蕎麦屋を出ると、にわか雨が振り出した。今朝、妻の時尾が雨が降るからと傘を持たせてくれたが、彼女の天気予報はよく当たる。
 雨足は強いが、この降り方であればそう長くは降り続かないだろう。斎藤は鬱陶しそうに小さく息を漏らすと持参していたこうもり傘を開いた。
 と、不意に黒いものが斎藤の視界の隅に入った。ぎょっとしてそちらを見下ろすと、風呂の帰りらしい浴衣姿の小柄な女が微笑んでいる。
「巡査さん、一寸そこまで入れて行って下さいな」
 はすっぱであるが、人懐っこい喋り方だ。化粧はしていないが、その笑い方や喋り方から察するに、商売女なのだろう。そういえばこの辺りには、大きな私娼街がある。
 辺りは黄昏て薄暗くなっているが、制服姿で女と相合傘というのは、斎藤には抵抗があった。この辺りで知っている人間に会うということは無いだろうが、まあ性分なのだろう。
「持って行け」
 斎藤は女に傘を差し出した。そう長く降る種類の雨ではなさそうだし、傘ならまた買えば良い。
 が、女は遠慮をしているのか、一寸困ったような顔をして、
「それでは巡査さんが濡れてしまうじゃない」
「俺は制服だから構わん」
「本当にすぐそこよ? そんなに手は取らせないから」
 制服の袖を掴んで、女はじっと見上げる。何だか犬を連想させる目で見詰められると、傘を押し付けるのも悪いような気がしてきた。というより、押し問答が面倒臭くなってきたのかもしれない。厄介なことになったと思いつつ、斎藤は女に言われるままに家まで送ることにした。
 島原や吉原など、お上に認められた花街で遊ぶことは昔からよくやっていたし、今でも時折遊ぶことはあるが、私娼街を歩くのは初めてのことだ。整然とした花街とは違い、ここは小さな建物がひしめき合うように建ち並び、道も迷路のように入り組んでいる。
 跳ねる泥水で汚れないように裾をからげて歩く女の後について行きながら、斎藤は物珍しげに周りを見回す。通る男たちに窓から声を掛けたり袖を引く様は、吉原も此処も大差無いがこちらの方がどこか下卑た感じがするのは、やはり管理する楼主がいないからだろうか。けれど代わりに、客引きのやり方もそれぞれで、見ていて面白い。
 この女もこうやって、夜毎客を引いているのだろうか、と斎藤は女のうなじを見ながら思った。ぱっと見たところ、健康状態も良いようだし、まだ此処の雰囲気に染まりきっていないように思われる。つまり、媚の売ることにも体を売ることにも疲れきったような、倦んだような雰囲気はまだ纏ってはいない。
「此処ですよ」
 溝板を踏み越えて女は小さな古い家に入った。
「じゃあ、俺は此処で」
「待って、随分と濡れてるじゃありませんか」
 踵を返そうとした斎藤の手首をとっさに掴み、女は掌で肩から腕にかけての水気を払った。続けて、
「上着か乾くまで、寄っていきなさいな。お礼もしたいし」
 含むような笑いがあって、女の目に淫靡な光が宿った。礼とはつまり、“そういうこと”なのだろう。傘に入れてやったくらいでそんな展開になるとは、旨すぎる話である。
 いつもの斎藤であれば、そんな申し出はさっさと断って帰るところであるが、何故か今日は誘われるままに家に上がり込んでしまった。何故そうしてしまったのかは、自分でも解らない。魔がさしたというやつだろう。
 家の中は所帯道具が揃っていて、そういう所にしては生活感のある、普通の家だった。私娼というのは、自分の家で客を取っているのだから、当然といえば当然なのだが、遊里で慣れている斎藤には妙な感じがする。彼の上着を衣文掛けに掛けている女の姿も、こういう部屋では素人女のようで、どうも落ち着かない。妾を囲う男というのはこういう気分なのだろうかと、斎藤は妙なことを考える。
「お化粧をしてきますから、一寸待っててくださいね」
 女はそう言うと、暖簾で仕切られた部屋に消えた。
 残された斎藤は何かするというわけにもいかず、手持ち無沙汰そうに部屋を見回す。見回したところで、何も面白いものは見当たらないのだが。
「綺麗にしてあるな。此処で客を取っているのか?」
 やることも無いので、女に声を掛けてみた。
「まさか。仕事は二階でしますよ」
