野分

野分 【のわき】 秋から初冬にかけて吹く強い風。
「ねぇさん、この後空いてるなら食べて帰らない?」
 帰り支度をしながら、郁がいつものように誘ってきた。
「ごめん。今日は一寸約束があるから」
 荷物を鞄に詰め込むが早いか、はそう言い残して部屋を飛び出した。
 いつもならのんびりと出て行くのにこんな帰り方をしたら郁に怪しまれるかもしれないと思ったが、予想外に仕事が長引いてしまったのだから仕方が無い。走って行かなければ、約束の時間に大幅に遅れそうなのだ。
 今日は、蒼紫と食事の約束をしている。あの日以来、彼から手紙を貰うようになり、こうやって時々食事をするようになったのだ。勿論食事だけで終わるけれど、郁以外の人間と食事をするのは新鮮で楽しい。
 蒼紫は相変わらずあまり喋らないけれど、それでも一緒にいると楽しいのだから不思議だ。こうやって待ち合わせ場所に走る間も気持ちが華やいで、顔がにやついているのではないかと心配してしまう。こういう気持ちは本当に久し振りだ。
 全速力で待ち合わせ場所に向かったにもかかわらず、蒼紫は既に随分と待っていたようで、手持ち無沙汰そうに立っていた。
「すみません、随分お待たせしたみたいで」
「いえ、少し早めに来てしまっただけで、約束の時間からはそんなに待ってません」
 息を切らせながら謝るに、蒼紫は小さく微笑んで応える。
 いつもいつも、はこうやって蒼紫を待たせてしまうのだ。比較的時間を自由に使える彼と違い、勤め人のは仕事次第で帰宅時間が変わってしまうから仕方が無いのだが、それでも申し訳なく思う。
「じゃあ、行きましょう」
 蒼紫に促され、は彼と並んで歩き始めた。
 いつもこうやって歩いているけれど、二人の間にはまだ微妙な距離がある。この微妙な距離が多分、そのまま二人の精神的な距離なのだろう。これからこの距離が縮まっていくのか、にはまだ判らない。
 ずっとこのままなのか、それとも少しずつでも近付いていくのか、今は考えなくても良いと思っている。にはまだ癒えない傷があり、蒼紫にも同じように癒えない傷がある。それが消えるまで、先のことは考えない方が良い。
 とはいえ、こういう風に考えるようになったのはにとっては大きな進歩だ。少し前のであれば、そういう風に考えることも、それ以前に男とこうやって会うことも拒否していた。それがこうやって二人で食事に行けるようになったのは、蒼紫のお陰だと思う。
 蒼紫は他の男たちのようにの答えを求めようとしないし、先に進もうともしない。それでいて傍にいてくれて、それがにとっては心地良い。これから二人の関係をどうするかとか、男と女として付き合わなければならないとか考えなくても良いのは、とても楽だ。
 このままの距離でいられれば、きっと楽しいだろう。この距離から近付くことがあっても、それはそれで楽しいと思う。彼ならきっと、を悲しませるようなことはしないはずだから。
「何か良いことでもありましたか?」
 の顔を見て、蒼紫が不思議そうに尋ねた。
「いえ、別に。どうしてですか?」
「何となく楽しそうですから」
「あら、そう見えますか?」
 蒼紫にもそう見えるのかと少し顔を赤らめながらも、はくすくすと笑った。
 が楽しそうに見えるのは、蒼紫と一緒にいるからだ。彼と一緒にいるのは、女友達と一緒にいるよりも楽しいとさえ思う時もある。
 こういう気持ちになるのは自分だけかな、とは蒼紫の横顔を盗み見る。楽しいのが自分だけだったら馬鹿みたいだ。
 楽しそうな表情を期待していたけれど、蒼紫は相変わらず無表情で、何を思っているのか判らない。一寸がっかりしたが、基本が無表情の暗い男だから仕方が無いかなと思い直す。そういう男だから、たまに微笑まれると嬉しいのだし。
 とはいえ、が楽しいのは蒼紫に伝わっているのに、彼は相変わらずの無表情というのは面白くない。この無表情を一寸崩してみようと、は悪戯っぽく笑いながら言った。
「楽しそうに見えるのはきっと、四乃森さんと一緒にいるからですよ」
「えっ………」
 狙い通り、蒼紫は驚いたように目を丸くしてを見下ろした。
 蒼紫は判りにくい男だが、こういうところはとても判りやすくて可笑しい。こういう時は気の利いた冗談で笑って返しそうなものなのに、蒼紫は一寸顔を紅くして目を逸らすだけなのも、純情な感じがして好感が持てる。
 陰気なのは兎も角、顔は良いのだから女慣れしていると思っていたが、意外にそうでもないことも最近になって気付いた。いい歳して女慣れしていない男なんて、とは今まで思っていたけれど、蒼紫を見ているとそういうのも悪くないと思えてくる。女慣れしすぎて他所の女に走る男よりは遥かに良い。
「あ…ああ、それは………ありがとうございます」
 何を言って良いのか分からないのか、紅い顔でぼそぼそ答える蒼紫を見上げて、はまたくすくす笑った。





 蒼紫の誕生日が1月だから何か贈り物を考えておきなさい、と郁に言われた。『葵屋別館』から仕入れてきた情報なのだろうが、自分のことでもないのにそこまで調べてくるなんて、はいつも驚かされる。
 しかし今回の情報はありがたい。いつも食事をご馳走になっているのだから、誕生日というのは礼をするのに丁度良い機会だ。がご馳走するというのは頑なに辞退されてしまうが、物を渡せば突き返されることはないだろう。
 誕生日に贈り物をしていつもの礼をするというのは良い案だと思ったが、よく考えてみたらは蒼紫の好みを知らない。一体何を買えば良いのやら、皆目見当が付かないのだ。
