撤収。
の前で大見得を切って見せたものの、香蘭からは何の連絡も無い。本当にあの詐欺師野郎の事を調べているのか、怪しくなってきた。あの女を信じた縁が馬鹿だったのかもしれない。やはり縁自身で調べるべきだったか。しかし、何の伝も持たない縁が一人の人間の素性を調査するのは難しい。そうなると広い人脈を持つ香蘭の力を借りるしかないわけで、縁の次の手は彼女次第ということになる。
「あんなこと言うんじゃなかった………」
縁が行き詰っていることを分かっているは、顔を見る度にリチャードのことは分かったのかと訊いてくる。あの勝ち誇った顔を思い出すと、苛々して頭を掻き毟りたくなるほどだ。一体誰のためにこんな面倒なことをやっていると思っているのか。
苦虫を噛み潰したような顔で廊下を歩いていると、上機嫌なが現れた。
投資の話が流れたの何だの言って荒れていたくせに、この様子では結局流れてはいなかったらしい。当然だ。から金を引っ張るための嘘なのだから、流れるはずがない。
「あら、今日も出かけないの? いつになったら化けの皮とやらを剥がしてくれるのかしら」
そんなことできるわけがないと言いたげな勝ち誇った顔で、は挑発する。
いつになったらも何も、一体誰のためにやっていると思っているのか。もう何もかも馬鹿馬鹿しくなってくるが、が騙された後のことを考えると投げ出すわけにもいかず、縁は悶々とする。
無言の縁に、はますます勝ち誇った顔で、
「化けの皮なんて最初から無いんだから、負けを認めたら? 男の嫉妬は見苦しいわよ」
「何が嫉妬だ、馬鹿馬鹿しい」
リチャードへの嫉妬から、縁が言い掛かりをつけているとでも思っているのか。それこそ言い掛かりだ。大体、縁が嫉妬する理由が無い。
「もうすぐ剥がしてやるさ。楽しみに待ってろよ」
「その台詞、何度目かしら」
は鼻で笑う。
悔しいことにの言う通り、この台詞は何度言ったか分からない。顔を合わせる度に言っているのだから、挨拶程度に聞き流されても仕方が無い。
それもこれも、香蘭がグズグズしているせいだ。縁が催促しないと何もしないのではあるまいか。
「出かける」
香蘭から連絡が無いなら、こちらから出向くしかない。調査が進んでいないとしても、途中経過くらいは聞いておかなくては。
「ふーん………」
縁の行き先は予想できているのだろう。の目は冷ややかだ。
その軽蔑の眼差しを見れば、が何を想像しているのか縁にも解る。そんな色気のある話ではないことくらい、縁の表情を見れば分かりそうなものなのだが。
が何を考えていようと、この際どうでもいい。縁は無言で歩き出した。
「あの話?」
香蘭に話を切り出すと、いきなり惚けられてしまった。
「あの詐欺師野郎の尻尾を掴めって言っただろう」
まさか本当に忘れたとは思わないけれど、その態度が苛々する。といい香蘭といい、縁の神経を逆撫でする天才だ。
「ああ、お嬢様の王子様の調査ね」
思い出したように手を叩くと、香蘭は可笑しそうに笑った。そのわざとらしい仕草もまた腹立たしい。
香蘭は立ち上がると、引き出しから封筒を出した。
「すぐに調べがついたのなら連絡しろよ」
「すぐに調べがついたわ。お坊ちゃまは詰めが甘いのよ」
まだ結果が出ていないと思っていたからの態度にも耐えていたというのに、今までの縁の我慢は何だったのか。
香蘭は楽しそうにくすくす笑って、
「だってあなた、何の音沙汰も無いし。私から連絡したら、お嬢様のご機嫌が悪くなるでしょう?」
「そりゃあ………」
それは香蘭の言う通りなのだが、だからといって今まで連絡が無かったのを正当化できるとは思わない。連絡の方法なんていくらでもあるはずなのだ。やはりこれは嫌がらせの一種だろう。
過ぎたことは、もういい。考えるべきはこれからのことだ。
渡された封筒の中身を出して、縁は軽く目を通す。