「じゃあ、二階に行こうか」
「これは仕事じゃないから、結構よ」
「それはそれは………」
 斎藤はくっと小さく笑った。“あなたは特別”とでも思わせたいのだろうか。商売女の言うことを真に受けるほど、斎藤も若くはない。
 程なくして、女が戻ってきた。
「ほう………」
 女の顔を見上げて、斎藤は小さく声を漏らした。
 すっぴんの時はそうでもなかったが、女の顔というのは化粧で驚くほど変わる。白粉を叩き、紅を差したその顔は、艶やかな商売女の顔だ。歳はまだ若い。といっても、20代半ばくらいか。
 まあ美人といっても良く、若い彼女が何故こんな所にいるのか不思議な気がしたが、斎藤は何も訊かない。訊いたところで、本当のことは言わないだろう。こういう所では、女も男も本当のことは言わないものだ。
「あんた、名前は?」
 煙草に火を点けて、斎藤は問うた。まあ源氏名であろうが、呼びかける名前を知らないのは困る。
 茶を淹れながら、女は短く、
。巡査さんは?」
「………山口」
 とっさに、昔の名前を出した。
「山口さん、結婚は?」
「独り身だよ」
 それも嘘だ。殆ど家に戻らず独り者のような生活をしているが、斎藤には妻も子もいる。
 別に、独身を装って何か良い思いをしようとか、そんなさもしいことは考えてはいない。嘘の名も嘘の身の上も、別の自分になりたいという願望なのかもしれない。実社会と隔絶されたこんな街では、藤田五郎ではない誰かになりたかった。
「ねぇ………」
 斎藤が煙草を吸い終わるのを待っていたかのように、は声を掛けた。鼻にかかったような、媚を含んだ声だ。“お礼”とやらをしてくれるのだろう。
「ああ………」
「縁起ものだから、お茶代だけはつけてくださる?」
「20銭で良いか?」
 吉原の相場は、それくらいだったはずだ。
「相場通りね」
 何が可笑しいのか、はくすっと小さく笑って、斎藤に身体を摺り寄せた。





「こういう所には、よく来るんですか?」
 事が終わって、斎藤に背を向けて身なりを整えながら、が訊いた。
「いや、初めてだな」
 こんな所で見栄を張っても仕方が無い。寝転がったまま、斎藤は煙草の煙を吐きながら言った。
「本当に?」
「吉原なんかはたまに行くが、こういうところは初めてだ」
「ああ……そうですよねぇ」
 帯を締めて、は納得したように小さく笑った。どうやら、斎藤が言った“初めて”を、遊里に来たことすら初めてと思い違いをしていたらしい。この歳の男で、女を買ったことがないなど、あるはずがないのだ。
 気が付くと、雨音が聞こえなくなっていた。空気はまだ纏わりつくように湿っぽいが、雨は上がったのだろう。
 斎藤は煙草を揉み消して起き上がると、脱ぎ散らした服を着始めた。
 は立ち上がって、掛けられた上着を確かめるように触りながら、
「上着、乾いたみたい」
「ああ」
 最近は暖かくなってきたから、服が乾くのも早い。雨も上がったことだし、此処にいる理由はもう無い。もこれから稼がなければならないのだし、そろそろ引き上げ時だろう。
 斎藤は立ち上がって上着を着せ掛けてもらうと、傘を持って外に出た。
「ねえ、また来てくれる?」
 見送りに出たが、斎藤の背中に身体を摺り寄せるようにして甘えた声で尋ねた。こういうのは、私娼も公娼も同じらしい。
「まあ、そのうちな」
 斎藤もお約束の答えを言う。確実なことは言わないのが、此処でのお約束だ。娼妓と客との間で確実なことなど、何一つ無いのだから。
「きっと来てね。きっとよ?」
 念を押すように言うと、は名残惜しそうな風情で斎藤を見送った。本気なのか演技なのか、微妙なところだ。こういうのを見て、男はまたこの女に会いに行こうと思うのだろう。
 もと来た道を歩きながら、今日はおかしな日だと斎藤は思った。娼妓を傘に入れてやったら、礼だと言ってタダ同然でやらせてくれた。いつもだったらそういう申し出は突っ撥ねるはずなのに、自分でも驚くほど言われるままにやってしまった。相手も変だが、自分も変な日だ。
 けれど―――――閨での女の姿を思い返す。抱き心地も悪くなかったし、まあいい女ではあった。吉原の女とも違うし、勿論時尾とも違う。たまにああいう女も悪くはない。
