あのひとのことを知りすぎるのはいや。
はあの胡散臭い王子様にすっかり夢中のようだ。何かと口実を作っては外に出て会っているようである。“ようである”というのは、縁の同伴が許されないからだ。王子様に会うのに縁が一緒では興醒めということなのだろう。
自由な時間が増えて縁にはありがたいことなのだが、香蘭のあの言葉が気になる。あの男に一体何があるのだろう。
夜会に出席したついでにリチャードのことをそれとなく聞き込みしてみたが、よく分からなかった。どうも清国人の集まりには最近顔を出すようになって、詳しい事情を知る者がいないのだ。
現時点で分かっているのは、英国貴族であるということ、そして貴族や金持ちの女に片っ端から声をかけているというくらいか。貴族だからそれなりの女を狙うのは縁にも理解できるが、片っ端からというのは感心しない。香蘭が気を付けろと言っていたのは、女癖の悪さについてだったのだろうか。
しかし、あの香蘭が女癖程度で忠告してくるなんて考えられない。縁も社交界入りして知ったが、表に出ないだけであの世界の男女関係は滅茶苦茶だ。
となると、他に問題があるということだろうが、何なのだろう。父親に頼んでリチャードの身辺を洗ってみるか。否、それで何か出てきたとしたら、縁の責任問題にもなりかねない。縁の仕事は、のエスコートもだが、何より変な虫が付かないようにすることなのだ。
となると、事情を知っているであろう香蘭に話を聞くしかない。あの女に会いに行くのは気が進まないが、頼れるのはあの女しかいないのだ。
「何で俺が………」
のために香蘭に会わなければならないなんて、理不尽すぎる。しかもあの女は今、若い燕がいないのだ。もし情報と引き換えに縁を、などと言われたらぞっとする。
だが、このままもたもたして事が大きくなって、の父親の逆鱗に触れるようなことになっても大変だ。今でこそ実業家面をしているが、その本性は裏社会にいた頃と変わらない。日本なら小指一本で済むような不始末も、こっちの人間は腕一本持っていくような奴らなのだ。
腕一本持っていかれることを考えれば、年増を抱く方がまだマシだ。縁は諦めの境地で出かける支度を始めた。
覚悟を決めて香蘭の屋敷を訪れた縁だったが、既に新しい男が住み着いていて驚いた。この前の夜会で芸術家風の男と別れたと言っていたのに、何という早さだろう。
今度は混血の青年である。顔立ちは東洋人のようにも見えるが、目が青い。この青い目がお気に入りなのだと、香蘭は言っていた。
「何処から調達してきたんだ、あんなの?」
「
縁の質問に、香蘭は目元に淫蕩な笑みを浮かべて答える。
「それはよかったな」
体力が有り余ってそうな男だから、香蘭の満足のいくまでお勤めを果たしていることだろう。生々しい想像をしそうになって、縁はげんなりした。
元苦力が頑張ってくれているなら、縁が何かを要求されることはなさそうだ。ひとまず安心して、縁は本題に入った。
「この前の話だが、どういう意味だ?」
「何が?」
惚けているのか本当に覚えていないのか、香蘭はしれっとした顔で茶を飲む。
「あのリチャードとかいう男だよ。社交界でも詳しいことを知ってる奴が誰もいない」
「ああ、あの男ね」
香蘭はわざとらしくふふっと笑った。そして湯飲みを置いて、
「あの男のことを調べるなんて、ちゃんとお嬢様を守ってるのね」
さっさと答えればいいのに、要らぬことを言う。からかうような言い方も、まるで縁がに何がしかの感情を持っているのではないかと疑っているようだ。
縁は間髪入れず、きっぱりと、
「仕事だからな。あの女に何かあったら、俺が殺される」
「そうね、あの人、娘のこととなったら見境無しだから。あなた、家族がいなくて良かったわ」
さらっとぞっとするようなことを言う。香蘭はの父親との付き合いが長いようだから、そういうことを見たか聞いたかしたのだろう。
