王子さまが来てくれたので、どうしようかと思いました。

 “優雅な空の旅”が一転して、過酷な山歩きである。道無き道を歩くだけなら、縁にはどうということはないが、前準備も無しに、しかも碌に歩かないを連れてなのだ。この二つが重なると、もう何かの修行としか思えない。
 こうなってしまったそもそもの原因はである。本人は全くそう思っておらず、何故か縁が全面的に悪いと思っているのだから性質が悪いのだが。
 だから、一歩歩く度にの不満は爆発だ。本当に歩きながら絶え間なく文句を言っているのだから、うるさいことこの上ない。
「ああ、足が痛い! こんなところを歩くなんて、靴が泥だらけじゃないの! 買ったばかりなのよ、これ!」
 さっきから同じことの繰り返しである。後は喉が渇いただの疲れただの、そんなことを言ってないで黙って歩けと言いたくなることばかりだ。
 喋ればそれだけ体力を消耗するのである。こんなにぎゃあぎゃあ喚く元気があるなら、さっさと歩けばいいのだ。
「この調子だと野宿だぞ。喚く元気があるなら、もっと速く歩け」
 か弱い女であれば、手を引いてやったり労わりの言葉をかけてやるところだがにはそんな必要はないだろう。縁は振り向きもせずにさっさと先を歩く。
 大体、気球から持ち出した非常袋を抱えている縁に比べれば、手ぶらのは格段に楽なはずなのだ。まともな神経の持ち主なら、少しは済まなそうにして縁を労わるところだろう。
 から反撃があるかと思いきや、何も無い。普段なら石でも投げそうな女なのだ。もしかしてはぐれたのだろうかと縁が振り返ると、は少し離れたところでしゃがみ込んでいた。
 拗ねているのかとも思ったが、様子がおかしい。じっと蹲って足元を弄っている。
「何やってんだ?」
 喋れば鬱陶しいが、黙っていられると不気味である。何かの罠ではないかと警戒しながら縁は尋ねた。
「靴ずれした! もう歩けない!」
 辛そうに言えば可愛げがあるものを、いきなり怒鳴られてしまった。意地でも動かないという意思表示なのか、服が汚れるのも構わずに地面に座り込む。
 踵の高い細い靴で歩けば靴ずれするにきまっている。そんな見た目だけの靴を履いているからだと縁は思うが、碌に歩かないには見た目が全てなのだろう。
 歩けないと言われても、此処は山の中である。座っていたって誰かか拾ってくれるわけではない。せめて民家がある所まで歩かなければ、誰も助けてはくれないのだ。
「野宿する気か?」
「女の子が足が痛いって言ってるのに、おんぶしようとか思わないわけ?」
「全然」
 縁は即答した。
 少ししおらしくすれば考えないでもないが、こんな偉そうい言われたら助けてやろうという気も吹っ飛ぶものだ。これまで周りが過保護に育ててきたから、どんなに困っても“お願い”ができない女なのだろう。
「あんたのせいでこうなったのよ! 帰ったらお父様に言いつけてやるから!」
 まだ金切り声を上げる元気は残っていたようである。の言い種はともかくとして、これだけ体力があれば野宿も平気そうだ。
「はいはい、俺のせい俺のせい。歩かないなら、今日はここで野宿だ。まあ日も落ちてきたし、丁度いいか」
 の言葉を右から左に聞き流し、縁は荷物を下ろした。





