王子さまが来てくれたのよ、世界でいちばん幸せよ。

 に渡された恋愛小説を読んでみたが、半分どころか三分の一で挫折してしまった。本を読む習慣が無いせいもあるが、内容が絶望的に無理なのだ。設定といい、登場人物といい、縁にはどうにも受け入れられない。
 男が億万長者だったり貴族だったりするのは、まあいい。女というものは、そういう男が好きなものだ。だが、こいつらの台詞回しは正気ではない。「好きだ」「愛してる」ならまだしも、まだ恋人でもない女に「君が欲しい」だの、相手の女の性的魅力を滔々と語ったり、どこまで突っ走るのか。きっと男は頭が不自由か、危ない薬をやっているのだろう。
 こんな台詞の羅列に、縁は思わず鎮痛剤に手を出しそうになるところだが、はそうでもなかったらしい。何度も読み返したのか、借りた本はどれもボロボロである。おまけに男の台詞のところに赤線が引いてあり、どうやら深い感銘を受けたようだ。こんな台詞に感銘を受けるなんて、も頭がおかしいか危ない薬をやっているのかもしれない。
 ともかく、の王子様願望の出所は分かった。縁にできることは、この小説の台詞を言うことではなく、本そのものを取り上げることだ。こんなくだらないものばかり読んでいるから、は現実が見えていないのである。もう十五なのだし、現実に引き戻してやる時期だ。
「もう全部読んだ?」
 ノックも無く、が縁の部屋の扉を開けた。本を渡されて以来、こうやって一日に何度も確認にやって来るのだ。他にやることが無いのか、ご苦労なことである。
 縁は持っていた本をテーブルに投げて、
「そんなに読めるか。お前と違って忙しいんだ」
 縁の仕事はの相手だけだから暇といえば暇なのだが、だからといってこんなくだらない本に費やす時間は無い。自分の部屋の掃除をしたり洗濯をしたり、それなりにやることはあるのだ。
 そもそも興味の無い内容なのだから、すいすい読めるわけがない。一頁読み進めるのも苦痛である。きっと縁は十年経っても読破することはできないだろう。
 は呆れた顔をして、
「読書の習慣が無い人は駄目ね。これくらい三日で読めるのが普通でしょ」
「………お前、凄いな………」
 の言うことだから話半分に聞いておくにしても、縁には信じられないことだ。感心はするが、真似たいとは思わない。
 きっとは、一日中こんなものを読んでいるのだろう。軽い洗脳状態になって、性格もおかしくなってしまったに違いない。この手の本が何故有害図書にならないのか、縁には不思議でならない。
「この調子じゃ、次の夜会には間に合わないわ。しょうがないから、今回は赤線の台詞を覚えるだけで許してあげる」
 はどこまでも偉そうだ。この場合、低姿勢でお願いするべきではないかと思うのだが、には無理な芸当なので黙っている。
 無理な芸当といえば、縁も同じことだ。が指定している台詞は、頭痛がしてくるようなものばかりなのだ。これを覚えろなんて無茶すぎる。
 しかも覚えろということは、これを公衆の面前で言えということである。こんなことを言った日には、縁の正気を疑われるではないか。
「いや、無理」
 これ以上ないほどきっぱりと簡潔に、縁は断る。これまで大抵のの要求に応えてきたが、こればかりは無理だ。縁も恥というものは知っている。
 仮に相手が完全無欠の美女だったとしても、こんな歯の浮くような台詞は言えない。まして相手はである。どんな罰だと言いたい。
 案の定、は激怒して、
「何でよ?! 好きな女の子のためならこれくらいいえるでしょ!」
「いつそんなことになったんだよ?」
 この前、のことを好きになれと命令されたかと思ったら、いつの間にか縁がを好きだということになっていたらしい。あまりのことに縁は脱力した。
 解りたくもないが、の頭の中はどうなっているのだろう。恋愛小説の主人公を自分、相手の男を縁と置き換えて読んでいるのだとしたら、ぞっとする。
「そういうのは王子様に言ってもらえ」
「だって、まだ王子様が現れないんだもの。しょうがないじゃない」
「だから王子様が現れるまで待てって」
「だからそれまでは、あんたが代わりなの。いいじゃない、私にこんな台詞を言えるんだから」
 同じ言葉を使っているはずなのに、不思議なくらい会話が成立しない。縁も自分がなにを話しているのか、訳が分からなくなってきた。