に何かあっても片腕で済むだろうと思っていたが、これは本気でまずい。これでリチャードがとんでもない悪党だったら、縁は確実に殺される。
「で、あの男は何なんだ? どうして清国人に関わろうとする?」
また話が逸れてしまいそうになったので、縁はすぐに戻す。香蘭は面白がって話を逸らしているのかもしれないが、こちらは死活問題なのだ。
白人の貴族が、未開人と思っている清国人の娘に声を掛けるなんて、何か企みがあるとしか思えない。しかもは、黒い噂が絶えない実業家の娘なのだ。リチャードはの事情を知っているようであったし、貴族様がそんな娘に恋愛感情を持つというのも怪しい。
「そりゃあねぇ………」
香蘭は意味ありげな含み笑いを見せる。
「向こうの社交界に出入りできなくなったんだもの。しょうがないわ」
「………どういうことだ?」
爵位持ちの貴族が社交界に出入りできなくなるなんて、相当なことだ。女関係で何かやらかして村八分にでもなったのだろうか。何にしてもかなりの放蕩息子なようだ。
まあ、あんな台詞を恥ずかしげも無く言えるような男だから、何があっても驚きはしない。問題は、がそんな放蕩息子に入れあげていることだ。女好きの放蕩息子と金食い虫の組み合わせでは、いくらの父親に財産があってもあっという間に食い潰されてしまう。
「あの男、爵位持ちだけど内情は火の車。あちらのお付き合いはお金がかかるでしょう。だからあのお嬢様みたいなお金の匂いのする女を狙ってるってわけ」
「向こうには爵位狙いの金持ちの娘はいないのか?」
「爵位は男にしか与えられないもの。没落貴族のお姫様と成金息子だったら、子供に爵位が与えられて貴族の仲間入りの可能性はあるけれど、没落貴族の息子じゃ、女の実家が財産を搾り取られて終わりよ」
「そういうものなのか………」
爵位の継承なんて縁には無縁のことだから本当のところは分からないが、香蘭がそう言うならそうなのだろう。この女も貴族ではないが、この世界については少なくとも縁よりは詳しい。
お家再興のためとはいえ、みたいな女に粉をかけるなんて、リチャードの家は相当切羽詰っているのだろう。それとも、札束だと思って割り切っているのか。まあ、リチャードは金蔓を手に入れることができるし、は理想の王子様とのロマンスを楽しめるのだから、どちらにも損は無いような気はしてきた。
問題は父親だが、こちらはこちらで英国貴族と縁続きになるとなれば箔も付くだろうから、それほど嫌な顔はしないと思う。リチャードさえ分を弁えて搾取すれば、全て丸く収まるのではないのだろうか。
「何か、そんなに悪い話じゃないような気がするんだが………」
「甘いわねぇ」
縁の考えを嘲笑うように、香蘭はくすくす笑う。
「白人の貴族様が清国人なんかを奥方に迎えるわけないじゃない。あの子はただの金蔓。適当に搾り取ったら、同じ貴族か、“男爵夫人”になりたい金持ちの白人と結婚するわ。今でこそ没落しているけど、女王陛下に拝謁を許されている家ですもの。有色人種の男爵夫人なんて、ねぇ………」
「………………」
欧米人の夜会で受け入れられていただけに、香蘭の言葉は縁には衝撃的だった。確かに町に出れば“清国人立ち入り禁止”の区域があったり、白人と同じ乗り物に乗れなかったりと人種差別はあるけれど、最初から騙すつもりで接近するなんて悪質なことまであるとは思わなかった。
やはり初対面の時に縁が感じた胡散臭さは正しかったらしい。肝心のがまったく聞き入れてくれないのが困ったものだが。本人が気付く頃には、一体どれだけ搾り取られていることか。“勉強代”で済めばいいが、そんな甘いことはないだろう。そして縁は上海の海に浮かんでいるに違いない。
「何でそんな大事なこと黙ってるんだよ………」
