謂わぬ色
謂わぬ色 【いわぬいろ】 梔子で染めた色。「口無し」にかけた色名。
本格的に冬が来て山道が凍ってしまう前に集金に回ろうと、比古とは久々に町に下りた。町に出る度に、これを機にに里心がつかないものかと比古は期待しているのだが、残念ながらそんな様子は無いようだ。だが、里心はつかなくても町に出るのは嬉しいらしく、はあっちへふらふら、こっちへふらふらと店先に並べられている品物を覗いている。食料はある程度自給自足出来ても化粧品や髪飾りはそうはいかないから、興味津々なのだろう。
「何だ? 欲しいものがあるなら買ってやってもいいぞ」
化粧品をじっと見ているに、比古が声をかける。いつもの彼なら無視しているところだが、今日は予想以上に売り上げを回収できて気前が良くなっているらしい。
「いいですよ。どうせ使わないんですから」
たしかにの言う通り、山籠り生活では化粧することなど殆ど無い。するのは蒼紫たちが来る時と、こうやって町に出る時くらいなものだ。お陰でが山小屋に転がり込んできた時に持参していた化粧品は、まだ殆ど残っている。
しかし、男の比古はよく知らないが、化粧品には流行りの色があると聞く。が持っているものはかなり前のものになるのだから、口紅の一つくらいは新しいものが欲しいだろう。だって一応は女である。
「本当にいいのか?」
「いいですって。もう、一寸お金が入ると無駄遣いしたがるんだから」
「お前なぁ………」
人が珍しく買ってやると言っているのに、可愛くない言い草である。こんな女に何か買ってやろうと思ったのが間違いだったと、比古は憮然とした。
新進陶芸家“新津覚之進”の作品は順調に売り上げを伸ばしているらしい。行く先々で次の作品の注文を受けた。この世界では新人でこんなに売れるのは珍しいとも言われたが、超絶天才なのだから当然の評価だと比古は思っている。
店を回る毎に財布は重くなり、これで安心して冬が越せると、は上機嫌だ。しみったれたことを言うなと比古は思うが、生活の細々とした部分を取り仕切っている彼女には切実なことなのだろう。
考えてみれば、は“弟子”という名目で山小屋に住み着いているが、やっていることは炊事洗濯に家庭菜園と、生活に密着したことばかりだ。空いた時間を陶芸に充てているようだが、これでは修行というよりは趣味だ。冬になって比古が陶芸を始めれば、も本格的に陶芸修業に打ち込むのだろうが、一年の殆どを家事に費やしていれば古女房のようなことを言うようになるはずである。
そういえば蒼紫も、比古とのことを長年連れ添っていた夫婦のようだと言っていたが、そんな生活が原因なのかもしれない。これ以上要らぬ誤解を受けぬためにはに陶芸修業に集中させるべきか。しかしそうなると、今度はが弟子として認められたと勘違いしてしまいそうで、比古には悩ましい。
どうしたものかと考えながら集金に回っているうちに、最後の店になった。
この店は比古が陶芸を始めて最初に作品を置いた店で、今では一番多くの作品を扱っている。主人との付き合いも長いせいで、顔を出した時は休憩がてら、座敷に上がって世間話をしていく所だ。
店の主人は隠居しても良さそうな歳であるが、まだまだ現役とばかりに矍鑠としている。そのせいか跡取りである若旦那は少し頼りなげな感じで、まるっきり部外者の比古も少々心配なところだ。
「しかし新津さんに奥様がいらしたとは。しかもこんなにお若い―――――」
「そんなんじゃねぇよ」
を見てにやにや笑う主人に、比古は不機嫌に否定する。
まったくどいつもこいつも、どこをどう見たらを比古の女房だと勘違い出来るのか。の雰囲気が生活感溢れているのかもしれないが、それにしてもこの超絶天才の超絶美形がこんな女で妥協するなどあり得ないではないか。
とはいえ、の立場を説明しようとすると、何とも難しい。同居人とか居候というのが一番適当な表現だろうが、どうして女房でもない女と一緒に暮らしているのかと突っ込まれると困ってしまう。
どう説明したものかと比古が悩んでいると、横からが口を挟んできた。
「私、弟子のと申します。今後ともよろしくお願いいたします」
「ほぅ、お弟子さんでしたか。女性で陶芸を一生の仕事にされるとは珍しい」
ぺこりと頭を下げるに、主人は珍しいものを見るような目をする。この商売が長い彼でも、陶芸家を志す女は珍しいのだろう。
