蛍川

蛍川 【ほたるかわ】 蛍がたくさん見られる川。
 盆が近付いて、蒼紫は精霊流しのための船を作り始めた。一度使ったらそれきりのものなのに、屋形船のようなかなり本格的なものだ。
 初盆には他所でもそれくらいのものを作るが、それ以降も作るのは珍しい。般若たち四人分をまとめて作ろうと考えているからこんな大掛かりなものになってしまうのだろうが、毎年続くとなると大変ではないかと思う。
「蒼紫様、お茶どうぞ」
「ああ」
 は大工仕事をしないからよく分からないが、家を作る大工とは別に船大工という職業があるのだから、船を作るのには特別な技術がいるのだろう。御庭番衆の仕事には船を作るというのは無かったはずだが、蒼紫にこんな特技があるとは知らなかった。江戸にいた頃や御一新の後の少しの間だけ『葵屋』にいた時はそんなことをしたことが無かったから、般若たちと旅をしている間に覚えたのかもしれない。
 十年前に突然般若たちを連れて姿を消して、突然一人で『葵屋』に戻ってくるまでの間のことを、は何も知らない。“十年”と言葉にするのは簡単だが、いなくなってしまった四人のことや、こうやって船を作っている姿を見ると、長い空白を感じる。
 この空白を埋めたくて、は空いた時間は蒼紫の傍にいるようにしているけれど、一緒の時間が増えるほど知らなかったことも増えていくようだ。
「蒼紫様がこんなものを作れるなんて知りませんでした」
 隣で茶を啜っている蒼紫にが話しかける。
「見よう見真似で作ってみたんだが……まあ大丈夫だろう。海に着くまで沈まなければいい」
「これだけ大きかったら、たくさん乗せられますね」
 死者をあの世へ帰す船には、食べ物や花を積んで流すようになっている。旅の間に腹を空かさぬようにということなのだろう。
 あの四人が好きだったものを乗せてやりたいが、一緒に過ごしたのは遠い昔のことで、何が好きだったのかにはもう思い出せない。たとえ憶えていたとしても、十年の間に好みは変わったかもしれない。蒼紫も十年前とは違うものを好むようになっているのだ。
「みんなが好きだったものを乗せたいのですが、何が良いでしょう?」
「普通に果物と菓子と握り飯で良いだろう。特別なことをする必要はない」
 蒼紫自身が食に拘りが無いせいか、供物には関心が無いようだ。もしかしたら、四人で旅をしている間は好物だの何だの言っている余裕は無かったのかもしれない。
 の知らない十年の間、蒼紫たちは一体どんな生活をしていたのだろう。訊こうと思ったことは何度もあるが、今はまだそのことに触れてはいけないような気がして、何となく訊けないまま今に至っている。
 『葵屋』にずっといたの十年は、とても静かなものだった。御庭番衆の一員であったことは無かったことのように過ごしてきた。ただの仲居として生きてきたの十年と、御庭番衆御頭として生きてきた蒼紫の十年は全く違う。気楽といえば気楽な十年を生きてきたが、蒼紫の十年を気軽に訊けるものではない。
「蒼紫様がそう仰るのなら………」
 蒼紫とあの四人の絆の強さは、にも想像できる。彼が特別なことをする必要が無いと言うのなら、もそれに従うまでだ。余計な手出しは般若たちも望まないだろう。
 船に特別なものを積まなくても、死者の魂を迎え入れ、そして送り出す気持ちがあれば、それで良い。蒼紫がそれを全て取り仕切ることこそが、般若たちには一番嬉しいことなのかもしれない。
「こんな立派な船を用意してたら、般若たちびっくりするでしょうねぇ」
 般若たちは蒼紫にこんな特技があることを知っていたのだろうか。知っていたにしても知らなかったにしても、蒼紫がこんな本格的な船を作って待っていたと知ったら驚くに違いない。
 船を見てびっくりする般若たちの姿を想像して、は口許を綻ばせた。






 盆の間も『葵屋』は通常通りの営業で、盆らしいことは何も出来なかった。店に出ない蒼紫だけは、墓参りに行ったようだ。
 も一緒に行きたかったのだが、一年で一番忙しいこの時期に店を抜けるわけにはいかない。般若たちに話したいことは沢山あったのだが、それはまた別の機会でも良いだろう。新しい生活を始めた最初の盆は、蒼紫だけで行くのが良いのかもしれない。
 蒼紫はきっと、般若たちと色々なことを話し合ったのだろう。昔の話や、『葵屋』での新しい生活のこと、たちとは話せないことも沢山話せたに違いない。
 自分たちとは話せないこと、という思いつきに、は少し淋しくなる。蒼紫が『葵屋』に戻ってきたばかりの頃に比べると少ないながらも話をするようになったけれど、まだ心を開いてくれてはいない。昔も“御頭”と“部下”という線引きはあったけれど、蒼紫の存在は今よりもずっと近くに感じられた。けれど今は、昔と違って一緒に食事をしたり隣に座ることもできるのに、もの凄く遠い。
 蒼紫とたちの間には見えない壁がある。この壁が崩れるのは一体いつのことになるのだろう。
ー、そろそろ行くってー」
 厨房で握り飯を握っていると、操が声をかけてきた。
 盆の最終日、満潮の時間に合わせて船を流しに行く。この握り飯は生きている人間が食べるものではなく、菓子や果物と一緒に蒼紫が作った船に積むためのものだ。
「あ、はーい」
 出来あがった握り飯を手早く包みながらは返事をした。





