氷輪

氷輪 【ひょうりん】 冬空にかかる凍えるほどの月。
 このところの急な冷え込みで、紅葉が美しく色付いているらしい。と一緒に働いている者の話によると、近くの公園でやっている夜の紅葉狩りがとても良い感じなのだそうだ。今週が一番の見頃だから是非行った方が良いと勧められた。
 というわけで夕食後、と蒼紫は夜の紅葉狩りに出かけることにした。夜に出かけるのは寒いからと蒼紫は渋っていたが、これからもっと寒くなったらますます出かけなくなるからと、が強引に連れだしたのだ。
 朝よりは冷えないものの、夜の外出は蒼紫には辛いものらしい。襟巻にコートに手袋、とどめに懐炉と完全防備のはずなのだが、寒そうに体を縮こまらせている。提灯に照らされた紅葉を楽しむ余裕は無さそうだ。
 今からこの調子では、真冬になったらどうするのかとは呆れてしまう。まあ、その頃には自宅と『葵屋』の往復以外は外に出なくなるのだから、そこを耐えられれば蒼紫的には問題無いのかもしれないが。
「そんなに寒いの?」
 蒼紫の異常な寒がり具合に、どこか具合が悪いのではないかとは心配になってきた。しかし見たところ顔色は普通で、別段変わった様子は無い。
「………うん」
 口を開くのも億劫なのか、蒼紫は不機嫌そうに小さく頷くだけだ。
「じゃあ今度、股引買ってこようか? あれ履いてるだけで大分違うらしいわよ」
「いらない」
 の提案を、蒼紫は眉間に皺を寄せて拒絶する。
 何に対して見栄を張っているのか、蒼紫は袢纏だの股引だのを妙に嫌がるのだ。袢纏についてはが強く言って着せたら着るようになったが、股引に関しては今でも頑なに拒絶している。何でも、“俺の美意識に反する”のだそうだ。
 確かに見た目の良いものではないかもしれないが、そんなに寒いのなら試しに一寸履いてみるのも良いのではないかとは思う。袢纏だって、美意識だの何だの言っていたが、一度着たら手放せなくなっているではないか。
「でも履いてる人の話だと、一度履いたら手放せないくらい暖かいって」
「あんなものが手放せない体になるくらいなら、舌を噛み切って死んでやる」
「………………」
 舌を噛み切って死ぬとは、随分と物騒な話である。しかも股引如きでだ。こんなに寒がりのくせにどうしてそこまで股引を嫌うのか、にはさっぱり解らない。
 袢纏のように外から見て判るものなら兎も角、股引なんて普通にしていれば履いているかどうかなんて判らないものである。蒼紫とさえ黙っていれば、『葵屋』の者にも判らないものだ。
「誰かに見せるものでもないんだから、履けば良いじゃない。それとも、誰かの前で着物を脱ぐことでもあるの?」
 蒼紫が誰かの前で着物を脱ぐ機会があったら、由々しき事態である。突然やってくるかもしれない脱ぐ機会に備えているとしても大変なことだ。
 蒼紫は無言でをちらりと見た。どうやらに対して見栄を張っていたらしい。
 確かに毎日の前で着物を脱ぎ着しているけれど、今更女房相手に格好付けてどうするのか。朝なかなか布団から出てこないとか、火鉢に張り付いて動かないとかだらしない姿を毎日見せられているのだから、も今更股引くらいでは動じない。
 しかし、今でもの前で格好付けたいという蒼紫の姿勢は立派なものだと思う。そういう緊張感が無くなってしまったら、あっという間に倦怠期に突入してときめきも何も無くなってしまうのだ。
 そう思ったら、折角の外出なのに股引を履くの履かないのなんて所帯じみたことを言っていることが恥ずかしくなってきた。蒼紫は蒼紫なりに格好付けているというのに、がこんなに所帯じみていては興醒めだろう。
「ねえ、甘酒飲まない? 少しは温まるわよ」
 気分を変えて、は甘酒の看板を指差す。甘酒だったら酒に弱い蒼紫も酔わないだろうし、体も温まるだろう。
 店先の長椅子に座り、甘酒を受け取る。寒い所で飲むことを考えているからか甘酒はとても熱くて、猫舌のは少しずつしか飲めない。
「ねぇ、蒼紫」
 息を吹きかけて甘酒を冷ましながら、が話しかける。
「たまにはこういうのも良いわね」
 提灯の灯りに照らし出された紅い紅葉に、円い氷のような白い月。まるで一幅の絵画のようで、是非行って来なさいと勧められたことも納得した。