 非常袋の中には、非常食と救急箱が入っていた。これでの靴ずれは解決であるが、問題は非常食である。
 非常袋に入っていたのは、最近出回るようになった乾パンだ。金持ち御用達の乗り物だけあって、こんなものまで最新式らしい。
 しかし最新式とはいえ、非常食は非常食。正直言って美味いものではない。縁も試しに食べてみたが、硬くて味が無いし、こんな時でなければとても食う気にはなれない代物だ。まあ、硬いから満腹感は得られるだろうが。
 これは絶対は不機嫌になるだろうと予想していたが、案の定、大爆発だ。よくもまあ、こんなに怒る体力があるものである。これなら、もう少し先に進めたのではないかと思わないでもないが、まあいい。
「ジャムかバターはないの?」
 この非常時に何を言っているのかと思うが、は当然の要求をしているつもりのようだ。
 以前の縁なら呆れ返るところだが、この程度は想定の範囲内だ。黙々と火を熾しながら、
「あるわけないだろ」
 巨大な風船である気球に、余計なものを乗せているわけがない。ジャムやバターなんて、それこそ不要な贅沢品だ。“優雅な空の旅”なんて言っているが、現実はそうでもないのだ。
「こんなもの、犬も食べないわ。何か探してきてよ」
 屋敷の中なら、その一言で使用人がすぐに何とかするだろうが、残念ながら此処は山奥である。犬も食わないものでも、山を下りるまではこれしかないのだ。
 この期に及んでまだ状況を理解できないの頭の悪さに、縁はまともに相手をする気が失せた。食べたくなければ、勝手に腹を空かせていればいいのである。
 黙っている縁に、は不思議そうな顔をした。
「何で探しに行かないの? 私が飢え死にしてもいいの?」
 使用人が言うことをきかないのが不思議でたまらないらしい。これまでのの人生で初めてのことなのだろう。
 誰もが自分の言うことをきいてくれるわけではないことや、望んでも手に入らないことがあるということを知っただけでも、今回の遭難はにはいい勉強だ。これで少しでも成長すれば御の字だが、そんな殊勝なところがあるかどうか。縁はあまり期待していない。
 無言で火に枯れ枝をくべている縁の姿に、何を言っても無駄だと悟ったのか、も不機嫌な声で黙り込んだ。





 こんなところで眠れるわけがないと思っていたが、いつの間にか眠っていたらしい。気が付くと、は縁に膝枕をされていた。
「きゃあっっ!!」
 いつもは寝起きが悪くてベッドでぐずぐずしているも、これには驚いて飛び起きた。
「なっ……何すんのよっ?!」
「お前が勝手に寝てたんだろうが」
 恋人でもないレディに膝枕をするという無礼を働いたというのに、縁は何とも思っていないようだ。の方など見もせずに、棒で燃える枯れ枝を突きながら火の様子を見ている。
 気球の時もそうだったが、縁はよほど火を弄るのが好きらしい。昨日の夜も、に話しかけもせずにずっと火の様子を見ていた。
「あんた、もの燃やすの好きなの?」
 世の中には焚き火をしたり、ガスを燃やしていろいろな色の火を出すのが好きな変わり者がいるらしい。縁もそうなのかと尋ねてみる。
 が、縁の返事はの予想とは全く違うものだった。
「別に。夜は冷えるから、体温が下がらないように火を点けておくのは常識だ。それに、こうしておけば野犬も来ない」
 趣味ではなく、必要に迫られての焚き火だったらしい。当たり前のことのように言っているが、野宿で焚き火は常識だなんては知らなかった。もしかして縁は野宿の経験があるのだろうか。
 縁がこれまでどうやって生きてきたのか、は全く知らない。ある日突然、父親から「これが“白馬の王子さま”」だと紹介されただけなのだ。父親が連れてきたのだから一応怪しくはない男なのだろうと思っていたから、縁がどんな人間なのかなんて気にしたことも無かった。
「野宿したことあるの?」
 今更こんなことを尋ねるのもおかしな気がしたが、は訊いてみた。
「上海に来たばかりの頃は、ずっと宿なしだったからな。大抵は軒下で寝てたが、こうやって山の中で寝てたこともある」
 には想像もつかない生活だが、縁にはそれが当たり前の生活だったようだ。悲壮感も無く淡々としている。
 縁が日本から来たということだけは、父親から聞いていた。どういう理由で上海に渡ってきたのか、の父親に紹介されるまでどんな生活をしていたのか、知りたいと思ったが訊くのはやめた。訊いたところで、どうせ答えやしないだろう。
 紹介された日にが白髪の理由を尋ねた時、「心労」と答えただけでそれ以上は口を割らなかった。そういう生活で総白髪になったのなら、これ以上話しても無駄だ。
「ひょっとして、ずっと火の番をしてたの?」
「また火を熾すのは面倒だからな」
 当然のことのように言うが、この口ぶりでは縁は徹夜していたようである。が寝ている間は縁も寝ていたと思っていたから驚いた。
 こんなところでがぐっすり寝ていられたのは、縁が起きていたからなのか。さっき、野犬のことをちらっと言っていたが、もしかしたら野犬が近付かないように見張っていたのかもしれない。
 言うことを何一つきかない嫌な奴だと思っていたけれど、縁は意外といい奴なのかもしれない。偶然とはいえ(絶対に偶然だ)膝を貸してくれたし、王子様には程遠いが、まあ普通の男だ。これで使用人らしくの言うことをきけば、もっといいのだが。
 火の始末をしながら、縁が言う。
「すぐに出発するぞ。今日中に町に着かないと、本当に遭難だ」
「顔を洗いたいんだけど」
 の朝は、冷たい水での洗顔で始まる。歯も磨きたいし、化粧は諦めるにしても、女としてこれだけは譲れない。
 が、縁はにべもなく、
「途中の川で洗え。行くぞ」
「……………」
 少しくらい川を探す素振りを見せても良いだろうに、その一言で終わらせるとは。さっきは一寸いい奴かもしれないと思ったが、やっぱり嫌な奴だ。
 が不機嫌になっても、縁は全く気にしていないようだ。さっさと荷物をまとめて歩き始めた。





