わたしに落ち度はありません。
近頃、欧州の上流社会では熱気球なるものが流行っているらしい。巨大な風船を使って空の散歩を楽しむのだそうだ。人間が鳥のように空を飛ぶなんて、何とも夢のある話である。「空を飛ぶなんて、どんな感じなのかしら」
熱気球の様子を伝える英字新聞を読みながら、はうっとりとした声で言う。
「地に足が付いてないから、落ち着かないんじゃないか?」
人間が宙に浮くなんて、縁には想像もつかない。上手くやれば山より高く跳べるそうだが、そんなに高く飛んで、墜ちたらどうするのかと要らぬ心配までしてしまう。
自動車だの熱気球だの、少し前までは想像もできなかったものが、欧州では次々発表されている。そのうち人間は、海底や月にも行けるようになるかもしれない。
「あら、こっちでも熱気球に乗れるみたいよ」
のはしゃいだ声に、縁はギクリとした。
この流れでいくと絶対、「私も乗りたい」と無茶を言いだすに決まっている。最新の乗り物で空の旅なんて、が興味を持たないわけがない。
遠出だけなら兎も角、地に足のつかない空の旅など、縁は御免である。だけ何処か遠くに飛んで行ってしまえばいいのに、とさえ思うくらいだ。
「お父様にお願いしてみようかしら。あんたも特別に連れて行ってあげるわ」
予想通りの展開だが、その恩着せがましい言い方は何とかならないものか。縁は気球なんぞ乗りたくもないのである。
「俺はいい」
「あら、どうして?」
「そういうのは好きじゃない」
列車や馬車があるというのに、わざわざそんな怪しげな風船に乗ろうという気が知れない。パーティーで自慢したいのだろうが、それならだけ乗ればいいのだ。縁を巻き込まないでもらいたい。
全く食いついてこない縁の様子に、は面白くなさそうな顔をした。
「本当につまんない男ね。あんた、何が楽しくて生きてるの?」
本当に大きなお世話である。縁との楽しいことは違うのに、それが理解できないらしい。
縁がむっつりと黙り込んでいると、が何か思いついたように言った。
「ひょっとして怖いの? だらしなーい」
そういう解釈をすることは予想していたから、縁は腹も立たない。高いところが怖いわけではないが、「怖い」の一言で妙なものに付き合わされるのを免除されるなら、それでいいと思っている。
変わらず黙り続ける縁を見て、弱みを握ったと思ったのだろう。は楽しげに言った。
「大丈夫よ。そんな簡単に堕ちるものじゃないし。風に乗って飛ぶものだから、速く飛ばないしね」
乗ったことも無いくせに、偉そうなものである。風に乗って飛ぶというのなら、何処に行くか分かったものではないではないか。
縁はと違って慎重派なのである。そんな運を天に任せるような危険極まりない乗り物など、乗りたくもない。
ますます渋い顔になる縁とは対照的に、は楽しげに提案する。
「そうだ。あんたが操縦したらいいのよ。あれって結構忙しいらしいから、怖いのも忘れるわ」
本人は名案だと思っているようだが、とんでもないことだ。気球の操縦が素人に出来ないことくらい、縁にだって分かる。
英語だのワルツだの、これまで色々と押し付けられてきたが、はどれだけ縁を有能だと思っているのだろう。その割には縁を見下しているのが不思議なのだが。
それより何より、何故そこまでして縁と気球に乗りたいのか。そこが最大の疑問だ。
「お前だけ乗ればいいだろ。妙なことに巻き込むな」
とにかく縁は意地でも乗りたくないのだ。と一緒というだけで、碌でもない目に遭いそうな気もする。
「だって、あんたが一緒じゃないと、お父様が許してくれないもの。私だって、あんたなんかより、素敵な王子さまと乗りたいわ」
そう言って、はぷうっと膨れた。
と二人で空の旅をしてくれる“王子さま”がいたら、それはきっと世界一の勇者だ。そんな男がいたら、縁は全力で尊敬する。ついでにを引き取ってくれたら、這い蹲って感謝するだろう。
「せっかく気球に乗せてあげるって言ってるのに、何よ、その態度! 素直に感謝しなさいよね!」
何度も断っているというのに、は全く理解していないらしい。恩着せがましくそう吐き捨てると、腹立たしげに足を踏み鳴らして出て行った。
風というのは幾つかの層に分かれていて、高度によって風向きが変わるらしい。気球の中の空気を温めたり冷やしたりして飛ぶ高さを調節し、自分の思う方角の風を掴めば自在に飛べるのだと、教本には書かれている。
簡単に言ってくれるが、“空気を温めたり冷やしたり”という時点で素人には難易度が高い。風向きに合わせて常に火力の調節をしなければならないというのも、話に聞く“優雅な空の旅”とは程遠い。ああいうのは地上から見上げるのが一番楽しいのではないかと、縁は思う。
