この恋には無理がある。
縁が他の女に好かれていると知って以来、は掌を返したように優しくなった。他人に羨ましがられるようになって、やっと縁の価値に気付いたらしい。しかし今更優しくされても、嬉しいより気持ち悪さが先立ってしまう。こういうことの後は、必ずまた大きな掌返しが来るに違いないのだ。
「縁、お菓子でも食べない?」
は上機嫌にフルーツケーキの皿を出す。こんな高価な貸しはが独り占めするのが常だったのだが、今日は縁に分ける気になったらしい。こんなに優しいと、死期が近いのではないかと心配になるほどだ。
「………どうしたんだ?」
「一人で食べるより、一緒に食べる方が美味しいじゃない」
の言葉とは思えない台詞だ。こういう発想をすることすら、今までありえなかったことだ。
もしかして、は縁に惚れたのだろうか。女は恋をすると劇的に変わることがあるという。今では信じられないことであるが、あの香蘭にも可愛かった頃があったのだ。すれっからしの年増女ですらそんな頃があったのだから、若いなら尚更だろう。
しかし、これだけでが縁に惚れているというのは早計かも知れない。は、社交界の女たちに認められた縁に価値を見出しただけであって、彼そのものに好意を持っているかはまだ分からないのだ。
何しろはこれまで、縁を悉く否定してきたのだ。それがある日突然惚れるというのは、無理がありすぎる。これはきっと恋とかそういうのではなく、皆が欲しがるものを手に入れたいという欲求なのだと思う。
「このケーキ、フランスの有名店のなんですって。やっぱりお菓子はフランスよねぇ」
ケーキを切り分けながら、は楽しげに話す。何が“やっぱり”なのか縁には理解できないが、舶来ものは無条件にありがたいものだと思っているのだろう。
そんなことより、がナイフを持ってケーキを切り分けるところなんて初めて見た。こういう労働(にとっては“労働”なのだ)は、使用人か縁の仕事だと思い込んでいて、他人のために自分の手を使うなんて想像もできない女なのだ。
「どういう風の吹き回しだ?」
「何が? はい、どうぞ」
惚けているのか、は縁の問いを軽く聞き流してケーキの皿を渡す。
「お前がこうやってケーキを切ってくれるなんてね」
毒でも入っているのではないかと疑いたくなる、と言いたいところだが、刃物を持ったにその発言は危険だ。
同じケーキを切ったのだから、毒は入っていないとは思う。第一殺してしまっては、縁を連れ回して見せびらかすことができなくなってしまうではないか。
はご機嫌な様子で、
「さあ、いただきましょう。縁に食べさせたくて取り寄せたのよ」
「………………」
今までのにはありえない台詞に、本当にこれはなのかと疑いたくなる。縁を連れ回して見せびらかすために手懐けようという作戦なのだろうが、ここまで態度を変えられると不気味だ。
やはりこの豹変は恋なのだろうか。脳内お花畑な女であるから、縁が“白馬の騎士”なんて言われているうちに、その気になったのかもしれない。しかし―――――
やはりこの理屈には無理がある。が求めているのは、“王子さま”であり、“白馬の騎士”だ。こいつらは多分、育ちが良く、教養があり、何より金がある。縁にはそのどれも無い。以前のが腹を立ててばかりいた理由の九割がこれと言ってもいいくらいなのだ。これを綺麗さっぱり忘れるなんて、いくらの頭がお花畑でもありえない。
「食べないの? 美味しいわよ」
縁はケーキどころではないというのに、は能天気なものだ。上品ぶって一口一口は小さいが、物凄い勢いで食っている。
人前での食事は小食の振りをしているけれど、菓子は別らしい。は早くも一切れ食べてしまうと、残りのケーキを切り分ける。
「そんなに食うと太るぞ」
「平気よ。夕ご飯を食べなきゃいいもの」
どうせ駄目だろうと思って忠告してみたが、やっぱり駄目だった。
夕飯を抜いてケーキを食べるなんて、見上げた馬鹿である。夕食を抜くよりケーキを抜いた方が美容にはいいと思うのだが、には気にすることではないのだろう。