主人の好奇の目など気にしていないようにはにこにこして、
「そうですね。今はまだ少ないかもしれません。でも、ものを作るのに男性も女性もありませんから」
「そりゃそうですな」
の言葉に、主人は面白そうに笑う。笑いが引いたところで、襖の向こうから女の声がした。
「失礼いたします」
静かに襖が開いて、主人の娘らしい女が茶を持ってきた。
年の頃はと変わらないくらいだろうか。しかしとは違い、しっとりと落ち着いた雰囲気の女だ。は自分に弟子入りするより、こんな女に弟子入りするべきだと、比古は思う。
「娘の多紀です。新津さんには初めてお目にかけますかな」
「ああ」
主人に紹介され、多紀は頭を下げた。比古とも軽く頭を下げる。
主人は続けて、
「結婚運に恵まれなかったといいますか、死に別れて先日出戻ってきましてね。良い再婚先があればと思っているのですが―――――」
「お父さん!」
多紀が主人の言葉をぴしゃりと遮る。来客の度に同じことを言われているのだろう。
夫と死に別れた娘の行く末を案じて次の縁談を用意したい親心なのだろうが、多紀の様子を見ると彼女自身はまだそれを望んではいないようだ。生き別れのでさえ結婚はもういいと思っているのだから、思いがけず実家に戻ることになってしまった多紀なら尚更、次の縁談はまだ考えられないだろう。
も実家にいた時は、多紀と似たような扱いだった。それが家を飛び出した原因の一つになっているのだから、多紀の気持ちはよく解る。
だからは、多紀に全く違う話題を振った。
「その髪飾り、変わってますね。何ていうんですか?」
多紀の髪は、何やら光沢のある梔子色の布を巻きこむようにして結い上げられている。髪飾りは簪や櫛しか知らないには見たことが無いものだ。
「ああ、これですか?」
ほっとした顔をして、多紀は結い上げた髪に手を遣る。
「これ、リボンです。本当は髪を縛るものなんですけど」
「へぇ、そういうのがあるんですねぇ。私、ずっと山にいるから、そういうのに疎くなっちゃって」
明治に入って外国のものが急速に出回るようになったせいで、女の装飾品も昔とは大きく変わろうとしている。町に住んでいた頃はそれなりに流行に付いていっていただが、今ではもう何もかもが珍しくて、一寸した浦島太郎状態だ。
そういえば町を歩く娘たちの中にも、あんな光沢のある布を蝶結びにして髪を縛っている者がいた。あれがリボンの本当の使い方なのだろうと、は想像する。しかし、多紀のような使い方も悪くはない。
興味津々にリボンを見ているに、比古が尋ねる。
「何だ、お前もああいうのが気になるのか?」
「別にそういうわけじゃ………」
気まずそうに目を逸らして、はぼそぼそと呟く。
気にならないといえば嘘になるが、ああいうものは今の自分には必要ないものと思っている。持っていたところで、山暮らしでは使う機会も殆ど無いのだ。
「今はお洒落よりも、一人前の陶芸家になることの方が大事ですから」
髪飾りや化粧にあれこれ頭を悩ますより、どんな作品を作るかを考えるのが、今のがやるべき一番のことなのだ。お洒落は陶芸家としてい独り立ちした後にいくらでもできる。
比古に対してというより自分に言い聞かせるように、はきっぱりと言った。
「なあ、本当に何も買わなくていいのか?」
帰り道、先ほどの口紅の店の前で比古が念を押すように尋ねる。
何が何でもに買ってやりたいというわけではないのだが、あまり頑なにめかし込むことを拒否されると、比古も気になるというものだ。お洒落したい盛りの娘ではないが、同じ年頃で同じ出戻りの多紀だってそれなりにお洒落を楽しんでいるのだから、だって少しは身綺麗にしたいだろう。さっきだって多紀のリボンに興味を示していたくらいなのだ。
が、やはりは頑なに、
「いいですってば。纏まったお金が入ったからって、無駄遣いしちゃ駄目ですよ」
「口紅もリボンも大した値段じゃねぇだろ。お前が買って来た魚の罠や燻製を作る箱の方が余程高いぞ」
は無駄遣い無駄遣いと繰り返すが、口紅やリボンの値段はたかが知れている。そんな細かい金はケチケチするくせに、魚の罠や燻製を作る箱などの高いものは勝手に買ってくるのだから、の金銭感覚は比古には理解できない。
「あれは良いんですよ。食べていくための実用品ですから。でも化粧品は贅沢品だから、自分で稼いだお金で買わなきゃいけないんです」
