもらえると気は楽だが、全く当てにされていないというのも情けない。正月料理は用意できなくても、豪勢なつまみくらいは用意しておこうと斎藤は考えた。
家の掃除は昨日のうちに済ませた。酒もつまみも用意した。勿論、いつもより大奮発である。
が、肝心のが来ない。早起きして待っているのだが、待てど暮らせど来る様子が無い。何時に来るという約束はしていなかったが、もう昼近くだ。
斎藤の家が分からないということはないはずだ。一体何をしているのだろう。
ひょっとして気が変わったのだろうか。に限って約束を破るということは無いと思うが、女というのは気分屋が多い。そういう気分じゃなくなった、となったらお終いである。
ここまで待って来ないなら、先に始めてしまおうか。来るにしろ来ないにしろ、こんな時間になって小腹が空いてしまった。
とりあえず熱燗の用意をしてみる。これが出来上がるまでに来なかったら、先に始めることにした。
台所でごそごそやっていると、玄関の戸を叩く音がした。漸くが来たらしい。
玄関を開けると、風呂敷包みを抱えたが立っていた。
「明けましておめでとうございます」
「あ……おめでとう」
さんざん待たされたけれど、の笑顔を見たらどうでも良くなってしまった。
「お節を詰めてたら遅くなっちゃって。簡単なものしか用意できませんでしたけど」
の風呂敷包みはお節の重箱らしい。正月らしいものは用意できないと言ったから、わざわざ作ってきてくれたようだ。
餅も飾りも無いから、簡単なものでもお節があるのはありがたい。これに斎藤の用意したつまみを合わせれば、そこそこ豪華な正月らしい膳になる。
「もうすぐ酒の用意ができる。上がってくれ」
が持ってきたお節は本当に簡単なものであったが、正月らしい雰囲気を作るには十分なものだ。酒も出来上がり、漸く食事である。
「この時間まで来ないから、気が変わったのかと思った」
の杯に酒を注いでやりながら、斎藤が冗談ぽく言う。は恥ずかしそうにくすくす笑って、
「やっぱりお節がいるかなって思って、昨日の夜中に作ってたら寝坊しちゃって。もっと早くに来るつもりだったんですけど」
「そんなに気を遣わなくてもよかったのに。そりゃあ、無いよりもあった方がいいが………」
「やっぱり縁起物ですからねぇ」
そう言って、はきゅっと酒を飲んだ。
「ああ、美味しい。冷える日は熱燗が一番ですねぇ」
いつもより上等な酒を用意したのだから、旨いに決まっている。が気に入って良かった。
用意したつまみも気に入ったようで、の箸はいつもより進んでいる。買ってきたものばかりだが、こうやって美味しそうに食べているのを見るのは嬉しい。これが自分で作ったものだったら、もっと嬉しいものなのかもしれない。
そういえばも、斎藤が食べるのをいつも楽しそうに見ていた。自分の用意したものを美味しそうに食べるのを見るのが嬉しいものなら、これからは積極的に旨いと言うことにしようと、斎藤は思う。
「外は随分と冷えるようだな」
杯に軽く口を付け、斎藤は窓の外を見遣る。
折角の新年だというのに、空はどんよりと曇っている。風は無いようだが、見るからに寒そうだ。
「雪が降るかもしれませんね。子供の頃は雪が降るのは嬉しかったけれど、今はもう辛いばかりで」
「歳を取るとそういうもんだ」
「まあ、ひどい」
斎藤の一言に、は弾けるように笑った。
女の笑い声というのは不思議なもので、そんな大きな声でなくても場を華やかにするものだ。声質もあるのだろうが、の声は高すぎず低すぎず、耳に心地良い。
店で働いているときのもよく笑っているが、こうやって声を出して笑うのは斎藤と二人の時だけのような気がする。他の客と二人きりになって、こうやって笑うこともあるのかもしれないが、今は考えないようにした。
こうやって二人で正月を過ごすのは、それだけで十分特別扱いだ。ただの常連客とはそこまでしないだろう。斎藤はにとって、客以上の存在だと思いたい。
斎藤にとってのはもう、世話になっている店の店主以上の存在だ。店が無くなったとしても、ずっと会いたいと思う。むしろ、店ではないところで二人きりで会いたい。
今年は初日からこうやって過ごせたのは、何となく縁起が良いような気がする。今年はこんな機会が増えそうな気がした。
「歳を取るのも、そう悪いことじゃないだろ。一緒に歳を重ねる相手がいれば、案外良いもんだと思うぞ」
歳を取ると鬱陶しいと感じることが増える一方だが、こうやって楽しいと思えることだってある。そんな時間を共に過ごして、と思い出を作っていくことができるのなら、歳を取るのも悪くはない。
「そうですねぇ。そんな人がいたら………」
不意にが遠い目になる。死んだ主人のことを思いだしたのかもしれない。
にとっての“一緒に年を重ねる相手”は、今もまだ死んだ主人なのだろう。共に過ごした時間が長かったのなら、過去にするにもまだ時間が必要なのかもしれない。
けれどいつか、斎藤がその役割を引き受ける日が来ると思いたい。との距離は確実に縮まっているのだ。気持ちの整理がつくまで、ゆっくりと待っていればいい。
とは思いつつも、少しは主張もしてみたい。斎藤は冗談めかして言ってみた。
「たとえば俺なんかどうだ?」
「まあ」
は可笑しそうにころころ笑う。笑うけれど、冗談として流すつもりは無いようだ。一頻り笑った後、微笑んだまま斎藤の顔をじっと見る。
「そうですねぇ。一番の候補にさせていただこうかしら」
「一番の候補、か。そりゃいいな」
正月を一緒に過ごしていて、今更“一番の候補”もないが、そんな当たり障りの無い返答が妥当なところだろう。
一番の候補という表現は、悪くはない。斎藤も可笑しそうに笑った。
2010年一発目の正月ネタです。
正月を二人で過ごしたってことは、もうそれなりの仲だよなあ? 進展しないようで進展してるみたいです、この二人。
さて、この二人のオチはどうするべきか。