甘い一時
仕事が休みの日は彼女の家で過ごすようになってどれくらい経つだろう、と蒼紫は考えた。女の名はという。以前、蒼紫が寺へ座禅を組みに行っていた頃に知り合った女だ。は、かつて許婚であった男の墓参りのために、毎日のように寺に通っていた。許婚は勤皇派の密偵をしていたそうで、蒼紫も立場は違えど似たような仕事をしていたということがきっかけで親しくなったのだが、互いのことについては未だよく知らない。
歳は多分、蒼紫と同じくらいか少し年下といったところだろうか。いつも髪をすっきりと巻き、歳の割には地味な色合いの着物を粋に着こなしている。小間物屋で働いていると聞いているが、それで身に付けている小物は一寸洒落たものが多いのだろう。
は自分のことについても過去についても多くを語ろうとはしないが、蒼紫もそれは同じなので不満は無い。彼がかつて幕府方の人間であったこと、そして御庭番衆の御頭を務めていたことを、彼女は知らない。料亭で会計などの裏方の仕事をしているとだけ話している。
彼女の過去を知りたいとは思わない。知ったところで、何にもならないから。きっともそう思っているのだろう。彼女から蒼紫の過去について質問をされたことは、一度も無い。
「どうなさいました?」
厨から茶と菓子を運んできたが声を掛けた。
「いや………」
何と答えようかと迷い、蒼紫はそのまま縁側の方を見る。今日は朝から曇っていたが、夕方近くになって更にどんよりと重い雲行きになったようだ。
「雨が降りそうですね」
「ええ」
蒼紫の言葉に、茶を出しながらも外を見た。続けて、
「これから、一雨ごとに暑くなりますね」
その口調がどことなく鬱陶しげで、それが可笑しくて蒼紫は息を漏らすように小さく笑う。
「夏は、お嫌いですか?」
「暑いのは苦手なんです。何もする気が起きなくなってしまうでしょ?」
「ああ。暑いのよりも寒いのの方が我慢できそうだ」
「そうでしょう?」
我が意を得たりとばかりに、はにっこりと微笑んだ。
の家を訪れるようになって暫く経つが、未だお互いに他人行儀な喋り方のままだ。当然、二人の間にはまだ何も無い。
勿論蒼紫は、とのことをこのままの状態にしておくつもりは無いし、それは彼女も同じだろう。そうでなければ、女の一人暮らしの家に男を招くはずがない。
では何故コトが進まないのかというと、やはりきっかけが掴めないせいだろう。の家に行く度に、今日こそは何とかしようと思ってはいるのだが、こうやって話をしていると、ずるずるとそのままになってしまうのだ。
「雨が降り出す前に、おいとました方が良さそうだ」
空を見上げて、蒼紫は独りごちる。初夏の雨であるし、小雨なら濡れて帰っても構わないが、この雲行きだと土砂降りになりそうだ。
「傘くらい、お貸ししますよ」
「しかし、土砂降りになりそうですし………」
「ああ………」
蒼紫の言葉に、も空を見上げて小さく声を漏らした。
土砂降りになったら止むまで此処に居れば良いでしょう、と恋人同士だったら言うだろうなあと蒼紫は思う。がそう言ってくれたら、その言葉に甘えていただろう。
そこまで考えて、それは卑怯だろうとも思い直す。何度も家を訪れているが、まだ何も無い男に対して、女の口からそんなことを言えるわけがないではないか。やはりこういうことは、男の方からきっかけを作るべきだと、蒼紫は思う。
とはいえ、何と言ってきっかけを作れば良いのか見当が付かない。敵を斬りつけるきっかけの掴み方や、敵地への突入のきっかけの作り方は巧いのだが、男と女のことに関するきっかけの作り方は、この歳になった今でも蒼紫には判らない。
普通の男がそれを学んでいる歳の頃は、“御頭”として御庭番衆を仕切っていて、それどころではなかった。その後も戦いを求めて流浪の旅を続けて、まともに恋をした記憶が無い。世間の男たちは、どうやってコトを運ぶのだろうと、蒼紫は不思議に思う。
「いかがなさいました?」
眉間に皺を寄せて難しい顔をして考え込む蒼紫に、が怪訝そうに尋ねる。
まさか、コトを運ぶためにどうすれば良いか考えていたとは言えず、蒼紫は誤魔化すように口許だけで笑って、
「一寸気になることを思い出しただけです。いただきます」
柔和だが、それ以上の追求を拒む口調でそう言うと、蒼紫はわらび餅の皿を取った。
以前、わらび餅が好きだという話をしたから、用意してくれたのだろう。黒蜜が好きだと言ったのを憶えてくれていたのか、の皿に比べると多めにかけられている。随分前に一度しか話していないことなのに、そういう小さいことを憶えてくれていたことが嬉しい。
こういう小さいことを積み重ねて、男女の中は作られていくのだろうと思う。過去のことは知らなくても、今のことを知ることが出来れば、それで十分だ。
そういえばいつだったか、鴨川の川床で鱧を食べてみたいとが言っていたことを思い出した。ずっと京都に居るのに、一度もそういう所に行ったことが無いのだそうだ。
「梅雨入りする前に、鴨川に鱧を食べに行きませんか?」
考えてみれば、こうやって二人で菓子を食べることはあっても、ちゃんとした食事をしたことは無かった。二人で食事をしたら、との仲が少しは進展するような気がしてきた。
