月夕
月夕 【げっせき】 月が煌々と照っている夜のこと。
二人で花火をしてから、何となくに対して気安くなったような気がする。花火をしただけで特別なことは何も無かったのだが、普段と違う時間を過ごすことで、いつもと違う一面を見られたのが良かったのかもしれない。花火そのものは子供騙し程度のものだったが、こういう花火をしたことが無いというは物珍しさも手伝ってか、大袈裟なくらいに喜んでいた。勢い良く火花を噴きながら色を変える花火を見てはしゃいだり、ねずみ花火が弾ける音に悲鳴を上げたり、しっとりと落ち着いている姿しか知らない斎藤は驚いたものだ。
芸事ばかりで子供らしい遊びをしたことが無いというにとって、ああいう子供の遊びは魅力的なものだったらしい。その後も花火を買い続けていたようで、斎藤も何度か誘われた。その流れで互いの家を行き来する機会が出来て、店主と常連客という垣根が低くなったのだろう。
“常連客”から“友人”に格上げされたのか、身元が割れている上に警察官という職業のお陰で“信用できる常連客”と見られているのか判断に迷うところであるが、二人の距離は確実に縮まっていると斎藤は思っている。出来ればこの勢いに乗ってもう少し距離を詰めたいものだ。
花火であんなに喜んだのだから、祭りに誘えばもっと喜ぶのではないかと、斎藤は考える。もうすぐ近くの神社で大きな祭りが始まるのだ。境内には夜店は勿論、見世物小屋やお化け屋敷もある。にとってはどれも魅力的なものだろう。
「今度の休み、一緒に祭りに行かないか?」
最後の客が帰って暖簾を片付けているに、斎藤は声をかけた。
考えてみれば、斎藤の方からを誘うのは初めてのことである。客の方から誘うのは断りづらかろうと遠慮していたのだが、の方から花火に誘ってきたこともあって思い切ってみた。
は一寸考える仕草を見せた後、嬉しそうに微笑んで、
「ええ。じゃあ、今度のお休みの日に」
普段は静かなこの通りも、祭りの期間は大変な賑わいになる。大きな祭りだから、遠くからわざわざ足を運ぶものも多いのだろう。
現地で落ち合う約束をしていたのだが、これなら家に迎えに行くことにしておけば良かったかと、斎藤は後悔した。この人込みではのいる場所までたどり着くのも一苦労だ。
神社の前では人が多すぎるだろうからと、神社のすぐ傍にある公園を待ち合わせ場所に指定してたも失敗だった。考えることは皆同じなようで、鳥居の前よりはマシとはいえ、驚くほどの人なのだ。
しかもどの女も似たような色の浴衣を着ているものだから、遠目には誰が誰やら見分けがつかない。おまけに、柄まで流行りのものなのか似たようなものばかりだ。
あまりのことに呆然としてしまった斎藤だったが、途方に暮れている場合ではない。を探すために歩き出した。
それにしても、こんなに女がいるというのに、どうして肝心のの姿が見当たらないのか。こんなにいるから逆に見付からないのだろうが、こんなにいるのならそろそろ見つかっても良いはずである。約束の時間は過ぎているのだから、いないはずではないのだ。
「藤田さん!」
あまりの見付からなさに焦り始めた斎藤の後ろで、の声がした。
振り返ると、が小走りに寄ってきた。
「通り過ぎるからどうしたのかと思いましたよ」
「あ……ああ、済まない」
いつの間に通り過ぎたのかと驚きつつも、斎藤は謝罪した。
髪型がいつもと少し違うのと、化粧がいつもより薄くて雰囲気が変わっていたから気付かなかったのかもしれない。雰囲気は違うが、これはこれで良い感じである。
いつも朱い口紅は無いが、代わりに浴衣が渋い臙脂色だ。それに何か分からないが大輪の花が咲いている。流行りのものではないようだが、らしい浴衣である。
「その……いつもと感じが違うな」
何と言って良いものやら、斎藤にしては珍しく歯切れが悪くなってしまう。
普通は隙の無い化粧の方が緊張しそうなものだが、の場合は薄化粧の方が緊張してしまう。隙を見せられているような気がするからかもしれない。本当に隙を見せているのかはにしか分からないことだが、斎藤はそう感じている。
隙を見せているのだとしたら、も斎藤と同じく二人の距離を縮めたいと考えているのだろうか。彼女はいつも積極的に近付いて来るから、そう考えていても不思議は無いと、斎藤は調子の良いことを考えてしまう。
はふふっと笑って、
「若い頃に仕立てたものだから、柄が派手かと思ったんですけど」
「いや、似合うんじゃないか?」
こういう時は一寸気の利いたことを言うべきなのだろうが、巧い言葉が思いつかない。
気の利いた一言を考える斎藤を可笑しそうに見上げ、はまた小さく笑った。
「じゃあ行きましょうか。私、買いたいものが沢山あるんです」
「ああ」
結局“似合う”以上のことは言えなかったが、は斎藤の反応に満足したようである。それならまあ良いかと、斎藤は歩き始めた。
買いたいものが沢山あると言っていたから何が欲しいのかと思っていたら、夜店の食べ物だった。飴細工だの串焼きだの次々買い込んで、の手だけでは足りずに斎藤の両手まで塞がってしまった。
「こんなに買ってどうするんだ?」
すっかり荷物持ちになってしまっている斎藤が呆れて尋ねた。
普段は売られていない珍しい食べ物の味がどんなものか気になるのは解るが、こんなに買っても一人では食べきれないだろう。明日食べるつもりでいるのかもしれないが、こういうものは祭りの時に食べるから美味いのであって、家で食べても美味くも何ともない。どちらかというとがっかりするような味だ。
大体、いつも美味いものを食べているが、こんな夜店で売られているものを美味いと感じるとは思えない。見た目と雰囲気でつい買ってしまうのだろうが、少し食べたらもういいと言いそうである。
が、は楽しそうに、
「だって、食べたことの無いものばかりですもの。二人で食べれば良いでしょう?