香蘭の言うことが本当なら、の父親に気付かれたら縁は命の危険に晒されるではないか。円満に別れたつもりだったのに、香蘭は殺意を覚えるほど恨んでいたのだろうか。それなら、次々若い燕を仕入れるというのが理解できないのだが。
香蘭は楽しげに笑って、
「お嬢様にはいい勉強になるかと思って。いろんな男を見て、女は成長するものなのよ」
「最初の勉強がそれは強烈過ぎるだろ………」
遊び人や人格破綻者ならまだ“勉強”で済むだろうが、相手は詐欺師も同然である。香蘭くらい百戦錬磨の上級者であれば太刀打ちできるだろうが、あんな性格でもはまだ初心な小娘なのだ。骨の髄まで食い物にされるのは目に見えている。
は香蘭をひどく嫌っていたが、香蘭もまたを嫌っていたのだろうか。夜会では軽く受け流しているように見えていたけれど、内心は壮絶なものが溜まっていたのかもしれない。女というのは表面を取り繕うのが異常に巧いから恐ろしい。
「だから王子様が守ってあげるんでしょう? 楽しみにしているわ」
香蘭は本気で楽しんでいるようだ。新しい娯楽だと勘違いしているのではあるまいか。下手をすれば縁の命がかかっているというのに。
のことは疫病神だと思っていたが、この女は更に上を行く悪魔だ。否、女という生き物が疫病神か悪魔なのかもしれない。
そう思うと、巴のような女は本当に希少価値だったのだろう。どうして抜刀斎のような男に巴のような女が当たって、縁にはこんな女しか回ってこないのか。あまりの理不尽さに、縁は怒りを通り越して泣きたくなってきた。
縁が屋敷に帰ったら、も帰ってきていた。案の定リチャードと会っていたらしく、上機嫌だ。
「あら、あんたも出かけてたの? 珍しいわね」
「ああ………」
の声が弾む分、縁の声は沈んでしまう。
きっと、今日もあの男に歯の浮くような台詞を散々言われてきたのだろう。金を吐き出すと思えば、そりゃああれくらいのことは軽く言える。は財布を持ち歩かない主義だから今のところは大丈夫だろうが、そろそろ金を引き出しにくる頃合だと思う。
が上機嫌なうちにと、縁は様子を窺いながら遠慮がちに言ってみた。
「あの男、妙なこと言ってなかったか?」
「妙って?」
が怪訝な顔をする。
「いや、その……何というか、変わった奴みたいだから………」
こういう時、何と話を切り出せばいいか分からない。騙されているのではないかとか、金目当てだと言ったら、それが事実でも話にならなくなるだろう。リチャードは確実に縁より口が巧いのだ。おまけには縁の話など聞きやしない。
そもそもこの手の詐欺は、周りが何を言っても、たとえ詐欺師自身が詐欺行為を自白したとしても、騙された本人は目を覚まさないことが多いと聞く。なんか絶対その手の人間だ。
仮に奇跡的に話を聞いてくれたとしても、話の出所が香蘭だと知ったら、意固地になって余計にリチャードにのめり込むに決まっている。せめて情報源が違っていたなら、もっと簡単に話を進められるのだろうが。
「あんな素敵な人なのに何言ってるのよ。妬いてるの?」
何故縁が嫉妬しなければならないのか理解不能だが、とりあえずはまだ機嫌を損ねていないらしい。この方向でじわじわと聞き出していくか。恐ろしく時間がかかりそうではあるが。
縁は言葉を選びながら、
「妬いているかどうかは別として、何をしているのかよく分からない男だろう。妙な男だったら、俺がお前の父上に殺される」
「失礼ね。リチャードさんはこっちで事業を興そうとしているのよ。財産を相続するだけの貴族とは大違いだわ」
「事業………」
は誇らしげに言うが、縁に言わせると怪しい匂いがぷんぷんする。事業を始めるだの投資の話だの、詐欺師の常套手段だ。
しかし事業の話を持ち出しているのなら、リチャードが本当に実業家を目指しているのか、ただの詐欺師なのか見分けるのは簡単になった。事業資金をから引っ張ろうとしているのなら、詐欺師確定だ。
「資金はあるのか?」
