薫風
薫風 【くんぷう】 初夏、若葉の香をただよわせて吹いてくる爽やかな南風。
最近、と比古は趣味と実益を兼ねて釣りを始めた。近くの河原で適当に釣り糸を垂らすだけのものだが、意外と釣れるものである。この辺りは釣り人も殆ど寄りつかないから、魚もスレていないのだろう。お陰で、山小屋の食生活は冬の間と比べて格段に豊かになった。こうなってくると河原に座っているだけの行為も楽しいもので、暑い日が続くようになったこの数日は、陶芸そっちのけで釣りの日々である。
だが、今日は昼を過ぎても一向に釣れる気配が無い。魚がいないわけではないのだ。その証拠に、餌だけ取られることもある。
「釣れねぇなあ………」
釣り糸を引き上げ、餌を付け直しながら比古が呟いた。
「魚もスレてきたんですかねぇ」
ぴくりともしない釣り糸をぼんやりと眺め、もだるそうに応える。
それなりに釣れる時は楽しいが、こうも釣れないと退屈で仕方が無い。退屈も度が過ぎると、座っているだけで疲れるものだ。
「ねえ、先生。何か面白い話をしてくださいよ」
「何で俺が」
言うに事欠いて、師匠に面白い話をしろとは、どういうことか。普通、こういう時は弟子が気を遣って師匠を楽しませるのが筋だろう。
もともと弟子という自覚の薄い女だったが、ここまでくるともう弟子であることすら忘れているようだ。まあ、比古も師匠らしいことをしていないのだから、どっちもどっちであるが。
しかし、一応“先生”と呼んでいる相手に、噺家か講談師のような真似を要求するというのは如何なものか。師匠相手でなくても、年上の男相手にそんな要求をすること自体が失礼である。
が、はしれっとして、
「だって、暇じゃないですか。ぼーっとしてるだけじゃ、ボケますよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
この女は、二言目にはボケるボケるである。一体比古を幾つだと思っているのか。
比古は43で、若いとは言えないかもしれないが、耄碌するほどの爺でもない。比古が耄碌を心配されるなら、『葵屋』の翁はヨイヨイである。
比古が無言で睨みつけても、は涼しい顔だ。この女の図々しさは異常である。此処まで傍若無人であると、比古の方が耄碌を疑いたくなる。
と、何かを思い出したようにが立ちあがった。
「あ、そうだ! 大事なこと忘れてた」
そう言うが早いか、は駆け足で川上へ走っていく。そして川から何やら籠のようなものを引き上げて戻ってきた。
「こういうこともあろうかと、昨日の夜に罠を仕掛けておいたんですよ。きっと凄いのが掛ってますよ」
籠の中に何か入っている手ごたえがあるのだろう。は上機嫌だ。
前日のうちに罠を仕掛けておくなんて、にしては冴えているではないか。家庭菜園といい、彼女は食い物に関することに関しては、比古が驚くほど冴えている。これで大物が掛っていたら最高だ。
「凄いじゃねぇか。開けてみろ」
「はい!」
は籠の蓋を開けると、張り切ってひっくり返した。が―――――
「………あれ?」
落ち葉や木の枝に混じって出てきたのは、小さなウナギが一匹。どんなに振っても、出てきたのはこれだけである。
それなりの重さがあったから期待していたというのに、入っていたのはウナギ一匹。しかもこんなに小さくては、蒲焼にしたら一人分がせいぜいだ。あまりにもしょぼすぎる釣果に、も比古もがっかりしてしまった。
「あーあ、これじゃ先生の分は無しですね」
当然の事のようにが言う。
普通、こういう時は何は無くとも師匠に譲るのが筋だろう。本心は譲りたくなくても、形だけでも譲る素振りを見せるのが、弟子というものである。
比古はむっとして、
「お前、ウナギ捌けるのか?」