「………か………」
 何となく、女の名を呟いてみた。本名ではないだろうが、良い名である。
 また近いうちに会いに行こうかと、斎藤は思った。





 あれ以来、斎藤は何となくの家に通っている。初めは、タダでやったまま姿を見せなくなるのは“やり逃げ”のようで気が引けるから、1、2回くらいは客になってやろうという、軽い気持ちだった。が1回が2回になり、2回が3回になりと、何となくずるずるしてしまい、今に至っている。
 正直、斎藤の給料では毎回を買う余裕はないので、顔を見に行くだけの日も多い。そういう日は窓口で話してすぐ帰るつもりでいるのだが、いつもから引き留められて、言われるままにあの茶の間に上がってしまうのだ。
 そういうわけで、今日も斎藤はの家の茶の間に座っている。外から見えない位置で、団扇で扇ぎながらが客を引いている様子を眺めていると、何だか旦那になったような妙な気分だ。
「今日はさっぱりねぇ」
 客がなかなか付かないらしく、は溜息混じりに言いながら、茶の間に入ってきた。一応困ったような声を出してはいるが、表情はさばさばしていて、大して深刻には困っていないようだ。
「他の女に比べると、あまり熱心じゃないな」
 ぱたぱたと団扇で扇ぎながら、斎藤がを見上げて言う。
 これは以前から気になっていたことだ。の客引きのやり方は、他の女たちに比べてさらっとしている。一応声は掛けてはいるが、窓から腕を伸ばして袖を引こうとしたり、しつこく引き留めようとはしない。こんなのでやっていけるのだろうかと、斎藤の方が心配してしまうくらいだ。
 が、は斎藤の斜向かいに座ると、口許だけで笑って、
「借金はあらかた返したから。後は自前で少し稼いで、此処を出るお金を作るだけだもの」
「借金って、何の借金だったんだ?」
「芸者をしてた時にね、大きな病気をして。その治療代」
「芸者の時は、世話をしてくれる旦那はいなかったのか?」
「いたけど………いろいろあって、そのときは別れてたから………」
 そのころのことを思い出したのだろう。は少し悲しそうな顔をした。
 “いろいろ”がどういうものなのか、斎藤には想像もつかないが、の様子では訊くことも憚られるような気がした。こういう所に流れてくる女の“いろいろ”は、一晩ではきっと語り尽くせない。
 何と言ってやれば良いものか斎藤が考えていると、戸口を叩く音がした。
ちゃん、いるかい?」
 男の声だ。口調の様子から、どうやら常連客らしい。
 その声に、昔を思い出していたようなの顔が、はっとしたように現実に戻る。そして、いそいそと立ち上がりながら、
「ごめんなさい。お客さんだから」
「ああ」
 斎藤は大儀そうに立ち上がると、上がってくる客から見えないように場所をずらした。男が上がりこんでいるのが分かったら、客も興醒めであろう。
「あら、お久し振り! もう忘れちゃったのかと思ったわ」
「久し振りはないだろ。先週来たばかりだ」
 と男の楽しげな声が聞こえた。どこまでが本気で、どこからが嘘なのか。全てが嘘なのかもしれないが、斎藤にはどうでも良いことだ。
 には馴染みの客が何人かいるらしく、斎藤が知っている限りでは毎日入れ替わり立ち代りでやって来るようだ。が客引きにあまり熱心でないのも、この馴染み客たちを回せば何とか稼げるからなのだろう。
 二人が楽しげに話し合いながら二階に上がっていくのを、そっと盗み見る。
 の馴染みの客というのは、誰も彼も面白いように印象が似ていることに、斎藤は最近気付いた。彼らは一様に背が高くて痩せている。それに目が細くて、どこかしら酷薄そうな印象を受ける顔立ちばかりだ。要するに、斎藤と似た系統の男たち。
 以前、何故吉原ではなく此処に来たのかと問うた時に、ピンハネされないし、ある程度客の選り好みが出来るからと言っていた。選り好んだ結果があの男たちであり、斎藤なのだろう。
 この手の顔が好きなのだろうか、と斎藤は無意識に自分の顔を撫でた。こう言っては何だが、は男の趣味はあまり良くないらしい。