 途中の川で顔を洗えと言ったくせに、縁が行く道には川なんて無い。探しているような素振りも無いし、周りの雰囲気から察するに川からは随分と離れているようだ。このまま一気に町に下りるつもりなのだろうか。
 縁は洗ってない顔で人前に出るのは平気だろうが、はそうではないのだ。こんな顔で町を歩いて、知り合いにでも会ったらどうしてくれるのか。次のパーティーで大恥をかいたら縁のせいだ。
「ねえ、川に寄らないの? このままじゃ町に着いちゃうじゃない」
「町を目指してるんだから当たり前だ」
 の言いたいことが全く伝わっていない。本当にこの男は駄目だ。
「だから町に着く前に川に―――――」
「あ、家だ」
 の言うことなど完全に無視して、縁はぽつんと建っている山小屋に向かって走り出した。





 こんな山奥に人が住んでいるわけがないと思っていたら、この小屋は猟師の休憩小屋だったらしい。けれど運の良いことに人がいて、親切にも町まで迎えを呼びに行こうと申し出てくれた。縁とは大違いだ。
 おまけに食事も顔を洗う水も提供してくれて、世の中には親切な人間がいるものだ。粗末な食事ではあるが確かに味があって、は最近食べた物の中で一番感激した。猟師の食事というのは、良く言えば野性味があって悪くはない。次のパーティーで使える話題にもなる。
 昨日から散々だったけれど、過ぎてしまえばパーティーの話題も出来ていい経験だった。気球に乗ったのも、墜落したのも、野宿して乾パンを食べたのも、そしてこの食事も、社交界の誰も経験したことの無いことばかりだ。きっと次のパーティーでは話題の中心になるだろう。
 食事の後、外で顔を洗って小屋に戻ると、縁がテーブルに突っ伏していた。何をしているのかと思ったら、熟睡しているらしい。
 こんな姿勢でよく眠れるものだとは感心するが、一晩中気を張って徹夜していたのだから当然なのかもしれない。もパーティーで徹夜をしたことがあるけれど、山奥での徹夜の疲労は比べものにならないものだったのだろうと思う。
 縁がいい奴なのか悪い奴なのか、は本当に分らなくなってきた。言うことは全然きかないし、態度も悪いけれど、こうやって徹夜でを守ってくれるところもあったり、どっちが本当の縁なのか分らない。尋ねたところで、まともに答えてはくれないだろう。
 何にしても、縁はの護衛としての仕事は果たしたわけだ。帰ったら父親は激怒するかもしれないけれど、縁はきちんと仕事をしたと伝えてやろう。
「ま、お父様には私からちゃんと言ってあげるわ」
 縁に直接言うのは何となく癪で、は独り言のように言った。
<あとがき>
 やっとフラグが立ったような気がします。これが王子様なのかどうなのかよく分らんが(笑)。主人公さんも戸惑っているようです。
 縁にはこの調子で着実にフラグを立てていっていただきたい。早く“白馬の王子様”になってくれ。
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