踏青

踏青 【とうせい】 野遊び。
 郁が突然、“ピクニック”に行こう、と言い出した。“ピクニック”というのは聞きなれない言葉だが、要するに野遊びのことらしい。
 と違って、郁は外で遊ぶのが好きな女である。ともすると、今日の天気が晴れていたのか曇っていたのかすら判らないような休日を過ごしてしまうを引っ張り出してくれるのだから、どうにか健康的な休日を過ごさせてくれる重宝な友人だ。
 折角の休みなのに外に出て疲れるなんて面倒臭いとは思うが、付き合いというのも大事だ。それに、たまには“健康的な休日”というものを過ごすべきなのかもしれない。いつも郁には、棺おけに片足突っ込んだご隠居さんみたいな生活して、と叱られているのだ。
 というわけで、は弁当を持って待ち合わせの馬車乗り場に行ったのだが―――――
「…………………」
 このピクニックの面子は、郁と彼女の恋人の富崎という話だった。なのに、話に聞いていない面子が約一名いる。
 風呂敷に包んだ重箱を抱えたまま唖然としただったが、すぐに気を取り直して、郁を乱暴に少し離れたところへと引っ張っていく。そして小声で、
「何であの人が来てるのよっ?!」
 聞いてない最後の面子は、『葵屋』の若旦那こと四乃森蒼紫だったのだ。彼も何故自分が此処にいるのかよく分かっていないらしく、困惑顔で重箱を抱えて突っ立っている。
 大方、郁が『葵屋』を巻き込んで蒼紫を連れ出したのだろうが、彼の様子を見ると誘われたから来たというより、騙し討ちのように連れ出したと見て間違いない。郁も郁だが、『葵屋』も『葵屋』だ。に恋人を、とか、『葵屋』に若女将を、と必死になって努力しているのだろうが、努力の方向性が間違いすぎて怖いくらいだ。
「だって、遊びに行くなら3人より4人の方が良いでしょ。2対2になるし」
 全く悪びれる様子も無く、郁は意味ありげににやりと笑う。
「2対2って………」
 どういう組み合わせでの2対2なのか。と郁、蒼紫と富崎という組み合わせではないことだけは確かだ。
 『葵屋 別館』に『葵屋』に富崎と、巻き込まれる人間がどんどん増えていっている。このまま一体何処まで関係者が増えていくのだろうと思うと、は頭が痛くなってきた。
「絶対楽しいって。そんな固く考えないで。一緒に遊ぶだけなんだから」
 宥めるように郁はそう言うと、膨れっ面のを引っ張って男たちの方へ駆け寄った。





 馬車の中で蒼紫に聞いたところ、彼もまた訳の判らないままピクニックに参加させられてしまったらしい。郁から行楽弁当の注文を受けて使用人と二人で馬車乗り場まで持ってきたところ、折角だから一緒に行きましょうと郁と富先に二人がかりで誘われ、使用人まで折角だから一緒に行ってらっしゃいと強く勧めるものだから、何となく弁当と一緒に残ってしまったのだそうだ。
 楽しそうだから付いてきたというわけはなく、わけの判らないまま置いて行かれたというところが、彼のヘタレ度合いを表しているようで、は微妙な気分になってしまう。無口だけれど我が強い男だと思っていたが、人は見かけによらないらしい。
 それにしても、たかだか弁当を届けるのに使用人と若旦那がやってくるなど、どう考えても変だ。弁当の配達など使用人一人で足りる用事である。恐らく、この件には『葵屋』も一枚噛んでいたのだろう。本格的に囲い込まれていく気がして、はまた頭が痛くなってきた。
 この人はこの状況をどう思っているのだろう、と隣に座っている蒼紫の様子を盗み見る。が、彼はぼんやりと窓の外を見ていて、何も考えていないようだ。否、彼なりにいろいろ思うことがあるのかもしれないが、無表情のせいで全く感情が読めない。
 前に少し話した時は恋愛に積極的に興味を持っているようには見えなかったのだが、やはり機会があれば、と思っていたのだろうか。だから、勧められるままにピクニックに参加することにしたのか。自分と同じように蒼紫もこの状況を鬱陶しいと感じていると思っていたのに、には訳が分からなくなってきた。
 そうこうしているうちに、公園に着いた。此処は明治になって整備された公園で、広い池でボート遊びができるということで人気の場所だ。ボート遊びをしながら、鴨に餌をやることもできるらしい。
「人多いわねぇ。ボート乗れるかしら」
 白い日傘を広げ、郁は辺りを見回す。彼女はハイカラ好きで、こういう舶来品をよく持ち歩いている。