 ふと、この顔はいろいろあって別れたという旦那の顔ではないかと思いついた。さっきの様子では、はまだその旦那に未練を残している様子だったし、斎藤に客以上の好意を見せているのも、彼が旦那によく似た顔をしているからなのかもしれない。まあ、斎藤にとってはどうでも良いことなのだが。
 二人が二階の部屋に上がっていったのを確かめると、斎藤は足音を立てないようにそっと家を抜け出した。





 浮気の定義というのは何だろうかと、斎藤は最近よく考える。
 妻のある男が女郎買いをするのは、浮気ではない。金銭の授受のある商取引なのだから。たまたま取引される商品が女の体というだけの話だ。
 ということは、との関係は浮気ではない。彼女を抱く時は必ず金を払っている。たとえ場所が仕事場である二階ではなくても、これは色恋ではなく商取引だ。金を払って娼妓を抱いて、何が悪い。
 最近、そうやって自分に言い聞かせることが増えた。そう言い聞かせるのは、時尾に対しての疚しさが、心のどこかにあるからだろう。まあ正直言って、時尾と結婚した後も女郎買いをしたりはする。が、時尾に対して罪悪感を憶えたことは、一度も無い。こういう気持ちは初めてだ。
 何について疚しいと思っているのかは、斎藤自身にもよく解らない。を買いもしないくせにあの家に行くのがいけないのだろうか。だが、金を払わない日は、彼女には指一本触れてはいない。指一本触れないくせにに会いたいという気持ちが、罪悪感の元なのだろうか。
「何を考えているの?」
 腹這いになって煙草を吸っている斎藤に、同じ姿勢を取ったが尋ねた。
「いや………」
 妻に対する罪悪感について考えていたとは言えない。にはまだ独身だと言ってある。
 代わりに、以前から気になっていたことを訊いてみた。
「あんた、会津の生まれじゃないか?」
「え? 訛ってる?」
 どうやら斎藤の指摘は当たっていたらしい。驚いたように目を丸くした後、はころころと笑った。
 普段は標準語を使って出身が判らない喋り方をしているだが、時折発音が訛っていることがあるのだ。時尾も同じように訛ることがあるので、すぐにピンときた。尤も、時尾のは武家風で、のは町方の訛りと、微妙に違うが。
「会津で芸者をやっていたのか?」
「ううん、東京で。口減らしで売られてきたの」
 の周りではよくある話だったのか、その口調はさばさばしたものだ。間引きされなかっただけマシだと思っているのかもしれない。
 そういえば、は今の境遇ですら大して嘆いているようには見えない。飄々と快活にこの町で生きているように見える。それは彼女の演技なのかもしれないが、それでも大したものだと斎藤は思う。そんな明るい女だから、足繁く通う馴染み客が多いのだろう。
「じゃあ、別れた旦那っていうのは、東京の男か?」
「………そう」
 その話になると、は悲しそうに目を伏せた。が、斎藤は話を続ける。
「まだ好きなんだろ? どうして別れたんだ?」
「奥さんいたし………本妻さんがね、妾を囲うのを凄く嫌ってて………」
「芸者を囲うくらいだから、御大尽なんだろ?」
 金持ちが妾を囲うのは甲斐性だ。本妻は大きく構えていれば良いわけで、亭主の女関係に口出しするなんて聞いたことが無い。
「御大尽ってほどじゃないけど、事業をやってる人だったからね。でも、それとこれとは、きっと別だわ」
「そうか………」
 斎藤は御大尽ではないから一生女を囲うことはできないだろうが、もし彼が妾を囲ったら、時尾もやはり嫌がるだろうか。彼女は出来た女だから口では何も言わないだろうが、やはり厭だろう。
 今だって、一応こういう場所に行っていることは隠しているが、やはり時尾なりに察するところがあるのか、そういう日の夜は少し様子が違うのだ。遊びだと頭では解っていても、やはり夫が他の女を抱くのは嫌に決まっている。
 それぞれに思うところがあるのか、二人とも目を伏せて黙り込んでしまった。
 どれくらい沈黙していただろうか。斎藤は煙草が短くなっていることに気付いて灰皿に押し付けると、労わるようにの頭に手を置いた。
「嫌なことを思い出させて、悪かったな」
 は無言で顔を見上げて斎藤を見る。じっと見上げるその顔が子犬のようにいじらしくて、斎藤はそのままぐりぐりと頭を撫でてみた。
