夕彩
夕彩 【ゆうあや】 夕方の光の中で、ものが美しくみえること。
帰宅途中、西瓜を提げているに会った。いつもなら店にいる時間なのだが、どうやら今日は休みらしい。「あら、藤田さん。今お帰りですか?」
の方からにこやかに声をかけてきた。夕暮れ時とはいえ、まだ昼の暑さが残っているというのに、不思議と汗一つかいていない。
「ああ。今日は休みなのか?」
今日はの店で夕飯と思っていたのだが、休みとなると予定変更だ。夕飯はどうしようかと考えながら、斎藤は尋ねる。
が目当てというわけではないのだが、このところずっと夕飯はの店で済ませていたから、いきなり他の店といっても思いつかない。いっそ屋台の蕎麦で済ませてしまおうかと悩んでいると、がにこやかに言った。
「ええ。もしお夕飯がまだでしたら、一緒に如何です? 西瓜もありますし」
「え………?」
当たり前のように誘われて、斎藤はびっくりしてしまった。
以前から思っていたが、は常連客に対するにしては過剰なほど親切にしてくれる。自分に好意を抱いているのではないかと調子の良いことを考えてしまうほどだ。その度に、若い頃なら兎も角、今になって玄人上がりの一寸いい女に好かれるわけがないと思い直していたのだが、こんなことがこうも続くと本当に好意を持たれているのではないかと思えてきた。
斎藤も普通の男であるから、のような色気のある女に好かれるのは嬉しい。自分のどこを気に入ったのかは解らないが、その辺りは好みというものなのだろう。人の好みは様々だ。
年甲斐も無くどきどきしてしまう斎藤に、は笑顔で言葉を続ける。
「小さな西瓜ですけど、一人では持て余してしまいますからね。藤田さんとお会いできて丁度良かったわ」
「ああ……そうだな。うん、一人では食べきれなさそうだ」
そういうことかと、斎藤は自分でも驚くほど拍子抜けしてしまった。西瓜が大好物だとしても、丸々一個を一人で食うには多すぎる。かといって残すにしても、その後の処置に困るというものだ。
西瓜の処分に困っての誘いかと思うと少しがっかりだが、まあ良い。理由は何であれ、わざわざ誘ってくれるということは、少なくとも斎藤のことを他の常連客よりは気に入っていると考えて良いだろう。
我ながら調子の良いことばかり考えるものだと、斎藤は自分の発想に苦笑した。彼もやはり男である。幾つになってもいい女に好かれていると思いたいらしい。
斎藤の苦笑いに気付いて、が怪訝な顔で首を傾げた。
「西瓜はお嫌いですか?」
「いや、好きだ」
「それは良かった」
「うん」
何となくそれ以上話が続かなくなり、二人は並んで歩き始める。
並んで歩いていても、これといって話題が無い。斎藤は話題豊富な人間ではないし、も彼のことは無口な男と思っているらしく黙っている。黙っているとこれといってすることも無く、斎藤は何となく隣のを盗み見た。
夕焼けに照らされたの顔は少し朱に染まって、店の中で見るのとは少し印象が違う。いつもは人形のように白い肌が血色良く見えるのと、光の加減で陰影がはっきりして見えるせいかもしれない。
太陽の下で見るの姿には違和感があると思っていたが、夕暮れの彼女の姿は良いものだ。何気ない視線の動きにも睫毛が淡い影を落として、ただぼんやりしているだけだろうと思われる表情にも雰囲気を添えている。店で客の相手をする時の他人に見られることを意識しているの顔も良いと思うが、こうやって見られることを意識していないような顔も良いものだと斎藤は思う。
「あら」
不意に、が何かに気付いたように小さく声を上げた。じっと見ていたのを気付かれたかと、斎藤はどきりとする。
が、の視線は斎藤を通り過ぎて、商店の軒先を見ていた。
「折角だから花火を買っていきません?」
