天狼

天狼 【てんろう】 シリウスの異称。
 此処に辿り着いてどれくらい経ったのか判らない。船を飛び下りて長いこと泳いで、それから随分歩いたように思う。そして巴の墓参りをして、気が付いたら此処にいた。
 此処は世間とか人生とかいろいろなものから脱落したり、自分の意思で捨てた人間の吹き溜まりだという。上海にもそういう場所はあった。
 こういう所では阿片が出回っていそうなものなのだが、残念ながら此処では手に入らないようだ。出回っていたところで、今の縁には買うことはできないのだが。
 阿片で現実逃避することもできず、縁はずっと薫から渡された日記帳のことを考えている。巴が死の直前まで書き続けていた日記だ。
 許婚を殺され、巴は仇討のために剣心に近付いたはずだった。家を出る時も、巴は確かにそう言っていた。それが、共に過ごすうちに憎んでいたはずの相手を愛していく様子が綴られていたのだから、この日記は偽物ではないかと縁は疑ったほどだ。
 しかし筆跡は間違いなく巴のもので、日記の内容は事実なのだろう。許婚を殺した男を愛するなんて、何度読み返しても縁には理解できない。これでは殺された清里が浮かばれないではないか。
 何より、縁のこの十年は一体何だったのか。縁がやってきたことが巴の望むものと真逆だったのなら、彼の十年は全くの無駄だったというわけだ。
 それならば、縁は一体どうすれば良かったのだろう。真実を知った今も、剣心を許すことはできない。これからも許せる日は来ないだろう。
 許すこともできず、仇討もできず、縁は身動きが取れない。同じことを何度も考え、答えを出せないまま、此処に座り続けている。
 そうやって日にちの感覚も失われた頃、小さな影が縁に近付いてきた。
「わんっ」
 縁の前に現れたのは、しわくちゃの顔をした仔犬だ。愛想のつもりか、頻りに尻尾を振っている。
「………ブサイク?」
 こんな変な顔の犬は日本にはいない。この犬が此処にいるということは―――――
「エニシー、一人で歩いてたら、犬鍋にされちゃうんだからぁ」
 遠くから暢気な女の声が聞こえて、足音が近付いてきた。
「やっと見付けた。こんな所にいたなんてね」
 顔を上げると、白い日傘を差したが仁王立ちで立っていた。相変わらずの派手な服に、日焼け対策なのか長手袋をしている。
「まったく、あんたのせいで散々だったわ。取り調べだの、オンボロ道場に住めだの。あいつらの作ったものなんて食べられたものじゃないし、もぉサイアク! おまけに、あんた探すのに大枚叩く羽目になるし。あんたみたいな白髪頭、すぐに見付かると思ってたのに、人捜しってお金がかかるものなのね。ぼったくられたのかもしれないけど、私のお金じゃないから、まあいいわ」
 これまでの鬱憤を晴らすかのように、はまくしたてる。
「………そうか………」
 大枚を叩いて自分を捜したと言われても、縁には全くの他人事のように感じる。そうやって必死に捜して、今度はが縁の立場になる。この場で殺されるのだと思っても、実感が湧かない。
 多分、自分が殺されることも、どうでもいいことなのだろう。必死に生きてきた過去の十年が間違いだったと知った時から、縁はもう死んだも同然なのだ。巴の墓参りが出来たのだから、この世に未練は無い。
 が小さなハンドバッグから拳銃を出し、縁の頭に突き付けた。
「約束、覚えてる?」
 緊張しているのか、の表情は硬い。
「ああ」
 縁の復讐が終わったら、大人しくに殺される―――――自分で言ったのだから忘れるわけがない。
 銃口を向けられても、恐怖は感じない。むしろ、これで全てが終わるのだと安堵している。
 縁は多分、心のどこかでこの時を待っていたのだろう。もともと巴の仇討を果たした後のことなど考えてはいなかった。組織は黒星に譲り、野垂れ死んでも良いと思っていたくらいだ。どうせ惜しくもない命なら、欲しいと思う者にくれてやるのが有効活用というものだろう。
 今更躊躇うことは無いはずだが、は引き金を引かない。無表情のまま縁を見下ろしている。
 にとっても待ち侘びた瞬間であるはずなのに無表情とは、縁には意外だった。だが、人を殺したことの無い人間の反応というのはこんなものかもしれないと思い直す。
