水鏡

水鏡 【みずかがみ】 万物を映す静かな水面。
 テラスから海を眺めるのが、何となくの日課になっている。何も無い景色を眺めたところで面白くはないが、屋敷に籠っているよりはいくらかマシな気がするのだ。外の風に当たるのが良いのかもしれない。
 この海の向こうには上海がある。の知らない、もっと広い世界も。いつかそこへ行ってみたい。縁のことも昔のことも忘れて、始めから全部やりなおしたい。
 復讐を果たすことが生きる理由だと思っていたけれど、それが終わった後はどうすればいいのか考えると何も無いことに気付いた。何も無いどころか、次はきっと一人だけ生き残ってしまった自分を許せなくなるだろう。今はまだ憎悪の対象がいるから全ての感情がそちらに向かっているけれど、行き場を失った感情は自分に向けられる。その時が来ることがには恐ろしい。
 かといって、薫が言うような“生きて償う”というのは許せない。自分の家族は理不尽に殺されたというのに、殺した人間が“償い”という大義名分のもとにのうのうと生き続けるなど許されるわけがないではないか。
 縁が死んでも生きていてもは救われない。それならいっそ、彼のいない海の向こうの世界へ逃げてしまいたいけれど、縁から逃げることはできてもの中にある家族からは逃げることはできないのだ。生きている限り苦しみ続けなければならないのかと思うと、の心は暗くなる。
 ならば死ねば楽になるのかと考えてみるが、が死ぬことで縁が過去の罪から解放されるのかと思うと腹立たしい。が目の前にいることで縁が過去の罪を忘れないでいるのなら、どんなに苦しくても彼の傍で生き続けなければと思う。
 縁がいるから生き続けるのかと思うと、は可笑しくなった。自分の家族を殺した男のために死を思い留まり、彼が生きている限り傍にいようだなんて、傍から見れば縁を許したように思えるかもしれない。本当は憎くて憎くて気が狂いそうなのに。
 多分、は少しずつおかしくなっているのだろう。縁を憎んでいるのかと思えば彼の復讐の成功を願ってみたり、離れたいと思いながら何があっても傍にいようと思ったり、どうなることを望んでいるのか自分でも判らない。何もかもが他人事のように感じているくせに薫に香炉を投げつけるほどの癇癪を起して、感情が不安定なのも自覚している。
 このままでは本当には狂ってしまうだろう。正気を保てている今のうちに何とかしなければ―――――
「あ………」
 水平線に黒い影が見えた。
 この辺りは航路から大きく外れていて、漁船さえも殆ど見ることは無い。この時間に漁船ということはないだろう。ということは、遂に緋村剣心が乗り込んできたのか。
 だが、遠くて正確な大きさは判らないが、あの船の大きさは個人所有のものとは思えない。もしかして日本の警察も絡んでいるのか。だとしたら面倒なことになりそうだ。
 まだ向こうからはこちらの様子は窺えないだろうが、は何気ない素振りを装ってその場を離れた。





 が部屋に入ると、縁と黒星が何やら話し込んでいた。どうやら彼らも船の存在に気付いていたらしい。
「何だ?」
 には聞かれたくない話をしていたのだろう。縁は邪魔そうにを見た。
「船が見えたから………」
 黒星と彼の護衛の四つ子を気にしながら、は言いにくそうに応える。
 黒星は縁が日本に来た理由を知っているが、この男の前で話したくなかった。縁の復讐についてはしか知る権利は無いと思っている。黒星なんかが首を突っ込んでいい話題ではない。
 察して出て行けとは黒星を睨みつけるが、彼は涼しい顔だ。黒星にはの存在など空気のようなものなのだろう。
 と、遠くで爆発音が聞こえた。船の近くで何かが爆発したらしい。
「入り江を中心に二百個の機雷を仕掛けた。どの道あの大きな船ではこれ以上の侵入は不可能。小さな舟でチマチマ進むしかないが、それでも機雷に触れれば木端微塵だ」
 黒星の説明通り、船がこれ以上進む様子は無い。小舟で進むにしてもあの船に積んでいる小舟はせいぜい一、二隻。となると、上陸してくるのは限られた人間だ。
 その舟に緋村剣心は乗って来るのだろう。あの男は自分が過去に犯した罪についてどう思っているのだろうか。会って訊いてみたい気もする。
「………あら?」
 何気なく窓の外に目を遣ると、嫌いが次々爆発していくのが見えた。小舟が接触したのではない。小舟が進む前に勝手に爆発しているのだ。
