入梅
入梅 【にゅうばい】 梅雨の季節になること。
仕事が終わって外に出ると、雨が降っていた。朝、家を出た時には降りそうになかったのに、この頃の天気は不安定なようだ。この様子では暫くは止まないだろう。空を見上げ、は溜め息をついた。
「あらやだ。雨降ってるじゃない」
戸締りを済ませて出てきた店主が驚いた声を上げた。彼女も傘を持って来ていないらしい。
「そうなんですよ。朝はあんなに晴れてたのに」
「うちの人が傘を持ってきてくれたら良いけど、そんな気の付く人でもないしねぇ。困ったわぁ」
「ああ………」
『葵屋』には傘が沢山あるはずだから、もしかしたら蒼紫が傘を持ってきてくれるかもしれない。家を出る時にが傘を持って行かなかったのは、彼も知っていると思う。
ただ、蒼紫の帰りがいつになるかというのが問題である。『葵屋』は職場だけれど実家と同じようなものだから、雨が止むまで時間を潰すというのも考えられるのだ。彼は割と気が利く方だとは思うけれど、意外なところでぼんやりしているから油断できない。
「うちもあんまり期待できませんから」
そう苦笑しつつも、蒼紫は迎えに来てくれるだろうとは少し期待している。ぼんやりしているところはあるけれど、彼女が困っている時はちゃんと駆けつけてくれる人なのだ。ずっと前に、が土手で足をくじいて動けなかった時も、何故か気付いて助けに来てくれたこともあった。
いつもいつもというわけではないけれど、が困っている時は蒼紫に伝わっているのだと思う。だから今日もきっと、蒼紫は迎えに来てくれると思っている。
困った顔で雨を見ているつもりだったけれど、店主にはの気持ちが伝わっていたのだろう。横目で見ながらくすっと笑って、
「そんなことないでしょう?」
「だと良いですけど」
「だって、ほら―――――」
店主が笑いながら指さした先に、傘を持ってこちらに来る蒼紫の姿が見えた。
「あら………」
こんなに早く来るとは、も思っていなかった。仕事が終わって、真っ直ぐ来てくれたのだろうか。
隣では店主が可笑しそうににやにや笑っている。の帰りに合わせて迎えに来たと思っているのかもしれない。流石に蒼紫もそこまではしないとは思うが、そう思われても仕方無い都合の良さではある。
けれど、そう思われるのは悪い気はしない。も店主を見ながら嬉しそうにふふっと笑った。
笑っている女二人を見て、蒼紫は怪訝な顔をする。が、何も言わずに店主に軽く会釈をした。
「傘、持ってきたんだが………」
に傘を差しだしながら、蒼紫は店主を気にしている。彼女も傘を持っていないから、このままに渡して良いか迷っているのだろう。
は一旦傘を受け取ると、そのまま店主に差し出す。
「あ、この傘、使ってください。私はこの人と帰りますから」
店主の家との家は逆方向である。雨は暫く止みそうにないのだから、の傘は店主に貸して、彼女は蒼紫の傘に入って帰るというのが一番良い。
「まあ、ありがとう」
大袈裟なくらい嬉しそうな声で礼を言うと、店主は傘を受け取った。そして蒼紫を見上げて、
「本当にお優しいのねぇ。うちのとは大違いだわ」
「いえ、そんなことは………」
少し戸惑った顔をして、蒼紫はもそもそと応える。こういう時、何と応えて良いのか分からないのだろう。
居心地悪そうにもじもじしている蒼紫の様子が可笑しかったらしく、店主はくすくす笑う。そして今度はからかうように、
「そんなことありますよ。さんの帰りに合わせて迎えに来てくださるなんて、愛してらっしゃるんですね」
その言葉に、蒼紫よりも先にの方がぎょっとして顔を赤くした。
店主は軽口のつもりだろうが、蒼紫にそんな話を振っては駄目である。他の人間なら笑って誤魔化すなり冗談で返すなりするだろうが、この男は真面目に応えてしまうのだ。
何と答えるのかとがはらはらしていると、案の定、蒼紫は当然のように、
「はい、勿論です」
予想通りの返答に、は頭がくらくらしてきた。こういう時こそ返事に困るべきだろうに、蒼紫の感覚は世間とずれている。
蒼紫としては、「うちのとは大違い」と言われた時はどう応えるのが正解なのか判らないから返答に困って、「愛してらっしゃるのね」には明確な答えがあるから、はっきりと応えているだけなのだろう。しかし世の中には、はっきりした答えがあったとしても、適当に誤魔化すことが必要な時もあるのだ。今がまさにその時である。
誤魔化しの無い、子供のように真っ直ぐで素直なところは、蒼紫の美点である。自分の気持ちを率直に伝えられるのは、も二人きりの時なら嬉しい。が、そこに他人が入るとなると、気持ちは複雑だ。
