水簾

水簾 【すいれん】 簾に見立てた滝の水。
 夏の繁忙期が終わり、蒼紫たちが比古の山小屋にやって来た。他に遊びに行くところが無いのかと比古は思うのだが、多分無いのだろう。
 町中より涼しく、金をかけずにそこそこ楽しもうとなると、比古のところは絶好の場所だ。山の中でも暑いのはそれほど変わらないが、彼の山小屋の近くには一寸した滝があって夏でも涼しい。
 比古も夏の間は陶芸もせずに酒を飲んだり釣りをしたりぶらぶらしているのだから、たまの来客は良い暇つぶしにはなる。来客は少々面倒臭いが、手土産持参で来るのだから来る者は拒まずといったところだ。
 はというと、蒼紫が来るとなれば当然の大張り切りだ。数日前から大掃除に客に出す料理の準備にと、比古のことをほっぽり出して忙しく働いていたくらいである。
 客をもてなそうというのは良い心掛けだが、そのために師匠をほったらかしというのは如何なものか。比古の昨日の夕飯は忙しいのを理由に素麺だけだったというのに、蒼紫たちに出すのは御馳走である。その半分でも師匠に気を遣えと言いたい。
「いつもこんなのを食べられるなんて、山暮らしって楽しそう」
 山の幸をふんだんに使った料理は、町育ちの操にはどれも珍しいものなのだろう。あれこれと箸を付けて舌鼓を打っている。
 毎日こんな食事なら山暮らしも楽しかろうと、比古も思う。だが今日の料理は、比古とが数日前から材料を集めてきたものなのだ。こんなものを毎日食べられるわけがない。しつこいようだが、彼の昨日の夕飯は素麺だけだった。
 比古は酒を飲みながらむっつりと、
「そんなわけあるか。昨日の晩飯は素麺だけだぞ。俺にもそれくらい出してみろってんだ」
「仕事もしないでぶらぶらしてる人には素麺で十分ですよ」
 料理を取り分けながら、は涼しい顔で応える。
 それが弟子を自称する人間の態度かと比古は思うが、は何とも思っていないようだ。もはや自分が弟子であることすら忘れているのかもしれない。尤も、比古も師匠らしいことは何一つしてはいないのだが。
 しかし、師匠らしいことは何もしなくても、家主と居候の関係は健在である。家主に対して居候のこの態度は如何なものか。
「人を碌でなしみたいに言うんじゃねえ。誰のお陰で屋根のある家に住めると思ってんだ」
「お言葉ですけど、誰のお陰でこんな美味しい御飯が食べられると思ってるんですか。私がいなきゃ、貧しい食生活で今頃体を壊してますよ」
 何を言ってもは涼しい顔で減らず口である。しかもいつも一言多い。
 確かにが来てから、家庭菜園や魚釣りで比古の食生活が格段に豊かになったのは認める。だが、が山に来る前も比古は人並み以上に健康でやってきたのだ。が来てからの方が気苦労の連続である。
「お前が来てから、俺は心労でぶっ倒れそうだ」
「あ〜ら、とてもそうは見えませんけどね〜」
「気付け、馬鹿野郎」
「あらあら、それはすみませんねぇ」
 二人の遣り取りに、お増が弾けるように笑い出した。
「お二人とも、本当に仲良しですねぇ」
「ほんとほんと。もう結婚しちゃえばいいのに」
 他人事だと思って、操も適当なことを言う。
「何で俺様ほどの男がこんな女を嫁にしなきゃなんねぇんだよ」
 いくら他人事とはいえ、何と恐ろしいことを言うのか。ただの居候の今でもこれだけ傍若無人なのに、これが嫁になったらどうなるか想像しただけでも恐ろしい。心労で倒れるどころか、寿命を縮めてしまうかもしれない。
 世の中にはよりもいい女はいくらでもいるのである。そして比古も、以上の女を引っ掛けるくらいの魅力は十分にあるのだ。それを何が悲しくて程度の女で妥協しなければならないのか。
 そう思っているのはも同じようで、可笑しそうに鼻で笑って、
「それはこっちの台詞ですよ。私だってどうせならこんな人よりも、若くていい男が良いですもん。ねぇ、四乃森さん」
「は? あ、ああ………」
 いきなり話を振られ、蒼紫は訳も分からないまま返事をする。そこに畳みかけるようにお近も、
「そうですよ。さんはまだお若いんですもの。蒼紫様もさんみたいな方と結婚したら人生が変わりますよ」
 比古とが結婚したら一番困るのは、彼のことを好きなお近なのである。幸い、は蒼紫に興味を持っているようだから、二人をくっ付けて比古から関心を逸らしたいところだ。
 だが、と蒼紫がくっ付くと困ってしまう者もいて―――――
「ダメダメダメっっ!! 蒼紫様はまだ誰とも結婚しちゃ駄目なのっ!」
 操が血相を変えて猛反対する。彼女は子供の頃から蒼紫のことが好きなのだから、それをいきなり現れたに横取りされてはたまらない。
 操は蒼紫が好きで、お近は比古が好きで、自分の好きな相手とがくっ付いてはたまらないと、互いの好きな相手に押し付け合っている様は傍から見ると滑稽なものだ。自身はどう感じているのかは判らないが、比古は呆れて口を挟む気にもなれない。
 人が増えれば人間関係が生まれ、それが妙齢の男女であれば関係は複雑になるもののようだ。その複雑さを楽しめればいいのだが、比古には面倒臭いだけのものである。
 蒼紫もそれは同じなようで、二人とも話に巻き込まれぬように無言になるのだった。





 好きな相手を巡ってそれぞれに思惑はあれど、遊ぶ時はそんなことを忘れているかのように仲良くできるようだ。食事の後、女たちは滝壺の周りで楽しげに水遊びをしている。