 どうやらの中では、縁が彼女に歯の浮くような台詞を言うのは光栄なことらしい。王子様の代役というのも、特に疑問を持っていないようだ。
 そういえば渡された本の中に、偽装結婚を題材にしているものがあった。粗筋だけしか見ていないが、偽装結婚から始まって、男が女を本気で愛するようになるという話は多いようだ。もそのつもりでいるらしい。
「現実っていうのは、こんなくだらない小説みたいにいかないぞ。俺がお前を好きになるとか、絶対に無いから」
 聞きわけの無い子供に言い聞かせるように、縁は一言一言ゆっくりという。ここまでやってもの頭に届いているか怪しいものだが。
「あんた、まだ私の魅力に気付かないの? 高嶺の花だから、最初から諦めてるのかしら。まあ、主人公は素敵な男の人と結ばれるものだしね」
 やはりの頭には届いていなかったらしい。それにしても、どこまでも斜め上な応えだ。
 一体いつからが主人公になったのか。どう考えても名も無い脇役の立ち位置ではないか。何もかもが縁には謎すぎる。
 とにかくの中では、今の状況は“契約結婚”だか“愛のない結婚”らしい。そして近いうちに縁はへの愛に目覚めるか、素敵な男がこの愛の無い関係から救い出してくれるという物語が出来上がっているようだ。本当に、頭から氷水をぶっかけてやりたい。
「俺も王子様を心待ちにしてるよ」
 何を言っても無駄かと諦めて、縁は適当に話を合わせてやる。どうせ王子様なんて来やしないが、奇跡的に奇特な王子様が現れたら、縁もこのくだらない茶番劇から解放されるのだ。そう考えたら、一日も早い王子様の登場をお願いしたい。
「早く来ないかなあ、王子様………」
 まるで自分の王子様を待ち望むような切実な声で、縁は呟いた。





 当然のように夜会までの読破は間に合わなかったが、赤線部分の台詞は覚えることができた。それも、の熱血指導の賜物である。熱血すぎて、縁は何度家出を考えたか分からない。
 あの背筋が痒くなるような台詞を繰り返し音読させられ、感情を込めろだの、果ては表情の指導までされて、縁には拷問のような時間だった。まともな神経をしていたら、あんな台詞は言えない。きっと肉を常食している人間は、精神構造から違うのだろう。
 しかし人間の心理とは不思議なもので、何度もこんな台詞を言わされていると、日常でも王子様のようなことを言わなければならないのではないかと思えてくる。縁は恥を知っているから、そこは踏みとどまっているが。それに、そんなことを言ったらが大喜びするのが目に見えているから、死んでも言いたくない。
「私が合図したら、ちゃんと練習したとおりに言うのよ」
 夜会に向かう馬車の中で、は言葉を変えて何度も念を押す。合図をしたら決められた台詞を言えだなんて、まるで芸を仕込まれた犬のようだ。
 にしてみれば、犬と大差無いのだろう。しかも、物覚えの悪い犬だと思っていそうだ。絶対に失敗は許さないと、表情が鬼気迫っている。
「分かってるって」
 何度も言われすぎると、縁もうんざりしてきた。命に関わるような重大なことならともかく、こんなつまらないことなのだ。夜会はいつも苦痛なのだが、今日はいつにもまして苦痛だ。
「練習通りにいけばいいんだけど………」
 これだけ言ってまだ足りないのか、はまだ心配そうだ。そんなに心配なら、こんなことをやらなければいいのにと縁は思うのだが。
 縁は全くやる気はないが、こんなにグチグチ言い続けられるのも鬱陶しい。を安心させてやる義理は無いけれど、投げやりになって言った。
「あれだけ練習したんだ。何とかなるだろ」





 いつ合図がくるかと、縁はハラハラしながらの様子を見ていたが、夜会が中盤にさしかかっても一向に合図はでない。脈絡も無く言わせるのは不自然だから、も周りの出方を窺っているのだろう。
 このまま台詞を言う機会を見失ってしまえばいいのに、と縁は願わずにはいられない。は言わせたくてうずうずしているようであるが。
 が今夜の主催者と話している隣で、縁は目だけで辺りを見回す。上流とやらの会話についていけないから、が誰かと話している時はやることが無くて困る。
 見える範囲では、今日は香蘭は来ていないようだ。あの女が来ていたら、きっとはここぞとばかりに縁に例の台詞を言わせていただろう。今日もこれからも永遠に来なければいいと、縁は切実に思う。