何が折角なのか解らないが、花火を買っている親子連れを見て欲しくなったのだろう。こういうものは一人でするものではないから、斎藤がいるのが“折角”なのかもしれない。
花火だなんて、斎藤には子供のころ以来のことだ。今更こんなものを喜んでやる歳でもないが、がやりたいというのなら付き合うのも悪くはない。
店先に並べられている花火は、斎藤が子供だったころに比べて格段に種類が豊富になっている。外国から新しい技術が入って、昔はなかなか手に入らなかった種類のものが安く売られるようになったのだろう。しかしこんなに種類があると、何を買っていいものか迷ってしまう。
「こんなにあると迷ってしまいますね」
物珍しげに花火を手に取りながら、は楽しそうに言う。それに対して斎藤は興味無さそうに、
「ま、適当に買っていけば良いんじゃないか? どれも似たようなものだろう」
「でもこんないあるってことは、少しずつ違うってことでしょう? どれが良いかしら」
少しずつ違うといっても、どれも色の付いた火花が出ることには変わりが無い。どれを買っても同じだと斎藤は思うのだが、は真剣に悩んでいるようだ。
買い物は迷っている間も楽しいのだと、昔付き合っていた女が言っていたのを思い出した。何を買うにしても即決の斎藤には解らない感覚だが、もこうやって悩むのが楽しいのかもしれない。
は楽しいかもしれないが、待たされる斎藤は退屈である。花火なんかよりも、西瓜が温くなるのではないかと気が気でない。
「そんなに迷うなら、一本ずつ買ったらどうだ? 全部買ってもたいした値段じゃない」
「でも全部買っても使い切れませんよ?」
「別に今日使い切らんでもいいだろう」
「でも………」
そのままは何か考えるように黙り込む。
夏はまだ盛りなのだから、これから暫くは花火をする機会はある。慌てて今夜やってしまわなければならないということはないのだ。何をそんなに迷う必要があるのだろうと焦れ始めた斎藤だったが、が考える理由に気付いて少し気まずくなった。
花火が残ってしまったら、また休みの日に斎藤を誘わなくてはならなくなると、は思っているのかもしれない。残った花火をどう使おうと彼女の自由なのだが、斎藤と買った手前、知らぬ振りはしづらいだろう。
しかもこの話の流れでは、そんなつもりは無くても次の約束まで取り付けようとしているようではないか。斎藤としては次があるのは歓迎だが、は面倒だと思っているのかもしれない。
「あ、いや、そうだな。残して湿気らせたらいけない」
斎藤は慌てての意見に賛同する。
少し押せば、店主と常連以上の中になれそうな気もするのだが、何となく強気になれない。斎藤は得意客で、には断りづらい相手なのだと思うと、こちらから何かするのはあまり良くないのではないかと考えてしまうのだ。彼女が好意を示しているのではないかと思うような言動があるにしても。相手が玄人上がりだと思うと素直に受け止められないところもある。ああいう女は、本人にその気は無くても相手を勘違いさせるものなのだ。
若い頃はそんなことは思いつきもしなかったのに、歳を取ると見えなくていいものまで見えてしまう。相手の立場を思いやれるようになったといえば聞こえは良いが、要するに臆病になったのだろう。
仕事では向かうところ敵無しのつもりだが、こういう時はこんなにも腰が引けてしまうなんて自分でも可笑しい。相手がでなかったらまた違っていたのだろうかと考えてみるが、よく分からない。
不意に、じっと考えていたが微笑んだ。
「いえ、残ってもまたいつかすれば良いんですよね。全部買いましょうか」
「あ……ああ」
“またいつか”が斎藤と一緒なのか判らないが、の様子では一緒のつもりのような気がする。もしかしたら勘違いかもしれないと思ったが、今はあまり深く考えるのはやめておこうと、斎藤は財布を出した。