「………済まなかった……いろいろと………」
 引き金を引くことで頭が一杯であろうに届くか判らないが、縁は静かに頭を下げた。
 思い返してみれば、に対して謝罪の言葉を口にしたのは初めてのことだ。今更そんなことを言っても命乞いにしか聞こえないかもしれないが、それでも最後に伝えたかった。
「“いろいろ”ね………」
 の口許が皮肉っぽく歪む。
「私の十年は、そんな一言で片づけられるものじゃなかった」
「………済まない」
 に言われるまでもなく、縁にもそんなことくらい解っている。彼の十年もまた、言葉にできるものではなかった。
 しかし今の縁には謝罪の言葉以外、口にすることが出来ない。そんなものを繰り返したところで許してもらえるとも、の心が軽くなるとも思ってはいない。縁が剣心に謝罪されたところで何も変わらないのと同じだ。
「謝られても私の十年はもう返ってこないの。これからも、あの薫とかいう女みたいな普通の幸せな生活は手に入らないのよ。お金を貰ったって、そんなものは買えやしない。お金で買えないものを、私は全部失くしたの。あんたのせいで」
「済まなかった」
「それしか言えないの?!」
 そう叫ぶと同時に、が銃身で縁の頭を殴りつけた。
「お金渡したり謝ったり、それで私が許すと思ってるの? 自分が楽になりたいだけじゃない!」
 の声は悲鳴のようだ。復讐を果たす時が漸く巡ってきたというのに、今が一番苦しんでいるように感じられる。
 自分が楽になりたいだけ―――――確かにそうなのかもしれないと縁は思う。誠意を尽くした気になって、自分はこれだけのことをしたのだと満足したいだけなのかもしれない。何をしても許されないことは縁自身が一番よく解っているのだから、謝罪も金もただの自己満足だ。
 だから自分の命で償おうと考えたのだが、それさえもには死んで楽になろうとしているように見えているのかもしれない。死ねば、縁は人殺しの罪からもからも解放される。だが、残されたの苦しみは、彼女が死ぬまで続くのだ。
「それなら俺はどうすればいい? どうすればお前は楽になる?」
 開き直りとも取れる質問だが、縁には本当にどうしていいのか分からない。降参だ。
 許してもらえるとは最初から思っていない。ただ、縁の手で自分と同じ地獄に突き落としてしまったを、少しでも楽にしてやりたかった。自分を鏡映しにしたような女だったから、目を背けながらも、自分と同じ苦しみから救いだしたかった。
 けれど縁が何をしても、は苦しみ続けている。命を差し出しても救われないというのなら、一体どうすればいいのだろう。
「そんなの……私に分かるわけないじゃない! 分かってたら、とっくにやってるわ」
 の声が泣くように震えている。驚いて縁が顔を上げると、本当には泣いていた。
 怒りのあまり泣いているのかと思ったが、表情を見るとそういうわけでもない。自分でもどうしていいのか分からずに、途方に暮れているようだ。
「あんたが死ねば全部終わるって思ってた。だけど、あんたが死んだかもしれないって言われた時、生きてなきゃ困るって思ったの。あんたが必死に稼いだお金を湯水のように遣って、あんたが厭な顔をするのを見たいって。死んじゃったら、そんな顔見れなくなっちゃうじゃない。でも、あんたが生きてるのを許したら、殺された皆が私を許してくれない。どうしたらいいのか、自分でも分からないのよ。どうしたら生き残ったことを許してもらえるの?」
 化粧が崩れてしまうのも構わず、は銃を持った手で顔を擦りながら子供のように泣きじゃくる。
「……………」
 の問いに、縁は何も答えることが出来ない。
 生きて償っても、死んで償っても、は救われない。にとっては、彼女自身が生きていることさえ罪なのだ。今更ながら、縁は自分の犯した罪の大きさに愕然とした。
 が生き残ったのは、彼女の罪ではない。罰せられるべきは、の家族を殺した縁だけだ。の家族は彼女を責めたりなどしない。きっと、死んだ自分たちの分まで幸せになることを望んでいるはずだ。
「お前の気の済むまで、俺を苦しめればいい。そのためにお前は生きてるんだ。お前が家族の分まで俺を痛めつければいい」
 そう言いながら、縁は自分の生きる目的が見付かったような気がした。