しかしはそうは思っていないようで、結局縁がお供をして気球に乗ることになってしまった。しかも困ったことに、調達できたのは二人乗りの気球で、縁が操縦役である。
「すごーい! 海まで見えるー!」
念願の気球に乗って、はご機嫌だ。高度に比例して興奮しているようである。
そりゃあ本人は優雅に空の旅を楽しんでいるのだから、興奮しないわけがない。その後ろでせっせと火の調節をしている縁には、景色を楽しむ余裕などないというのに、気楽なものである。
少しの火力の違いで急上昇したり急降下するのだから、縁には休む間も無い。“優雅な空の旅”なんて書き立てられていたけれど、何が優雅なものか。やはり人間は空を飛ぶべきではないのだ。
むかむかしている縁の様子に気付かないのか、は楽しげに話しかける。
「あの辺りが租界かしら? やっぱり空から見ても雰囲気が違うわねぇ」
「話しかけるな。気が散る」
初めての操縦にピリピリしている縁には、景色を楽しむ余裕など無いのだ。気を抜いたら墜落をするのではないかと、火力を見る目も吊り上がるくらいである。
そんな縁に、は白けた顔で、
「折角空から町を見渡せるのに火ばっかり見て、つまんない男ね」
「誰のためにやってると思ってるんだ」
の勝手な言い草はいつものことで慣れたつもりだったが、気が張っている今はいつもより苛々してしまう。誰のせいでこんなことになっているのかと考えたら、苛立ちも倍増だ。
「これだけ揚がってるんだから、そう簡単には墜ちないわよ。それよりこっち見てって」
縁の苦労など知らないは暢気なもので、強引に彼の腕を引っ張って自分の横に立たせた。
「あの辺りがうちかしらね。遠くて何処にあるか判らないわ」
楽しげにそう言いながら、は大きな屋敷が建ち並ぶ一角を指差す。
には縁の作業を邪魔しているという意識は無いのだ。せっかく珍しい体験をしているのだから、縁にも他では見られない景色を見せてやろうと思ったのだろう。
まあ、好意的に解釈すれば、無邪気なのだろうと縁は思う。自分が楽しいから他人も楽しんでいると思い込んでいるのはどうかと思うけれど、この年頃の娘というのはそういうものなのかもしれない。これで他人を思いやるということを覚えれば、言うことは無いのだが。
気球の操縦をしろと言われた時はどうしてくれようと思ったけれど、これだけが喜んだのなら良しとしよう。これで暫くは機嫌良く過ごすはずだ。の機嫌がよければ、縁の生活も楽になる。
「そろそろ着陸するぞ」
気が付けば、燃料も残り僅かだ。適当な空き地を見付けて着陸しないと、気球の中の空気が冷えて墜落してしまう。
離陸した空き地からは随分離れて山の方に流されてしまったから、少しでも町に近い所に着陸しなければあとが面倒だ。気球の回収は人を使うから良いとして、は縁が連れて帰らないといけないのだ。できるだけすぐに辻馬車を捕まえられる所に着陸したい。
「えー? まだ大丈夫よ」
よほど空中散歩が気に入ったのか、は不満そうだ。
「町が近いうちに着陸しないと帰れなくなる。町に行ける風を探さないと―――――」
「じゃあ最後に、もう少し高く揚げましょ。山の向こうを見てみたいわ」
そう言うが早いか、は勝手に燃料を継ぎ足し始めた。しかも、本来なら少しずつ様子を見ながら足すところを景気良く入れるものだから、火の勢いが一気に強くなる。
「ちょっ………!」
の勝手な行動に、縁は真っ青になった。一気に火力を上げたら、気球が急上昇してしまう。
高度によって風向きも強さも変わるのだから、急激な上下動は危険だ。人間には緩やかに上昇しているように感じられても、この早さは気球にとっては急上昇なのだ。
「触るな馬鹿っ!!」
を突き飛ばし、縁は慌てて火の中のコークスを取り出そうとする。が、火の勢いが強すぎて、とても手が出せない。
「危ないじゃない! 大体馬鹿とは何よ! 使用人のくせに!」
「どっちがだ! このままじゃ―――――」
甲高い声を上げるに負けずに縁も怒鳴り返したが、突風に煽られてそれどころではなくなってしまった。
高度が上がると風が強くなると本に書いてあった通り、これまでののんびりとした速度とは全く違う。しかも明らかにとんでも無い方向に流されている。
「すごーい! はやーい!」
何も知らないは大喜びだが、縁はそれどころではない。遭難するかどうかの瀬戸際なのだ。締め付けられるように胃が痛くなってきた。
そしてこういう時は、頭に血が昇って冷静な行動が出来なくなるものだ。とにかく気球の中の空気を冷やして高度を下げなくてはと、縁は火に水を注いでしまった。
急激に火力が弱まると、今度は急降下である。しかも間の悪いことに、地上からサーマルと呼ばれる突風が吹きつけてきた。
