自分のことは棚にあげよう。
社交シーズンも終わり、これで縁も暫くは自由の身だと思っていたら、大きな間違いだった。西洋人たちの社交シーズンは確かに終了したが、次は清国の上流階級のお付き合いというものがあるらしい。これまでそういう席には行かなかったから、は清国人の集まりには興味が無いのだろうと思っていたら、単に時期がずれていただけらしい。清国人の集まりとなれば、衣装はドレスではなく漢服になるらしい。勿論、これも毎回新調している。衣装に装飾品にと馬鹿みたいに買いあさって、これを止めない父親も父親だ。いくら金が有り余っているとはいえ、甘やかしすぎだ。
「しかしまあ、毎度のことながら気合が入ってるな」
届いたばかりのの衣装を見て、縁は心底呆れた顔をした。
衣装を新調するのは毎度のことだが、今回は特に気合が入っている。金糸銀糸をふんだんに使った刺繍入りの豪勢なものだ。
「当たり前でしょ。どこで王子様との出会いがあるか分からないのよ」
は当然のことのように言う。王子様というのは西洋人狙いだと思っていたら、別にこだわりは無いらしい。
出会いはともかくとして、こんな金食い虫を飼うなんて、王子様というのは大富豪でないと務まらないようだ。若い男では無理だろう。
「それにね!」
何を思いついたのか、は急に鼻息を荒くした。
「今回は誰よりも目立たなきゃ駄目なの! あんたもそのつもりでね!」
なんだか分からないが、今度の集まりは勝負をかけているらしい。大富豪の“王子様”が出席するのかもしれない。
“王子様”が来るのなら、誰よりも目立って見初めてもらうのを狙うのは解るが、何故縁まで巻き込まれるのか理解できない。連れの男が目立っていては、王子様は他の女に行ってしまうではないか。
の考えることは、縁には謎過ぎる。常識人には非常識な女の考えなど理解できないということなのだろう。
ダンスと英会話が無くなったのは助かるが、また別の問題が起こりそうである。会が始まる前から縁は気が重くなってきた。
清国人の集まりはダンスこそ無いが、その代わりに会話を求められる。用意されている料理を食い続けてどうにか逃げ切ろうと考えていたが、さりげなくから蹴られてしまった。こういう料理は形だけ手をつけるもので、本気で食うのは下品なことらしい。
確かにつまむ程度の料理ではあるが、それでも縁の普段の食事に比べれば豪勢なものである。そんなものを横目に面白くもない会話をするなんて、一寸した拷問だ。
何を話しかけられても、料理が気になって縁は気もそぞろだ。当然生返事になり、そのたびにからさりげなく蹴られるのだからたまらない。
「いちいち蹴るなよ」
「あんたがみっともないことするからでしょ。料理ばっかりみて恥ずかしいったら」
縁が抗議すると、逆に怒られてしまった。
には解らないだろうが、飢えた経験のある縁には、目の前の料理は無視するなんて出来ないのだ。食うに困らない生活になった今でも、食い物があれば気になって仕方がない。
華やかな席が大好きなと違って、縁には楽しみが無いのだ。せめて飲み食いくらいは好きにさせてもらいたい。大体、食い物に目移りする縁がみっともないなら、目を盗んで蹴りを入れるはみっともなくないのか。
「これくらいしか楽しみが無いんだよ。好きにさせろ」
「お喋りとか、やることは一杯あるでしょ」
「だからそれが面白くないって言ってるんだ」
何を言ってもには通用しないらしい。もう価値観の相違というものなのだろう。
「あら、あなたも来ていたの?」
縁とが小声で言い争っていると、聞き覚えのある声がした。
「あ………」
そこにいたのは、縁がの家に来る前に雇われていた家の女主人だ。大富豪の未亡人で、香蘭という名前だった。の家に雇われることになったのも、この女の口添えがあったからだ。
この女も癖のある性格だったが、歳がいっている分、まだ無茶な要求はしなかった。年増のいいところは、加減を知っているところだと思う。
「お嬢様の付き添いだ」
縁は素っ気無い口調で応える。雇われていたことがあったといっても旧交を温めたい相手ではないし、そもそもこの女のせいで今の状況があるのだ。
