末枯

末枯 【うらがれ】 秋の末、草木の枝先や葉先が枯れ始めるさびしいさま。
 屋敷に警官隊が押し入ってからのことは、あまりよく憶えていない。
 訳の解らないうちに警察の船に乗せられ、それからは連日の取り調べ。縁のことや組織のことをいろいろ訊かれたが、に答えられることは何も無かった。
 それでも警察がなかなかを解放しなかったのは、縁の財産が全てのものにされていたからだ。は全く知らないことだったが、一緒に逮捕された黒星がそう話したらしい。縁は慰謝料のつもりだったのかもしれないが、お陰では組織の金庫番であると疑われて散々だった。
 結局、と組織は無関係であると判って釈放されたが、上海に戻ることはまだ許されず、よりにもよって薫が経営するという神谷道場に住まわされることになってしまった。組織とは無関係でも、縁とは深い関係を持っていると思われているのだろう。黒星が余計なことを喋ってのだろうが、二人の過去を知らない者から見れば、そう思われても仕方が無い。
 肝心の縁はというと、行方不明なのだそうだ。確かのたちと一緒に警察の船に乗せられたのだが、東京に着く前に姿を消したらしい。途中で隙を見て海に飛び込んだのか。
 今も捜索は続いていて、を解放したのも、どうやら疑いが晴れたのではなく、縁をおびき寄せる作戦のようだ。財産を譲り渡すほど信頼している女なのだから、生きているなら近いうちに接触してくると踏んでいるのだろう。国内に潜伏しているにしろ上海へ逃亡するにしろ、が抱えている資金が必要なのだ。
 まったく、縁のせいで最後まで散々だ。一体いつまでこんな所に縛りつけられるのかと、はうんざりしてしまう。
「あなたも食べたら? よく冷えてるわよ」
 縁側に座っているに、恵が西瓜を差し出した。
「………いらない」
 ぷいと顔を背けては吐き捨てる。
「此処に来てから碌に食べてないじゃないの。日本の食べ物は口に合わないかもしれないけど、西瓜なら上海にもあったでしょう?」
「何も食べたくないの」
 此処での食事は、京都へ行っている剣心と薫に代わり、留守を預かっている恵が作っている。孤島で何度か口にした薫の料理に比べれば格段に食べられる味のものだが、それでもには食べる気にはなれなかった。
 あの二人の仲間が作ったもの何か口に入れたくないというのもあったが、そうでなくても何となく何も食べたくなかった。警察から解放された後も続く軟禁生活のせいで、塞ぎの虫がついたのだろう。今は喋ることさえ億劫だ。
「もうほっときなよ」
 心配そうにしている恵に、西瓜を食べている操が忌々しげに言った。
「意地張ってるだけなのよ。ま、気持ちは解らないでもないけどね。だけど、縁はとっくに死んでるわけだし―――――」
「あいつが死ぬわけないでしょ!」
 自身もびっくりするほど大きな声が出てしまった。
 怒鳴られた操たちも、ぎょっとした顔をする。がこんな感情的な声を出したのは、此処に来て初めてのことなのだ。
「だ……だって、あんな大怪我して海に飛び込んだら、溺れ死ぬに決まってるじゃない」
 の剣幕に怯みながらも、操は反論する。
 確かに普通の人間であれば、海のど真ん中で飛び込んだりしたら、そのまま溺死だろう。けれど縁なら、きっと何処かで生きている。骨と皮だけだった子供から、上海有数のびき商人にまで上り詰めた男なのだ。そんな男が簡単に死ぬはずがない。
「あいつのしぶとさはゴキブリ以上なんだから。殺そうったって、そう簡単に死にやしないわ」
 縁の生命力の強さはがよく知っている。生に対する執着の強さも。そんな男だから、次の復讐の機会を狙って、何処かに潜伏しているに決まっているのだ。
 大体、死体が未だに揚がってこないのが、生きているという何よりの証拠だ。警察は縁を血眼になって捜しているのだから、死んでいるのならとっくにしたいが発見されているはずではないか。
 が、左之助は冷めた様子で、
「あの抜け殻みてぇになっちまった縁に、そんな力は残っちゃいねぇだろ。それにあの辺りは潮の流れが速くて、殆ど死体が揚がらないらしいぜ」
「………………」
 縁がそんなことになっていたなんて、には初耳だ。別荘で別れたきり、船の中でも彼には会っていなかったのだ。