日が落ちると日中の暑苦しさも和らぎ、時折吹く風も心地よく感じられるようになる。縁側で軽くつまみながらよく冷えた冷酒を一杯、というのはこの時季ならではの楽しみだ。
最近はビア酒とかいう麦で作った酒が流行っているようだが、斎藤には昔ながらの米で作った酒が合っているようだ。の料理も日本酒と相性が良い。
の家で世話になっていた時は与えられた部屋に籠りきりで気付かなかったが、この家の庭は思っていたより広い。庭木もよく手入れが行き届いている。おそらく定期的に庭師が入っているのだろう。の生活は斎藤が思っているよりも余裕があるようだ。
「良い庭だな」
「ええ。時々植木屋さんに手入れしてもらってるんですよ。さ、西瓜どうぞ」
斎藤の横に西瓜の乗った盆が差し出された。
「もう少し暗くなったら花火も持ってきましょうね。楽しみだわ」
よほど花火が楽しみなのか、は今からそわそわしている。子供が遊ぶような花火なのだからそんなに期待するようなものではないだろうと斎藤は思うのだが、こんなに浮かれているを見るのは初めてのことだ。
西洋の技術が入ってきて種類は増えたかもしれないが、斎藤たちが子供だった頃と比べて驚くような花火が出来たとは思えない。あまり期待すると後ががっかりすると思うのだが、それを言うと折角の気分に水を差すことになるから、斎藤は黙って西瓜を食べ始める。
斎藤が何も言わなくても、は楽しそうに一人で話し続ける。
「私、子供の頃からずっとお座敷に出ていたから、こういう花火ってやったことが無いんですよ。打ち上げ花火とは一寸違うんでしょうね」
「ああ………」
そんな事情があるなら楽しみだろうと斎藤は納得した。
子供らしい遊びを経験すること無く、芸事とお座敷ばかりだったの子供時代を可哀想だとは思わない。花火はできなくても、斎藤が出来なかった経験を沢山していると思うのだ。彼とは違う子供時代があって今のがあるのだから、可哀想だとか不幸だとは思うのは彼女を否定することになる。
「打ち上げ花火とは大分違うと思うが」
折角盛り上がっている気分に水を差すのはどうかと思ったが、一応言っておく。過剰に期待してがっかりされては、一緒にいる斎藤まで白けてしまう。
が、は相変わらずにこにこして、
「お座敷や屋形船で見る打ち上げ花火よりも、小さくても二人でやる花火の方が楽しいですよ、きっと」
「あー………」
それはどういう意味かと尋ねてみたいが、それも無粋な気がして斎藤は何も言えない。唸るような妙な声を上げただけで、斎藤はもそもそと西瓜を齧った。
客と見る派手な打ち上げ花火よりも斎藤との安い花火の方が楽しいというのは、は彼を客として見ていないということなのか。気安い相手として見ているのか好意の対象として見ているのか、まだ判断がつかないが、特別なのは間違い無いようだ。
が斎藤を特別だと思っているのなら、一度こちらから誘ってみようかと考える。断りにくい相手だろうからと遠慮ばかりしていては、店主と常連のままで終わってしまう。
男女の仲というものは、一度どこかで思い切らなければ忽ち立ち消えになってしまうものだ。ここはひとつ、思い切って勝負に出てみるか。
だが、そうは思ってみても、出方を間違えて気まずくなってしまうのはまずい。折角いい店を見付けたのに、気まずくなって通えなくなってしまっては困る。
思い切るにはもう少し時間が必要なようだ。とりあえず花火での雰囲気を見て今後を考えるかと、斎藤は思い切りの無さにそっと溜息をついた。
………何処の男子中学生だよ、斎藤?(笑)
なかなか先に進まんな、このシリーズ。いや、このシリーズに限らず、うちのサイトのドリームはなかなか前に進みませんが。このモヤモヤ期を書くのが楽しいんですよ。
次回は花火をする話にするか、全然違う話にするか、一寸悩ましいところです。