「こいつは………」
報告書の内容に、縁は絶句した。
粉をかけているのはだけではないと思っていたけれど、手当たり次第といった感じである。相手の年齢も、未亡人からのような少女まで様々だ。金を引き出せないまま切れた女もいるけれど、現状は二股どころかヤマタノオロチかと思う状態だ。女なんて一人でも持て余す縁から見ると、その立ち回りは驚異的である。の許で王子様修行なんぞするより、リチャードに弟子入りするほうがまだ有意義かもしれない。
「………ん?」
報告書に書き連ねられている女の名前の中に、香蘭の名前を見つけた。
「お前、これ………」
「うふふー」
香蘭は楽しげに笑う。そして、
「舐めた真似をしてくれたわよねぇ。私を誰だと思っているのかしら」
「何で放置してんだよ」
香蘭が騙されそうになったところで手を打っていれば、縁はこんな厄介ことに巻き込まれずに済んだのだ。まさかとは思うが、リチャードに情が残っていたのだろうか。否、この女に限ってそんな優しい心があるはずがない。
香蘭は楽しげに笑って、
「面白いことになるまで待とうと思って。あんな小物でも、時間をかけて育てれば楽しませてくれそうだったし」
「お前、最悪だな」
そんなことだろうとは思っていたけれど、香蘭のくだらない楽しみのせいで縁が苦労する羽目に陥っているのだ。そういうことは個人の範囲内でやってもらいたい。
「そうだ。明後日、お嬢様と会うみたいよ。その前に潰しとく?」
香蘭の方でも何か手を打っているらしい。
あの詐欺師野郎は香蘭に任せるのが一番痛い目に遭わせられるだろうが、それでは縁がつまらない。の前で化けの皮を剥がしてやると宣言したのだ。縁の手で、一番効果的な方法で暴露してやりたい。
「いや、明後日まで手を出すな」
「明後日まで、ね。じゃあ明後日からはこちらも好きにさせてもらうわ」
やはり何か手を考えているらしい。香蘭は企むように微笑んだ。
香蘭の言った通り、その二日後、はリチャードに会うために出て行った。本人は隠れて出たつもりのようだが、縁には見え見えである。
今日までは香蘭は手を出さないと言っていた。彼女が仕掛ける前に縁が動かなくては。
「さて、行くか」
一つ欠伸をして、縁は鞄を取った。
とリチャードが会うのは、租界のカフェである。西洋風の建物で、金髪の王子様と会うというのは、の憧れを満足させるのに十分だ。
の憧れを具現化してくれる舞台だが、縁はこういう場所は苦手である。此処にいる西洋人たちが場違いな縁に注目しているようで、落ち着かない。用が済んだらさっさと出て行きたいところだ。
はというと、奥の席でリチャードと向かい合っている。縁には見せたことのないようなうっとりとした顔をして、軽薄な口説き文句を聞かされているのだろう。そんな台詞、誰にでも言っているものだというのに。
そんな茶番も今日で終わりだ。この鞄の中に入っている書類を見せたら、二人はどんな顔をするだろう。
「失礼」
縁は二人のテーブルの前に立った。
「何しに来たの」
突然の縁の登場に、は驚きながらも警戒する。
「化けの皮を剥がしに」
無表情で淡々と言うと、縁は鞄から封筒を出した。
「こいつについての調査報告書だ。信じる信じないはお前に任せる」
硬い表情で、はテーブルに置かれた封筒を見る。本当に縁が持ってくるとは思わなかったのだろう。
が封筒に手を出した刹那、リチャードが先に掠め取った。
「くだらない! 侮辱するつもりなら、こちらにも考えがある」
不自然なほど大きな声で言うと、リチャードは封筒をビリビリに破り捨てた。
やけに芝居がかった動作だが、それだけ動揺しているのだろう。リチャードは調査書の内容が分かっているようだ。これまで自分がやってきたことなのだから当然か。