 凍えるように寒いけれど、熱い甘酒を飲んで、何より隣に蒼紫がいるから平気だ。蒼紫は寒くてたまらないようだけれど。
 まるで命綱のようにしっかりと両手で湯呑を持って震えている蒼紫を見て、悪いと思いながらもは小さく笑ってしまう。大きな身体を縮こまらせて震えている様子は動物みたいで、何だか可愛らしい。
 見ている方は可愛いで済むが、蒼紫は芯から凍えているようである。折角の紅葉なのに、甘酒の湯呑みしか見ていないようだ。そこまで寒がられると、流石に気の毒になってきた。
 は少し身体をずらすと、蒼紫にぴったりとくっつく。と、それまで震えていた蒼紫の身体がびっくりしたようにピタッと止まった。
「こうしてたら少しは違うでしょ?」
 ふふっと笑って、は悪戯っぽく蒼紫を見上げる。
「………うん」
 周りの目が気になるのか蒼紫は落ち着き無くもぞもぞしているが、こうやってくっ付いているのは嫌ではないようだ。
 いつも家で自分から仕掛ける時は呆れるくらいべたべたしてくるくせに、たまにから仕掛けると手も足も出ないのだからおかしなものである。面白いから、もっとくっ付いてみる。
「ちょっ……みんな見てるぞ」
「あら、見てたっていいじゃない。誰かに見られて困る仲じゃないんだし」
 慌てる蒼紫に対し、は澄ましている。これもいつもとは逆だ。
 周りを気にして焦る蒼紫の顔を見るのは面白い。蒼紫がべたべたしたがるのも、の反応を面白がっているのかもしれない。
 くすくす笑うに、蒼紫は一寸困った顔をする。
「酔ってるのか?」
「まさか」
 は蒼紫よりいける口なのだから、甘酒を少し飲んだくらいで酔ったりはしない。
「たまには良いでしょ? それとも離れた方がいい?」
「いや………」
 が身を引きかけると、今度は蒼紫の方から近付いてきた。
「誰に見られても困る仲じゃないからなあ」
「ねぇ?」
 くすくす笑いながら、もう一度の方からもくっ付く。
 前を通る者たちがちらちらと見ているけれど、そんな視線もには気にならない。傍から見ればいい歳して鬱陶しいくらいにくっ付いている二人だろうが、誰に迷惑をかけているわけでもないのだから別にいいのだ。
 家にいる時もこうやってべたべたする機会はあるが、外に出て美しい紅葉を見ながらこうやってくっつくっ付いているのは気分が違う。まるで付き合い始めの頃に戻ったようで、やはり環境を変えてみるのは良いことだ。これから寒くなっても積極的に外に出ようと思う。
 甘酒を全部飲んで、と蒼紫は立ち上がる。
「さ、体も温まったことだし、もう一回りしましょ」
 蒼紫の腕に抱きつくように、は腕を組んだ。手を繋いで歩くのは普通にやっているが、こうやって歩くのは初めてのことだ。
 折角の外出で雰囲気も良いのだから、これくらいしても良いだろう。提灯の灯りはあるものの、夜なのだから周りの目もそれほど気にならない。それに、若い男女がこうやって歩いているのを見ていて、も一度やってみたかったのだ。
 蒼紫は一寸驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに微笑む。元々がくっ付くのが好きな男であるし、こうしていれば寒さも少しは和らぐのだから、蒼紫としては一石二鳥なのだろう。もしかしたら甘酒のせいで少し気が大きくなっているのかもしれない。
「たまには外に出るのも良いなあ」
 さっきまでの不機嫌は何処へやら、蒼紫の声は軽い。いきなり寒さを感じなくなったとは思えないが、珍しくの方からくっ付いてきているのが余程嬉しいのだろう。現金な男である。
 蒼紫が外に出る気になったのは好ましいことだ。これからも雪見やら葉牡丹見物やら、行きたいところは沢山ある。去年は冬の間はずっと家に籠りきりだったから、今年の冬は色々なところへ遊びに行きたい。
「でしょ? これからも沢山お出かけしましょうね」
 蒼紫の腕をぎゅっと抱きしめて、は微笑んだ。
<あとがき>
 傍から見たらウザいカップルだろうなあ、この二人(笑)。でも二人の世界だから良いんですよ。
 しかし蒼紫、そんなに寒がりで、御庭番衆の時はどうしてたんだろう? 張り込みの時は「さ…寒い……」と鼻の頭を真っ赤にしてがたがた震えていたのか?
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