 これまでの十年は間違った復讐のために無駄に費やしてきた。けれどこれからは、への贖罪のために使う。それはこれまでとは比べものにならないほど辛いものになるだろう。けれど、暗闇の中に小さな光を見付けたような不思議な気分だ。
 これもまた、縁の自己満足に過ぎないことなのかもしれない。しかし、それでもの気持ちが少しでも楽になるのなら、きっと自己満足では終わらない。
「上海に帰ろう」





 被疑者死亡として縁の捜索が打ち切られた後も、には出国の許可が下りなかったが、漸く旅券が発行された。旅券を手に入れらその足で上海行きの船の切符を買い、やっと出港だ。
 この日をどんなに待ち焦がれていたか。これでもうこの国の土を踏むことは無いのだと思うと、何とも清々しい気分だ。は日本人ではあるが、結局本当の祖国に馴染むことはできなかった。上海も決して良いところではないけれど、自分が戻る場所は結局あそこしかないのだと思う。
「その箱は奥に持って行って。あ、もっと丁寧に扱ってちょうだい。割れ物も入ってるんだから」
 棺桶のような箱を二人がかりで担いでいる船員に、が厳しい声で指示した。その足元では、ひっきりなしに出入りする人間に落ち着けないのか、エニシがぐるぐると歩きまわっている。
 大小の衣装箱が次々と客室に運び込まれる。荷物持ちのの旅は、屋敷の生活をそっくりそのまま別荘に持って行く貴族の避暑のようだ。一人では持て余す特等船室が、あっという間に荷物で一杯になってしまった。
「一寸持ち込み過ぎたかな………」
 運び込まれた荷物の山を見て、は呟く。
 上海から持ち込んだ荷物は、今の半分もなかった。部屋に積み上げられた荷物の殆どは、日本で手に入れたものだ。
 旅は身軽な方が良いのだが、ここまで荷物を増やしたのには理由がある。それは―――――
 棺桶のような衣装箱の周りを、エニシがうろうろしている。中が気になって仕方がないのか、前足でカリカリと引っかき始めた。
「エニシ、やめなさい」
 注意しても、エニシは引っかくのをやめない。は仕方なさそうに小さく溜め息をつくと、エニシを抱きあげた。
「匂いで判るのかしら。あんた、臭うんじゃないの?」
 衣装箱に向かって辛辣なことを言いながら、は蓋を開ける。
「犬は鼻が利くんだ」
 衣装箱から縁がのっそりと出てきた。
 縁の姿を見て、エニシは嬉しそうに尻尾を振る。エニシは本当に縁のことが好きらしい。
 が、縁はエニシに一瞥くれてやっただけで、荷物の山を見て嫌な顔をする。
「荷物、増えてないか?」
「だって、これが目立つもの」
 悪びれる様子も無く、は縁が入っていた衣装箱を叩く。
 が荷物を増やしたのは、この衣装箱を目立たなくするためだ。山のような荷物を持つ女なら、こんな大きな衣装箱を持っていても不思議はない。
 死んだことになって旅券を手に入れることが出来ない縁が上海に帰るには、荷物に紛れ込むしかないのだ。だって、好きでこんな大荷物にしたわけではないのである。
「密航の手伝いをしてあげてんだから、感謝してもらいたいくらいだわ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜」
 それを言われると、縁は返す言葉が無い。しかも費用は全て持ちである。元々は縁の金だが、今はの金だ。
 不機嫌に黙り込む縁に、は得意げに鼻で笑って、
「そういうことだから、自分の立場を弁えることね」
 悔しいが、今の縁には言い返すことが出来ない。
 縁がむっつりとする毎に、は上機嫌になる。縁の厭な顔を見たいと言っていたのは本気だったらしい。
「上海に戻ったら馬車馬のように働いて、せいぜい私に貢いでちょうだい」
「ああ」
 それは縁も覚悟している。の“浪費のための浪費”を支えるために、これから何度も死にたいと思うような目に遭わされるだろう。そうやって苦しむことが、縁の償いだ。
「それから、あんたが誰かを好きになっても、片っ端から壊してやるから。友達も駄目。まあ、エニシくらいなら許しても良いけど。私が楽しく過ごす横で、あんたは一人寂し死んでいくのよ」
「ああ」
