悪いけどこの恋は逃がさん。
すぐに飽きるかと思っていたが、の優しさはまだ続いている。ひょっとして心を入れ替えたのではないかと期待しそうになるが、多分そんなことは無いだろうと思い直すことの繰り返しだ。我ながら疑り深いとは思うけれど、のこれまでの態度を考えれば、用心深くなるのも仕方が無い。それに、のあの優しさは、どうも芝居がかっている。の口から出る言葉は、彼女の大好きな恋愛小説に使われていそうな台詞ばかりなのだ。縁にどう接していいのか分からないから恋愛小説を参考にしているにしても、あんな嘘くさい台詞を連発していては逆効果である。
「縁ってどういう女の人が好みなの?」
何をやっても縁の態度が変わらないことに業を煮やしたが、苛立ったように訊いてきた。やっと恋愛小説のような台詞は効かないと解ったらしい。
好みの女と問われても、縁も困ってしまう。淑やかで穏やかで家庭的で心も優しく―――――要するに姉の巴のような女である。とは正反対であるし、仮に真似できたとしても嘘くささ満点だ。
「まあ……お前じゃないことは確かだな」
「何ですってぇ!」
正直に答えたら激怒されてしまった。しかしこれが縁の本音なのだから仕方が無い。
「じゃあ訊くが、お前は俺のどこがいいんだ?」
縁の質問に、は一瞬言葉に詰まった。これがの正直な答えということなのだろう。
だって、周りに自慢できる男なら、縁でなくてもいいはずなのだ。本当は白人の貴族辺りを狙いたいのだろうが、無理そうだから縁で妥協したのだと思う。
答えないに、縁は勝ち誇ったように、
「ほらみろ、お互い様じゃないか」
「そ……そんなことないわよ! 今考えてるから黙って」
「今から考えるのかよ………」
正直なのはの最大の美点なのかもしれないが、もう少し取り繕うことを覚えてもらいたいところだ。
「ほら! せっかく思いついたのに、話しかけるから忘れちゃったじゃない!」
何だか分からないが、縁のせいにされてしまった。要するに適当な答えが思い浮かばなかったのだろう。
そんなにどうでもいい男相手に必死になるなんて、そこまで見栄を張りたいのか。感心するけれど、その努力はもっと建設的な方向に使ってもらいたい。
「それなら他の奴狙えって」
「うるさい! 私に指図するな!」
無理に縁の相手をしなくてもいいと言っているのに、は意地になっているようだ。というか、もう元のに戻っている。
元に戻った上に粘着されたら、縁の身がもちそうにない。これは早急に何とかしなければ。
優しくしてやっても、恋愛小説を参考にしても、まったく縁は靡かない。ある意味、軸がブレない男である。
それならば、そんな女が好みかと訊けば、以外の女などとふざけたことを言う。若くて可愛くて金持ちのが好きになってやると言っているのに、可愛げの無い男だ。
もしかして、縁は若い女が苦手なのだろうか。香蘭に囲われていた時期もあるのだし、実は年増好きという可能性もある。否、がこんなに好意を示してやっているというのに無関心というのは、年増好きに違いない。
となると、年増女の魅力とは何かを考えなくてはならない。の持っている小説によると、年上ヒロインの魅力は“色気”のようだ。あと、意外なところで見せるあどけなさと純粋さらしい。あどけなさと純粋さはも標準装備しているからいいとして、問題は“色気”である。
「………………」
は自分の胸に手を当ててみる。
胸の大きさで“色気”が決まるわけではないと思うけれど、の胸はちょっぴり―――――否、正直に言えばかなり慎ましいのだ。しかしはまだ成長途上であるし、希望はある。それに、もしかしたら縁は慎ましい胸に色気を感じる男かもしれないではないか。香蘭の胸が図々しい大きさなのは、この際忘れておく。
まあ胸の大きさはともかくとして、次はお色気作戦だ。若くて可愛い金持ちのに色気が加わったら、もう最強である。完璧超人過ぎて縁なんかには勿体無いくらいだ。
というわけで、まずは着替えの手伝いである。西洋では、夫や恋人である男がコルセットを締めるのだという。コルセットを締めてもらうには下着姿にならなければならないし、女らしい身体の曲線もドレスの上からよりはっきり分かる。これが西洋式のお色気作戦なのだろう。
「縁〜、一寸手伝って〜」
扉から顔だけ出して、は外に控えている縁に甘えた声で話しかける。
「何をだ?」
縁は相変わらす面白くなさそうな顔をしている。延々と外で待たされているのだから当然だろう。だが、お楽しみはこれからだ。部屋に入っての姿を見れば、きっと鼻の下を伸ばすに違いない。