 真夜中や明け方に満潮が来る日もあるが、今日は比較的早い時間で助かった。あまり遅い時間になると明日に響くから、蒼紫と翁くらいしか行けなかったかもしれない。
 少し早かったかと思ったが、真っ暗な川にはぽつぽつと蝋燭の灯りが見える。生きている人間には明日の生活があるから、早めに流している者もいるのだろう。
「こういうのを見るとお盆も終わりって感じよねぇ」
 ゆっくりと進んでいく蝋燭の灯りを見ながら、お増がしんみりと呟く。
 お増たちはあの四人と一緒にいた期間がよりも長かったから、色々と思うところがあるのだろう。忙しさにかまけて盆らしいことを何も出来なかったことについても、心に引っ掛かっているのかもしれない。
 生きている者には生活があって、死んでしまった者のことは後回しにしてしまうこともあるけれど、決して忘れてしまったわけではない。時々思い出したり、こうやって送り出したり、それだけでもきっと般若たちは満足してくれると思う。そして彼らが何より嬉しいと思うのはきっと、蒼紫が幸せになることだ。
「さてと……そろそろ流すか」
 翁の声を合図に、船が水面を滑るようにゆっくりと進み始める。
 少しずつ遠くなる船の灯りは、まるで現世との別れを惜しんでいるかのようだ。本当に般若たちがあの船に乗っているのだとしたら、一人だけこちらに残した蒼紫のことが気がかりなのかもしれない。
 蒼紫はまだ完全に立ち直ったわけではない。たちが知っている彼に戻るまでは、まだ長い時間が必要だろう。けれどいつかきっと昔の蒼紫に戻ってくれると、は信じている。
 今はまだ皆との間に壁があるけれど、いつかそれをの手で打ち壊したい。そして目に見える距離も心の距離も、昔よりずっと近付きたい。
「蒼紫様」
 遠くなっていく船を見送る蒼紫に近寄って、は声をかける。
「暫く皆とお別れですね」
「ああ」
「来年は、私も一緒にお墓参りしても良いですか?」
 今年は忙しくて行けなかったけれど、来年は少し時間を作って蒼紫と墓参りに行きたい。盆前から準備しておけば、忙しくても少しくらいは時間を作れるだろう。
 も般若たちと話したいことが沢山ある。蒼紫のことや自分のこと、そしてこれからのことも。
「ああ」
 話しかけても、蒼紫はを見てくれない。今はまだ、目の前のよりも死んでしまった四人の方が彼には近い存在なのだろう。
 死んだ人間には敵わないというけれど、いつまでも負け続けたくはない。死んでしまった般若たちよりも、傍で生きているを見て欲しい。
 勇気を出して、は蒼紫の袂を掴む。
「私はずっと傍にいますから。来年も再来年も、ずっとずっと傍にいます」
 は『葵屋』の仲居として生きていくのを決めたのだから、般若たちのように突然いなくなったりはしない。ずっと蒼紫の傍で生きていく。彼に悲しい思いはさせない。
「………ああ」
 掴んでいた袂が上がったと思ったら、蒼紫の手がの頭に置かれた。彼の手がに触れたのは、御庭番衆時代の鍛錬の時を除けば初めてのことだ。
 驚いて顔を上げただったが、蒼紫の目は相変わらず蝋燭の灯りが浮かぶ川を見ている。少し近付けたかと思ったけれど、まだ蒼紫の目にはは映らないらしい。
 今はまだ自分を見てくれなくても、いつかきっとその目がこちらに向けられる日が来ると信じている。これから傍にいるのは般若たちではなく、たちなのだ。死んだ人間には敵わないかもしれないけれど、だからといって諦めたくはない。
「ずっとずっと一緒です」
 約束するように、はもう一度呟いた。
<あとがき>
 “精霊流し”が“しょうろうながし”ではなく“しょうりょうながし”と発音するものだと、この話を書きながら初めて知った。道理で変換できないわけだよ………orz だって、さだまさしの歌が“しょうろうながし”って聞こえてたんだもん。ああ、今まで口に出さなくて良かった。
 お盆に船を流す風習が全国区かどうかは知らんです。私の地元では仏壇にお供えしていたものを船や箱に入れて海へ流します。河口近くで流す人が多いかな。あの世というのはどうやら海の向こうにあるらしい。
 そういえば海から遠いところや川の無いところはどうやって流すのかなあ。やっぱりこの風習はローカルなものなのか?
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