「きゃあああああ―――――っっ!!」
子の乱高下には、流石のも悲鳴を上げた。ゴンドラの縁を掴んでしゃがみこんでいる。
縁は悲鳴こそ上げないものの、頭が真っ白になってあたふたするだけだ。こうなったら、せめて平地に不時着できるのを祈るばかりだ。
幸か不幸か町からは離れているから、大惨事は避けられそうだ。残る心配は二人が無事に屋敷に帰ることが出来るかである。
コークスは足しているが、十分な浮力を得るには足りない。迫ってくる山の斜面を見遣りながら、縁も墜落に耐えられるように両足を踏ん張った。
「いったぁ〜………」
身体を強かに打ちつけたらしく、は弱々しく悲鳴を上げた。
“墜落”というほどの衝撃は無かったけれど、やはり斜面での不時着は衝撃が大きかった。木の無い所に突っ込んだのが良かったのだろう。気球そのものには大した損傷は無い。
縁も何とか無事である。の下敷きになっても目立った外傷が無いというのは、相当頑丈にできているようだ。
「………重い………」
の尻に敷かれてうつ伏せに倒れている縁が、苦しげに呻いた。大した怪我は無くても、に乗っかられたままというのはきつい。
「失礼ね! これくらいどうってことないでしょ!」
いつものように怒鳴り付けると、は憤然として立ちあがった。あんなことがあってもすぐにいつも通りなんて、お嬢様育ちの割には頑丈にできているようだ。
怒るより先に謝れと思うが、にそういう当たり前のことを期待するのが無駄なのかもしれない。この女のことは無視して、先のことを考えるのが、縁の精神衛生にも良さそうだ。
起き上がろうとすると関節が痛む。に潰されたせいに違いない。本当にこの女は、いつでも何処でも縁を傷めつけてくれる。
「山道からかなり外れてるみたいだな………」
周りは鬱蒼と木が茂っていて、人の手は全く入っていないようだ。中腹だから暗くなる前に街に出られると考えていたが、この分では難しいかもしれない。
縁だけなら森の中を一気に駆け降りるのは可能だ。問題は、厄介な大荷物である。舗装された道すら碌に歩かないこの女を連れての下山となると、下手すると遭難だってしかねない。
もうを捨てて自分だけで山を降りようかと、縁は人でなしなことを考えてしまう。この女を連れて歩くのもきついが、確実に一緒に野宿というのがもっときつい。相手は柔らかなベッドでしか寝たことがない人間だから、あの金切声で不満を爆発させるに違いないのだ。
そのことを想像すると、まだ何もしないうちから縁はぐったりしてしまった。ただでさえきつい状況なのに、の面倒まで見るなんて無理過ぎる。
項垂れる縁を見て、は何を勘違いしたのか、偉そうに言い放った。
「このことはお父様には黙っててあげるわ。さ、行くわよ」
どうやらは、この不時着は縁のせいだと思っているらしい。自分の行動はすっぽりと抜け落ちているようだ。
確かに縁にも落ち度はあったかもしれないが、元はといえばが急激に気球を上昇させたせいではないか。が横から手を出さなければ、縁の予定通り、町外れに着陸出来ていたはずである。
いつもならの戯言など聞き流す縁だが、これには黙ってはいられない。顔を上げて怒鳴りつけてやった。
「お前が横から要らんことするからだろうが! 俺のせいにするな!」
「何よ、私のせいなわけ?!」
は心外そうに目を丸くした。そんな顔をするなんて、縁の方がびっくりだ。
少しくらい済まなそうにすれば縁も責任を感じただろうが、こうなると意地でも自分の非は認めたくない。全面的にが悪い。
「自分のせいだと思ってないことがびっくりだよ! 何なんだよ、お前はっ!」
「それはこっちの台詞よ! 信じられない!」
「それこそこっちの台詞だ!」
本当に、の性格は縁の想像を超えている。ここまで酷いとは思わなかった。
これを助けてやらなければならないのかと思うと、縁は自分が気の毒になってきた。本当に、許されるなら此処に捨てて行きたい。
を連れて無事に下山できるのか。まだ一歩も歩いていないうちから、縁は気が重くなった。
気球の操縦は難しいはずなのに、どうして縁は操縦できるの? という疑問から、この展開になりました。縁、このお嬢様の相手をしながら、着実にスキルアップしています(笑)。
風に逆らわずに飛ぶ気球は、髪や服が乱れないということから、お洒落好きな貴族やお金持ちに愛された乗り物です。まあ、天候に左右されやすいので、気球日和をのんびり待てる金と時間に余裕がある人しか乗れないのですが。雨は駄目だし、晴天だとサーマルが吹くこともあるので、薄曇りの日が最適なのだとか。
次回は二人で山歩きです。縁の苦労はまだまだ続くよ(笑)。