「いいから、いいから」
期待に胸を膨らませて、は縁を部屋に引き込む。
が、部屋に入った縁の反応は冷ややかなものだった。
「何だ、まだ着替えてなかったのか」
「他に何か言うことあるでしょ?」
下着姿で立っているを見ても、つまらなそうな顔とは。思っていたのとは違う反応には鼻白んでしまったが、照れ隠しなのだろうと思い直す。考えてみれば、下着姿の女を見てデレデレする“白馬の騎士”なんているはずがない。
は気を取り直して、縁に背中を向ける。
「これ締めて」
「メイドに頼めよ」
「男の力で締める方が綺麗に締まるのよ」
「………………」
縁はますますつまらなそうな顔をした。が、反抗する様子は見せずにコルセットの紐を取る。
「じゃあ、大きく息を吸え」
が息を吸うと同時に、縁は彼女の尻に足を当てた。
「ちょっ………! 何するのよ?!」
使用人のくせに主人を足蹴にするとは何事か。しかも、レディの尻である。下着姿を見せはしたけれど、触っていいとは言っていない。
が、縁は平然として、
「うまく締めるのは、これが一番いいんだ。ほら、息を吸え」
「〜〜〜〜〜〜」
何が“一番いい”だ。どうせ助平心を隠しているだけだろう。まあ、助平心が湧き上がってきているのなら、の作戦は成功しているのだろう。
いい方に考えることにして、は改めて息を吸った。極限まで息を吸ったところで、縁は一気に紐を引いた。
「ぐぇっ………!」
内臓が潰されるのではないかと思うほどの勢いで締め上げられ、は思わず色気もへったくれも無い声を出してしまった。
本当に潰されるのではないかという極限まで締め上げた後、縁は手早く紐を結んだ。まるで職人のような見事な手捌きだ。
鏡を見ると、鞘の腰はこれまで見たこと無いほど細くなっていた。こんなに細くなるのかと自分でも驚くほどだ。
「何これ、凄い!」
確実に今までより2インチは細くなっている。まだ苦しいけれど、こんなに細くなるなら、作戦なんか関係なくこれからも縁に頼みたいくらいだ。
劇的な変化に感激しているに、縁は両手をぷるぷる振りながら、
「この調子で締め続ければ、もう少し細くなる」
「あんたにこんな特技があるなんて思わなかったわ」
コルセットを締めるのが巧い男は、西洋では引っ張りだこだと聞く。また自慢できることが増えた。これは、何としてでも縁をだけの“白馬の騎士”にしなくては。
ますます燃えるとは対照的に、縁は冷静に応える。
「ま、人生に無駄な経験なんて何一つ無いってことだ」
「………え?」
縁の発言に、の顔が強張った。
縁にコルセットを締める経験があるとしたら、相手は香蘭しかいない。やけに手馴れているから一寸おかしいとは思っていたが、わざわざ口に出すなんて無神経にもほどがある。
「またあの女の話?! あんな年増のどこがいいのよっ!」
ワルツにしろコルセットにしろ、縁の得意なことにいちいちあの女が絡んでいることに腹が立つ。の“白馬の騎士”なのに、香蘭の手垢でべとべとになっているなんて許せない。
教える手間が省けたと思えばいいのかもしれないけれど、そういうことではないのだ。縁のやることなすことにあの女の影がちらつくのだと思ったら、苛々するどころではない。コルセットなんか巧く締められなくてもいいから、縁の中から香蘭の記憶を消してしまいたいくらいだ。
「あんたは私の“白馬の騎士”なのよ! あんな女に関わることは忘れてよ!」
「無茶言うなよ………」
は真剣なのに、縁は呆れたように苦笑いを浮かべている。それが馬鹿にしているように見えて、はますます激昂した。
「無茶じゃない! 忘れる気が無いなんて、やっぱりあの女の―――――」
金切り声を上げているうちに、目の前が霞む。おかしいと思う間も無く、の目の前が真っ暗になった。
「―――――う………」
小さく呻き声を上げて、は薄く目を開けた。まだ正気に戻りきっていないらしく、目の焦点が合っていないようだ。
「いきなり倒れたから、びっくりした」
聞こえているのか分からないが、縁はソファに横になったままのに声をかけた。
毎度のごとくが癇癪を起こして、そのまま突然倒れたのだ。おそらく、コルセットの締めすぎによる貧血だったのだろう。感情が昂ぶりすぎて卒倒するレディがよくいるが、あれと同じである。
は無言のまま、視線を彷徨わせている。倒れた前後の記憶を手繰り寄せているのだろう。