蒼紫の誘いに、は驚いたように軽く目を見開いた。今まで二人でそんな遠くまで足を延ばしたことが無かったし、そもそも一緒に食事をしたことが無かったのだから、当然だ。
が、はすぐに嬉しそうににっこりと笑って、
「それなら、来月の頭までには行かないと」
そこまで言って、は何か思いついたように小さく含み笑いをした。
「どうしました?」
「鴨川でお食事だなんて、逢い引きみたい」
「ああ………」
蒼紫の頬が微かに紅潮した。
“逢い引きみたい”も何も、鴨川で食事なんて逢い引き以外の何ものでもないのだが、改めてそう言われると照れてしまう。“逢い引き”という言葉が恥ずかしいのかもしれない。
心拍数が上がっていくのを自覚しながら、蒼紫は言った。
「逢い引きのつもりでお誘いしたのですが」
今度はが赤くなる番だった。
これまで、も何人かの男に誘われたことがあったが、こんな風に何の誤魔化しも無く真っ直ぐに誘われたのは初めてだ。この歳になると、誘う方も誘われる方も傷付かないような持って回ったような言い方でしか誘われなくて、だからこんなに率直に誘われると照れてしまうけれど、凄く嬉しい。
頬を染めたまま何も言わないに、蒼紫は続けて提案する。
「折角だから、何処かで待ち合わせをして行きましょう」
「どうして?」
外で会う時は、いつも現地で落ち合っている。
「そうした方が、逢い引きらしくて良いような気がします」
あまりにも大真面目に言う蒼紫の顔を見て、は吹き出しそうになった。けれど、笑うと叱られそうだから、俯いてわらび餅を口に押し込みながら、笑いそうな顔を誤魔化す。
きっとこの人は凄く真面目で誠実な人なのだろうと、は思う。いつもは歳の割には老成した感じの人なのに、時々とんでもなく直球なことを言い出すのは、きっと性根が真っ直ぐだからだ。彼の言葉にはびっくりさせられたり、こっちが恥ずかしくなったり大変だけど、そういうのも良いかなあ、とは思う。この歳になったら、こんなことを言ってくれる人なんて、そうそういないのだ。
わらび餅と一緒にこみ上げる笑いも飲み込んで、は漸く顔を上げた。
「ええ。楽しそう」
この人との逢い引きは、初めて恋をした頃のものになりそうだ。
「あ………」
微笑むの口許を見て、蒼紫が小さく声を上げた。
「きな粉、付いてますよ」
「え?」
の顔がぱっと紅くなって、反射的に人差し指で口の端を拭った。わらび餅は美味しいけれど、こうやってきな粉が口に付くのがいけない。
いつもは落ち着いているの慌てぶりが可笑しくて、蒼紫は息を漏らすように小さく笑う。そして、わらび餅の皿を置くと、彼女の方ににじり寄った。
「反対側です」
微笑みながらそう言うと、蒼紫は右手での顎を持ち上げると、親指で彼女が拭ったのと反対側を拭ってやる。その動きが流れるように自然で、は身を引くことも抵抗することも忘れてしまっていた。
驚いたように目を瞠っているの瞳を覗き込むように見詰めたまま、蒼紫の顔がゆっくりと近付いてくる。
「さん」
囁くように名前を呼ばれたかと思うと、そのまま唇を重ねられた。
触れ合うだけの短い口付けなのに、は思わずうっとりとした溜息を漏らしてしまった。初めての時のように胸が高鳴って、目が潤んでいるのが自分でも判る。
瞬きも出来ずに固まってしまったを見て、蒼紫は困ったように苦笑した。
「お嫌でしたか?」
二人の関係が進まないことに焦りすぎただろうか。口付けをして良いか、意思確認をしてからした方が良かっただろうか。しかし、接吻して良いか訊いてからするなんて、聞いたことが無いし、何だか間抜けだ。
困り顔のまま悩んでしまう蒼紫に気付いて、は場を取り繕うように微笑んだ。
「いいえ」
厭じゃなかった。厭なわけがない。それどころか、やっとここまで来れたのかという気持ちだった。嬉しくて嬉しくて、蒼紫に抱きつきたい衝動に駆られたが、流石にそれは我慢する。けれど―――――
微笑んだまま、は蒼紫の肩にそっと手を当て、ゆっくりと顔を近付ける。
「死ぬほど嬉しい」
そう囁くと、今度はの方から口付けた。
続きは無いなんて言いながら、“はじめまして”の続きです。いつの間にか主人公さんの家に遊びに行くようになっていたんですねぇ、蒼紫。何と言って『葵屋』を出て行っているのやら、気になるところです。
しかしまあ、私の書く蒼紫はちょっとオクテすぎるぞ。君は一体いくつなのか? いや、あんまり手が早い蒼紫も厭だけどさ。妙に女の扱いに慣れている蒼紫なんて、何だか想像を絶するし。
何かをするわけではないけれど、何もしないで二人で過ごす時間というのが“甘い一時”ではないかと私は思うのですが、みなさんはどうでしょう? 別にいちゃついたり、サカったりしなくても良いんですよ。まったりと過ごす時間というのが実は一番濃密なのではないかと、最近になって一寸思ったりするのです。歳かな(苦笑)。
ま、結局話が締まらないんで、キスはさせちゃったんですけどね。手も触れずに見詰め合うだけでオチが付くような文章力が欲しいです。