勿忘草色
勿忘草色 【わすれなぐさいろ】 浅い青色。美しい瞳の形容に使われる。
弟子として認めた覚えはないのだが、気が付けば比古が粘土を捏ねている横でが轆轤を回している。家事雑用を済ませた後にやっていることだから、比古も文句は言えない。雑用係として使えば良いとか、仕事の邪魔をするわけでもなし、とずるずる置いていたのが良くなかった。今のは誰が見ても立派な弟子である。
どの分野であれ、もう二度と弟子は取らないと決めていたのに、どうしてこんなことになってしまったのか。のあり得ない図々しさが一番の原因だと思うが、それだけで今の状況があるとは思えない。
認めたくないことだが、多分比古が甘かったのだろう。口では今すぐ追い出すようなことを言いながら、結局一度も実行に移していないのだ。口だけならも図々しくのさばるわけである。
「どうしたんですか?」
いつの間にか土を捏ねる手を止めていたらしい。も轆轤を止めて怪訝な顔で見上げた。
「………いや、別に………」
比古は再び土を捏ね始める。
一寸気になるような顔をしたが、も再び轆轤を回し始めた。
独学なりに、轆轤を回す様子は慣れたものだ。作品の出来は兎も角、その姿だけは立派な陶芸家である。
独学でこれだけ形になるというのは、そこそこ才能があるのだろう。轆轤を蹴りながら粘土を形成するのは、意外と難しいものだ。
そして才能以上に努力もしている。普段はふざけた態度のだが、轆轤を回す彼女の目は真剣だ。陶芸に対する態度は、今の比古よりも真剣なものなのかもしれない。
思い返してみれば初めて会った時から、陶芸で身を立てたいと語るの目は真剣だった。それこそ比古が気圧されるほどに。あの時の目の光の強さは、轆轤に向かっている今も変わらない。
「もう、どうしたんですか? さっきからこっちばかり見て」
轆轤を止め、は軽く睨みつける。比古の視線が気になって集中できないらしい。
そんなに見ているつもりはなかったのだが、気まずくなって比古は慌てて目を逸らす。
「随分と真剣にやってるからな」
「そりゃあ、このために此処にいるんですもん。早く一人前になりたいですし」
そう言って作業を再開させようとしただったが、何か思いついたようににやりと笑った。
「あー、もしかして、真剣に打ち込んでる私に見惚れてました?」
「なっ………?! ばっ…馬鹿野郎、何言ってんだ、お前!」
それだけは絶対に無い。比古は顔を紅くして全力で否定する。
一寸見ただけで見惚れているとは妄想も甚だしい。比古は女を見る目は肥えているのだ。程度の女に見惚れるわけがないではないか。
が、は相変わらずにやにやして、
「何かに真剣に打ち込む姿に惚れちゃうのは、男女変わらずありますからねぇ。でも駄目ですよ。私、これで一人前になるまでは、男の人なんて考えられませんから」
「だから見惚れてねぇって!」
「あははー、照れ隠し、照れ隠し〜」
冷やかすようにはけらけら笑った。その笑い方も癇に障る。
比古がを見ていたのは、別に見惚れていたわけではない。気迫に引き込まれたというか、くるくる回る粘土を見詰める目を見ていただけであって、の姿など眼中にないのだ。
大体、何が「男の人なんか考えられません」だ。蒼紫のような若い男前に色目を使っているくせに。
「てめえが若い男に見惚れてるからって、他人も同じだと思うんじゃねぇよ」
「あらあら、今度は焼きもちですかぁ?」
憮然とする比古に、は調子に乗ってぷぷぷと笑う。ああ言えばこう言うで口の減らない女である。
「誰が―――――」
「四乃森さんは目の保養ですよ。生活には潤いがないとねぇ」
若い役者に夢中になっている年増女のようなことを言って、は再び轆轤を回す。
その言葉が何処まで本音なのか、比古には判らない。は蒼紫を狙っていると思っていたのだが、自分には無理と悟ったのか。まあ賢明な判断である。
「そりゃあ良かった。それならあの若旦那も安心だ」
が本気で蒼紫を狙っていて、まかり間違って二人がくっ付いてしまった日には、比古が『葵屋』に土下座しなければならないところだった。前途ある若者には、それに相応しいちゃんとした女とくっ付いてもらいたい。
