あなたとはいたしません。
「そろそろお父様に挨拶してもらわなきゃね」またがおかしなことを言いだした。
の父親には毎日会って、挨拶もしている。いくら広いとはいえ、同じ屋敷に住んでいるのだから当然だ。
「俺が毎日顔を合わせているあの男は、父親じゃなかったのか?」
「なに馬鹿なこと言ってるの? あれがお父様じゃなかったら大変でしょ」
は心底呆れた顔をする。まあ、あの男がの父親でなかったら、家庭崩壊であろう。
そうなると、ますますの言うことが訳が分からなくなる。縁が毎日顔を合わせているのはの父親で間違いないはずなのだが、それならば誰に挨拶しろというのか。
「………おれは誰に挨拶すればいいんだ?」
「だからお父様よ。人の話聞いてた?」
まるで縁が一方的に悪いように苛立っているが、これはどう考えてもが悪いだろう。江西が父親と毎日会っているのは彼女も知っているのだし、その上で改めて父親に挨拶してほしいなんて、訳が分からない。
「あれがお前の父親なら、毎日会って挨拶してるぞ。さっきも昼飯で一緒だったじゃないか」
「そうじゃなくって!」
の苛々が頂点に達したのか、テーブルをバンバン叩く。以前なら叩かれるのは縁だったのだから、大した進歩である。
どんな人間でも成長するものだと感心する縁に、は続けていう。
「私たち婚約するんだから、その挨拶をするの! 常識でしょ!」
「は?」
そんな話、縁は初耳である。婚約というのは結婚の約束のことだと思うのだが、そんな話は一度もした覚えがない。しかしの言い方では決定事項のようで、どこでそんな話になったのか首を捻ってしまう。
まあ、これはのいつもの病気なのだろう。さっきまで彼女の成長に感心していたが、やっぱり取り消しだ。は何一つ成長していない。
「婚約者のふりをするのはお前の父親から依頼されたんだから、今更―――――」
「ふりじゃなくて、本当にするの!」
惚けて逃げようとしたが、やっぱり駄目だった。
本当に婚約したいなんて言い出すとは、の気まぐれにも困ったものである。どうせ例のゴミみたいな恋愛小説に“婚約者”という言葉が出てきて、自分も欲しくなったのだろう。
金で買えるものなら何を欲しがろうと構わないが、今回ばかりは縁の人生がかかっているのである。はいそうですかと承知するわけにはいかない。縁だって一応、結婚には理想を持っているのだ。
「断る。そこまでの給金は貰ってない」
「ひどい! 私のこと、お金目当てだったの?!」
何だか会話が噛み合っていない。
婚約者というのはあくまでも“ふり”で、が飽きるまでの期間限定の仕事だと、縁は認識している。の父親もそう言っていた。仕事なのだから、金目当てといえば金目当てだろう。
「そりゃそうだ」
「なっ………!」
何故だか解らないけれど、には縁の返事は予想外のものだったらしい。紅いを通り越して赤黒い顔で、息が止まったように絶句する。
縁とのことは“白馬の王子様”が現れるまでの繋ぎで、あくまでも仕事だけの関係だということはも承知しているはずだ。しかし、使用人が逆らったことに対する怒りにしては反応が激しすぎる。もしかして、本当に婚約するつもりでいたのだろうか。
しかしが本当に縁を婚約者にしたいと思っていても、まずあの父親が許さないだろう。父親は自分の利益になるような男と結婚させたいと思っているに決まっている。そうでなくても、金持ちと結婚させようと考えているだろう。どこの馬の骨とも知れぬ縁などお呼びでない。
般若のような顔のに、縁は説得するようにゆっくりとした口調で言い聞かせる。
「考えてもみろ。お嬢様のお前と使用人の俺じゃ、お前の父親が許すはずがない。仕事でやってるから、“婚約者”なんて言ってられるんだ」
「………………」
現実を認識したのか、の顔から赤みが消えた。今頃になって気付くというのもどうかと思うが、世間知らずのお嬢様というのはそういうものなのだろう。
これで解決と思いきや、は何やら考え込みだした。こういう時は大体、碌なことを考えていない。
何を思いつくのかと戦々恐々の縁をよそに、は何か閃いた顔をした。
「じゃあ駆け落ちすればいいのよ!」
「………そうきたか………」
碌でもないことを思いつくだろうと予想していたら、本当に碌でもないことを思いついた。想像以上の碌でもなさに、縁はもう突っ込む気力もない。
駆け落ちなんてどこで覚えてきたのかと思うが、まあ例の恋愛小説なのだろう。あの手のものは馬鹿に読ませてはいけない。まとめて焚書にしてもらいたいところだ。
げんなりしている縁とは対照的に、は生き生きとして計画を話し出す。
