垂氷

垂氷 【たるひ】 つららに同じ。
 バスローブを着て屋敷をうろついていた女は、神谷薫というらしい。縁の復讐相手にとって“大切な存在”なのだそうだ。
 この女を使って復讐を完成させるつもりらしいが、にはどうでも良いことだ。ただ、この女が目の前をうろつくのは、少々目障りである。
 縁を始めとして、黒星にしろ薫にしろ、この屋敷にいる人間はの神経を逆撫でする者ばかりだ。憂さ晴らしをしたくても、こんな無人島では買い物もギャンブルもできず、は毎日苛々している。
 少しは違うかと精神安定に効くという香を焚いてみるが、思うような効果は得られない。冷静に考えてみれば、香りごときでどうにかできるものなら、誰も苦労はしないのである。こんなものでどうにかなると思ってしまう時点で、の精神は限界なのだろう。
 こんな生活が一体いつまで続くのか。眉間に深い皺を刻み、は目を閉じて考える。
 一刻も早く上海に帰りたい。此処は両親が生まれ育った国だけれど、こんな狭苦しい、貧乏ったらしい国は嫌だ。食べ物はちっとも口に合わないし、この蒸し暑い気候も気に食わない。こんな所にずっといたら、きっと身体を壊してしまうだろう。
 愛飲している茶葉はもうすぐ尽きる。この香も、これで最後だ。どちらもこの国ではそう簡単には手に入らない。ジャスミンの香りがする酒を最後に飲んだのはいつだっただろう。干し杏を練り込んだ餡を使った月餅が食べたい。上海でなら何処にでも売ってあるものなのに、此処ではそれさえも手に入らないのだ。
 最近になって考えるのは、上海のことばかりだ。楽しい思い出なんか何も無いけれど、それでもあの街が恋しい。 
 あの街並みや、この国には無い上海の物のことを思い出していると、この瞬間だけは日本にいることを忘れられるような気がした。漸く香りの効果が出てきたらしい。そういえばこの香りは、中国の花の香りだ。日本には無い香りだから、心が安らぐのだろう。
「あら、いい香り」
 折角いい気分になっていたのに、能天気な女の声のせいで台無しになってしまった。忌々しげに舌打ちをして、は部屋に入って来た女を睨みつける。
 替えの服が無いのか、薫は相変わらずバスローブを着ていた。は山のように服を持ってきているが、貸してやる義理は無いので知らぬ振りを決め込んでいる。
 この女はこうやって屋敷の中を勝手に歩き回り、勝手に台所を使って下手くそな料理を作ったりして、人質のくせにやりたい放題だ。挙句の果てにはの安らぎの時間まで邪魔をして、本当に忌々しい。
 縁はどうしてこの女を自由にさせているのだろう。人質なら人質らしく、適当な部屋に監禁しておけば良いものを。
「入ってこないでよ」
 不機嫌を隠そうともせず、は薫を横目で睨みつけた。が、薫は涼しい顔で、
「別に此処はあなたの部屋じゃないでしょう?」
 確かに此処はの個室ではないが、かといって薫が入ってきても良いというわけでもない。この女は人質なのだ。囚われの身のくせに、何と図々しい女なのだろう。
 本当にこの女は苛々する。人質のくせに好き勝手にうろつくのも、苦労知らずで能天気なその顔も。
 この女はきっと、とは真逆の人生を送ってきたのだろう。普通の家で普通に育ち、順風満帆に生きてきた人間の顔をしている。その健やかさ、その清潔さが気に入らない。この女の前にいると、自分の闇が際立つように感じられるのだ。
「本当に図々しい女ね。自分の立場、解ってるの?」
「解っているわ。私は剣心を誘き寄せるための人質なんでしょう? でも人質だからって卑屈になる必要は無いと思ってるわ」
「ああ、そうね。そりゃそうだわ。だけどね、この部屋は私が先に使ってるの。そして私は、あんたの顔を見るのが死ぬほど嫌。だから出て行きなさい」
 薫の言うことが正しいことは解っている。彼女は縁の復讐に巻き込まれた被害者のようなものだ。けれど、そんなことはには関係無い。
 これ以上顔を見るのも不愉快で、は薫から顔を背けた。
 薫自身のことも嫌いだが、この女の顔を見ていると、会ったことも無い“緋村剣心”の姿が透けて見えるような気がして、気分が悪い。
 縁の目の前で彼の姉を殺したという男。この男がいなければ、縁が上海に来ることは無かった。そして、の家族が殺されることも。“緋村剣心”こそが、全ての元凶だ。
 縁が剣心を殺して復讐を果たすことは、間接的にの敵討ちをすることにもなる。誰よりも憎い縁の敵と、自分の敵が同じだなんて、皮肉なものだ。
