朧月
朧月 【おぼろづき】 輪郭がはっきりせず仄かにかすんだ月。
久々に早く仕事が終わったのだが、何となく夕飯を作る気にはならない。食材を買ったところで、どうせまた残業が続いて腐らせてしまうのが目に見えているのだ。わざわざ金を出して、その殆どを腐らせてしまうのは阿呆らしい。外で食べるとなると、やはりの店だろうか。この頃は泊まり込みや出張が続いて、ご無沙汰にしていた。
毎日のように通っていたのが少し間が空くと、何だか随分行っていないような気になる。実際は、一月程度なのだが。
少し早いが、この時間ならたぶん開店しているだろう。の家で世話になっていた時は、日暮れ前から準備をしていた。
やっていなければ、その辺の蕎麦屋で済ませれば良い。とりあえず食事ができればそれで良いのだ。
とはいえ、の店が開いていることを期待しつつ、斎藤は家を出た。
店に行ってみると、暖簾が出ていた。いつも夜遅くか閉店後にしか行かないから気にしていなかったが、思ったより早くから開けているらしい。
引き戸を開けると、客はまだ入っていなかった。まだ開けたばかりだったようだ。
「あら、今日は随分とお早いこと」
一月も間が空いていたというのに、はいつもと変わらないように迎える。考えてみれば、普通の客は一月くらい間が空くのはざらなのだから、の反応は当たり前のものだ。
随分と間が空いているように感じていたのは、斎藤だけだったらしい。そんなものかと、少し拍子抜けした。
「今日は早く上がれたからな。たまには早く帰らないと身体が持たん」
「お忙しいんですね」
「まあ……そうだな」
仕事については、詳しい話は出来ない。斎藤は曖昧に答えた。
「お仕事が忙しいのは良いことですけど、警察の方が忙しいのは良くないですねぇ」
そう言って、はくすっと笑う。
確かに斎藤が忙しい時は、碌でもない時だ。こうやって早く帰れる日があるというのは、世の中が上手くいっているということである。
「毎日こうやって早く帰れるとありがたいんだが」
本当に毎日定時で帰れるようになると、それはそれで途方に暮れそうな気がするが、とりあえずそう言っておく。警察勤めで適当に忙しい方が良いと言うのは、やはり憚られるだろう。
斎藤が座ると、すぐに突き出しが出された。今日はいんげんの胡麻和えである。
「お酒はいつもので良いですか?」
「ああ。それと今日のお勧めを適当に出してくれ」
斎藤は殆ど好き嫌いが無いから、料理はいつもに任せている。そうすると、きちんと栄養のことも考えて出してくれるから楽なのだ。
おまけに一緒に暮らしていただけあって―――――まあやむを得ない事情で二週間世話になっただけなのだが―――――は斎藤の好みをよく分かっている。そういえばは他の常連客の好みを良く憶えていて、そういうのが得意なのだろう。
人を相手にする商売が長いと、顔や名前を憶えるのは勿論、好みや癖まで憶えるのが得意になるという。斎藤が他人の挙動を細かく観察してしまうのと同じように、の気遣いも仕事上の癖なのかもしれない。
何品か適当に斎藤の前に出すと、は火にかけていた鍋の蓋を開けて様子を見る。匂いから察するに、肉をを煮ているらしい。
「もうすぐ手羽元と卵の煮物が出来ますけど、如何です?」
「ああ」
これは初めて出される料理だが、きっと美味いのだろう。勧められるままに斎藤は応える。
「久し振りに作ったんで、うまく出来てると良いんですけど」
菜箸で適当に肉や卵を取りながら、は独り言のように呟いた。
骨付きの肉なんて、家での食事としてなら兎も角、酒のつまみとしては出せないだろう。手で食べれば汚れるし、かといって箸では食べにくい。酒を飲みながら、というには適さない食材だ。
だがが勧めてくるくらいだから、久々に作ったといっても自信のある料理なのだろう。それなら面倒な料理でも食べてみたい。
「どうぞ」
大きめの深皿が斎藤の前に置かれた。
手羽元と丸のままのゆで卵がごろんと入った、が作るにしては豪快な一品である。食べるとは言ったものの、これはどこから手を付けたものかと、斎藤は戸惑ってしまう。
箸を持ったまま固まっている斎藤の姿が可笑しかったのか、は小さく笑った。
「凄いでしょう? 包丁を満足に使えなかった頃の私が作れる、唯一の料理だったんですよ」
「うーん………」
確かに凄い。何と言っていいものやら、斎藤は低く唸ってしまう。
これなら材料を鍋に放り込んでおくだけだから、包丁要らずの手間要らずである。調味料の分量を間違えなければ、斎藤にも簡単にできそうだ。