「俺の分も食っていいぞ」
縁はの前に自分の皿を押し出す。晩飯を抜いても食いたいケーキなら、が全部食べればいい。縁は晩飯の方が大事だ。
ケーキを差し出されて、は感激したように小さく声を上げた。
「いいの? これ、滅多に手に入らないのよ」
目を輝かせてそう言われると、今更駄目とは言い難い。まあ、縁はケーキは好きでも嫌いでもないからいいのだが。
「ケーキはそんなに好きじゃないから、いい」
「ありがとう。嬉しい!」
は心底嬉しそうな顔をする。こんなに嬉しそうな顔を見るのは初めてのことだ。これまで縁はのためにいろいろ働いてきたと思うのだが、まさか一切れのケーキに負けてしまうとは。分かってはいたけれど、理不尽である。
は皿を自分の方に引き寄せて、
「ねえ、知ってる? 食べ物を分け与えるのって、最高の愛情表現なんですって」
「………………」
ケーキを譲ったのは愛情表現でも何でもないのだが、フォークを持っているにその発言は危険だ。
ケーキ一切れ分の愛情なんて随分しょぼいものだが、はご機嫌なようだ。高価な贈り物でしか愛情を計れない女だと思っていたけれど、意外とそうでもなかったらしい。まあ、これが滅多に手に入らないケーキだからありがたいのであって、簡単に手に入る菓子であったら反応は違っていたのかもしれないが。
「ケーキ一切れでそんなに喜ばれるとは思わなかった」
「好きな人からもらうものなら、何でも嬉しいものなのよ」
びっくりするほど白々しいことを言うものである。きっと、お得意の恋愛小説の台詞なのだろう。
本気で言っているのなら少しは可愛げもあろうが、はそういう女ではない。少なくとも、縁が知っているは違う。
これまでのも厄介な女だったが、このも扱いに困る。“白馬の王子様”に飽きるまでの我慢だとは思うけれど、先は長そうだと縁は溜め息をついた。
「うーん………」
翻訳ものの恋愛小説を読みながら、は眉間に皺を寄せて考える。
この小説によれば、素直に喜びを表す女を男は可愛いと思うはずなのだが、どうも縁の反応は薄かった。素直ではないだけかとも思ったけれど、一寸引いているようにも見えた。初っ端からやりすぎたか。
しかし、一日も早くに惚れてもらわないと困るのだ。話題の“白馬の騎士”が心からを崇拝する姿を、早く皆に見せびらかしたい。
しかし縁に“崇拝する”という知恵はあるのだろうか。崇拝するというのは、ある程度の知性と教養がないとできないことだ。
そうすると、が持っている小説は参考にならない。あの小説に出てくるのは、王子様や騎士なのだ。縁とは真逆である。参考にするなら、彼のような粗野な男が相手の小説にしなくては。
しかし、粗野な男が相手と言いつつ、妙に女の扱いに慣れていたり、女心を擽るのが巧かったりするのが、この手の小説の定番だ。やはり参考になりそうにない。
ひょっとして縁を攻略することに関しては、恋愛小説は何の参考にもならないのだろうか。そうだとしたら、にはお手上げだ。
それならば金の力にものを言わせて、贈り物攻撃を仕掛けてみるか。だがそれでは香蘭と同じだ。あんなのと同類にはなりたくない。
「はぁ〜………」
は深い溜め息をついて机に突っ伏した。
恋愛小説が参考にならないのは、難易度が高すぎる。どうしたものか。
こんな難易度の高い男に挑戦しているのだから、その健気さに縁は気付くべきだ。その健気さに気付けば、縁はに惚れるはずなのだ。
そうだ、健気路線で行けばいいのだ。健気な女というのは、恋愛小説の定番である。
「よしっ!」
そうとなれば、早速勉強だ。は立ち上がると、本棚から健気主人公の小説を探し始めた。
主人公さん、ものすごい勢いでの掌返しです。こんなに身勝手だと、人生楽だろうなぁ。巻き添えを食らう縁はたまったものではなかろうが。
縁はワビサビを理解できるような男ではないと思うので、恋愛小説は何一つ参考にならないと思うのですが、どんなものでしょう?