どうにもならないことがある。

 社交界の人間関係は狭い。近頃はの父親のような新興の富裕層も参入するようになってはきたが、まだまだ少数派だ。参加を許される人間は固定され、あらゆる人間関係がこの箱庭のような狭い世界の中で繰り広げられる。
 縁を挟んだ香蘭との関係も、この世界ではあっという間に広がってしまった。男女間のもつれというのは、この狭い世界では格好の娯楽だ。
「あの女、どこまで私に恥をかかせれば気が済むのっ?!」
 馬車に乗って早々、は持っていた扇子を壁に投げつけた。
 ある程度の噂の蔓延は予想していたが、まさかに面と向かって噂話を振る者がいるとは思わなかった。言った本人は軽い冗談のつもりのようだったが、言われたは侮辱されたと受け取ったようだ。
 香蘭のところで“いろいろと”勉強してきた男だから、若いにはいい男だとか、年上の女に教えてもらったことを、今度は若い女に教えてやる番だとか、よく考えなくても下品な冗談である。
 言われたはにこやかに聞き流していたが、今の様子を見ると腸が煮えくり返っていたのだろう。よく我慢していたものだ。
「俺は暫く欠席した方が良さそうだな」
 縁がいなければ香蘭の話題が出ることはないだろう。縁としても、夜会に出なくて済むのはありがたい。
 ところが、は眦を吊り上げて、
「冗談じゃないわ! それじゃ私が負けたみたいじゃない!」
 どういう理屈で勝ち負けの話になるのか、縁にはさっぱり解らない。不愉快の種を取り除くのが、の精神衛生にもいいと思うのだが。
 きっと女の世界には、縁には解らない勝負があるのだろう。女たちが争うのは勝手だが、縁を巻き込まないでもらいたい。
「そうだ!」
 急に、が大きな声を出した。
「あんたが私に夢中になればいいのよ。王子様じゃないけど、特別に私を好きになることを許してあげるわ」
「………は?」
 何を言っているのか訳が分からない。
 が、は自分の思いつきに満足しているようで、
「あんたが私に夢中になれば、私はあの婆さんより上ってことになるでしょ? あ、本当の王子様が現れたら、潔く身を引いてね」
 清々しいくらい身勝手な話である。縁が拒否する可能性があるということを考えていないのも凄い。
 今までの自分の行動を省みて、どうして縁がを好きになると思うのだろう。のことだから、“省みる”という知恵がないのかもしれないが。
 あまりのことに、縁は盛大に溜め息をついた。
「無理!」
 好きとか嫌いとか、そういうことは強制されるものではない。気が付いたらそうなっているもので、仕事でも金を積まれても無理なものは無理だ。
 大体、好きになって欲しいのなら、それなりの態度という者があるだろう。しかも理由が理由である。意地でも好きになるものかと思うくらいだ。
 縁の返答に、は心底驚いた顔をした。
「どうして? あんたみたいな男に、私を好きになる権利をあげるって言ってるのよ。光栄に思わないの?」
 どうして拒否されたのか、は本気で理解できないらしい。“好きになる権利”だの、光栄に思えだの、凄まじい勘違いっぷりだ。
「俺にだって選ぶ権利がある」
 縁は憮然として応える。
 縁の好みは、しとやかで控えめで家庭的な女だ。具体的に言えば、巴のような女である。つまり、とは正反対の女だ。
「何それ! あんた、あんな婆さんが好きなの?!」
 縁に拒否されるというのは、には屈辱的なことだったようだ。顔を真っ赤にして金切り声を上げた。
 しかし、を拒絶したからといって、何故香蘭がいいという話になるのか。世の中には星の数ほど女はいるというのに、と香蘭の二択というのは、前途ある縁にはきつすぎる。
「あの女とのことは仕事だ。別に好みなわけじゃない」
「じゃあどうして私を好きにならないの?」
「何であの女かお前の二択なんだよ?」
「だって、あの女が嫌なら、私を好きになるでしょ?」
 まるで話にならない。の頭の中がどうなっているのか、かち割って見てみたい。
 香蘭のことが嫌いだからを好きになるとか、縁はそう単純にできてはいないのだ。人を好きになるというのは、そういうものではない。
「俺が誰を好きになるかなんて、お前が決めることじゃない」
 の王子様願望ほどではないが、縁も恋愛にはまだ夢も希望も持っているのだ。こんなところまでに命令されたくはない。
 頑としていうことを聞かない縁に、も話にならないと思ったらしい。不機嫌に黙り込んだ。