とりあえず箸でも大丈夫そうなゆで卵に手を付けてみた。色が染み込んでいるから硬くなっているかと思っていたが、そうでもない。味も脂っこいかと思いきや、意外とさっぱりしている。
「美味いな」
見た目には驚いたが、味は斎藤の好みである。素直に感心した。
その反応に、は嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。此処の主人もこれは気に入ってたんですよ」
「へーぇ………」
唐突に主人の話が出て来て、斎藤はますます何と言っていいものやら困ってしまう。ただの世間話で、斎藤が困ることなど何も無いはずなのだが、前の主人の話題を出されると何となく居心地が悪いような気がするのだ。
斎藤は、の旦那であったと思われる前の主人のことは何も知らない。知らない人間の話をされて困るという気持ちも勿論あるが、それ以外にも何か引っかかるところがある。何が引っ掛かっているのか、彼自身もよく解らないが。
何がそんなに引っ掛かっているのだろうと考える斎藤に、は話を続ける。
「明日があの人の命日だから、一寸作ってみたんです。出来たてより一晩寝かせたのが好きだったから」
「へぇ………」
前の主人の好みがどんなものかなど心の底からどうでもいい話だと、斎藤は思った。前の主人のことなど知らないし、知りたいとも思わない。そんな話をされても、斎藤としては面白くも何ともない。面白くないどころか、何となく苛々してきた。
苛々する、という感情に気付いて、斎藤はまた不思議になる。興味の無い話をされて面白くないのは兎も角、どうして苛々までするのだろう。興味が無いなら適当に聞き流していればいいものを、いちいち引っ掛かっていることも不思議だ。
「でも仏壇も位牌も無いから、お供えはできないんですけどね。作って、自分で食べるだけなんですけど」
せっかく作った主人の好物を供える場所が無いというのは、やはり寂しいものなのだろう。は少し悲しそうな顔をした。
この店と、当座の生活に困らないだけのものを貰ったと言っていたことから、は本妻にも認められた妾だったのだろう。けれど“身内”ではない。葬式には呼ばれたかもしれないが、その後の法事や明日の命日には呼ばれないのは仕方のないことだ。
本当なら命日には故人を偲んで思い出話の一つもするものだろうが、にはそんな話をする相手もいない。主人がいた頃からの常連客と話すにしても、日頃が会話が殆ど無いのだから、この日だけ話しかけるというのも妙に思われそうで話しかけにくいだろう。思い出の料理を一人で食べるくらいしか故人を偲ぶ方法がないというのは、寂しいものだ。旦那と妾とはいえ、二人で店をやるくらい仲睦まじかったのなら尚更だろう。
もしかしたら、常連客の中で一番親しい斎藤だから、思い出の料理を振舞ってくれたのだろうかと思いついた。主人の好物を食べさせながら、主人の思い出話をしたかったのかもしれない。そう思ったら、どうでもいい話だと感じていたことを斎藤は少し反省した。
「好きなものを憶えていて、命日に食べてやるっていう気持ちが大事なんじゃないか? 仏壇とか位牌とか、そういうものはそれほど大事なものじゃない」
仏壇とか位牌とか、そういうものは故人を忘れないためのただの“物”だ。故人を思う気持ちがあるのなら、そんなものは必要ないと斎藤は思っている。
何も無くてもこうやって命日に自分の好きな物を用意してくれる人間がいるというのは、とても幸せなことだ。しかもこんないい女が命日に自分を偲んでくれるとなったら、男冥利に尽きるというものだろう。正直、斎藤は死んだ主人が羨ましい。
斎藤の言葉に、は嬉しそうに小さく微笑んだ。
「そうですねぇ。あの人もそう思ってくれていたら嬉しいんですけど」
“あの人”という言葉に、斎藤はどきりとした。は意識していないのだろうが、“あの人”という言葉は妙に生々しく感じられる。
妾をやっていたのだから、主人とは生々しい関係だったに決まっている。頭では解っているのだが、改めてその事実を付きつけられると、斎藤は何とも居心地の悪い微妙な気分になった。
今日は何だか、もやもやしたり苛々したり、微妙な気分になってばかりだ。いつもはこんなことは無いのにどうしたのだろうと、斎藤は考える。
「私もいただいていいですか?」
唐突なの明るい声に、斎藤ははっとした。
「あ…ああ」
鍋の中にはまだ残っているはずだが、あれは主人のためのものなのだろう。同じ皿のものを誰かと分け合うというのは斎藤はあまり好きではないのだが、今回は躊躇い無く皿を差しだした。
「じゃ、いただきます」
はにっこり微笑むと、ひょいと手羽元を摘み上げた。
