時雨の色

時雨の色 【しぐれのいろ】 時雨に打たれて色づいた草木の葉の色。
 しとしとと雨が降る日には、霖霖はいつも縁側に座っている。雨粒に揺らされる葉を見るのが面白いのだろうとは思っていたのだが、最近になってそれは違うのかもしれないということに気付いた。
 霖霖はきっと、親兄弟とはぐれた日のことを思い出しているのだろう。まだ子猫だった霖霖がの家に迷い込んできたのは、こんな雨の日だった。
 こうやって外から見えるところに座っていれば、親が迎えに来てくれると思っているのだろうか。もう親離れして良いくらいに成長しているはずだが、人に飼われている動物はいつまでも親離れできない状態にあるというから、霖霖はまだ自分を子猫だと思っているのかもしれない。
「もうお引越ししちゃったから、お迎えは来ないのにねぇ」
 霖霖の後ろ姿を見遣りながら、は呟く。
 前の家なら、もしかしたら母猫が通りかかることがあったかもしれないが、今の家は縄張りから外れているだろう。猫は自分の縄張りからは殆ど出ることが無いというから、多分母猫が現れることは無い。
「何の話だ?」
 火鉢に当たっている蒼紫が不思議そうな顔をした。もう春だというのに、彼はまだ火鉢にべったりしている。
「霖霖よ。こんな雨の日には、必ず縁側に座ってるの。きっと親が迎えに来てくれると思ってるんだわ」
「まさか。そんな昔のこと、憶えているわけがない」
 犬ならともかく、猫がそんなことを憶えているわけがない。霖霖に芸を仕込もうと蒼紫が何度も挑戦したが、結局何一つものにならなかった。その程度の知能の生き物なのだから、やっと歩けるようになった頃のことなど憶えているわけがない。
 一笑に付す蒼紫に、は真面目な顔で、
「だって、あんなに真剣な目で外を見ているのよ。何かを待っているような顔をしているし。芸は覚えられなくても、こういうことは憶えてるのよ、きっと。子供の頃のことって、結構憶えてるものじゃない?」
「そういうものかなあ………」
 そう真面目に言われると、蒼紫も考えてしまう。
 芸を覚えることができなかったのは、霖霖にやる気が無かっただけなのかもしれない。芸ができたところで、霖霖には何の得も無いのだ。けれど親兄弟の記憶となれば、自分に関わることだから少しは違うのだろうか。
 自分に当てはめて考えてみるが、残念ながら蒼紫には子供の頃の記憶はあまり無い。いつの間にやら当たり前のように隠密の修業をしていて、そのまま御頭になっていた。一応、子供らしい思い出もあるにはあるが、何だかぼやけたような感じにしか憶えていない。
「俺は子供の頃のことはあまり憶えてないから………」
「ふーん………」
 一緒に暮らすようになっても、蒼紫は昔話というものを殆どしない。出会う前までどんな生活をしていたのかは今でも知らないし、彼の家族のことも親が早くに死んだこと以外は何も知らない。知っているのは、と出会った後の蒼紫のことだけだ。
 蒼紫が過去を語らないのは、きっと語りたくないことが多いからなのだろうとは想像している。御一新の前後には、思い出したくないほど辛い思いをした人間は大勢いるのだ。だから蒼紫の昔話を強いて聞こうとは思わない。
 だって、昔話の殆どは死んだ許婚が関わっていることだから、蒼紫には話さないのだ。彼もわざわざ聞こうとはしないし、互いに相手の過去は無いものとして振舞っている。それで不自由を感じたことは一度も無いから、多分これからもそうやっていくのだろう。
 ずっと前、蒼紫の過去を知ろうとしないのは彼の全てを受け入れる気が無いからだと、操に言われたことがあった。そういう考え方もあるのかと思ったが、何も訊かないこともまた相手の全てを受け入れることだとは思っている。知らない過去の積み重ねで今の蒼紫があるのだから、その彼のことが好きなら過去なんか知らなくても良い。大切なのはこれからなのだ。蒼紫も同じように思っているだろうとは思う。