 着物か履物を買おうかと思ってみたが、好みが分からないし寸法も分からない。女なら装飾品というのも考えられるが、男でそれは無いだろう。煙草は吸わないからその手の道具も駄目だし、贈答品の定番である酒も飲まないから駄目だ。
 考えれば考えるほど、選択肢が狭まってくる。ただでさえ男への贈り物というのは女よりも幅が狭いのに、こうなっては話にならない。酒も煙草もやらないというのは感心なのかもしれないが、こういう時のことを考えると酒くらいは飲むようになってもらいたいものだ。
 こう考えてみると、財布というのが一番無難なところだろう。丁度1月だし春財布ということで縁起が良い。それに財布だったら、好みもそう考えなくても良い。
 財布を上げると決めたところで、は休日に店を回ってみることにした。年末年始はゆっくり商品を見るどころではないだろうし、特に年始は皆が春財布を買おうとするから良いものは無くなってしまう。買うのは年始にしても、今なら内金を払って良いものを取り置きしてもらえる。
 しかし一口に財布といっても色々種類があるもので、幾つも見ているうちにどれが良いのか分からなくなってくる。お洒落で使い勝手が良くて、それで蒼紫の雰囲気に逢いそうなものとなると、どういうものが良いのだろう。店員に商品を勧められたりもしたが、どうも今ひとつピンと来ない。
 まあ、誕生日までにはまだ日数があるのである。これからも年始に向けて新商品が続々入荷するとどの店でも言われたし、焦って選ぶ必要もないだろう。
 今日のところはこの辺りで止めておこうと店を出た時、少し離れたところに蒼紫の姿が見えた。背が高いものだから、離れていてもすぐに判る。
 蒼紫はに気付いていないようなので声を掛けてみようと一歩踏み出した瞬間、彼の陰からぴょんと人影が現われた。
「あ………」
 反射的に、は店の中に隠れてしまった。何故隠れてしまったのか自分でも解らないが、何となくこのまま気付かれてはいけないと思ったのだ。
 とはいえ気になるものだから、そっと柱の陰から二人の様子を窺う。
 現われたのは、長い髪をお下げにした甚平姿の小柄な女だった。若い女というより、少女と言った方が良いかもしれない。
 少女は何やら楽しげに喋りながら、子犬がじゃれ付くように蒼紫に纏わり付いている。見たところ、彼とは非常に親しい関係のようだ。
 『葵屋』の誰かだろうかは使用人の顔を思い出してみるが、彼女の記憶には無い。あれだけ特徴のある女なら、忘れるということはまず無いはずだ。ということは、他所の女ということか。
 他所の女となると、一体蒼紫の何なのだろう。郁の話では蒼紫は長いこと女っ気が無いということだったし、『葵屋』での反応を思い返してもそれは間違いないと思う。けれど目の前の蒼紫は紛れも無く女連れで歩いている。しかも、相当親しいと思われる女をだ。
 ひょっとして、周りが知らないだけで、蒼紫にはちゃんと女がいたのではないか。とのことだって、『葵屋』も郁も知らないことである。いい歳をした男がいちいち同居人に自分の女関係を報告するわけが無いし、誰にも内緒で付き合っていたとすれば納得がいく。
 だが、あの蒼紫があんな子供のような女と付き合ったりするのだろうか。好みなど人それぞれなのだから絶対にありえないとは言い切れないが、それにしてもあの少女と蒼紫という組み合わせはありえないと思う。
 ということは、ただの近所の娘なのだろうか。蒼紫だって一応近所付き合いをしているだろうから、誘われて一緒に買い物にでも行っている途中なのかもしれない。
 納得のいく答えが見つかったところで、がもう一度声を掛けようとした瞬間―――――
「……………!」
 少女がぴょんと蒼紫の腕にしがみついてきたのだ。蒼紫も一寸困ったように小さく微笑むだけで、別に嫌がる素振りも見せていない。
 やはりあの二人はそういう仲だったのか。蒼紫とはただの食事友達なのだからが何かを言う権利は無いのだが、それでも一言くらいは言って欲しかった。他に好きな人が出来たら必ず報告すると、互いに約束をしていたのに。そうしたら、だってさっさと身を引くつもりだったのだ。
 ひょっとして、はあの少女の存在を隠すために利用されていたのだろうか。『葵屋』の面々の様子を思い出してみれば、蒼紫があの少女を隠しておきたい気持ちは解らないでもない。でもそれならそれで、にだけは教えてくれても良いではないか。教えられても、は郁にだって黙っているのに。
 実は恋人がいたというのも驚きだったが、それ以上に蒼紫に嘘をつかれていたことの方がには衝撃的だった。誰も好きにならないとか、誰かと幸せになることは許されない人間だとか、あの言葉は一体何だったのか。どういうつもりであんなことを言っていたのだろう。
 まさかとは思うが、と同じ境遇の人間だと思わせて気を惹き付けたところで、あわよくばあの少女と二股をかけようと思っていたのか。だとしたら、あの優しさも一寸した一言で顔を赤らめていたのも、全部演技だったのか。
 考えれば考えるほど、蒼紫が最低な男になっていく。2年前のあの一件以来、初めて信頼できる男に出会えたと思っていたのに、とんでもなく最低で最悪の男だったなんて。そんな男を信頼していたなんて、自分の人を見る目の無さに全身の力が抜けてしまった。
「大丈夫ですか?!」
 突然しゃがみ込んでしまったに、店員が慌てて声を掛ける。
「………すみません、気持ち悪くて………」
 真っ青な顔で、はそれだけ答えるのがやっとだった。
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