 が視線を外した後も、薫が出ていく様子は無い。意地になって出て行かないのか、強い悪意をぶつけられて動けないのか。それを確かめる気は、には無い。
 青磁の香炉から洩れていた煙が次第に細くなり、消えた。香が燃え尽きてしまったらしい。は香炉の蓋を開けて、中を確かめる。
 これで、上海から持ってきた香は尽きてしまった。まるで自分と上海の繋がりも煙のようにぷっつりと切れてしまったように思えて、は哀しくなる。
 今度この香を焚けるのは、いつになるだろう。早く上海に帰りたい。
「いつになったら剣心とかいう男は来るのかしら。早く来てもらわないと、後がつかえてるのに」
「後?」
 の言葉に、薫が怪訝な顔をする。
「あいつの復讐が終わったら、次は私の番なの。私の家族はね、あいつに殺されたのよ」
 薫の方を見もせずにそう言うと、は静かに香炉の蓋を閉めた。
「剣心とかいう男があいつの姉さんを殺したせいで、私の家族があいつに殺されたの。だから今度は、あいつが剣心とかいう男を殺して、私があいつを殺す番。ま、あんたは大事な男を殺されることになるけど、仕方ないわね。何なら私を殺しても良いわよ。あいつを殺した後は生きてても仕方ないし」
 まるで芝居の台詞を読み上げるかのように、は他人事のような口調ですらすらと言う。
 自分も復讐の連鎖の中にいるというのに、にはその実感が無い。上海にいた頃は縁のことが憎くて憎くて、毎日彼を殺すことばかり想像していたけれど、日本に来ていよいよそれが現実のものになりそうになった途端、急に他人事のように感じてしまうようになった。家族の仇とはいえ、人を殺すということにの心が耐えられず、無意識のうちに来たるべき現実を遠ざけているのかもしれない。
 こうやって自分の復讐計画を語っている今も、自分が世界から遠ざかっているように感じる。喋っている自分さえも、硝子越しに見る他人のようだ。自分は凍りついたように突っ立っていて、違う誰かが身体を動かしているような奇妙な感覚に囚われている。
 自分は狂っているのだろうかと思うが、には判らない。狂っているなら、狂っているで構わない。人を殺すなど、正気ではできないのだ。
 ということは、縁は少年の頃から狂っていたのだろうか。目の前で大切な人を殺されたのなら、狂いもするだろう。彼は十年もの間、今ののように凍りついていたのだろうか。
「そんなこと……私は………」
 薫が戸惑った声を出す。
 そんなことを言われれば誰でも戸惑うだろうが、薫がそう言うと、には偽善者の反応のように感じられる。本当に剣心が殺されれば、この御清潔で御健全な女も躊躇い無くと縁に刃を向けるに決まっているのだ。
 その時の薫の顔を見てみたい、とは思った。その時、この善人ぶった女の顔はどんな風に歪むのだろう。
 は真っ直ぐに薫の顔を見上げる。
「大切な人が殺されても、同じことが言えるかしら? きっと私とあいつを殺したいと思うわ。それが人間の自然な感情だもの」
「剣心は殺されないわ」
 どこからそんな自信が出てくるのか、薫は大きな目で睨むようにを見返す。
 剣心が縁に殺されないほど強いのなら、薫はこんな所に連れて来られなかったはずだ。この無人島に移動した夜、縁は傷だらけだった。あの日、彼は剣心と対決したのだろう。どういう事情があってその時に決着をつけなかったのかは判らないが、薫を攫って来れたということは、きっと縁は剣心より強い。
 一度だけ、は縁の実力を見たことがある。縁を狙った暗殺者がに襲いかかった時、一瞬で暗殺者を始末したのだ。あの時、は呆然と立ち尽くしたまま、何が起こったのかさえも理解できないくらいだった。
 そんな縁を倒そうというのなら、殺す勢いでやらないと駄目だ。自分の大切な人間が“人殺し”になることについて、薫はどう思っているのだろう。
「じゃあ、また殺すのね。あいつの姉さんと同じみたいに」
 自分たちを守るために縁を殺すことを認めるのなら、薫は偽善者だ。姉を殺された縁よりも、殺した剣心を優先するというのなら、これほど身勝手なことは無い。どんな顔でそれを認めるのだろうと、は皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
 が、薫はを睨みつけたまま、
「剣心は殺されないし、殺さない。生きて、一生をかけて自分の罪を償うの」
