ほめれば伸びるタイプなの。

 左手をの背中に回し、右手は彼女の手に添えるように握る。身体をぴったりとくっつけて、下半身など殆ど密着状態だ。
 これでは何だか恋人同士のようである。この女とこんなに密着する羽目になるなんて思いもしなかった。
「………近くないか、これ?」
「そう? こんなもんでしょ」
 引き攣り顔の縁とは反対に、は上機嫌だ。縁と話していてこんなに機嫌が良いのは、多分初めてのことだろう。
 英語地獄が終わったと思ったら、次はワルツの特訓である。週末に舞踏会があるのだそうだ。
 幸い、ワルツは前の仕事の時に少しだけやったことがあるから、英語ほどの苦労はなかった。に怒鳴れれることも無いから、縁も多少は気分が良い。
 それにしても英語はともかくとして、付き添い人にワルツの練習が必要なのだろうか。舞踏会では他の招待客がの相手を務めるはずだ。
 ダンスというのは大っぴらに二人の世界に入り込める貴重な時間である。“王子さま”を待っているには、縁と踊っている暇は無いだろう。
「あんたがダンスができるなんて思わなかったわ。意外とやるじゃない」
 この屋敷に来て、初めて褒められた気がする。倭刀術が得意だと言ったときとは大違いである。
 性悪な女ではあるが、褒められれば縁も悪い気はしない。怒鳴られてばかりの英会話の練習よりは力が入るというものだ。
「前の仕事で少し習ったからな。でも、俺がワルツの練習をする必要があるのか?」
「私のエスコート役はワルツも踊れませんなんて、恥ずかしくて言えないじゃない」
 またのしょうもない見栄のためらしい。表面ばかり取り繕って社交界に出て、本当に楽しいのだろうか。奇跡的に“王子さま”が現れても、これではすぐにボロが出て逃げられそうだが。
「使用人なんだから、別に良いだろ」
「何言ってるの。あんたも招待客なのよ」
 は今更のように驚いてみせたが、これには縁の方が驚いた。そんな話は一言も聞いていない。
 思わずダンスを中断してしまった縁に、は言葉を続ける。
「使用人がパーティーに出られるわけがないじゃない。お父様があんたのことを、私の婚約者ってことにしてるから、出席できてるのよ」
「えっ?!」
 そんな話は初耳だ。お嬢様の護衛としてこの屋敷に入ったはずなのに、いつの間に婚約者になっているのか。そういえば此処に来た初日に、親子の杯を云々と言っていたが、まさかあれがそうだったのか。
 武器商人の娘に婿入りというのは成り上がりへの第一歩ではあるが、相手が悪すぎる。不細工や年増なら金のためと思えば我慢できるが、性悪は無理だ。
「いやいやいやいや無理無理無理無理!」
 ぱっとから離れて、縁は全力で拒絶する。失礼だとかそんなことを考える余裕など無い。これは縁の一生の問題なのだ。
 流石にこれにはもむっとして、
「それ、こっちの台詞だから。本当にそんなことになったら、舌噛み切って死ぬし」
「違うのか?」
「当たり前でしょ。私には王子さまがいるのよ」
 に王子さまがいるのかは知らないが、その言葉に縁は一先ず安心した。ただでさえ碌でもない人生なのに、こんな女に破壊されたらたまらない。
 しかし社交の場で縁が婚約者ということになっていると、王子さまへの道のりは遠くなってしまうのではあるまいか。売約済みの女には手を出さないのが紳士というものである。
「婚約者がいる女に王子さまは来ないぞ」
「王子さまが現れたら婚約破棄したことにするから、ご心配なく」
 婚約破棄なんて傷物扱いになりそうなものだが、は平然としたものだ。
「婚約破棄した女なんて………」
「二〜三回の婚約破棄なんて普通よ。離婚するわけじゃないもの」
 どうやら社交界には縁には理解し難い常識があるらしい。
 それにしても縁が婚約者に仕立て上げられていたとは。父親が「娘に悪い虫を寄せ付けたくない」と言ってはいたが、あまりにも斜め上なやり方だ。
 “婚約破棄”は縁の有責ということにされるのだろう。性悪女の相手をさせられたり、経歴にあらぬ傷を付けられたり、散々な仕事だ。
 婚約破棄の際にはゴネられるだけゴネて、二度と社交界に出られないくらいに話を大きくしてやろうかとも思ったが、そうなる前に父親に消されそうな気もする。仕方がないので、土段場で王子さまに逃げられろ、と縁は呪いをかけておいた。