あら、あれは何かしら?」
女は買い物好きと相場は決まっているが、もそうらしい。足取り軽やかに夜店へ向かった。斎藤も慌ててその後を追う。
この人込みでは一度姿を見失うと、そのままはぐれてしまう。あちこちの夜店を覘くを見失わないように付いて回らなければならないのだから、斎藤は大変だ。傍から見たら、気ままな女に付き従う荷物持ちの男である。こんな姿は知り合いには見せられない。
だが、こうやって楽しそうにしているの様子を見ていると、誘って良かったとは思う。年甲斐も無くはしゃぎすぎにも見えるが、そんな姿も斎藤には可愛らしく思える。
花火や夜店でこんなにも喜ぶなんて、は見かけによらず子供っぽいところがあるようだ。いい歳をした人間が子供みたいにはしゃぐのはみっともないと思っていたが、のように普段はしっとりと落ち着きのある女が見せる子供っぽい一面は、意外性があって良いものだ。
「藤田さん、藤田さん、お化け屋敷ですって。行ってみましょうよ」
大きなテントを指差して、は興奮気味に誘う。食べ物の次は娯楽らしい。
お化け屋敷も良いが、その前にこの荷物である。お化け屋敷の通路はそう広くないから、両手が塞がっていては邪魔で仕方がない。
「これを食ってからだな。あの中は真っ暗だから、こんなものを持ってたら浴衣を汚すぞ」
「ああ、そうですね。じゃあ早く食べちゃいましょう」
斎藤の言葉は尤もだと思ったらしく、は素直に頷いた。が、気持ちは既にお化け屋敷へ向かっているようで、頻りにテント目を遣っている。
そんなに期待するほどのものではないだろうと斎藤は思うのだが、楽しみにしているのは良いことである。こういうものは入る前の気分の盛り上がりも大切だ。
楽しそうなの様子を見ていると、期待していないはずの斎藤も何だかお化け屋敷が楽しみになってきた。のように目の前のものを全力で楽しもうとする人間は、一緒に何かをするには良い相手である。
「お化け屋敷なんて、子供の時に入って以来だな………」
子供の頃は真っ暗だというだけで恐ろしかったものだが、大人になった今はどうだろう。今更子供騙しのお化けを怖いとは思わないだろうが、が一緒ならそれなりに楽しめそうな気がする。
「藤田さん、楽しそうですねぇ」
の目には、斎藤がお化け屋敷を楽しみにしているように見えるらしい。別にお化け屋敷そのものを楽しみにしているわけではないが、わざわざ否定するほどのことでもない。
かといっていい歳をした男がお化け屋敷を楽しみにしているというのも変な感じだから、斎藤は何とも言えない微妙な顔で唸ってしまう。そんな彼の顔を照れ隠しと解釈したのか、は可笑しそうに小さく笑った。
「きゃあぁっっ?!」
「………っ?!」
いきなり飛び出してきた幽霊の人形にが大袈裟な悲鳴をあげ、その悲鳴に驚いて斎藤も思わず身を引いてしまった。
は何に対しても大袈裟なくらいに驚いて、兎に角うるさい。人がぬっと現れれば悲鳴を上げ、人形が飛び出しても悲鳴を上げ、大きな音にも悲鳴を上げる。一寸したことに悲鳴を上げることが可愛いと思っている女がいるからそういうものなのかと斎藤は思っていたが、様子を見ていると本気で驚いているようだ。いわゆる“ビビリ”な性格なのだろう。
お化け屋敷でこんなに悲鳴を上げるような女には見えなかったのだが、これまた意外な一面である。だが以前、斎藤が怪我をした時に言葉にならないほど驚いておろおろするだけだったから、見かけによらず動揺しやすい性質なのかもしれない。
「ひいっ?!」
またが悲鳴を上げ、今度は斎藤に抱きついてきた。
「なっ……何だっ?!」
これには流石に斎藤も声が出てしまった。
見たところ、人間や人形が出てきた様子は無い。一体何に驚いているのか。
「いいい今っ……今、ぬるっとしたのが顔にぺたってっ………!」
「それは蒟蒻だろう、多分」
真っ青になって訴えるに、斎藤は呆れ顔で冷静に応える。