「人殺しの罪は死ななきゃ償えないわ。そうじゃなきゃ、死んだ人間や残された人間は救われない」
 “生きて償う”なんて、この女が好みそうな綺麗事だ。自分の大切な人が殺されて、殺した人間がのうのうと生き続けるなんて、そんなことは許さない。
 生きていれば、いつか「生きていて良かった」と思う日が来る。けれど、殺された人間にはそんな日は決してやって来ない。残された人間だって、大切な人を奪われた記憶に一生苦しむのだ。殺した人間が、今この瞬間も生きているのだと思うだけでも苦しい。生きているというだけで、殺した人間は残された人間を苦しめるというのに、何が「生きて償う」だ。
 縁が生きているというだけで、は憎悪で押し潰されそうになる。縁もきっと同じだ。と縁が救われるには、加害者が殺された人間と同じように死ぬしかない。それが“償う”ということだ。
「死ぬのは簡単よ。一瞬で終わるもの。自分が犯した罪を背負って、生きて償う方が何倍も辛いわ」
 教科書通りの素晴らしい意見である。痛みを知らない偽善者が好みそうな言葉だ。そして薫は、自分の言葉が正しいと心から信じている。
 ご立派な言葉に反吐が出る。比喩表現ではなく本当に吐き気がしてきて、は顔を顰めた。
 ぎゅっと口を閉じて吐き気を堪えているに、薫は諭すように言葉を続ける。
「剣心を殺しても、巴さんは生き返らない。巴さんだって、そんなことは望んでいない。復讐なんかより、縁が幸せになることを望んでいるはずよ」
「ああ………」
 何と素晴らしい、上っ面だけの綺麗事なのだろう。吐き気を通り越して、は貧血のように頭がくらくらしてきた。
 幸せなんて、大切な人を奪われた瞬間から消えてしまった。家族を失い、娼館に売られてから今日まで、が幸せを感じた瞬間なんか無い。消せない憎しみに囚われている人間が、どうして幸せを感じることができるのだろう。
 この先、どうやっても自分が幸せになる姿なんて想像できない。それはきっと、縁も同じだろう。莫大な富を得ても、その歳では望むこともできない地位を得ても、縁が楽しそうにしている姿は見たことが無かった。唯一楽しそうにしていたのは、東京で剣心に会った帰りだけだ。復讐相手を見付けだしたあの時だけは、本当に愉しそうだった。
 縁にしろにしろ、復讐という目的のために今日まで生きてきた。それを諦めろだなんて、薫は二人に死ねと言うのだろうか。本人は立派なことを言っているつもりのようだが、復讐の瞬間だけを生きる支えにしてきた人間にそんなことを言うのは、死ねと言っているのも同然だ。
「あなただってそう。あなたの家族だって、あなたが人殺しに手を染めるなんてことは望んでいないわ。生き残ったあなたには、自分たちの分まで幸せになってほしいと思っているはずよ。だから―――――」
 その瞬間、の視界が白くなった。薫に向って香炉を投げつけたのだ。青磁の香炉は床に落ち、派手な音を立てて割れた。
「あんたに何が解るの?! 私の家族がどうやって殺されたか、私が今日までどうやって生きてきたか、何も知らないくせにっっ!!」
 あの日、家に帰ると中は血の海になっていた。何度も斬りつけられ、苦悶の表情を浮かべた死に顔は、今も夢に見るほどはっきりと憶えている。家族があんな殺され方をしたというのに、生き残った自分だけ幸せになるなんて、そんなことが許されるわけがない。
 あの日、たまたま近所の友人の家に泊まっていたから、は助かった。迷惑になるから家に帰りなさいと母親に言われたのに、駄々をこねて無理やり泊まって、自分だけ助かったのだ。あの時、素直に帰っていたら、も同じく殺されていただろう。自分だけ、あの災厄から逃げたのだ。そんな人間が、どうして幸せになることが許されるだろう。
 自分だけが助かってしまったというのは、それだけで罪だとは思っている。その罪が赦されるのは、復讐を果たした時だけだ。縁を殺し、人殺しの罪を背負って生きなければ、家族は許してはくれない。許してくれないから、今でもあの日のことを、あの死に顔を夢に見るのだ。
「私はあいつを殺さなきゃいけないの! そうじゃなきゃ、私は赦されないの!」
 縁が憎いから復讐しようとしている、と薫は思っているようだが、そんな単純なものではない。この気持ちは、自分だけ生き残ってしまった人間にしか解らない。