 前回の夜会も雰囲気に圧倒されたが、今夜の舞踏会はそれ以上の規模のものだ。個人が主催するもののはずだが、出席者は数百人はいるだろう。
「みっともないから、きょろきょろしないで」
 唖然としている縁に、が横から小声で窘める。
 きょろきょろしているつもりは無いが、この人数でダンスをやるのかと思うと、縁は緊張してきた。最中に誰かにぶつかったりでもしたら、の鉄拳が飛んできそうだ。
「この人数でやるのか?」
 この広さで全員がダンスをやるとなると、会話なんかよりぶつからないように気を配るので手一杯になりそうである。が練習の時にあんなにくっついていた理由がよく解った。
 は落ち着いた様子で、
「これくらいは普通よ。ダンスホールでの公式な会なら、この倍はあるんですって。私も出席してみたいわあ」
 女王陛下主催の舞踏会でも想像しているのか、後半からの目はきらきらしている。のような身分の女が王族や貴族の舞踏会に出席できるわけがないのだが。
 これより大規模な舞踏会なんて、縁には想像もつかない。そんなに人が集まる空間なんて、その熱気だけで酔いそうだ。
 広間の中心に、今日の主賓と屋敷の女主人が進み出た。舞踏会の始まりである。
 華やかな楽曲と共に、主賓と女主人が先陣を切って踊り始める。それに続き、招待客も踊り始めた。
「さ、私たちも行くわよ」
 に促され、縁は彼女の手を引いて広間の中心に向かった。
 一曲目は時計回りのステップのようである。これは基本だから、縁も得意だ。
「そうそう、その調子」
 出だしが好調で、は御機嫌だ。いつもとは別人の笑顔で囁く。
 眉間に皺を寄せた顔か作り笑いしか見たことがなかったから、本気の笑顔に縁は驚いた。こういう風に笑えば、だって年相応に可愛らしく見えるのだ。性格が残念なせいで顔立ちまで残念に見えていたが、こうしていればそこそこ可愛い顔ではないかと思えてくる。
 余計な世話かと思ったが、今後のために縁は一言言ってみた。
「お前、普段からそうしていれば、王子さまも見つかるんじゃないか?」
「………な、何よ、いきなり?」
 はぱっと頬を染める。年相応に照れることもあるらしい。
「日頃が残念すぎるから気付かなかったけど、笑えばそれなりに可愛―――――痛っ!!」
 せっかく褒めてやったのに、思いっ切り足を踏まれてしまった。しかも踵に全体重をかけて踏みつけてくるのだから、その痛みは半端ではない。
 悶絶する縁に、はしれっとして、
「あら、失礼。残念なステップだから、思わず踏んじゃったわ。悪気は無いのよ」
 悪気どころか、あの一踏みには憎しみが込められていた。靴を脱いだら内出血しているに違いない。
 のことを一寸可愛いかもしれないと思ったが、どうやら縁の勘違いだったようだ。やっぱり性悪だと再確認した。





 休憩を挟みながらの十数曲に及ぶ舞踏会は日付を跨いだ深夜に閉会した。あと何時間もしないうちに夜明けである。
 今回は何とか無事に乗り切ることができた。会話もダンスも、短期集中特訓の割には上手くいったと縁は思っている。
 も満足の出来だったようで、帰りの馬車の中でも上機嫌だ。
「やればできるんじゃない。次もこの調子でお願いね」
「次もあるのか………」
 予想はしていたが、これがこれからも続くのかと思うと、縁はうんざりする。の王子さまが現れるまで、この馬鹿馬鹿しい茶番が続くのだ。一日も早く王子さまが来てくれないものかと、縁は祈らずにはいられない。
 明け方近くまで続く舞踏会は、縁にとって想像以上に重労働だった。十数曲にも及ぶダンスは勿論、休憩室での社交も、全方位に気を遣いすぎて、神経が擦り減る思いがした。これが楽しいなんて、上流階級の人間の感覚は解らない。
「慣れれば楽しいわよ。あんた、他の御婦人方にの評判が良かったんだから」
「あー………」
 は上機嫌に褒めるが、縁の気分は微妙だ。どうせ“御婦人方”というのは年増なのだ。
 同じ相手と四曲以上踊るのはマナー違反ということで、縁も以外の女と踊ってみたのだが、何故か年増しか誘ってこなかった。これはきっと、何かの陰謀に違いない。ちなみには、若い男と楽しくやっていたようである。
「休憩室で、レディの皆さんからいろいろ訊かれたのよ」
 休憩室は男女別になっているから様子は分からないが、どうせ碌でもないことに決まっている。女は下らない噂話が大好きなのだ。
「年季の入ったレディだろ」
「若い人もよ。次はあんたからも誘ってあげなさいね。噂の的を連れて歩けるなんて、鼻が高いわぁ」
 初めて会った時は酷い言いようだったくせに、縁が話題に上るようになったら態度が変わりすぎだ。縁はの装飾品ではない。
 しかし若い女の話題に上るというのは、縁も悪い気はしない。の様子を見るに、好意的だったのだろう。やはり本物のレディは見る目が高い。
「うん……まあ、考えておく」
 縁も男であるから、若い女がお誘いを待っていると言われれば、やる気が出てくる。気乗りしない風を装いながら、口元が緩んでしまうのは隠せないのだった。
<あとがき>
 社交の最盛期の舞踏会では、個人主催のものでも二百〜五百人規模で行われていたとか。そして大体、午前三時頃に閉会していたそうです。深夜までお疲れ様です。
 十九世紀イギリスを舞台にした『エマ』という漫画の中で、「婚約破棄なんて恥じゃないわ。私なんて四回目で決めたのよ」というような台詞があったので、主人公さんの“婚約破棄”も社交界では問題にはならないのではないかと思います。宗教と純潔思想の関係で、結婚まではかなり慎重な時代ですからね。だからといって、縁には何の救いにもなりそうに無いんだが。っていうか、全力で拒否りすぎだろ(笑)。
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