「少し時間をずらしたら乗れるんじゃないか? 先に弁当食ったら丁度良いだろう。あ、あそこの木の下が良さそうだ」
 富崎が指した先に、丁度いい感じの広い木陰があった。
「そうね。ねえ、後でボートに乗りましょうよ。水の上は涼しいし、鴨が寄って来て面白いのよ」
「ボートは………」
 木の下に敷布を敷きながらはしゃいだ声で提案する郁に、蒼紫が少し困った顔をした。恐らく、ボートなど乗ったことが無いのだろう。
 も同じく困ったような微妙な表情を見せる。彼女は郁に誘われて一度だけ乗ったことがあるのだが、一寸動いただけで揺れるものだから、いつ転覆するかとひやひやしたものだ。郁が言うほど楽しいものではなかったように思う。
 しかし郁も富崎もボートは楽しいと思っているようで、今から楽しそうにどの色のものに乗ろうかと話し合っている。富崎もハイカラ好きの男のようだから、ああいう舶来の遊びは好きなのだろう。
 富崎は郁と付き合っているだけあって、ハイカラ好きは勿論、社交的で男の割には話好きの性格のようだ。話題も豊富なようで、口数の少ない蒼紫にも様々な話題を振ってくる。その度に蒼紫はぽつぽつと答えるが、彼の方から積極的に話すことは無い。
 かといって、富崎を嫌っているとか鬱陶しいと思っているわけでもないようで、無表情ながらもそれなりに会話を楽しんでいるようだ。人付き合いは苦手だが、人間嫌いというわけではないらしい。
 気が付けば、は常に蒼紫を観察している。別に好きとかどうとかいうわけではないのだが、何となく様子が気になってしまうのだ。
 そんな彼女の視線の動きに、目敏い郁が気付かないわけがない。男は男同士、女は女同士、とばかりに彼女はさり気なく席をずらしてに張り付く。
「やっぱり四乃森さんが気になる? 後でちゃあんと二人きりにさせてあげるから安心しなさいって」
 笑いながら耳打ちされて、は危うく御飯を喉に詰まらせそうになってしまった。
 蒼紫のことをちらちら見ていたのはも認めるが、別に郁が思っているような理由で見ていたわけではない。今まで接してきた男とは違う、何を考えているのか全く読めない男だから、何を考えているのだろうと気になっていただけだ。別に恋愛感情で見ていたわけではない。
 恋愛感情ではないのだから、二人きりにされても困ってしまう。話好きの富崎が相手でも大して盛り上がっている様子も無いのに、彼ほど話題豊富ではない彼女が相手では更に盛り上がらないのが目に見えているではないか。盛り上がらないだけならまだしも、白けて気まずくなっては目も当てられない。
「別に私は………。話題も無いのに二人きりなんてしないでよ。そりゃあ、郁さんは富崎さんと二人きりになりたいだろうけど」
「だから、2対2になるようにしたんじゃないの。大丈夫だって。話題なんていくらでもあるから」
 の皮肉もさらりと聞き流して、郁は何でもないように答える。
 話題なんていくらでもあるなんて、郁のように社交的な性格で、富崎のように話題豊富な恋人がいるから言える台詞だ。特に社交的というわけではないと、何を考えているのか判らない無口な蒼紫の組み合わせでは、そんな言葉は当てはまらない。
 郁は恵まれているから、そんな気楽なことが言えるのだと、は一寸僻みっぽく思う。富崎のような話し上手で優しくて、おまけに男前な恋人がいて、彼女自身も常に人の輪の中心にいて、ハイカラな小物を持ち歩いて、この世の春を謳歌しているように見える。
 恋をしても、それを終わらせるのは常に郁の方からで、のように手酷い傷を負ったことなんか無い。だから何も考えずに気楽なことが言える。だから平気で次の恋を勧めることができる。傷を知らないというのは、屈託無く他人に残酷になれるということだ。
 そこまで考えて、なんて自分は嫌な女なのだろうと、は自己嫌悪に陥ってしまう。郁は郁なりに一生懸命気を遣ってくれているのに、こんな僻み根性丸出しのことを考えて、最低だ。
 随分と嫌な女になってしまったものだ。昔はこんなではなかったはずなのに。いつから自分はこんな女になってしまったのだろう。
 の内心など思いもよらぬように、郁は呑気に言った。
「大丈夫よ。きっと上手くいくわ」





 早めに昼食を済ませたにも拘らず、ボートは一隻しか空いていなかった。世間はが思っているよりもボート好きが多いらしい。