「やだもぉー! 髪がぐしゃぐしゃになっちゃうー」
 斎藤の手を払いながら、漸くはいつもの明るい笑顔を見せた。





 と初めて出会ったあの雨の日から、二ヶ月が過ぎた。相変わらず時尾に対する罪悪感は消えないまま、斎藤はあの家に通っている。毎回、今日で最後にしようと思っているのだが、会いたい気持ちを断ち切れずにいるのだ。
 そうやってずるずるとしていた時に、急な出張が入った。その日のうちに大阪に発たなければならないということだったので、に暫く会えないことを伝えることも出来なかった。
 たかだか馴染みの娼妓にそんなことを伝える必要など無いのだが、何故かその時は伝えられなかったことが妙に斎藤の胸に引っかかっていた。
 そんな妙な引っ掛かりを抱えたまま半月以上が過ぎ、斎藤が東京に戻ってきた頃には夏も終わろうとしていた。あの雨の日から三ヶ月が過ぎたのだ。
 東京に着いて斎藤が一番に思ったのは、家のことでも仕事のことでもなく、はどうしているだろうかと言うこと。あの家の窓口に座っているに決まっているのだが、出張中もそれがしきりと気になっていたのだ。
 そんなわけで、家に帰る前にのところに行ってみることにした。今日は出張の帰りだし、遠くからの顔を見るだけで帰るつもりだったのだが―――――
 いつもが座っているはずの窓は、雨戸が閉め切られていた。他の窓も真っ暗で、中に人がいる様子も無い。
 これから稼ぎ時という時間に家を空けるということは無いはずだ。妙な胸騒ぎがして、斎藤はの隣の家の窓口に走った。
「あら、お兄さん。遊んでいかない?」
 たっぷりと媚を含んだ笑顔と声で、隣の窓口の女が言った。よりも幾分年かさで、容色も劣る女である。くどいくらいの白粉の匂いに、斎藤は僅かに眉を顰めた。
「隣にいた女はどうした? 留守のようだが」
 その言葉に客ではないと悟ったのか、女は急につまらなそうな顔をした。そしてだるそうに窓枠に肘をついて、
「ああ、あの子ねぇ、男が迎えに来て出て行ったよ」
「え?」
 女の話によると、その男がのところを訪れたのは、斎藤が出張に行ってそう経たない頃だったらしい。男は40代くらいの羽振りの良さそうな紳士だったそうで、の別れた旦那だったのだろう。女が盗み聞きした様子では、男はが消えてからずっと、東京中を探し回っていたらしい。妻のことはきちんとしたとか何とか長いこと言っていたそうで、それをは泣きながら聞いていたのだそうだ。
「本当に、お芝居でも見てるみたいだったねぇ」
 そのときの情景を思い出したのか、女は遠くを見るような目で言った。
 こういう商売をしていても、いつか好きな男が自分を見つけ出して此処から連れ出してくれるというのは、きっと此処に住む女たちが夢見る物語なのだろう。その夢物語を実現させたは、きっとこの街一番の幸せ者だ。
「じゃあ、その男と結婚するのか?」
「それはどうかねぇ。こんな商売をしていた女だもの。正妻さんにはなれないんじゃないかな」
「ああ………」
「でもあの子は幸せ者だわ。本当に惚れた男に探し出してもらえたんだから」
 そこまで言って、女は何か思い出したように急に吹き出した。
「そういえば、ちゃんを尋ねてきたの、兄さんで4人目だけど、みんなあの男に似ていたねぇ。その中でも、兄さんが一番そっくり。横顔なんか、本人かと思うくらい似てるよ」
「へえ………」
 前々からそうかもしれないと思っていたが、改めて他人から言われると微妙な気分になって、間抜けな声を出した。
 そういえば、が斎藤の顔を真正面から見ることは殆ど無かったような気がする。いつも横からか、斜めから見ていたようだ。あの男の顔に見える角度でしか、斎藤を見ていなかったのだろう。斎藤は結局、その男の代用品でしかなかったらしい。
 薄々気付いてはいたのだが、改めて思い知らされると、やはり落ち込んでしまう。裏切られたような気分になってしまったのは、に対する気持ちが恋に似ていたからなのだろうか。決して恋ではないけれど、会いたいと思っていたその気持ちは、少し恋に似ていた。