「機雷の方が木端微塵みたいだけど?」
「なっ………?! 馬鹿な!!」
 黒星が慌てて窓に駆け寄って望遠鏡で海を見た。
 どういう仕掛けなのか判らないが、あの様子では小舟は無事に島に到着するだろう。此処まで来たのだから到着してもらわなければも困る。
 この日が来るのを、はずっと待っていた。には直接関係の無い復讐だが、これが終われば彼女の中にも一応の区切りはつく。
「いよいよね」
「ああ」
 応える縁の声はとても静かで、何を思っているのかには判らない。
 十年以上の歳月をかけ、これだけ大がかりな仕掛けの末の決着なのだ。漸く来る結末を喜んでいるのかと思いきや、縁の表情を見るとそれだけではないようだ。十年以上抱えていた恨みを晴らすのだから、彼にも色々思うところはあるのだろう。
 縁が何を思っているのか知りたかったが、そんなところまでが立ち入るべきではないと思い直す。今の縁の気持ちは、じきにも知ることになるだろう。
「お前も来るか?」
 薄々予想はしていたが、縁に言われては少し驚いた。
 にもこの対決に立ち会う権利はある。自分の目的を果たしたその場で全てを終わらせたいと思っているのかもしれない。それが今日までを待たせてきた縁なりの“誠意”というやつなのかもしれないが―――――
「やめておくわ。外は暑いし、日焼けしたくないもの」
 出来るだけ素っ気なくは応える。
 全ての元凶である緋村剣心という男の顔がどんなものか見てやりたい気もするが、見てしまえば冷静でいられなくなることは自分でも解っている。自分の罪を悔いて大人しく縁に殺されるなら良いが、少しでも抵抗する素振りを見せられでもしたら目も当てられない。
 薫の言葉から察するに、剣心は縁に殺される気は無いのだろう。償う気はあるのかもしれないが、それは縁の望む形でではない。そんなのは縁にとっては何もしないのと一緒だ。否、本人には償っているという意識があるだけに、余計に性質が悪い。そんなものを見せられたらも不愉快だ。
 暑い中そんなものを見ているくらいなら、屋敷で全てが終わるのを待っている方が良い。縁が負けるとは思えないし、彼は必ずのところへ戻ってくるのだ。
「終わった後、俺がそのまま上海に帰るとは思わないのか?」
「帰るわけがないわ。あなたは必ず此処に戻ってくるもの」
 きっぱりと言い切るの言葉に、今度は縁が驚いた顔をした。が、すぐに皮肉っぽく口の端を吊り上げて、
「そんなに信用されているとは思わなかった」
「信用するも何も、あなたは全部終わらせたいと思っているでしょう? お姉さんの仇討ちも、組織のことも、あなた自身のことも」
 東京で派手にやったのは、も大体解っている。あんな大きな船が島に乗り込んできたのが何よりの証拠だ。たかが小娘一人誘拐したくらいであんな船が来るわけがない。この対決がどんな結末を迎えるにしろ、こんな大ごとになったら組織も縁もお終いだ。
 もし縁が“この後”のことを考えていたら、いくら復讐のためとはいえ、警察を介入させるような馬鹿な真似はしない。感情のままに暴走するような男なら、この若さでこれだけの組織を築き上げることはできなかっただろう。
 何より、復讐を果たした後にはまた違う苦しみが待っていることを、縁も知っているのだ。が気付いているのだから、縁が気付かないわけがない。復讐の喜びが失われぬうちにの手で全てを終わらせることが、縁の望む本当の結末ではないかとさえ思う。
 の復讐さえ縁の計画に組み込まれているのかと思うと癪だが、大人しく殺されるというのなら遠慮することはない。その後のことを想像できないのはも同じだが、今は考える必要のないことだ。考えたらきっと、指一本動かせなくなってしまう。
 の想像は正しかったのか、縁は何も言わない。を拒絶するように目を伏せた。
 の方も、これ以上何も言うことは無い。あとどれくらいで“その時“が来るのだろうと、機雷を爆破しながら入り江を進む小舟を眺めた。
<あとがき>
 そんなわけで、主人公さんは屋敷でお留守番。次回は色々すっ飛ばして縁編決着後の話です。バトルシーンやりつつ主人公さんの心理も書きつつ……って無理orz
 多分あと二話で完結です。さて、どうやってオチをつけるかな………。ラストは何通りか考えていて、一寸迷ってます(笑)。
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