 家族を殺された人間の気持ちを想像もせずに、口を開けば綺麗事しか吐かないこの女が憎い。家族をを殺した縁よりも、生き残ってしまった自分よりも。
「あんたも私も同じ目に遭えば良いのよ。あいつは絶対に復讐を成功させる。その時に今と同じことが言えるかしらね」
 縁の復讐になど興味は無かったけれど、この女を見ていたら気が変わった。彼の復讐が成功することを心から望んでいる。そして、縁を殺すのは暫く保留にして、薫のこれからを見てやりたい。
 自分の復讐を保留にしてでも、この女の偽善を打ち破ってやりたい。縁の死より、この女の絶望の方が、の心に安らぎを与えてくれるような気さえしてきた。
 顔を強張らせてじっとしている薫を見て、は小さく笑う。
「剣心が来るの、楽しみに待ってるわ」
 立ち上がってすれ違いざまに言うと、は部屋を出て行った。





 廊下を歩いていると、木が砕けるような派手な音がした。外を見ると、来たるべき日のために体を慣らしているのか、剣を振るっている。
 には剣術はよく解らないが、縁はきっと桁外れに強いのだろう。そうでなければ、この歳でマフィアの首領になどなれない。そんなに強い彼だから、きっと復讐を成功させる。
 縁が剣心を叩き伏せた時、薫はどんな顔をするだろう。それを想像すると、の心は少し晴れるような気がした。この空想を実現させるには、何が何でも縁には復讐を成功させてもらわなくては。
「ねえ」
 窓を開け、は縁に声をかける。その声音が思いがけず好意的に聞こえて、は自分で驚いた。
 縁も動きを止め、驚いたようにを見る。目と目が合って、は思わず身を引いてしまった。
 身を引いたけれど、不思議と嫌悪感は無い。あんなに憎んでいた相手なのに、縁の顔を見ても何の感情も湧かないのだ。ただ、この男はこんな顔をしていたのかと、見当違いなことを思った。
 考えてみれば、縁の顔をこうやってまじまじと見たのは初めてかもしれない。何度か彼と向かい合ったことはあったけれど、いつも相手の顔をしみじみと見るような心の余裕は無かった。
 まだ少年の時にの家族を殺し、この若さでマフィアの首領になった男。いつも不機嫌で、恐ろしい顔をしていると思っていたけれど、こうして見ると何処にでもいるような普通の男の顔だ。
 姉の一件が無ければ、この男はきっと何処にでもいる普通の男の人生を送っていたのだろう。上海に流れ着くことも無く、の家族を殺すことも無かった。そしてにも、今とは全く違う普通の人生があったはずだ。
 縁の復讐は、の復讐だ。薫のことには関係無く、この男には何が何でも目的を果たしてほしい。
「お姉さんの仇、とれると良いわね」
 の好意的とも取れる言葉に、縁はますます驚いた顔をする。もしかしたら、が狂ったと思っているのかもしれない。
 家族を殺した男の復讐を応援するなんて、自分でもおかしいとも思う。けれど、がおかしいのは今に始まったことではないのだから、取り立てて驚くことではないだろう。
 縁を見る度に爆発しそうだった感情は、今は死んだように静かなものだ。といっても、縁に対する憎しみが消えたわけではない。憎いという気持ちは変わらずあるはずなのに、何も感じないのだ。
 今は共通の敵がいるから、それで良いとは思う。けれど、共通の敵が消えた時、それまで止まっていた憎悪はどう暴走するのだろう。
 その時のことを考えると恐ろしいが、今は考えないことにする。今はただ、いつかやって来る敵のことだけ考えていればいい。
「邪魔したわ」
 唖然としている縁に無表情でそう言うと、は窓を閉めた。
<あとがき>
 「死んで償うよりも、生きて償う方が何倍も辛い」とよく言うけれど、そりゃあ自分のやらかしたことで苦しむのは当然のことで、そんな偉そうに言われても被害者も被害者家族も困っちゃうよなあ、と思う。自分がやらかした罪で苦しむのなんか、被害者側には知ったことじゃないし。
 「死んだ人間は復讐なんかより、あなたが幸せになることを望んでいる」という台詞も定番だけど、それは殺された側の人間だけが言うのを許される言葉であって、無関係な第三者が言うのも、何だかなあ。お前、殺された人間のこと何も知らんやろ、って横から突っ込みたくなる。
 まあ要するに何が言いたいのかというと、薫ちゃんや剣心が口走りそうな綺麗ごとは、私は大嫌いだということで。
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