 操は兎も角として、いい歳をした大人が水をばしゃばしゃやって何が楽しいのだろうと比古は思うのだが、彼には解らない楽しさがあるのだろう。など、脹脛を丸出しにして一番はしゃいでいる。とりあえず年増の脹脛はしまっておけと比古は言いたい。
「楽しそうだな」
 水をかけられて悲鳴を上げる女たちを見遣りながら、蒼紫が言う。彼も比古と同じく、水遊びの何が楽しいのか解らない様子だ。
「お前も仲間に入ってみたらどうだ? 案外楽しいかもしれんぞ」
「いや、俺は見てるだけでいい」
「ふーん………」
 何となく話が続かず、二人とも黙り込んでしまう。
 蒼紫が無口で陰気な男であることは比古も解っているが、どうもこの男は絡みづらい。普段、何を言ってもぽんぽん返してくるしか相手にしていないから、余計にそう感じるのかもしれない。
 しかもこの男の沈黙は重苦しいものだから、比古は何となく息苦しくなってしまう。こんな男のどこが良いのだろうと思いつつ、比古は酒を飲んだ。
 も色々と問題だらけの女だが、蒼紫も何かと問題の多そうな男である。この二人がくっ付けば問題のある人間が一気に片付くことにはなるが、また別の問題が発生しそうだ。やはりを蒼紫に押し付けるわけにはいかない。
 そんなことを考えていると、蒼紫がおもむろに口を開いた。
「さっきの話だが……俺も操の言う通りだと思う」
「何がだ?」
「この際だから、さんと所帯を持ってみたらどうだ?」
 蒼紫の発言に、比古は盛大に酒を噴いてしまった。
 いくら話題が無いからといって、この男は一体何を言い出すのか。比古との様子を見ていて、どうしたらそんな発想が出てくるのだろう。
 大体、は蒼紫を気に入っているのである。自分が逃げたいから比古に押し付けようとでも企んでいるのかとも思ったが、どうやら本気のようだ。そもそもこの男に、嫌な女を誰かに押し付けて逃げようという知恵が回るとは思えない。
 しかし本気でそう思っているとしたら、蒼紫の人間関係を読む能力は相当低い。他人事ながら、比古は本気で心配になってきた。
 呆然としている比古に全く気付かない様子で、蒼紫は真面目に話し続ける。
「今のままでも良いだろうが、先々のことを考えたらきちんとするのが互いのためだろう。歳を取ってさんに出て行かれても困るだろうが、子供が出来たらどうするんだ? 子供が先で結婚が後というのは―――――」
「ち……一寸待て! お前、何の話をしてんだ?」
 何だか話がおかしな方向に進んで、比古は慌てて蒼紫を止める。
 歳を取って身の回りの世話をする人間がいなくなるのを心配するのは解るが、子供というのは一体何なのか。どこからそんなものが出てきたのか、比古には訳が分からない。
「だからその歳で子供が先で結婚が後になるのは外聞も良くないだろう。まあ、さんの陶芸修業もあるからきちんと考えているだろうが、絶対に出来ないとは言い切れないんだから―――――」
「………お前、俺とあの女のことをそういう目で見てたのか?」
 あまりにも素っ頓狂な誤解は、怒りよりも疲労を感じさせるものらしい。比古は怒鳴る気力も無くして、がっくりしてしまった。
 男の師匠に女の弟子という組み合わせは、そういう関係になることも多いらしいが、比古とに関しては絶対にそういうことはあり得ない。それは二人の様子を見ていれば判ると思っていたのだが、蒼紫には判らなかったらしい。この男の鈍さはただ事ではない。
「違ったのか?」
 蒼紫は心底驚いた顔をした。
「違うに決まってるだろうが、この大馬鹿野郎」
「そうか、違ったのか。何だか長年連れ添った夫婦のような雰囲気だったから、てっきり………」
「あのなぁ………」
 蒼紫は何気なく凄いことを言ってくれる。比古はもう呆れて言葉も出ない。
 蒼紫が“長年連れ添った夫婦”というものをどういう風に想像しているのか知らないが、勘違いも甚だしい。はあんなに“四乃森さん四乃森さん”と言っていて、お近ものような女と結婚しろと頻りに勧めていたというのに、今まで一体何を聞いていたのだろう。
 ということは、蒼紫はの気持ちに全く気付いていないということだ。鈍いにも程があるが、ぼんやりしているうちににハメられたら大変である。ここは分別のある年上の男として、しっかりと注意しておかなくては。
「この際だからはっきりしとくが、あいつはお前に気があるんだ。あんな女に捕まったら一生が台無しになるから、全力で逃げろ」
「それは無いな」
 折角比古が忠告してやっているというのに、蒼紫は自信たっぷりに否定する。自分の人間関係の読めなさはさっきのことで痛感しただろうに、どうしてまだそんなに自信が持てるのだろう。
 蒼紫の鈍さに、比古はだんだん苛々してきた。はあんなに蒼紫のことを気に入っていて、会う度に粉をかけているというのに、どうして解らないのだろう。
「お前、本当に鈍い奴だな。後で後悔しても知らんぞ」
 若い蒼紫が年増女に捕まったら可哀想だと思っていたが、ここまで鈍いともう心配してやるのも馬鹿馬鹿しい。比古は吐き捨てるように言った。
 が、蒼紫は小さく笑うだけで黙って茶を啜るのだった。
<あとがき>
 何だ、このぐちゃぐちゃな人間関係(笑)。でもぐちゃぐちゃな割にはあんまりどろどろしてないな。
 しかし蒼紫が上から目線で師匠に説教する日が来るとは思わなかった。しかも避妊の心配までしてくれるとは(笑)。勘違いとはいえ、蒼紫、良い奴だ。
戻る