別れたあとは他人なんて嘘。
香蘭の言いなりになるのは癪だが、が騙されようとしているのを黙って見ているわけにはいかない。縁の仕事は一応、の護衛なのだ。護衛の仕事は、暴力以外のものから守ることも含まれている。何より、に何かあったら、縁の身が危ない。というわけで、不本意ながら、縁はの外出には影のように付き従っている。パーティーの時には自慢げに縁を連れ回してくれるから楽だが、それ以外の外出の時はそうもいかない。も縁を警戒して、どうにか一人で屋敷を出ようと知恵を絞っているのだ。
まあ、の知恵だから高が知れているからいいようなものの、四六時中見張り続けるのも疲れる。早いところ、あの詐欺師を諦めさせなくては。
「で? お嬢様を見張ってなくてもいいの? 此処で油を売っている間にお嬢様がお屋敷を抜け出したら大変よぉ?」
ヤスリで爪の手入れをしながら、香蘭は楽しげに歌うように言う。
この女は縁の災難を娯楽の一つだと思っているらしく、彼が来るのを楽しみにしているような節がある。そうでなければ、関係を解消した男を屋敷に出入りさせないだろう。他人の不幸は蜜の味というけれど、本当に性根の腐った女だ。といい香蘭といい、縁の周りには碌な女がいない。
「あいつは部屋から出られないから大丈夫だ」
「あら、監禁? 手荒なことするのね」
「俺はいつでも紳士的だよ」
手荒だなんてとんでもない。香蘭が何を想像しているか知らないが、縁はを最上階の部屋に押し込んだだけだ。その時に拳が鳩尾に当たったような気もするが、まあ気のせいだろう。
「ふーん………で、お嬢様を閉じ込めて、何しに来たの?」
「詐欺師の尻尾を掴みたくてね。得意なんだろ、そういうの?」
東西の社交界に顔が利く香蘭の情報網は、縁の知る限り上海一だ。あの胡散臭い西洋貴族も簡単に丸裸になるだろう。
この女の力を借りるのは癪だが、もうそんなことに拘ってはいられない。リチャードはもうの金―――――正確にはの父親の金に手を伸ばそうとしているのだ。あの馬鹿娘が鳥肌の立つような台詞に騙されて金を出すのは時間の問題だ。
香蘭はヤスリを持つ手を止め、爪の形を確認しながら、
「そんなことを昔の女に頼むなんて、図々しいと思わない?」
香蘭の声は今まで聞いたことがないほど冷淡なものだ。この女に“昔のよしみ”なんて通用するとは思っていなかったけれど、こう冷ややかな反応をされるとも思わなかった。
勿論、縁もただでやってもらおうなんて虫のいいことは思ってはいない。そんな甘い女ではないことは、縁が一番よく知っている。相当吹っかけられるだろうが、今はこの女に頼るしかない。
「金なら払う。分割だけど………」
「………随分熱心なのね」
何だかよく解らないが、香蘭はますます面白くなさそうな顔をした。を守れと煽っていたのは、他でもない香蘭だったではないか。
「お前があの女を守れと言ったんだろ」
「それにしたって、自腹まで切るなんて。あのお嬢様じゃなくて私だったら、そこまでしてくれたかしら?」
何故と自分を比べるのか、縁はわけが解らない。香蘭の時は彼女の機嫌を取るのが縁の一番の仕事で、今の仕事はを守ること。求められることが違うのだから、二人を同じようにに扱うはずがないではないか。
そんな簡単なことが解らないほど愚かな女ではないと思っていたのに、これでは香蘭もと同じだ。縁よりはるかに年上の香蘭とが同じ程度だなんて、女というものは歳を取っても成長しないものらしい。
ひょっとして、嫉妬しているのだろうか。自分が捨てた男に今更そんな感情を持つような女には見えないが、香蘭の態度はそういう風に見える。
「まさか妬いてるのか?」
軽い気持ちで訊いてみたら、般若のような目で睨まれた。
「何馬鹿なこと言ってるの。一寸付き合ったくらいで図々しいったら! 若い男はすぐ勘違いするから嫌なのよ。自分をどれだけだと思ってるのかしら。ああ嫌だ!」
何もそこまで言う必要はないだろうというくらい罵倒されてしまった。軽い冗談のつもりが、香蘭の逆鱗に触れてしまったらしい。
本当に香蘭の言う通りならこの件も仕事として請けてくれればいいのに、女というのは面倒臭い。勿体ぶって、縁に土下座でもさせたいのだろうか。
「お前が変なこと言うからだろ。こっちは命がかかってるんだ。請けてもらえないなら他を当たる」
不快感を隠そうともせず、縁は言い捨てる。
上海には情報屋はいくらでもいる。香蘭ほどの働きは期待できなくても、少しはリチャードのことが判るだろう。
「請けないなんて言ってないわ」
縁の態度が変わったことで、香蘭の態度が急に軟化した。こんなことなら最初から強気でいけばよかった。
香蘭はいつもの余裕のある笑みを浮かべて、
「お嬢様に何かあったら、あなたが殺されてしまうものね。いいわ、調べてあげる」