しかし、中身を見ずに逆上するとは、縁の言う“化けの皮”を認めているも同然である。でさえ、リチャードの行動を不審に思っているようだ。
報告書を駄目にされても、縁は慌てず騒がず鞄から封筒を出した。
「それは写しだ。いくらでもあるから、遠慮せず破っていいぞ」
こういうこともあろうかと、鞄一杯に写しを持ってきた。これを作るために、縁は一昨日からまともに寝ていない。
怒りのためか、リチャードは顔を赤くして全身を戦慄かせている。この男が怒るのは筋違いだと思うが、こんな顔をさせることができて、少しすっきりした。
縁はにやりと笑って、
「破らないのか? せっかく寝る間も惜しんで用意したのに」
「何くだらないことをやってるのよ」
縁の執念に呆れた様子を見せながらも、は封筒を手に取り、中を見た。
報告書を読み進めるの顔が、貧血を起こしたかのように色を失っていく。その後、すぐに憤怒の表情で紅くなる。
「何よ、これ………」
苦しそうに喘ぎながら、は呟く。
縁の過去の女性関係にすら怒るような女である。理想の王子様の派手な女遍歴と現在進行中の女性関係を見せられれば、その怒りは縁の時の比ではないだろう。
しかも報告書の中には、あの香蘭の名前があるのだ。これはにとって屈辱に違いない。
「違うんだ! これは違う!」
リチャードは真っ青な顔でから報告書をひったくった。その横から、縁が新しい報告書を置く。
「確かに僕は過去に過ちを犯した。だけど今は違う。僕は君を崇拝している。君なしでは僕は生きていけない」
「股かけてる女は何なんだよ」
リチャードの弁解に、縁が小声で突っ込みを入れる。
それにしても、この期に及んでこんな芝居がかった臭い台詞を吐けるなんて、ある意味肝の据わった男である。ここまでくると才能なのかもしれない。羨ましいのか羨ましくないのか分からない才能だが。
これまでのなら、この台詞でイチコロだっただろうが、報告書を見た後では逆効果だ。は椅子を蹴倒すように立ち上がって、
「何が“君なしでは生きていけない”よ! “君”じゃなくて“君のお金”でしょ!」
「違う! 僕は―――――」
「あのさ………」
縁は控えめに二人の間に割って入る。
修羅場もいいが、実はそれどころではない。これはリチャードにとっては前座みたいなものなのだ。
「香蘭って女、覚えてるか? そいつから伝言なんだが―――――」
「やっぱりあの女の差し金だったのね!」
香蘭の名前に、は縁に食って掛かる。差し金だなんて、香蘭のお陰でリチャードの正体が分かったのに、そこは考慮されないらしい。
その件については後でゆっくりと話をすることにして、今はこれからリチャードの身に降りかかることについて話さなくては。
のことは無視して、縁はリチャードに話を続ける。
「これと同じものを報告書の女たちのところに送ったそうだ。あと、あの女からの伝言な。『今日あたり報告書が届くと思います。せいぜい鬼ごっこを楽しんでね』だと」
「………………っ!」
リチャードの顔が紙のように白くなる。
これまでの女が一斉に彼を攻撃するとなったら、この上海で生活するのは難しい。白人優位の租界ですら、逃げ場は無いだろう。焦っていたとはいえ、リチャードは手を広げすぎた。
「できるだけ早く上海を出た方がいい。お前のことは嫌いだが、死なれても寝覚めが悪い」
報告書の女の中には、のように性質の悪い親が付いている者もいる。運が悪ければ、文字通りこの世から消えることになるだろう。
「ば……馬鹿馬鹿しい。そんな脅し―――――」
「バラされて豚の餌になりたくはないだろう」
縁の言葉に、リチャードは声を詰まらせた。
「ま、せいぜい頑張れよ。
ほら、帰るぞ。香蘭はもう動いてる。こいつの近くにいると、俺たちも危ない」
呆然としているリチャードを放置して、縁はの腕を引っ張った。