「ああ、もうっ! どいつもこいつも!」
 こんな屈辱は生まれて初めてだ。床についた今でも、腹が立って仕方がない。
 縁が香蘭のお下がりだったというだけでも腹が立つのに、を好きになっても良いと言ってやったのに、あっさりと拒否したのだ。あんなごろつき風情が生意気だ。
 縁のような身分の人間なら、この提案は涙を流して感謝をするべきもののはずだ。こんなに若くて美人で金持ちの娘が相手なのである。縁が必死に努力して、万が一にでもが彼を好きになったら、一気に上流の仲間入りができるというのに。
 香蘭のことは仕事だと言っていたけれど、たとえ仕事でもあの女に媚びを売ることができても、にはできないなんて馬鹿にしている。縁はを、香蘭以下だと思っているのだろうか。あんな婆さんに、若くて美しい自分が負けるなんて信じられない。
 それとも、最近になって西洋のレディたちにちやほやされるようになって、自分の価値を勘違いしているのだろうか。縁をそこまでの男に仕立て上げたのはだというのに。
 よくよく考えたら、金と時間を費やして見た目だけでも縁を紳士に仕立て上げたのは、香蘭ではなくなのだ。あの不作法者を何とか見れるようにしたのは、の努力の成果である。その成果を、以外の誰かが横取りするなんて、あってはならないことだ。
 やっぱり縁は、を好きになるべきだ。そうする義務がある。そうでないと、の今までの努力が報われないではないか。
 そもそも、縁はの“王子様”として雇われたのだ。今の縁はまだまだ“王子様”とはいえないが、まあそこは本当の王子様が現れるまでの繋ぎなのだから我慢しよう。
 香蘭のことを“仕事”と言い張るのなら、のことだって仕事だ。仕事で王子様の役をやれば、そのうち本当にのことを好きになるに決まっている。はこんなにも魅力的なのだから。
 そうとなったら善は急げだ。は寝間着のまま部屋を出た。 





 漸く寝入ったところを叩き起こされて、縁の苛々は最高潮だ。この屋敷では、使用人が寝る権利も無いのか。
「あんたを紳士らしくしたのは私なのよ。解ってるの?」
 さっきからが偉そうに言っているが、眠くて今にも意識を失いそうな縁の頭には入らない。よくもまあ、こんな時間に元気なものだと感心するだけだ。
 夜更かしが当たり前のにとっては、夜明け近いこの時間でも宵の口なのだろう。しかし、まともな人間というのは、この時間はまだ寝ているものだ。
「昼になったら聞いてやる」
 話を打ち切って寝直そうとした縁だったが、に襟を掴まれて強引に起こされてしまった。
「今聞きなさいよ。わざわざこんなところまで来てあげたんだから!」
「………頼んでないし」
 耳元でキンキン怒鳴られて頭が痛い。“来て上げた”なんて、どの面を下げて言っているのか。
 この分では、の要求を受け入れるまで解放されないようだ。次は何をさせるつもりなのか話を聞いていないから分からないが、どうせまた碌でもないことだ。しかも、どうせ縁には“断る”という選択肢は無い。
「分かった。もう全部お前に任せる。言う通りにやればいいんだろ」
 どうせ断れないのなら、わざわざ起きて話を聞く必要は無い。縁は投げやりに応えると、の手を振り払って再びベッドに横になった。今度は襟を掴まれないように、頭から布団を被る。
 まだ何か言ってくるかと思ったが、は黙っている。多分、縁の返事に満足したのだろう。
 これでやっと安心して眠れると、縁はほっとした。





 翌日、から本の山を手渡された。これを全て読めということか。
「………これ、次のパーティーまでに読むのか?」
 渡された本を見ただけで、縁はげっそりした。読書の習慣が無いのに、いきなり洋書である。しかも題を見た感じでは、どれも恋愛小説のようだ。
 何が悲しくて、大の男がこんなものを読まなくてはならないのか。縁が知らないだけで、社交界では男も恋愛小説を読むのが流行っているのだろうか。ずいぶんと軟弱な流行である。
「私の王子様なら、これくらいのことを言ってもらわなきゃ。これを読んで勉強するのよ」
 早くも挫折しそうな縁の様子など目に入らないのか、は上機嫌に言った。
<あとがき>
 縁への要求がどんどんエスカレートしていってますね、お嬢様……。それにしても、年増女か主人公さんかって、縁にはきつい選択だろ(笑)。
 さて、恋愛小説での王子様修行、どうなりますことやら。
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