ひとの話を聞かんかい。

 言語を習得する一番手っとり早い方法は、その言語しか使えない状況に身を置くことである。その言語でなければ日常生活も儘ならないとなれば、必死にならざるを得ない。
 それは縁も同感だ。実際、彼もそうやって上海語を覚えた。しかし、上海語が公用語のこの土地で、英語しか使うなというのは無茶苦茶だ。
「そこまでやることないだろ。まず、基本を押さえてだな―――――」
『上海語は使わない!』
 つんざくような金切り声で、は眦を吊り上げる。
 そんなことを言われても、基本的な会話すらまだ理解できていない縁には、何を言っているのか解らない。“not”と“Shanghai”が入っているから、「上海語を使うな」というようなことを言っているのだろうと推測するくらいだ。
 とりあえず辞書を開いて、文章を組み立てる。
『英語は解らん。此処は上海だ』
『辞書を引きなさいよ。出来ないのは根性が無い証拠よ』
「………………」
 何を言っているのか、縁には全く解らない。ふんぞり返っているの様子で、何となく偉そうなことを言っているのを察するくらいだ。
 いきなり英語で日常生活というのは、恐ろしく効率が悪いような気がするのだが、は何とも思わないのだろうか。自然に覚えると思っているのなら、縁の能力を買いかぶりすぎだ。
 何か言ってやりたいが、何を言っていいのか分からない。縁の英語力では、表現に限りがある。とりあえず、今のの発言すら理解できないのだ。
「今、何て言った?」
『英語で言いなさい』
 また英語である。意地でも英語しか聞き入れないつもりらしい。
 また縁は辞書をめくる。
『今、何て言った?』
『これじゃ、先が思いやられるわ』
 が盛大に溜め息をついた。溜め息をつきたいのは縁の方だ。
 ただでさえとの会話は疲れるのに、こんな効率の悪い会話では疲れも十倍増だ。は本気でこれを続ける気なのだろうか。見栄のためとはいえ、ご苦労なことである。それに縁を巻き込まないでもらいたい。
 これからずっとこの調子かと思うと、縁は胃が痛くなってきた。





 英語のみの会話となると、自然と縁の口数は少なくなる。まだ基本的な単語すら覚えていないのだから、話しようがないのだ。しかも、辞書を引いてまで話したいと思うほど、は縁にとって魅力的な女ではない。
 というわけで、と一緒にいても、自然と沈黙が長くなる。同席している侍女が気まずそうなのは気の毒に思わないでもないが、仕方がない。
 黙り続けている縁の様子に、は苛立っているようだ。会話の練習にならないのだから、当然である。
『何か話しなさいよ。これでじゃ練習にならないわ』
 が怒っているのは縁にも理解できるが、何を言っているのかは相変わらず理解できない。きっと悪口を言っているのだろうとは思う。
 朝からずっと考えていたのだが、のやり方は間違っている。縁が上海語を覚えられたのは必要に迫られたこともあるが、最低限の言葉は彼を拾った日本人家族が教えてくれたからだ。何も無い状態から喋れと言われても、喋れるわけがない。
 今だって、が何を言っているのかも解らない。話すのも解らない、相手の言っていることも解らないでは、会話の成立のしようがないではないか。
「大事なことだから上海語で話すが―――――」
『英語で話しなさいってば』
 これは縁も理解できたが、構わず上海語で続ける。
「お前が言ってることが解らないのに、どうやって話をするんだ? 会話以前の問題だろ」
『根性出しなさいよ。こっちは出来るだけ簡単に話してあげてるのよ』
 は相変わらず英語である。もう意地になっているのかもしれない。
「だから何言ってんのか解らないって言ってるだろ!」
 縁は思わず大声を出してしまった。が、は平然としたものである。父親が父親だから、娘も神経が太いのだろう。
 は脇に置いている辞書を取って、縁の前に叩きつける。
『これを全部頭の中に入れれば済むでしょ! さっさと覚えなさいよ。何日かかってんのよ。このウスノロ!』
 何を言われたのか解らなかったが、不思議なことに最後に罵倒されたことだけは、縁にも理解できた。何語であっても、罵倒語というのは生理的に不快感を与えるものらしい。
 一応、こんな女でも主人であるから大人しくしておこうと思って今日まできたが、もう我慢ならない。
 縁も負けずにの前に辞書を叩きつける。
「ふざけるな! やってられるか、馬鹿馬鹿しい!」
 お嬢様の見栄のためにここまで付き合ってやる義理は無い。縁の本来の仕事は、お嬢様の護衛なのだ。まあ、こんな女、守ってやる価値もないが。
 人生初ともいえる他人の反撃に、は唖然としている。何もかも自分の思い通りになると信じて疑わない女には、良い薬だ。
 せっかくだから、の大好きな英語で罵倒してやる。
『あんまりいい気になるなよ、この馬鹿女』
 辞書を引きながらでは迫力に欠けるが、の怒りに火をつけるには十分だったらしい。の顔が見る見る赤くなる。
 金切り声のような意味不明の声を上げながら、は縁に辞書を投げつけた。顔を狙わなかったのはせめてもの配慮だったのかもしれないが、あの分厚い辞書を胸に投げつけられるのは、かなり痛い。
 相手が男なら縁も殴りつけて大乱闘というところだが、流石に十五の小娘には無理だ。どんなクズみたいな女でも、女を殴るのは生理的に無理なのだ。
 この女とは、生理的に無理なことが解った。契約期間はまだ残っているが、もう限界だ。
「もう我慢できん! 他の男を探せ!」
 叩きつけるように怒鳴ると、縁は部屋を出ていった。