他の魚と違い、ウナギは捌くのに技術が要る。超絶天才の比古は当然捌けるが、にそんな芸当ができるわけがない。捌けなければ当然、はウナギが食えないわけだ。
案の定、は少し困惑した顔をした。そこを畳みかけるように比古が続けて言う。
「ってことは、お前はウナギを食えないわけだ。折角だから俺が貰ってやろう」
「えーっ?! それじゃ横取りじゃないですか。私が仕掛た罠で獲れたウナギなのに」
折角の御馳走を取り上げられそうな雰囲気に、は全力で抗議する。
確かにはウナギを捌けないが、だからといってウナギを丸ごと取り上げるなんて欲張りすぎだ。せいぜい半分分けというのが妥当だろう。これはが捕まえたウナギなのである。
「捌けねぇなら仕方ねぇだろう。大体その罠は、俺の焼き物を売った金で買ったやつだ。ということは、俺の罠ってわけだ」
二人の生活は、比古の焼き物を売った収入で成り立っている。ということは、その金で買った物は比古の物だ。更に言えば、比古の金で買った物で獲れたものも彼のものである。
大体、こんな鬱陶しい居候を食わせてやっているというだけでも、比古としてはかなりの譲歩なのだ。これだけ譲歩してやっているのだから、ウナギくらい差し出しても罰は当たらないというものである。
が、そんな上等なことは思いつきもしないは、更に抗議する。
「何言ってるんですか。先生が稼げるのは、私の内助の功あってのものですよ。私が雑用をしてあげてなかったら、あんなに作品を作れなかったんですから」
確かに比古の稼いだ金で買った罠だが、そうやって金を稼げるのは自分が家事を全部引き受けているお陰だとは思っている。毎日の食事を作ったり、掃除をしたり洗濯をしたり、そんな雑用には意外と時間を取られるものなのだ。がいなければ、比古は日々の雑事に追われて陶芸どころではなかったと思う。
雑用もそうだが、健康管理だってがやってやっているから、あんなに酒をがばがば飲んでも比古は元気なのだ。彼女がいなければ、比古はきっと今頃、酒にやられて寝たきりになっていたに違いない。
「内助の功?! 何が内助だ。お前が来てからこっち、俺は身も心もくたくたなんだ。そんな可哀そうな師匠にウナギの一つも食わせて、精を付けさせてやろうと思わねぇのか」
「今更先生が精付けてどうするんですか。発散する相手もいないくせに。っていうか、先生のお歳じゃ、ウナギなんかじゃ追い付かないんじゃないんですか?」
そう言って、は小馬鹿にするように口に手を当ててぷぷぷと笑う。
“精を付ける”でそっち方面しか思いつかないの頭もどうかと思うが、その発言はかなり失礼である。は一体、比古のことをどれほど爺だと思っているのだろう。
他のことなら馬鹿馬鹿しくてまともに相手にしない比古だが、今回だけはそうはいかない。こういうことは、言ってみれば男の名誉がかかっているのである。
「言っとくがな、俺は今でも凄いぞ。お前なんか朝までヒィヒィ言わせてやる!」
「言わせられるものなら言わせてみてくださいよ―――――って、それが目当てだったんですね?! いやらしいっっ!!」
どこをどうしたらそんなに自惚れられるのか、はぱっと後ろに飛び退いて、両腕で庇うように自分の身体を抱きしめた。
何というか、比古は脱力して言葉が出ない。どうせ目当てにするなら、顔も身体ももっと上等な女を目当てにする。いくら山籠り生活長くても、を狙うほど飢えてはいないのだ。
大体、今日まで一緒に暮らして何も無かった相手を、今更狙うわけがないではないか。はそんな基本的なことすら解らないらしい。
呆れて溜め息をつくと、比古はこれ以上ないほど真っ向から否定してやった。
「誰がそんな粗末なもの目当てにするか。この貧乳っ」
「ひっ貧乳っ?!」
が顔を真っ赤にする。“粗末”より“貧乳”に反応するとは、余程気にしているのだろう。予想外な弱点だった。