「へぇ………」
にはなりの理屈があったらしい。そして信じられないことであるが、彼女なりに遠慮もしていたのだ。
しかし超絶天才の比古と違って、凡人のが一人前の陶芸家になるまでに何年かかるか判ったものではないし、なれるかどうかすらも判らない。仮に陶芸で身を立てることが出来たとしても、その頃にはもう中年である。リボンも似合わなくなっているだろう。
歳を取ってもできるお洒落もあるだろうが、今しかできないお洒落もある。身なりに構わず陶芸に打ち込むという姿勢は評価するが、たまには楽しみを作らなければ息切れしてしまうだろう。
「じゃあ、あれだ。これまで雑用をしてきた給金として買ってやろう。現物支給ってやつだ」
「でも………」
素直に喜べばいいのに、はまだうじうじ考えている。彼女の日頃の図々しさに苛々している比古だが、ここまで遠慮されるとそれはそれでまた苛々してきた。
「どうせ目の前をちょろちょろされるなら、化粧もしねぇひっつめ髪の女より、小奇麗にしている女の方がいくらかマシだろうが」
吐き捨てるようにそう言うと、比古はの手を掴んで強引に店に連れて行った。
「いいか、何か買うまで絶対帰らないからな」
金を出す方がこんなことを言うのはおかしなものであるが、比古も意地である。彼も捻くれたところがあるから、頑なに拒絶されると、何が何でも買わなければ気が済まなくなってしまうのだ。
比古の宣言に困惑顔のだったが、本当に買って良いのだと理解すると、遠慮がちに商品を手に取り始めた。
最初は比古の様子を窺いながらだったが、華やかな色遣いの品々を見ているうちに楽しくなってきたのか、は次第に彼のことなど忘れたかのように商品に夢中になっていく。女は大抵買い物好きだから、も本当はずっとこういうことをしたかったのだろう。商品を見ているその顔は、比古が見たことが無いほど生き生きしている。蒼紫を見ている時よりも目を輝かせているくらいだ。
そんなの姿を見ていると、少しは良いことをしてやったのかなと比古も思う。いつも頭を悩ませている図々しい居候を喜ばせてやるなんて、自分でも惚れ惚れしてしまうほどの超絶善人だ。
結局、さんざん商品を見て回った挙句にが買ったのは、地味な口紅を一つと、多紀と同じ梔子色のリボンを一本だけだった。もう少し派手なものを買えばどうかと比古は言ってみたのだが、今年の流行はこれだから良いのだと言う。
華やかな女が好みの比古には不満だが、女の流行には疎いから黙っている。しかし、華やかな化粧で少しはマシになることを期待していただけに、あまり変わり映えしなさそうな感じにがっかりしてしまうのだった。
そして翌朝―――――
「先生、朝御飯ですよ」
いつものようにの声で目が覚めた。
「あー………」
いつものようにもそもそと起き上がった比古だったが、の顔を見た瞬間、一気に目が覚めたような顔で固まってしまった。
いつもは髪を一つに結んで化粧もしないが、今日はきちんと化粧をして多紀のように髪を結っていたのだ。昨日買った口紅とリボンを早速使ってみたのだろうが、まさか朝から化粧をしているとは思わなかった。
それより驚いたのは、地味な色だと思っていた口紅のはずなのに、意外にも華やかに見えることだ。は派手な色よりも自然な色が映える顔だったらしい。梔子色のリボンもの髪の色によく映えていて、心なしか髪もつやつやしているようだ。
「どうしたんですか、変な顔して?」
唖然としている比古を見て、が可笑しそうにくすくす笑う。その表情もいつもよりも華やかに見えて、比古はますます驚いてしまった。
「………お前こそどうしたんだ、朝っぱらから?」
「だって先生、目の前をちょろちょろするなら、小奇麗な女の方が良いって言ったじゃないですか」
「う……うん、そりゃまあなぁ………」
確かにそう言ったが、いきなり変わられてもこれまたびっくりしてしまう。まあ今日一日で慣れるとは思うのだが、とりあえず今のところは唸るしかない比古だった。
師匠、いい人だ………。
鬱陶しいだの何だの言ってる割には、結構ちゃんと主人公さんに気を遣ってるじゃん。そんなんだから、主人公さんも居座っちゃうんだよ(笑)。
っていうか、集金にまで付いて行って、「これで安心して冬が越せる〜」なんて、今年の冬も残留決定なんだな。どうするんだ、師匠?(笑)。