縁がの屋敷にやられたのも、大方隣にいる若い男が理由なのだろう。女というものはいくつになっても“王子様”が好きなようで、この香蘭も年甲斐も無く若い男が好きなのだ。要するに縁は飽きられたというわけだ。
新しい男は縁とは正反対で、線の細い芸術家風の美青年だ。反抗的な縁に懲りて、次は従順な男と飼うことにしたのだろう。
ふと見ると、の表情が険しくなっている。も香蘭のことを知っているのだろうか。
「あら、お知り合い?」
の声はにこやかだが、目が笑っていない。やはり知り合いのようだ。
「昔、雇われていたんだ」
「ふ〜ん、そうなの。へ〜」
何だかよく解らないが、は怒っているらしい。急に機嫌が悪くなるのはいつものことだが、今日は何だかおかしい。
香蘭は愛か笑うにこやかにに話しかける。
「彼、扱いにくいでしょ? 私も苦労したのよ」
これまた何だかよく解らないが、やけに上から目線である。どうやらこの二人は、縁の知らないところで仲が悪いようだ。
この声にカチンときたのか、は作り笑いのまま眼光が鋭くなる。
「いいえ、とんでもない。何に対してもとても熱心に勉強してくれますわぁ」
明らかに嘘である。はいつも怒ってばかりで、そんな評価をしたことが無いではないか。
しかし口出しするとややこしくなりそうなので、縁は黙っている。女の喧嘩というのは、収まるまで大人しくしているのが一番だ。
の嘘は見抜かれているらしく、香蘭は可笑しそうににやにやと笑っている。が、はそれに構わず言葉を続けた。
「相手次第で変わるものですのね。それでは失礼」
そう言うが早いか、は強引に縁を引っ張ってその場を離れた。
「一体何なの! あの女と知り合いなんて聞いてないわ!」
外に連れ出された途端、の怒りは大爆発だ。あの短い間で相当怒りを溜め込んでいたのだろう。
何をそんなに怒り狂っているのか、縁にはさっぱり解らない。香蘭のことはには関係無いから言わなかっただけだし、前の仕事のことも訊かれなかったから話さなかっただけだ。そもそも縁の経歴については、父親が話していると思っていた。
「訊かれもしないのに、わざわざ言うこともないだろう」
「あの女のお下がりだなんて! あんな婆さんのどこがいいのよ!」
「あのなあ………」
お下がり呼ばわりには、怒りよりも先に呆れた。何を張り合っているのか知らないが、縁は物ではないのだ。
それに、は“婆さん”と言っているが、香蘭は年増ではあっても婆さん呼ばわりされるような歳ではないのだ。どれだけ悪意を持っているのかと呆れる。
「どうせあんたも若い燕ってやつだったんでしょ! ワルツだって、あの女に教えてもらったんでしょ! いやらしい!」
「あー………」
ワルツについてはの言う通りである。若い燕ということに関しては―――――思い返してみると、大体合ってるような気がしてきた。
それにしても、が“若い燕”などという下世話な言葉を知っていることに驚いた。箱入り娘かと思いきや、とんだ耳年増である。社交界に出入りしていれば、自然とそうなるものなのか。
縁が否定しなかったとこが、ますます怒りを煽ったらしい。は顔を紅くして怒鳴った。
「やっぱりそうなのね! いい歳して顔だけの若い男を囲って、いやらしい! お父様を誘惑するだけじゃ飽き足らないの、あの女?!」
が香蘭を嫌っている理由は大体解った。が、顔だけの若い男を囲うのを批判するなら、縁を自慢げに連れ回しているも似たようなものではないか。しかも、さりげなく縁のことをけなしている。
「お前も似たようなものだろう」
「ああ、せっかくの気分が台無しだわ! 帰る!」
縁の呟きは聞こえなかったのか、は怒りを全開にして歩き出す。
こういう席で主催者に挨拶無しで帰っていいものかと思ったが、が帰ると言うのなら仕方が無い。どうせ楽しくも無い席であるから、縁も黙って従った。
縁、若い燕もやってたのか。そりゃあ主人公さんもびっくりだ。私もびっくりしたが(笑)。
のし上がるには手っ取り早い手段ではあるが、どこで知り合ったんだろうな、縁とマダム。マダムとの過去よりも、そっちの方が気になるわ(笑)。