 あれだけやれば、普通にクビだろう。十五の子供に大人げ無かった気もしたが、あれくらいやらなければ、には通じない。
 世の中には自分の思い通りにならない相手がいて、態度によっては激怒するということを学べただけでも、には大きな一歩だろう。それを今後に生かせるかは、本人次第だが。
 収入源が無くなるのも、父親の伝を失うのも、縁には大きな痛手だが、あの英語地獄から解放されると思えば、気は楽だ。あの女のご機嫌を伺って出世するより、その辺でチンピラでもやっているのが性に合っているのかもしれない。
 父親にいつクビを言い渡されても良いように荷造りでもするかと立ち上がると、いきなりが入ってきた。
 いくら使用人とはいえ、ノックも無しに入ってくるとは、不躾な女である。家族以外は人間扱いしない、この国の嫌なところがあからさまに出ている。
「何だよ?」
 縁はを睨みつける。
 ノックもせずに部屋に入ってくるのも、憮然とした表情も、が謝罪にきたわけではないことは一目で判る。まだ言い足りないのかと、縁はうんざりした。
 の見栄に付き合わされるのも、強制英会話もうんざりだ。もともと縁には“白馬の王子様”なんて無理だったのだ。次は口が巧くて英語のできる男を探すべきである。そんな男は、もっと条件の良いところで働くだろうが。
「英会話、辞書の中身を覚えるまで、待ってあげても良いわよ」
 相変わらず上から目線だが、なりの譲歩なのだろう。この女が譲歩するなんて信じられないことだが。
 これには絶対裏があると縁が警戒していると、は渋々言った。
「お父様が、あんたで我慢しなさいって言うから仕方ないでしょ。今更別の男にエスコートさせても、変な噂が立ったら困るし………」
 まあ、未婚の娘のエスコート役がころころ変われば、人目は引くだろう。縁は特徴のある男だから、変わったら一目瞭然だ。
 それなら「辞めないで」とお願いするのが筋だろうが、にはそういう発想は無いらしい。頭を下げたら負けたと思っているのかもしれない。
「ま……そう言うならな………」
 縁の部屋にわざわざ来たくらいだから、少しは反省してると思う。それがいつまで続くかは判らないが。
 英会話を学ぶことについては、縁もそれほど嫌ではないのだ。先々のことを考えれば、役立つ日が来るかもしれない。がやり方を改めてくれれば、それなりにやる気はある。
 とりあえず屋敷に残る流れになって、の顔が明るくなった。そして隠し持っていた辞書を出す。
「じゃあ、これ。今週中に覚えてね」
「はぁあっ?!」
 今週中って、あと三日しかないではないか。それでこれを覚えろというのは無茶すぎる。
「時間が無いのよ。来週からまた英語だけで話してもらうから」
 時間が無いというのは、次のパーティまでの時間なのだろう。それまでに習得とは無理すぎる。
 あんなにキレたのに、は何を見ていたのか。他人のことはすべて右から左だなんて、羨ましい性格だ。だからこんな女になったのか。
「今度はしっかりやってよね。出来なかったら許さないんだから」
 無理に決まっているのに、はできて当然という態度だ。一寸譲歩したから、縁には受け入れる義務があると思っているのだろう。
 一度キレてみたところで、この性格は一生に直りそうにない。此処にいると白髪を通り越して脱毛するのではないかと、縁は心配になってきた。
<あとがき>
 たしかに無理矢理英語の環境に放り込めば、多少は早く覚えるんだろうけど……某IT企業は社内公用語が英語らしく、大事な話は「ここからは大事な話なので日本語で失礼します」と断って話しているそうです。
 まあグローバル化する世界ですから、英語はできた方が良いだろうけど、その会社の顧客って日本人が殆どじゃね?
 縁もパーティーオンリーの英会話じゃ、やる気出ないと思うよ。もっと人生に役立つ英会話を教えてやらなくちゃ。がんばれ、主人公さん(笑)。
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