まさか手掴みで取られるとは思わなくて、斎藤はぎょっとした。自分の皿に箸を突っ込まれるのも本当は嫌なのに、指を突っ込まれるなんて、彼にとってはありえないことだ。
一寸変わったところのある女だとは思っていたが、こんなに行儀の悪い女だとは思わなかった。何だか裏切られたような気持ちになって、斎藤は抗議しようと顔を上げた。
「おい―――――」
が、肉を食べているの様子を見たら、言葉が出なくなってしまう。
両手で骨の端と端を挟むように持ち、軽く目を伏せるような顔で肉を食い千切る。白っぽい鶏肉が紅い唇の間に吸い込まれ、咀嚼される。唇に付いた脂がてらてらと光っていて、紅の色を強調させていた。
一連の動きはとても下品で動物的なはずなのに、何故か艶めかしく映った。動物的だけれど、美しい猫が獲物を食んでいる姿を連想させる。他人の皿に手を突っ込むのも、こうやって手掴みで肉を食べるのも、この女なら仕方が無いとさえ思えてきた。
「どうしました?」
じっと見詰める斎藤の視線に気付いて、が怪訝そうに目を上げた。その表情も、食事を邪魔された猫のようだ。
「い……いや、美味そうに食うなと思って………」
目が合って、斎藤は何故か気まずい気持ちになる。説教するつもりが真逆のことを言ってしまうし、どうもは斎藤の調子を狂わせる。
考えてみれば、といる時はいつも斎藤は調子を狂わされっ放しだ。何というか、捉えどころの無さがいけないのだろう。強烈な存在感があるくせに、その内面は何ともよく解らないというのがいけない。
「そうですか? 普通に食べてるつもりですけどねぇ」
ふふっと笑うと、は食事を再開させた。
斎藤もを真似て、手掴みで肉を食べてみる。が、慣れないせいか、のように上手く骨と肉を引き剥がすことが出来ない。
は器用なのか慣れているのか、綺麗に骨だけにしてしまっている。本当に肉食の動物が食べたのかと思うほど見事なものだ。魚を綺麗に食べる人間は見ることがあるが、骨付き肉をここまで綺麗に食べる人間は、斎藤は見たことが無い。
「上手いもんだな。魚の食べ方には自信はあるが、肉はここまで綺麗に食べられない」
「藤田さんはお魚を食べるのは本当にお上手ですものねぇ。何にも残らないんですもの」
そう言いながら自分が食べた骨を捨てると、は醤油で汚れた指をちゅっと吸った。その仕草も艶めかしい中に可愛らしさもあって、不思議と不快ではない。
普通なら下品に見える仕草さえ、こうやって見せられるものにしてしまうとは大したものである。ずっと他人に見られることを意識して生活していた名残なのだろう。こういうところは素人女に真似できないことだと、斎藤は素直に感心した。
「あんまりじろじろ見ないでくださいな。恥ずかしいじゃないですか」
おしぼりで手を拭きながら、は可笑しそうに笑う。
「じろじろは見ていないが………」
に気付かれるほど凝視していたのかと、斎藤は慌てて視線を逸らした。
じろじろ見ているという意識は無かったが、がそう言うのなら、そうなのだろう。相手の仕草を見詰めるのは職業病のようなものだが、それ以上のものを感じ取られてはいないかと気が気でない。
の仕草というのは、何故か見入ってしまうものが多い。玄人上がりで、男の目を引き付ける仕草を熟知しているからということもあるだろうが、それだけではないのではないかと最近思えてきた。
玄人女の仕草というのは、若い頃に京都の色街で飽きるほど見てきたから、今更見入るほどのものではない。今だって、捜査の関係で妖婦だの毒婦だのと呼ばれる女と接する機会がたまにあるが、別に心を動かされることは無い。そんな斎藤が見入ってしまうくらいだから、は玄人女にも無い特別な技を持っているのではないかとさえ思えてくる。
だが、特別な技を持っているのなら、他の常連客もに見入っても良さそうなものだが、そんな様子は見受けられない。ということは、斎藤が見入ってしまう原因はにあるのではなく、彼自身の中にあるということか。
その思いつきに、斎藤はますます頭を悩ませる。の仕草に見入ってしまうのは、よく解らない女だから気になって観察しているだけなのか、彼女に魅かれているからなのか。どちらなのか斎藤には区別がつかない。区別がつかないから、もやもやしてしまう。
こういうもやもやする気分は、斎藤には本当に居心地が悪い。この気分を誤魔化すように、斎藤は無言で食事を再開させた。
もやもやしっ放しだな、斎藤(笑)。
何かこのシリーズ、全く先に進む気がしません。何とかして大きな動きを見せたいのですが、きっかけがなあ………。きっかけ、探さなきゃ。