 と、少し離れたところに見慣れない男がいることに気付いた。こういう席はどこでも大体似たような顔ぶれだから、縁でもすぐに判る。
 ただでさえ常連でない者は目立つのに、その男は西洋人だから場違いな感じが甚だしい。それなりに地位のある西洋人が、上流とはいえ清国人の集まりに来るというのは珍しい。秘境に探検の気分できているのだろうか。あるいは、どこかの雇われ外国人なのかもしれない。
 男は縁と違って社交的なようで、どこかの令嬢と談笑している。彼はあの小説のようなことを言っているのだろうかと、縁はどうでもいいことを考えた。
 縁の視線に気付いたのか、男が令嬢との話を切り上げてこちらに近づいてきた。それこその小説の登場人物にいそうなくらい魅力的な微笑みを浮かべていて、何だか縁には胡散臭く見える。
「西洋人を見るのは初めてですか? 白髪の王子様」
 第一声から失礼な男である。縁も不躾に見ていたから、失礼なのはお互い様か。
「俺は王子じゃない」
 どいつもこいつも王子様王子様と、世間では王子様が流行っているのだろうか。馬鹿にされている気がして、縁は不機嫌になる。
「王子様だなんて、そんな。彼は父に押しつけられた付き添い人ですわ」
 絵に描いたような王子様の出現に、は興奮気味だ。縁と男の間に割って入りそうな勢いである。
 縁が父親に押しつけられた付き添い人だというのは事実だが、婚約者という建前は何処に行ってしまったのか。自分で考えた設定のくせに、は綺麗に忘れ去っているようだ。
 普通なら引いてしまいそうな状況だが、西洋人の王子様は相変わらず感じのいい微笑みを作っている。王子様というのは多少のことでは動じないものらしい。
「私はリチャードといいます。そうですか、ただの付き添い人でしたか。婚約者だと聞いていたので、安心しました」
「………え?」
 リチャードの言葉で設定を思い出したか、は動揺した。見栄のために嘘を重ねるから、そんなことになるのだ。いい勉強になっただろうと、縁は内心ほくそ笑む。
 婚約者を目の前で付き添い人だと言い切ってしまうような性悪なんて、王子様も願い下げだろう。ざまあみろ、と心の中で毒づく縁だったが、リチャードは予想外のことを言い出した。
「それでは婚約者というのは、ただの噂だったのですね。よかった。あなたを一目見た時から、彼の場所には私がいるべきだと思っていました」
「まあ………」
 一体この男は何を言っているのか。初対面でこの台詞は胡散臭いと縁は思うのだが、は馬鹿みたいにうっとりとしている。
 信じられないことであるが、この王子様はに一目惚れをしたのだろうか。に渡された本にはそんな劇的な出会いはあるけれど、現実にはあり得ないことだ。しかも、相手はである。縁は本気でリチャードの頭が心配になってきた。
 ここは縁が、王子様を救う王子様にならなければならないだろう。この男を救ってやる義理は爪の先ほども無いが、他人の不幸を見過ごすわけにもいくまい。
「やめとけ。あんたの手に負える女じゃない」
「女性というのは誰でも、男の手に負えないものですよ。特に彼女のように美しい女性はね」
 正気を疑いたくなる台詞であるが、リチャードは大真面目なようだ。何を食べればそんなことを言えるのか、そんなことを思いつくのか、縁には不思議でならない。
 恋愛小説の台詞は完全な創作だと思っていたが、西洋人はこんなことを日常的に言うのだろうか。だとしたら、近代化というのは大変なことである。こんなことを言わなければならないくらいなら、縁は一生近代化しなくてもいい。
 呆然としている縁の横で、はますますうっとりとしている。王子様のような容姿の男から恋愛小説のような台詞を言われたら、そりゃあ夢心地なのだろう。
 それにしても、初対面の男からいきなりこんなことを言われて、怪しいと思わないのだろうか。いくら一目惚れといっても、何かおかしい。人種の違いを考慮しても、違和感がある。
「なあ、こいつ、何かおかしくないか?」
 リチャードに気付かれないように、縁はさりげなく囁く。は笑顔を作ったままむっとして、
「あんたなんかと比べものにならない素敵な人じゃない。妬いてるの?」
「〜〜〜〜〜〜」