「駆け落ちをしたら、きっとお父様も私たちの本気が伝わるわ。そうね、行き先は山荘辺りがいいかしら。今は誰もいないし、駆け落ちにはちょうどいいわね。そうと決まったら管理人に連絡して、掃除と食糧の準備をさせなきゃ」
駆け落ちという割には、は父親の山荘を使うつもりでいるらしい。親の山荘で至れり尽くせりの駆け落ちなんて、ただの旅行ではないか。これがお嬢様の限界といったところか。
馬鹿馬鹿しさのあまり、縁は盛大に溜息をついた。
「親の別荘に駆け落ちなんて聞いたこともない。ああいうのは普通、誰も知らない土地に行くもんだろう」
「そうなの? でもそれじゃ、お父様が許しても分からないじゃない」
はきょとんとする。
小説ではどういう風に書かれているのか縁は知らないが、が駆け落ちというものをよく理解していないことだけは解った。とんでもない言葉を知っている耳年増な割に、意外にも物を知らないらしい。
縁も駆け落ち事情には詳しくはないけれど、親の許しをもらうのを前提とした駆け落ちというのは、あまりないと思う。ああいうのは多分、絶縁をするつもりでやるものだ。
「親の反対を押し切って一緒になりたい奴らがやるんだから、はなから許しなんて貰う気なんか無いと思うぞ」
「そっかぁ………」
あてが外れてたと思ったのか、はまた何やら考え込む。
親の別荘に駆け落ちしようなんて甘ったれた考えの女で助かった。保護者がいなければ一日だって生きていけないのだから、これくらいがちょうどいいのだろう。
父親の許しを得られないのはまず確定なのだから、この話はお流れということでいいだろう。この女とこれから一生付き合っていくとなったら、縁の人生は始まる前から終わったも同然だ。縁は心底ほっとした。
が、ほっとしたのも束の間、がまたとんでもないことを言い出した。
「そっちの方が小説みたいで素敵だわ! じゃあどこにする? 蘇州とか桂林とかいいいわね。あ、思い切って北京にする? 私、一度行ってみたかったのよねぇ」
「は…ははっ………」
考え込んでいると思っていたら、妄想に酔っていただけだったらしい。ここまで馬鹿だと、縁も乾いた笑いが出てしまう。
駆け落ちというのはもっと悲壮感が漂っているものだと思っていたのだが、の話を聞いていると物見遊山のようである。家を飛び出して、それから先の生活はどうするのかとか、家に連れ戻された場合はどうなるのかとか、そういう現実的なことは全く頭にないのだろう。
こんなお気軽な駆け落ちに付き合わされたのでは、縁はたまったのもではない。しかもは変に行動力のある馬鹿だから、下手すると今夜にでも家を飛び出しかねない。気は進まないが、縁が父親に挨拶とやらをしないと収まらなさそうだ。
「駆け落ちは、俺がお前の父親と話してから考えればいい。いきなり波風を立てるようなことはするな」
「じやあ今から一緒に行きましょ。お父様、きっとびっくりするわ」
「えっ………」
問題を先延ばしにするつもりが、は大はしゃぎである。まさか今すぐとは思わなかった。
話の流れで挨拶をするとは言ってしまったものの、縁はと婚約するつもりなど毛頭ない。父親と話はするが、それは口裏合わせの相談をするだけで、が一緒ではそんな話ができないではないか。
これはまずいことになってしまった。が望むように動けば、確実に縁は消される。かといって正直な気持ちを話せば、おそらくに半殺しにされるうえに、娘を誘惑したと父親から更に半殺しである。どっちにしても文字通り人生終了だ。絶体絶命の危機である。
「いや……今すぐというのは……心の準備とか………」
自分でも分かるくらい全身に冷や汗をかきながら、縁はどうにか言葉を絞り出す。この期に及んでまだ先送りかと自分でも嫌になるが、いい案が思いつかない。
それでも押し切られたらどうしようかと思ったが、意外にもは納得したらしい。
「そうね。いきなりじゃ、縁も何言っていいか分かんないもんね」
縁の冷や汗も消極的な態度も、緊張のせいと解釈したらしい。は可笑しそうに笑った。
今日のところはこれで何とかなったけれど、問題は明日からである。きっと明日になれば、の矢のような催促が待っているだろう。波風を立てないつもりが、余計にややこしいことになってしまった。
「……どうしよう………」
この危機的状況を乗り切る方法がどうやっても思い浮かばない。縁は思わず日本語で呟いた。
やっと終わりが見えてきました。縁には人生の終わりが見えてそうだけど(笑)。
縁は逃げ切りたいようだけど、上手くやれば逆玉なんだから妥協すればいいのに……。若くて金持ちで見た目も悪くないし、多少難ありなくらい……やっぱ無理か(笑)。