蒼紫の返事は、困ってしまうけれど嬉しい。嬉しいけれど、困ってしまう。きっと明日は一日中からかわれることだろう。
店主はというと、びっくりした顔で蒼紫を見上げている。まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。普通、そんな返しは予想しない。
目を丸くしたまま固まっていた店主だったが、急に弾けたように笑いだした。
「まあ、羨ましいわ。さんは幸せ者ねぇ」
「ええ、まあ………」
今度はが何と応えて良いものやら、困った顔で苦笑いしてしまうのだった。
「もう、あんなこと言うんだもの。びっくりしたわ」
くすくす笑いながら、は蒼紫を軽く睨みつけた。
「何が?」
蒼紫は心底不思議そうな顔をする。店主がびっくりしたのも、が困った顔をしたのも、どうしてそうなったのか解らないらしい。
蒼紫はどちらかというと頭は良い方だと思うのだが、自分の発言が相手にどう思われるかということには全く考えが及ばないようだ。この歳にもなれば解って当然のことであるはずなのに、どうしてそれが出来ないのかには不思議でならない。これでよく社会生活が営めるものだと感心する。
「あんなこと訊かれて“勿論です”だなんて。顔から火が出るかと思ったわ」
「ああ………」
そこまで言われて、漸く蒼紫も何を指しているのか解ったらしい。が、何が悪かったのかは理解できていないようだ。
「悪かったかな?」
「悪くはないんだけど………」
改めて訊かれると、も困ってしまう。
真っ向から否定するのは論外だが、誤魔化されたら誤魔化されたで、言いようによっては腹を立てていたと思う。ということは、蒼紫の答えは正しいということか。でもあれはあれでは困ってしまったのだが。
蒼紫と話していると当たり前のことが当たり前ではないような気がしてきて、考えてしまうことばかりだ。まるで小さな子どもと話しているようである。けれどそういうのは、は嫌ではない。
“正しい答え”についてが頭を悩ませていると、蒼紫が少し困ったような顔をした。
「が困るなら―――――」
「困ってない困ってないっ!」
は慌てて否定する。全く困らないと言えば嘘になるけれど、ああいう風に言われるのはやはり嬉しいのだ。人前でなかったら、嬉しさのあまり蒼紫に抱きついていただろう。
付き合い始めの頃に翁と操に会った時、繋いでいた手をぱっと離されたことがあった。あの時は腹が立つやら情けないやら、は挨拶もそこそこにその場を離れたものだ。店主と話した時にあの頃のような素っ気ない態度を取られたりしたら、こうやって相合傘で帰っていなかっただろう。
“好き”という気持ちを言葉にしてもらえるのは嬉しい。言葉にされたら、蒼紫のことを今よりももっと好きになるような気がする。も蒼紫に好きだと言ったら、同じようにもっと好きになってくれるだろうか。
言ってみようかと思うけれど、いざ口に出そうとすると緊張してしまう。どきどきする胸を押さえて、は小さく深呼吸をした。
「私もねぇ―――――」
「何?」
蒼紫に見詰められると、はまた緊張して言葉に詰まってしまう。彼と同じように当たり前のことを言うだけなのに、言葉にするのは難しい。
多分、は蒼紫ほど素直ではないのだろう。自分には無い蒼紫の素直さが、は好きだ。前はそんなことが好きではないように見えていたのに、今では二人きりの時はびっくりするほどべたべたしたがるところも。寒いのが苦手で、火鉢と布団が大好きで、文鳥に本気で焼きもちを焼いたり、見かけによらず子供っぽいところも、全部ひっくるめて愛しいと思う。
蒼紫はが何を言おうとしているのか気付いているのだろう。期待するように目が笑っている。
そういう風に見られると、余計に言い出しにくい。やっぱりは蒼紫ほど素直ではないらしい。
「うーん、やっぱり家に帰ってから言う」
家に帰ったら、蒼紫のことが好きだってことを一杯言おう。彼がびっくりするくらいべたべたしたい。
少し残念そうな蒼紫の顔を見上げて、はふふっと笑った。
梅雨なんで、雨降りネタ。
蒼紫、お馬鹿さんに拍車がかかっているようです。おかしいなあ、最初の頃はこんな性格じゃなかったんだが………。そうだよなあ、最初の頃は、翁と操ちゃんと鉢合わせた時に繋いでいた手を振りほどくくらいの男だったんだよなあ。
まあ、主人公さんと付き合ってるうちに、蒼紫の中で色々はっちゃけちゃったんでしょう(笑)。