 の耳は調子のいいことしか聞き入れないから、リチャードの不自然さに気付かないのだろう。それはもういいのだが、妬いているというのは縁には心外だ。
 縁がいると心地いい台詞の邪魔をされると判断したのだろう。はさりげなく縁を追い払うように手を振って、
「あなたも他の方にご挨拶をしてくれば?」
 声は可愛らしいが、目が怖い。断ったら何をされるか分からない迫力だ。
 この男がどんな意図でに近付いてきたのか分からないが、本人が邪魔するなと言うのなら黙って従うしかないだろう。本物の王子様であれば縁も万々歳だし、違っていたとしてもいい経験だ。
 縁はリチャードに軽く頭を下げると、その場を離れた。





 他の方に挨拶と言われても、縁にそんな知り合いがいるはずもなく、仕方がないので庭に出ることにした。真っ暗で誰もいないが、快適である。
 それにしても、あのリチャードとかいう西洋人は、何者なのだろう。あの様子では雇われ外国人ではないようだが、それなりに地位のある外国人が出自の怪しいに近付いてくるのも妙な感じがする。普通なら、主催者を介しての対面になるはずだ。それは清も西洋も変わらない。
 本気で言っているのではないだろうな、と縁は思う。黄色い肌の小娘を有頂天にさせて面白がっているのだろう。悪趣味なことである。
「いいの、お姫様を放っておいて?」
 不意に聞き覚えのある女の声がした。
「………来てたのか」
 香蘭は欠席かと思っていたら、外に出ていただけだったらしい。この女が屋内にいたら、縁は絶対リチャードのような台詞を言わされていたことだろう。香蘭に感謝することなんて無いと思っていたが、今日ばかりは心から感謝した。
 それはともかくとして、何故香蘭がこんな所にいるのか。しかも一人である。
「お前こそ何してるんだ? あの男はどうした?」
「あんなの、とっくに捨てたわよ。大人しいだけの男って、あんなにつまらないとは思わなかったわ」
 何があったのか知らないが、香蘭はあの線の細い芸術家風の男との関係を解消していたらしい。この前まで自慢げに連れ回していたくせに、酷い変わり身の早さだ。
 若い男に逃げられたんじゃないかと突っ込みたかったが、とりあえず縁は黙っておいた。こういうことは、思っていても黙っておくのがお互いのためである。
「そんなことより―――――ー」
 男のことは完全にどうでもいいことになってしまったのか、香蘭は全く違う話題を振ってきた。
「あのリチャードとかいう男、早めにお嬢様から引き離した方が良くてよ」
 香蘭の方が先に庭に出ていたのかと思っていたが、どうやらこれを言いたいがために、縁を追いかけてきたらしい。会場では気付かなかったのに、何処から見ていたのだろう。
 香蘭があの男を狙っているのかと縁は疑ったが、どうも様子が違うようだ。純粋に忠告しているらしい。
「あの男を知ってるのか?」
 がどうなろうと知ったことではないが、香蘭が忠告するほどとなると縁も気になる。彼女は基本的に、他人の色恋には口を出さない性質なのだ。
 香蘭は意味ありげに含み笑いをして、
「まあ、長いことこの世界にいると、いろいろとね。ちゃんとお嬢様を守ってあげなさいよ、王子様」
 気になることを言うくせに、肝心なことを話さないのは、香蘭のいつものやり方だ。しかし、わざわざ縁を追いかけて忠告するくらいだから、リチャードというのは相当胡散臭い男なのだろう。
 社交界には時々怪しげな人間が混じっていることがある。縁もその一人だから他人のことを言えた義理ではないけれど、悪質な相手となると厄介だ。
 “を守る王子様”なんて役柄は御免被りたいけれど、考えてみたら縁の一番の仕事はこれである。浮かれきっているにどう話を切り出すか、縁は考えただけで胃が重くなってきた。
<あとがき>
 “ハーレクイン的な台詞を使ってみよう”というのが今回のテーマだったのですが、縁が全力で拒否したので、急遽新キャラ登場です。これでもハーレクインでは大人しい方なんだから、びっくりだ(笑)。
 主人公さんは憧れの台詞を言ってもらって有頂天のようですが、初対面でこんなことを言う男なんて怪しいよねぇ……。
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