「普段は思い出さなくても、何かのきっかけで思い出すことってあるじゃない? 霖霖も普段は親のことなんか忘れているみたいだけど、雨を見たら思い出すのよ、きっと」
「ふーん………」
「私も雨の日には、蒼紫が家に来るようになった頃のことを思い出すことがあるもの」
「何かあったかな?」
 雨の日限定で思い出すような出来事なんてあったかと、蒼紫は考える。雨の日は家に籠りきりで、特に変わったことはしていないと思う。
 が、にとっては特別な思い出があるようで、くすっと笑って、
「夏だったけど、夕立が来そうだから帰るの帰らないのってこと、あったじゃない? あの頃はまだ、お互い遠慮してたなぁって」
「ああ………」
 に言われて、蒼紫もやっと思い出した。
 の家に行くようになったばかりの頃、夕立が来そうだから帰ると蒼紫が言った時、折角わらび餅を買ったのだから食べていってください、とに言われたことがあった。そういえばあの頃はまだ、ですます調の話し方だった。今ではもう遠い昔のことのようである。
 あの時出されたわらび餅は、蒼紫の分には多めに黒蜜が掛けられていた。黒蜜が好きだと何気なく言ったことを、が憶えてくれていたことが嬉しかったのを憶えている。小さなことだけど、そういう小さなことが積み重なって、のことを好きになっていったのだろう。
 の言う通り、あの頃はまだ互いに遠慮し合っていて、あまり長居をしては迷惑になるかもしれないとか、暗くなる前に帰らなくてはいけないとか、いつも考えていたものだ。本当はもっと長居をしたいと思っていたくせにどうして良いのか分からず、いつも悶々としていた。
 結局、が冗談めかして引き留めるようなことを言ってくれたお陰で、夕立が過ぎるまで家にいるきっかけを掴むことができた。それからは、何となくの家にいる時間が長くなっていって、少しずつ二人の距離が縮んでいったような気がする。他人行儀な口調は長いこと続いていたけれど、それでもあの日は二人の仲を変える契機になったと思う。
「そんなこともあったな」
 そんなに昔のことでもないのに、蒼紫は懐かしい気持ちになった。同時に、自分は一体何をそんなにおたおたしていたのかと可笑しくなる。
 あの頃の蒼紫はいつも、恋を知ったばかりの少年のように何をするにも躊躇いがちだった。が初めての女というわけでもないのに、どうしてあんなに右往左往していたのだろう。
「あの後、こうやって二人で雨が止むのを待ってたのよね」
「そうだな」
「それから、遅くなったからって慌てて帰って」
 その時のことを思い出したのか、はくすくす笑った。
「あの時は、あまり長居してはいけないと思っていたんだ」
 慌てて帰ったつもりは無かったのだが、にはそう見えていたのか。蒼紫は少しばつの悪そうな顔をした。
「でも、もう雨が止んでも関係無い。此処が俺の家なんだから」
「そうよねぇ」
 蒼紫は当たり前のことを言っているだけなのに、改めてそう言われると嬉しい。がいるこの家が蒼紫の家で、にとっても蒼紫がいるこの家が自分の家なのだ。他に帰るところなんて無い。
 雨が降りそうになっても、雨が止んでも、遅くなっても、蒼紫とがいるのは此処だけ。当たり前のことだが、とても幸せなことだと思う。
「此処が私たちの家だもの。霖霖もそう思ってくれると良いわね」
 ふふっと笑ってそう言うと、は蒼紫に甘えるように凭れかかった。
<あとがき>
 猫の記憶力がどれくらいのものかは分かりませんが、一寸昔のことを思い出してみたり。
 一寸昔っていうか、実際書いたのは随分昔ですね(笑)。長く続けていると、昔のネタとリンクさせることが出来るようになるんで、ネタは無限大に広がりますな。続けることは良い事だ。
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