「当たり前でしょ。まだイギリスの銀行にあるから、こっちで下ろすのに時間がかかるらしいけどね」
リチャードを侮辱されたように感じたのだろう。の声が少し不機嫌になった。
しかし、ここで引いては何一つ話が進まない。“資金を現金化するのに時間がかかる”というところが怪しさ満点ではないか。これはどう考えても、から金引き出す伏線である。
しかし“事業”とは大きく出たものである。リチャードがどれくらいの規模を想定して話しているのか分からないけれど、やりようによってはの父親の財産を根こそぎ持っていけるだろう。
これは縁が思っているよりも悪質だ。資金の立替とか上手いことを言って、から金を引き出すつもりに違いない。
ところが、現実はもっと悪質だった。
「それでね、私を共同経営者にしてくれるんですって。ほら、外国人が事業を始めるって大変でしょ? 私が一緒なら、お父様の口利きでもっと資金を集められるし」
気分は既に女実業家らしく、は目を輝かせて語る。共同経営者の言葉で、リチャードとの結婚も確定だと思っているのだろう。
常識的に考えて、十五の小娘が共同経営者なんてありえない。リチャードの真の目的は、父親の名前を使った融資だろう。から財産を引っ張るだけでなく、借金まで作らせるつもりか。いくら何でも、これは酷い。
「お前、それ絶対騙されてるぞ!」
縁は衝動的に大声を上げてしまった。
少しずつ警告していくつもりだったが、そんな悠長なことを言っていられる状況ではない。小金を引っ張ることから始めると思いきや、いきなり大物狙いとは。リチャードは相当切羽詰っているのだろう。
追い込まれた人間がどんな行動をとるか、縁も自分の経験から大体の予想はつく。早いうちに引き離さなければ、金では済まないことになってしまうかもしれない。
だが、こういう詐欺は、警告した人間が恨まれるのが世の常である。案の定、は般若に豹変して大声を上げた。
「馬鹿なこと言わないで! 何も知らないくせに!」
「何も知らないのはお前だろう! その資金とやらは見たことがあるのか? どうせそんなものは無いから、見せたくても見せられないだろうがな。貴族なんて言ってるが、あいつは―――――」
「うるさい! うるさい! うるさいっっ!!」
縁の言葉を拒絶するように、は両耳を塞いで喚き散らす。まあ、この反応も予想していたことだ。
しかし、こうやって全力で拒絶しているということは、も心のどこかでリチャードのことをおかしいと思っているのではあるまいか。本気で信じているなら、何かしら反論をするはずである。
今は、まだ信じたい気持ちと、疑問が鬩ぎ合っているのかもしれない。確実な一押しがあれば、どちらにも転ぶ危険なところだ。ここが縁の正念場である。
「とにかく金の話は引き伸ばせ。それで振られるようなら、やっぱり金目当てってことだ」
の交渉力に期待はできないけれど、時間稼ぎをすればその間に何かしら詐欺師の証拠が見つかるかもしれない。香蘭が何か知っているはずだから、急げばきっと何か掴める。
全力で噛み付かれるかと思ったが、耳を塞いだまま何も言わない。目が覚めつつあるのか、無理やり信じ込もうとしているのか。どちらにしても、この手の詐欺から目を覚まさせるのは長期戦だ。
「お前の父上にも言っておくが、絶対あいつに金を渡すなよ。いいな!」
縁も秘密裡に解決したいから、できれば父親には相談したくない。それは本当に最後の手段だ。
けれど父親の名前を出せば、流石にも自重するようになるだろう。それを期待して、縁は部屋を出た。
堺雅人主演の『クヒオ大佐』を見たんですけど、どうしてあんなのに騙されるんだ? 真面目な映画なんだろうけど、コントにしか見えん(笑)。
しかし結婚詐欺というのは、突拍子も無い設定の方が騙しやすいらしいですね。婚活殺人の木嶋香苗容疑者とか。あれもあらゆる方向で、どうやってそんなに……と興味深いです。