「大きけりゃ良いってものじゃないですよ! これは“貧乳”じゃなくて“美乳”ですっ! 色といい形といい、そりゃあ惚れ惚れするようなものなんですからねっ」
「ほぉ〜、惚れ惚れねぇ………」
が力説するも、比古はあからさまに疑いの目を向けてにやにや笑う。その顔にカチンときたのか、はますます顔を真っ赤にして、
「そんなに疑うんだったら―――――あーっっ! やっぱりそれが目当てなんだ! いやらしいっっ!!」
「だからそんな貧乳に興味は無ぇって言ってるだろうが、馬鹿野郎」
「だから貧乳じゃなくて美乳って言ってるでしょ! そんなに大きいのが良いんだったら、牛でも飼ったらどうですか? あー、先生、牛みたいに大きいから、雌牛とお似合いですよーだ」
「あぁ? お前こそ牛に乳を分けてもらったらどうだ? 婆で貧乳じゃ、四乃森も見向きもしねぇだろうよ!」
「四乃森さんは先生みたいに低俗な人じゃありませーん」
最早ウナギのことはすっかり忘れ去っての口論である。ぎゃあぎゃあ言い合っている二人の足許ではウナギがのたうっているが、二人とも目もくれない。
「四乃森だって男だから、どうだかな。ああいうのは絶対ムッツリ助平だ」
「そんなことないですっ。先生がそうだからって、他の人もそうだと思わないでください」
「何だとこの野郎! 大体お前は―――――」
比古の声に、何かが落ちたような小さな水音が重なった。
「あ――――っっ!!」
が足許を見ると、地面でのたうっていたはずのウナギが消えていた。二人が言い争っている間に、うまいこと川に逃げたらしい。
慌てて川に走ったが、もうウナギの姿は無かった。本日唯一の獲物だったというのに、しかも久々の御馳走だったというのに、がっかりである。
大袈裟なくらい落ち込んでいるの横で、比古が心底感心したように呟く。
「ウナギが歩くっていうのは本当だったんだなあ………」
短距離ではあるが、ウナギは地上を移動することができるというのを聞いたことがある。いくら蛇のような姿をしているからといって、それは無いだろうと比古は思っていたが、本当に歩けたらしい。魚のくせに、ウナギは凄い。
感心している比古をキッと見上げ、は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「先生のせいですよ! 先生が業突く張りだからっっ」
「あー、また捕まえれば済む話だろうが。うるせぇ奴だな」
比古にとっては、別に自分で捕らえたウナギではないから、逃げられようが別にどうでも良い。今日の晩飯に逃げられたのは一寸は痛いが、いざとなれば前に作った燻製魚があるのだ。
膨れているを放置して、比古はさっさと釣りを再開させる。日暮れまでまだ時間があるし、今日は気候も良い。逃げた魚のことをいつまでもくよくよ考えていては損というものだ。
川べりで膨れていただったが、いつまでもこうしていても仕方がないと思い直したのか、漸く腰を上げて比古の隣で釣りを再開させた。
「さっきのウナギの分、絶対取り戻しますからね!」
鼻息荒く宣言すると、大物狙いなのか大きなミミズを付け、は思いっきり遠くへ糸を放った。
そして夕方―――――
「今日は駄目だな」
「今晩は燻製ですねぇ」
一日使って、今日の釣果は坊主である。一応夕飯の当てはあるとはいえ、二人はがっくりと肩を落として河原を後にするのだった。
GW最終日の更新は、二人の休日の過ごし方。っていうか、この二人、毎日が休日みたいなものですが(笑)。
すっかり陶芸そっちのけなんですが、本日の目的の釣りもそっちのけ……(汗)。だからウナギにも逃げられるんだよ。
そうそう、ウナギって地面を歩くんですよ。テレビで見たんですけどね。あと、イワナも歩くらしい。表面がぬるぬるしているから、短距離なら歩くのに困らないんだそうです。川の魚って凄いな。