屋敷に戻ると案の定、が金切り声を上げて暴れていた。あまりの剣幕に、使用人たちも部屋を開けることができなかったようだ。
これを部屋から出したら大変なことになりそうだが、永遠に閉じ込めておくわけにもいかない。被害を最小限に食い止めるためにも、閉じ込めた張本人である縁が一人で対処するしかない。
「今から開けるから静かにしろ。みんな怯えてるぞ」
「誰のせいだと思ってるのよっ! 偉そうにするなっっ!!」
金切り声が終わらないうちに、何か大きなものが扉に叩きつけられる音がした。何を叩きつけたのか知らないが、この様子では部屋の中は嵐の後のような惨状になっていそうだ。
甚だ不本意ではあるけれど、ここは下手に出ておくのが賢明だろう。それでが大人しくなるはずもないが、上から押さえつけたらますます暴れまくるのは目に見えている。
を刺激しないように、縁はできるだけ柔らかい声を出す。
「話は後でゆっくり聞くから、今は落ち着こう。お前が落ち着いてくれないと、恐ろしくて開けられない」
みたいな女に懇願するなんて情けないと思うが、今は仕方無い。縁の方にも、を殴って気絶させた負い目がある。
縁の声音で反省していると解釈したのか、部屋の中が静かになった。の怒りが収まったわけではないだろうが、とりあえずこれで扉を開けることができそうだ。
のこれまでの行動から考えて、扉を開けた瞬間に何かが飛んでくるだろう。それを警戒して、縁は扉の陰に隠れるようにそっと扉を開ける。
と同時に、椅子が飛んできた。予想していたとはいえ、まさか椅子を投げられるとは思わなかった。
「こんなもの投げやがって、死んだらどうする!」
「死ねばよかったのよ! 今日は大事な日だったのに!」
どうやら閉じ込められていた間中、泣いていたらしい。の目が真っ赤に腫れている。
“大事な日”ということは、金を渡す約束をしていたのか。部屋に閉じ込めておいてよかった。
「やっぱり金をせびってたのか!」
「お金お金って、そればっかり! あの人はそんな人じゃないわ!」
はまだあの男のことを信じているらしい。この様子ではまだ金の無心はされていないのか。しかし最終的には大金をむしりとる気に違いないのだ。まだ大人しくしているのは、縁を警戒しているのだろう。
「今日は出資してくれる人と会う約束だったのに! 話が潰れたらどうしてくれるの?!」
「お前みたいな奴がいないだけで潰れるような話なんて、怪しいものだな」
のような子供が同席しないと白紙になる融資だなんて、その出資者も本当に存在するのか怪しいものだ。たとえ存在したとしても、リチャードの仲間に違いない。
「あんたに何が分かるの?!」
「少なくとも世間知らずのお嬢様よりは判るさ。女に金の話をする男なんて、碌なもんじゃない」
吐き捨てる縁に、がまた椅子を投げつけた。縁は避けもせずにそれを叩き落す。
暴力に訴えるのは、に反論できる自信が無いからだ。彼女も本当は心のどこかでリチャードを疑っている。縁が反対するから余計に頑なになっているのかもしれない。
男女の仲というのは反対されればされるほど燃え上がると聞く。しかも一旦は“王子様”だと浮かれた姿を縁に見せているのだから、間違いを認めれば馬鹿にされると思っているのだろう。
意地を張るのは結構だが、今回は相手が悪い。縁はを馬鹿にする気は無いし、素直にいうことを聞けばが恥をかかないように秘密裡に始末をつけてやるのに。
「あんただってコソコソあの女に会いに行ってるくせに! まだあの女と続いてたんじゃない!」
縁の気など知らないは、理不尽な怒りをぶつけてくる。の邪魔をしておいて、自分は女といちゃついていると思っているのだろう。
一体誰のために香蘭に会いに行ったと思っているのか。縁はのように浮かれていられるほど考え無しではないのだ。
「俺のことは関係無いだろ! 誰のために―――――とにかく俺は大事な用件があったんだ!」
のために行ったとは言えなかった。そんなことを言えば、今度は香蘭も一緒になって邪魔をしているとますます怒り狂うだろう。
まったく、縁の方がやり場の無い怒りで暴れたくなる。それもこれも、あの気障な詐欺野郎のせいだ。今度会う時は、化けの皮を剥いで袋叩きにしてやる。
「近いうちにあいつの正体を見せてやる。楽しみにしておくんだな!」
香蘭が証拠を揃えるのがいつになるか判らないが、縁は自信満々に宣言した。
二人の女の間を行ったり来たり、今までで一番女っ気のある縁かもしれません。これが噂に聞くモテ期というやつか。しかし羨ましくないのは何故だろう?(笑)
香蘭の「一寸付き合ったくらいで図々しいったら! 若い男はすぐ勘違いするから嫌なのよ」という台詞、死ぬまでに一度くらいは年下イケメンに言ってみたいものです(その発想がオバチャン……笑)。