おそらく、釣り竿に引っ掛けた蒟蒻を顔に付けられたのだろう。斎藤が子供の頃から使われている古典的な手法で、こんなものにこれほど大袈裟に驚く方が珍しい。仕掛けている側にとってはは良い客だ。
種明かしをされてもまだ怖いのか、は斎藤にしがみついたままだ。絶対に離れるものかとばかりに、がっちりと腕にしがみついている。
「いいですか、絶対に離れないでくださいよ。敵は何を仕掛けてくるか判らないんですから」
自分が怖いくせに、何故か斎藤が怖がっているかのような言い草である。しかも“敵”とは大袈裟だ。にとっては自分を怖がらせる敵で間違いないのだろうが、大袈裟すぎて斎藤には可笑しい。
しかしここまで怖がってくれる客だと、仕掛ける側もやり甲斐があるだろう。心なしか、現れる幽霊たちも張り切っているようだ。
斎藤も、にしがみつかれるのは悪い気はしない。今更お化け屋敷なんて、と思っていたが、なかなか楽しい空間である。
お化け屋敷の後は見世物小屋に連れて行ってみよう、と斎藤は考える。あれも大人の目には馬鹿馬鹿しいものばかりだが、蛇を食う“蛇女”というのを見たら、は腰を抜かすに違いない。
悲鳴を上げるの姿を楽しみにするのは我ながら意地が悪いと思うが、こんなに大騒ぎする彼女の姿などなかなか見られないのだから、色々試してみたい。日頃見られない相手の姿を見るというのは楽しいものなのだ。
「何にやにやしてるんですか?」
考えているうちに笑っていたらしく、は怪訝な顔で斎藤を見上げる。
怖がるの姿を想像していたとは流石に言えず、斎藤は片手で口許を覆って、
「いや、別に………」
「とにかくね、油断は禁物ですよ。敵は何処から出てくるか―――――ぎゃあっっ?!」
偉そうに説教をしている先から、は色気もへったくれも無い悲鳴を上げた。今度は黒い幕の間から出てきた手に腕を掴まれたようだ。
この手といい、さっきの蒟蒻といい、どうやら仕掛け人はに集中攻撃を仕掛けているらしい。仕掛け人も男であるだろうから、反応の薄い男の斎藤を相手にするよりも、きゃあきゃあ騒ぐ女のを相手にした方が楽しいに決まっている。それに女の悲鳴は良い効果音になるのだ。
この分では、出るまでにどれだけ脅かされることか。安い入場料で幽霊たちが全力で構ってくれるのだから斎藤にとっては得した気分であるが、には一寸災難かもしれない。
「本当に油断は禁物だな」
小さくなってびくびくしているを見下ろし、斎藤は笑いを堪えながら言った。
幽霊たちに散々脅かされて、お化け屋敷を出る頃にははすっかりへとへとになっていた。
「ああ、疲れた。お化け屋敷があんなに凄いとは思いませんでしたよ」
冷やし飴を一気に飲んで、は漸く落ち着いたように溜め息をついた。
確かにの言う通り、あのお化け屋敷は凄かったと斎藤も思う。あんなに一人の客に構ってくれるお化け屋敷は他に無い。最後の方は少しやり過ぎではないかと思ったほどだ。
斎藤たちがいた時は客入りがあまり良くなかったようだから、みんな暇だったのだろう。そこにのような反応の良い客が来たものだから、いつもより力が入ったのかもしれない。
そんな暇そうだったお化け屋敷も、の派手な悲鳴のお陰か、今は賑わっているようだ。あんな派手な悲鳴が漏れ聞こえたのだから、凄いものを期待している者も多いだろう。実際は大したことはないのだが。
「お化けより、あんたの悲鳴の方が凄かったが」
笑いを噛み殺してからかうように言うと、斎藤は煙草に火を点けた。
何かある度に大袈裟に驚いていたの姿を思い出すと、今でも笑いがこみ上げてくる。彼女もあんな風に子供のように驚くことがあるとは思わなかった。
は少し顔を赤くしたが、すぐに澄ました顔で、
「あら、藤田さんだって怖がってたじゃありませんか」
「は?」
何をどうしたらあんな子供騙しを怖がっているように見えたのか。の意外な言葉に、斎藤は煙草を落としそうになった。
唖然とする斎藤の顔を見て、は可笑しそうにくすくす笑う。
「お化けが出る度にびくっとして。藤田さんも可愛いところがあるんですね」
「いや、あれは………」