 あの男が抜け殻のようになるなんて、一体何があったのだろう。剣心に敗れたことで燃え尽きてしまったのだろうか。否、あの男はそんな弱い人間ではない。
 しかし左之助の言うことが本当だとしたら、縁が海に飛び込んだのは逃げるためではなく、自殺だった可能性もある。そう思った瞬間、の全身から血の気が引いた。
 縁はもうこの世にいないかもしれない―――――そんなはずはない、と即座に否定するが、それでも左之助の言葉が引っ掛かって否定しきれない。
 縁の死を誰よりも望んでいたはずなのに、死んだかもしれないと思っただけで、自分でも信じられないほど動揺している。手が震え、身体の先端から感覚が無くなっていく。
「………あいつが死ぬわけないじゃない。だってあいつは―――――」
 小刻みに震えながら呟くの身体が、大きく傾いた。





 気が付くと、は布団に寝かされていた。額に乗せられた手拭いが、ひんやりと心地いい。
「あら、気が付いたみたいね」
 布団の脇に座っていた恵が明るく声をかけた。
「軽い熱中症に貧血が重なったみたい。ちゃんと食べないから、体力が落ちちゃってたのね。夏にはよくあることよ」
 恵は医者のような口調で言う。医者の卵だから当然だ。
「私が作ったものが嫌なら、何か買ってくるけど。食べたいもの、ある?」
「………いらない」
 優しく言われても、は不機嫌に応えて恵に背を向ける。
 が何も口にしないのは日本の食べ物が口に合わないのもあるが、本当に食欲が無いからだ。多分、この国の空気が合わないのだろう。早く上海に帰りたい。
 縁にこの国に連れてこられてから、ずっと同じことを考えている。またあの上海の屋敷で、贅沢三昧の生活をしたい。対して欲しくもない服や宝石を山ほど買って、請求書を見た縁が真っ青になる様を見てやりたい。
「食べたくなくても、今は無理しても食べなきゃ駄目よ。このままじゃ―――――」
「しつこい! いらないって言ってるでしょっ」
 いくら医者の卵とはいえ、お節介過ぎる。は金切り声を上げた。
 頑ななの様子に、恵は困ったように溜め息をついた。
「剣さんがいなくなった時の薫さんと同じね」
「あんなのと一緒にしないで」
 薫とは立場が全く違う。薫は剣心のことが好きなようだが、は縁のことを憎んでいるのだ。正反対なのに同じに見えるなんて、恵は一体何を見ているのだろう。
「同じよ。あなた、とても寂しそうに見えるもの」
「……………」
 そんなことない、とすぐに否定出来なかった。
 縁がいなくなって寂しいだなんて、思ったことはない。けれど、あんなに縁の死を望んでいたのに、今は生きていることを望んでいる。
 縁が生きていると思いたいのは、彼を殺すのは自分だと思っているからだ。はずっと、縁を殺す瞬間を想像していた。けれど今は―――――
 縁も自分と同じく理不尽に家族を奪われた人間だったと知った時は、一瞬とはいえ心が揺らいだ。彼の復讐の成功を望んでいたことも事実だ。しかし、だからといって縁への憎悪が消えたわけではない。自分と似た立場とはいえ、それとこれとは別だ。
 けれど、操が「縁は死んでるに決まってる」と言った時、自分でも驚くような声が出た。あんなに強く否定したなんて、今でもは信じられない。あれではまるで、縁が迎えに来るのを待っているようだ。そんなことだから、恵にも誤解されたのだろう。
「勘違いしないで。私とあいつは、あんたが考えてるような仲じゃない」
 縁はから家族を奪った憎い仇だ。だからの知らないところで勝手に死ぬなんて、絶対に許さない。縁の生存を望むのは、ただそれだけのこと。それ以外に理由なんか無い。
「あいつは私の敵なの」
 恵に要らぬ誤解を与えたのは、知らず知らずのうちに心が揺らいでいたのかもしれない。は自分に言い聞かせるように呟いた。
<あとがき>
 今回は縁の出番は無し。剣心と薫ちゃんは、巴さんの墓参りに行っているようです。
 そして主人公さんはというと、落ち込みが激しいようで。突然敵が消えてしまってどうして良いのか分からないのか、それとも………。
 次回で最終回の予定です。
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