 そのまま黙り込んでしまった斎藤に、女が慰めるように言った。
「まあね、いいじゃない、あんな子のことなんか。あたしが慰めてあげるってば」
「いや、悪いがそういう気分じゃない」
 女の言葉を無下に断ると、斎藤はそのままもと来た道を戻っていった。
 もともと、はこういうところに相応しい女ではなかったのだ。若くて容貌も良い彼女が、そんなに長いこと此処にいるわけがないと、初めから判っていたはずだ。
「好きな男と出て行けたんだから、良いじゃないか」
 歩きながら、斎藤は独りごちてみる。その声が我ながら負け惜しみっぽくて、何だか腹が立った。
 との関係は、客と娼妓に過ぎない。そりゃあ、一寸は好きかなとは思っていたけれど、本気じゃなかった。娼妓相手に本気になるわけがない。
 そうやって自分に言い聞かせてみるが、そうすると余計に未練がましいようで、ますます腹が立つ。腹立ち紛れに、斎藤は溝に向かって石を蹴り上げた。





「お帰りなさい」
 胸のもやもやを抱えたまま帰ってきた斎藤を、時尾が笑顔で迎え入れた。そして、斎藤の荷物を受け取りながら、
「今回の出張は長かったですねぇ。お疲れ様でした」
「ああ………」
 応えながら、斎藤は何気なく時尾の顔を見た。
 時尾と初めて出会ったのは戊辰戦争の頃だったから、かれこれ10年以上の付き合いになる。その間に子供を一人もうけたが、彼女の姿はあの頃とあまり変わらないようだ。多分、老けにくい顔立ちなのだろう。こうやって見上げる顔なんか、まるで柴犬のようで―――――
「………あ………」
 斎藤の中にわだかまっていたもやもやが、一気に晴れたような気がした。
 会津訛りの犬顔の女はつまり、時尾なのだ。が斎藤を通して他の男を見ていたように、斎藤もを通して時尾をみていたのだ。だけでなく、斎藤もまた、一つの顔に縛られた人間だったらしい。
 何だか可笑しくなって、斎藤は低く笑った。それを見て時尾は不思議そうな顔をするが、それがますます犬っぽくて、斎藤は声を上げて笑う。
「どうしました?」
「いや……お前の顔が………」
「顔?」
 ますます時尾は怪訝な顔をする。
「柴犬に似ている」
 笑いながらそう言うと、斎藤は時尾の頭をぐりぐりと撫でた。





 あれからの姿を見ることは、二度と無かった。多分、東京のどこかにいるのだろうが、この広い東京では偶然の邂逅など望めないだろう。たとえ出会ったところで、も斎藤も、互いに知らぬ振りをするはずだ。素人に戻った女にかつての客が声を掛けるなど、できるわけがない。
 結局、互いの本名も住所も知ることなく別れることになってしまった。その程度の、薄い縁だったのだろう。長い人生の中で一寸擦れ違っただけの、名も知らぬ“その他大勢”の一人だったのだ。その程度の女だったのだと、斎藤は思う。
 けれど時々、雨の降る夕暮れ時に傘をさして歩いていると、「巡査さん、一寸そこまで入れていって下さいな」とが傘の中に入ってくるような気がしてならない。
<あとがき>
 永井荷風の『墨東綺譚』を読んでいて思いついた話です。出会いの設定とか、まんまパクリやん。
 永井荷風の『墨東綺譚』は非常に良い話なので、読んでみてください。老作家と玉の井の私娼との淡い恋の話なのですが、メロドラマっぽくて非常に良いですよ。
 斎藤は結婚した後は女郎買いなんかしないよ! というご意見もありましょうが、話の便宜上ということで勘弁してやってください。つか、何かの資料で“現代成人男性の約半数が何らかの形で女性を買ったことがある”というのを読んだことがあるので、まあ明治時代ですから、斎藤もそういうところに出入りしてたとは思うんですけどねぇ。って、喧嘩売ってどうするよ、私!
 でもね、そういうところに行くことはあっても、斎藤は時尾さんしか好きじゃないんですよ。私の中では、斎藤は時尾さん激ラブなんで。なんて、言い訳じみたことを書いてみましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。
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