 に出会う前から、縁には部下はいても友人などいなかったのだから、それは別に何とも思わない。好きな女と言われても、これまでそういう感情を持ったことが無いから、これも良く解らない。恋路を邪魔されるのは辛いものなのかもしれないと、と想像するくらいだ。
 嬉しいとか楽しいとか、そういう方向の感情が乏しい縁には、その手の精神攻撃は効かないのだろう。教えてやるべきかと思ったが、楽しそうに喋るを見ていると、黙っている方が良いような気がしてきた。
 上海にいた頃のは、楽しそうに買い物をしたり遊びに出掛けたりしていても、縁に見せつけるために無理して楽しそうに振る舞っているようだった。生きていることさえ罪だと思っていた彼女には、何をするにも罪悪感が伴っていたのだろう。
 けれど今は、心から楽しそうに笑っているように見える。自分が生き残ったことを、漸く許せるようになったのだろう。嫌がらせをすることでが生きる“許し”を得られるのなら、縁も痛めつけられる甲斐があるというものだ。
 どんな理由であれ、がこうやって楽しそうに笑っているのを見るのは、縁は素直に嬉しい。復讐の喜びではなく、本当の意味で“嬉しい”と思ったのは、随分と久しぶりのような気がする。
「何よ、その顔? もっと厭そうな顔しなさいよ」
 縁自身も気付かないうちに表情が明るくなっていたらしい。は不機嫌な顔をした。
「あ…いや………」
 縁は慌てて辛そうな顔を作る。その顔に満足したらしく、はにんまりと笑った。
「そうそう。いつもそういう顔してなさい。あんたはね、死ぬまで私たちに償うことを考えてなきゃいけないの。そうでなきゃ、私が生きてる意味が無くなっちゃうんだからね」
「わかってる」
 死ぬまで償わせることがの生きる理由なら、死ぬまで償うのが縁の生きる理由だ。許される日が来るかは分からない。そんな日は来ないかもしれないけれど、許さないことでが生きる意味を見いだせているのなら、許されなくても良いと縁は思っている。
 縁はこれまでずっと、沢山のことを間違えてきた。巴が縁に出して欲しいと思っていただろう“答え”も未だに分からない。けれど、“と共に生きて償う”という選択は、“正解”に近いのではないかと思う。巴もそれで良いと言ってくれると思いたい。
「ねぇ」
 それまで笑っていたが、急に真剣な目をした。
「私、これで間違ってないよね? あんたを殺せなくて、私も生きて―――――それでもみんな、許してくれるよね?」
 もまた、自分の出した“答え”に迷い続けている。許せないと思いながら縁を殺せなかったこと、罪を償わせるために共に生きることを選んだこと―――――家族から見たらそれは許したことになるのではないかと、迷い続けている。
 の中で彼女の家族がどんな顔をしているか縁に知る術は無いが、行き倒れていた子供を拾うような家族なのだから、生き残ったのことを優しく見守っているはずだ。がどんな選択をしようと、彼女が幸せになることだけを望んでいるだろう。家族というのはそういうものだ。
「許すも何も、お前の家族が恨んでいるのは俺だけだ。お前は自分が幸せになることだけ考えていればいい」
 これからもが迷う度、縁は同じことを何度も繰り返し言い続けるだろう。彼が殺した家族の代わりに、幸せになれと言い続ける。いつか本当にが幸せになれるその日まで、何度でも。
「俺に残された時間は全部、お前にやる。俺が手に入れるものも全部。だから―――――」
 そんなものでは償いきれないかもしれない。の迷いも断ち切れないかもしれない。それでも―――――
「………うん」
 の表情にはまだ迷いがある。けれど、許しを得られたような穏やかな顔で小さく頷いた。
<あとがき>
 これにて完結。シリーズは終了しましたが、二人の関係はこれからが本格始動ってところかな。
 過去を許すとか許さないとか、どうやって償うかとか、やっぱり難しいですなあ。主人公さんは縁と一緒にいることを選んだわけですが、これからが大変だ。お互いにね。
 大変だろうけど、二人が幸せになるといいなあ。この二人、表面上は色々言いながらも、案外仲良くやっていけるような気がするのですが。
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