帰りの馬車の中で、はむっつりと押し黙っている。あんなことがあった後では口も利きたくないのだろう。
の前で化けの皮を剥がしてやれば解決すると思っていたけれど、打撃も大きかったようだ。まあ、いい勉強にはなっただろう。香蘭も、いろんな男と付き合って女は成長すると言っていた。
「言いたいことあるなら言いなさいよ」
ぶすっとした顔で、は言う。
別に縁には言いたいことなど無い。リチャードの正体を知らしめたところですっきりした。むしろ、言いたいことがあるのはの方だろう。そういう顔をしている。
「別に」
「あんたの言うこと無視して、あんなのに騙されて、どうせ馬鹿だと思ってるんでしょ」
「別に。今更だし」
「やっぱり思ってるんじゃない!」
せっかく否定してやったというのに、激怒されてしまった。
「あの女ともまだ続いてるし、どいつもこいつも私を馬鹿にして! あの女と一緒に笑ってたんでしょ!」
の怒りの中心はそこらしい。よほど香蘭のことが嫌いなのだろう。
縁が香蘭と会っていたのは、のためだ。別に個人的な楽しみであっていたわけではない。なぜかはそう思い込んでいるが。
「あの女のお陰で、あの詐欺野郎の正体が分かったんだぞ」
「それとこれとは別よ!」
「どう別なんだよ」
「あんな女に頼るなんて! 自分じゃ何もできないの?!」
「自力で何とかできるなら、もっと早くに解決させてた」
「あの女と会うために引き伸ばしてたってこと?! 最低っ!」
どうしたらそういうことになるのか。縁は訳が分からなくなってきた。
は縁の話を聞かない傾向があるが、香蘭が絡むとますます話にならなくなるようだ。どうもの中では、縁はまだ香蘭の若い燕をやっていることになっているらしい。彼のことで何を想像しても構わないが、それはもういい加減勘弁してもらいたい。
縁はうんざりした様子で溜め息をついて、
「これだけは言いたくなかったが、誰のためにここまでしてやったと思ってるんだ」
「何よ、白馬の騎士でも気取ってるつもり? はっ、馬にも乗れないくせに」
「………鼻で笑うか」
感謝されるとは思わなかったが、鼻で笑うというのも酷い。まあ、らしいといえば、らしい反応である。
とはいえ、自分で想像してみても、縁は“白馬の騎士”という柄ではない。どう頑張ってみても馬賊がせいぜいだろう。尤も、“白馬の騎士”というのを見たことが無いので、具体的にどういう男だったら相応しいのかもよく分からないのだが。
仮に縁が白馬の騎士を気取ってたとしても、どうせ守るのなら、もっと素直で可愛げのある女を守りたい。理想はもちろん巴のような女であるが、そこまではいかなくても感謝の心を持った女がいい。
縁は絶望的に深い溜め息をついて、
「お互い不満はあるだろうが、お前を守るのが俺の仕事なんだから仕方が無い」
「何、その言い方! 私を守るのがそんなに不満なの?!」
お前のためと言えば怒り、仕事だから仕方が無いといっても怒り、は一体どういう答えを求めているのか。もう怒ることが目的になっているとしか思えない。
要するに八つ当たりというやつなのだろう。あんなことがあった後では仕方の無いことなのかもしれないけれど、詐欺師から守ってやって、八つ当たりの的にされたのでは、縁があまりにも報われない。
「これだけやって感謝されないのに、どうして不満が無いと思うんだ」
「………………」
答えが見つからないらしく、は憮然として黙り込んだ。
理由はどうであれ、が黙ってくれたのはいいことだ。静かになったところで、縁は二日分の睡眠不足を取り戻すために目を閉じた。
縁、ちっとも感謝されてねぇ(笑)。何をどうやっても、この主人公さんは大激怒なようです。報われねぇなあ……。
普通なら心が折れそうなところですが、この縁のメンタルは鋼のようです。まあ、鋼のメンタルじゃないと裸一貫から武器商人兼マフィアのボスにはなれないよな。