「ま、四乃森さんの話が無くても、先生は対象外ですから〜」
何を誤解しているのか、は余計な一言を忘れない。
にその気がないのは、比古も望むところだ。自分がどれほどの女と思っているのか知らないが、比古にも好みというものがあるのである。
「ああ、そりゃありがてぇな」
吐き捨てるように言った後、比古は再び土を捏ね始めた。
が何か言ってくるかと待ち構えているが、何も返ってこない。どうしたのだろうと様子を窺うと、はもう比古のことなど忘れてしまったかのように作業に没頭していた。
切り替えが早いというか、本当に今のには蒼紫のことも比古のことも眼中に無いのだろう。の目に映るのは、いつか自分の手で作り上げる理想の作品か。
他のものに目もくれずに没頭できるものがあるのは、素晴らしいことだ。昔の自分も、こんな目をして剣術や陶芸に励んでいたのだろうかと、比古は考えてみる。
自分のことは流石の超絶天才でもよく分からないが、そうだったのだろうと思いたい。剣術にしろ陶芸にしろ、極めるまでは苦しかったけれど、同時に楽しくもあった。今のもきっとそうなのだろう。
そうやって自分の目指す作品を完成させた後、はどうするのだろう。このまま此処に居座って作品を作り続けるのか、それとも剣心のようにある日突然出て行くのか。
出て行ってくれるのなら、これほど清々しいことはない。静かな生活を取り戻せるのだから、には一日も早く技を究めてもらいたいと思う。思うのだが―――――
のいない静かな毎日を望んでいたはずなのに、彼女のいない生活というのが今の比古には想像が出来ない。いなくなればいなくなったで何とでもなるのだろうが、家事をやる人間がいなくなるというのは不便なものではある。何だかんだ言って、の家事能力は高いのだ。
そして何より、あの小うるさい女がいない日常というのが想像つかない。自分でも信じられないことであるが、ああいえばこう言うとのやりとりが面白いと思うことさえあるのだ。一人になりたいと思いながら、のような女との会話が楽しいなどと思うのは、自分でも訳が分からない。
「先生は対象外ですけど、一人前になっても先生のお世話はずっと続けてあげますよ」
比古の考えを見透かしたように突然そう言うと、は轆轤から出来上がった茶碗を切り離した。そして形に歪みが無いか角度を変えて確認しながら、
「私がいないと、何かと困っちゃうでしょ? 老後も寂しいでしょうし」
「余計な世話だ、この馬鹿」
がいなくなると一寸は困るかと思ったが、こうも上から目線で言われると反発したくなるというものである。どうもこの女は自惚れが強くていけない。
雑用係がいなくなると比古が困るというのは事実だが、だって此処を出て行けば彼が持つ窯を使うことができなくなるのだから、陶芸家としては死活問題である。比古のように自力で窯を作ることができれば良いが、そうでないなら独立して窯を持つのは大変なことだ。
要するに、も此処を出て行ったら困るのである。上から目線で偉そうにものを言える立場ではない。
「お前だって、俺の窯がないと困るだろうが」
「うーん、そうですねぇ………」
漸く自分の立場に気付いたのか、は一寸考え込むような仕草を見せる。が、すぐに比古を見上げて、
「じゃあ、助け合いの精神で仲良くやっていきましょうね」
「う………」
眩しいくらいの笑顔を向けられ、比古は言葉に詰まってしまう。憎まれ口にはいくらでも返す言葉が思いつくが、そんな笑顔全開で言われたら、断ったら比古が悪人のようではないか。
「ま……まあ、あれだ。そりゃあ、お前の態度次第だな」
結局何とも答えようがなくて、比古は口の中でもごもごと呟く。そんな彼の様子を見て、は可笑しそうにくすくす笑った。
「絶対追い出してやる」から「お前の態度次第」とは、師匠も諦めの境地か?(笑) 主人公さんの粘り勝ちですな。
しかし老後も面倒見てくれるなんて、出来たお弟子さんじゃないですか。 師匠も素直にその気持ちに甘え―――――たくはないだろうなあ。今から老後の心配はねぇ(苦笑)。