びくっとしたのは事実だが、あれは幽霊が怖かったのではなく、の悲鳴に驚いたからだ。隣であんなに悲鳴を上げられれば、何でもなくてもびっくりするだろう。
誤解を解こうと口を開く斎藤を遮って、は慰めるように言う。
「男の人だって、怖いものは怖いですよねぇ。藤田さんにも怖いものがあるんだって、安心しましたよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
それは誤解だと言いたいのだが、にこにこしているの顔を見ていると何も言えなくなってしまう。大の男が可愛いと言われるのは微妙だが、親近感を持たれているようなのだ。
親近感を持たれているのに否定しては、折角の雰囲気が台無しである。これは“いい歳してお化けが怖い男”と思わせておくべきか。一応「可愛い」と言っているのだから、だらしないとは思っていないようだ。
しかし、斎藤がお化けを怖がる男と思われるのは困る。男でお化けが怖いと言って微笑ましいのは、神谷道場の弥彦くらいまでだ。
「誤解しているようだが、俺は―――――」
「あ! 大事なものを忘れてた。一寸待っててくださいね」
斎藤の話など完全に無視して、は何か思い出したように立ち上がると、本殿に向かって走り出した。
何を思い出したのか知らないが、何ともは自由すぎる。いくら童心に返っているとはいっても、子供だってもう少し節度があるだろう。こんなに自由気ままな女だとは思わなかった。
今夜は、今まで知らなかったの一面を発見してばかりだ。祭りの夜という非日常の空間が、を開放的にさせているのだろう。少々開放的すぎるところはあるが。
けれどこんなの姿は、見ていて面白い。これまでは何を考えいるのか解らない女だと思っていたが、子供のように自分の思うままに行動しているから、斎藤には理解できなかっただけなのかもしれないと思えてくる。
暫くして、が縦長の小さな箱を抱えて戻ってきた。
「売り切れてなくて良かった。ずっと欲しいと思ってたんですよ、これ」
そう言いながら箱から出したのは、色鮮やかに絵付けされたびーどろだ。
この祭りでは、巫女が絵付けしたびーどろが縁起物として売り出されるのだ。毎年すぐに売り切れてしまうものだが、こんな遅い時間になって買えたのは運が良い。
は嬉しそうにびーどろに口を付けると、早速その音を楽しむ。その表情も祭りの雰囲気のせいか、それともいつもと違う化粧のせいか、子供のようにあどけなく見えた。
夏の風鈴とは違うが、びーどろの音色も涼しげだ。秋の始まりに相応しい音だと斎藤は思う。
「良い音だな」
「ね、秋っぽいですよねぇ」
ふふっと笑って、は大事そうにびーどろを箱にしまった。そして、
「今日は楽しかったです。こんなに楽しかったのは、本当に久しぶり。また一緒に何処かへ行きましょうね」
「あ、ああ………」
子供のような笑顔を向けられ、斎藤は何だか気恥ずかしくなって視線を逸らしてしまった。
斎藤も、今夜はと一緒にいて久々に楽しかった。またこんな機会があるのなら、を誘って何処かへ行きたい。
「そうだな。また何処かへ行こう」
斎藤は遊び歩く性質ではないから娯楽に詳しくはないが、と一緒なら何処へ行っても楽しいだろう。歳を取ると楽しいと思うことは少なくなっていくと思っていたが、相手に恵まれれば楽しいことはいくらでも増えていくようだ。これまでは大したことはないと思っていたことでさえ、楽しく思えるようになる。
斎藤の言葉に、は一際嬉しそうに微笑んだ。
秋といえば、秋祭り。私の地元でも大きな祭りがありましてね、お化け屋敷とか見世物小屋とかも出るんですよ。人酔いするくらい凄い人出だけど、また行きたいなあ。
それにしても主人公さん、別人のように自由すぎる………。フリーダム過ぎて、斎藤、一寸困ったかも(笑)。
兎部下さんシリーズといい、斎藤のデートは“デート”というより“子守り”に近いのかもしれません。悪人面の割に(失礼!)面倒見は良いし、意外と向いてるのかもなあ、子守り。