「少し締め付けすぎたみたいだ。今からでも急げばパーティーに間に合うけど、どうする?」
普通なら卒倒した直後にパーティーなんて考えられないだろうが、相手はである。この女なら、這ってでも行くだろう。
が、の答は意外なものだった。
「………行かない」
「………医者呼ぶか?」
がパーティーに行きたがらないなんて、異常である。ただの貧血だと思っていたが、もしかしたら悪い病気なのではないかと思えてきた。
はむっつりとして、
「いらない。ほっといて。私の事なんかどうでもいいくせに」
そのまま縁に背を向けてしまった。何だかよく分からないが、拗ねているらしい。
加減せずにコルセットを締め上げたのが悪かったのだろうか。しかし一瞬とはいえ本人も喜んでいたのだから、それは無いと思う。それには、見栄のためなら死んでもいいくらいの勢いの女だ。貧血くらいどうということはないだろう。
「流石に倒れられたら、どうでもよくはないだろう」
正直、のことはどうでもいいと言えばどうでもいいのだが、それを言ってしまっては角が立つ。目の前で倒れられたら心配になるのも事実だ。
「それって、倒れなかったらどうでもいいってことじゃない」
また癇癪を起こすかと思いきや、の反応は大人しい。やはりまだ具合が悪いのだろうか。
「やっぱり医者を―――――」
「いらないって言ってるでしょ!」
心配しているというのに、何故かに枕を投げつけられてしまった。いつも通りに戻ったのはよかったが、これは酷い。
「心配してるのに何だよ!」
縁が怒鳴ると、はさっきまでの様子が嘘のように勢いよく跳ね起きた。
「何が“心配してる”よ! 私のことなんてどうでもいいくせに! 私よりもあの女が好きなくせに!」
「だから香蘭のことは好きじゃないって」
またその話に戻ってしまった。香蘭のことは昔の話なのに、どうしてそんなに拘るのか。大体、香蘭には最初から好きとか嫌いとかの感情は無い。
心底うんざりしている縁の顔がますますの怒りを刺激したらしい。
「名前で呼んでるし! あの女は“好きじゃない”で、私のことは“どうでもいい”んだ!」
「細かい奴だな………」
「あの女より細かいと思ってる! またあの女と比べてるんだ! うわーん!」
勝手に激昂して、勝手に泣き出されて、縁は困り果ててしまう。
に癇癪を起こされるのは慣れているが、泣き出されるのは初めてだ。しかも幼児でもないのに「うわーん!」なんて泣く女は初めて見た。
こんな大泣きしていては、縁が何を言っても聞きはしないだろう。とにかく落ち着かせるしかない。
「比べてない! っていうか、一度も比べたこと無いから!」
「私よりもあの女の方が好きなのは否定しないんだ。うわーん!」
何が何でもそっちに結論を持って行きたいらしい。縁は何度も、どっちも嫌だと言っているのだが。
こうなったら甚だ不本意ではあるが、の望む答を言うしかない。落ち着いたら、またはっきりと本当のことを言えばいいのだ。
覚悟を決めて、縁は口を開いた。
「あの女よりお前の方がいいから。」
「そんなの嘘! あの女は名前で呼ぶのに、私の名前は一回も呼ばないじゃない。やっぱりあの女の方がいいんだ。うわーん!」
はまだ不満らしい。名前だの何だの、本当に細かい女である。
「嘘じゃない! あの女よりの方がいいって!」
「本当?!」
いきなりの顔が明るくなる。さっきまでのは嘘泣きだったのかと思うほどの変わりようだ。
「本当にあの女より私のことが好き?」
ここで認めてしまえば、の“白馬の騎士”妄想が加速するのは確実。しかし、否定したらしたで、これまた面倒なことになるのは確実だ。またあんな大泣きされたらたまらない。
「う……うん」
楽なほうに逃げる人間は屑だと思っている縁だが、今回だけは楽な方に逃げたい。そうでないと、永遠に話が終わらない。
明らかに縁は逃げ腰なのだが、にはまったく目に入っていないらしい。目を輝かせて、ずいっと縁の方に身を乗り出した。
「じゃあ、縁は私だけの“白馬の騎士”ってことね?」
「そ……そうだな」
「やったあ! 嬉しい!」
ははしゃいだ声を上げると、縁に抱きつく。
の機嫌が直ったのは良かったが、問題はこれからである。この後どうやって軌道修正をすればいいのか考えると、縁は胃の辺りが重くなってきた。
史上最高にウザい主人公さんですが、書いてるうちに何か可愛くなってきた(笑)。慣れって凄いなあ。縁も感覚麻痺して可愛く思ってくれないものか。