 そんなわけで、最初から楽しみにしていた郁と富崎にボートは譲って、そうでもないと蒼紫は陸に残ることになった。郁の狙っている“二人きり”とは一寸違うが、まあ一応“二人きり”である。
 気が付けばどんどん郁の策略にはまっているようで、この状況はにとっては甚だ不本意なものであるが、兎も角蒼紫がボートに興味の無い人間で良かったと思う。彼と池の上で二人きりというのは、さすがに気まずい。水の上よりも陸の方が話題が作りやすいような気がするし、何より精神的な逃げ場があるような気がする。
 陸から遠く離れたところに、郁たちが乗っているボートがある。彼女がくるくる回している日傘が目印だ。舶来品が流行っているとはいえ、あんな日傘を差しているのは彼女くらいなものだ。
 ゆっくりとボートを漕いでいる富崎と、寄って来る鴨に餌を投げ与える郁の姿は、とても楽しそうだ。遠目で見ても二人の姿は幸せな恋人たちといった感じで、恋する気力を失って久しいでも少し羨ましいと思う。
 郁はきっと、自分の幸せを仲良しのにも味わって欲しくて、蒼紫を一生懸命勧めているのだろう。それは解っているのだが、やはりその気の無い蒼紫を巻き込むのは良くないとは思う。その気も無いのに勝手に話を持ってこられる辛さは、がよく解っているから、尚更そう思う。
「四乃森さん」
 楽しげに戯れる二人を眺めている蒼紫に、思い切って声を掛けてみる。
「ご迷惑だったんじゃないですか? 急にこんなことに巻き込んでしまって」
「どうしてですか?」
 の問いに、蒼紫が心底不思議そうな顔をした。
 突然誘われたのは確かに驚いたが、迷惑だとは思わなかった。何か予定があったわけでもなし、帰ったところで本を読むか帳簿を付けるかするくらいである。使用人からも一緒に行けと言われたから、たまには健康的に外で過ごすかと付いてきただけだ。
 蒼紫は迷惑とは感じなかったが、は迷惑だと思っていたのだろうか。そういえば弁当を食べている間中、彼女はにこりともしていなかった。
「もしかして俺が来たのは、迷惑でしたか?」
「えっ?! や、そんな………」
 予想外の切り返しに、は真っ赤になって否定する。
 蒼紫が来たのが迷惑なんて思っていない。一緒に行くと言われた時はびっくりしたが、彼の存在が迷惑だとか厭だとは思っていない。
 迂闊なことを言って厭な思いをさせてしまったのかと思うと、はますます気まずくなってしまう。蒼紫はいい人で、色恋を抜きに考えれば親しくしたいと思える人なのに。
「そうじゃないんです。私のせいで、四乃森さんがどんどん追い詰められてるんじゃないかって。今日のことだって多分、最初から郁さんと『葵屋』さんの間では話が出来てたんだと思いますし………」
「ああ………」
 済まなそうに俯いて言うの言葉に、蒼紫は納得したように小さく声を上げた。続けて、これ以上望めないほど優しい声で、
「それは弁当を持って行く時から何となく気付いてました。それにこの件はあなたのせいというわけではないのですから、そんなに気に病まないで下さい」
「でも―――――」
「それに、俺がいるうちは郁さんも他の男を勧めることはしないでしょう。こちらも紹介の話が急に無くなって助かっています。さんに好きな人ができるまで、お付き合いしますよ」
「………………………」
 優しい口調で言ってくれるその言葉は、多分本心なのだろう。けれど、それだけには余計に心苦しくなる。
 他に好きな人ができるまで、と言ってくれるけれど、多分はもう誰かを好きになることは無いと思う。「好きな人が見付からない」のではなく、「人を好きになるのが怖い」のだから、いつまでも蒼紫を縛り付けることになってしまう。
 蒼紫はいつかに好きな人ができると思っているから気楽に構えているのだろう。だから優しく言ってくれるのだし、『葵屋』のを若女将に攻撃も軽く流そうと思えるのだ。けれど、彼の望む結末は多分来ない。
 だからは、勇気を出して言う。
「私は多分もう、誰も好きになりません」
「………え?」
 の告白に、蒼紫は軽く目を見開いて彼女を見た。が、は視線を落としたまま、蒼紫のほうを見ようともせずに言葉を続ける。
「昔、結婚の約束をしていた人がいました。両親にも紹介して、結納の日取りを決めるという時になって、急にこの話は無かったことにしてほしいと言われたんです」
 あの日から二年過ぎるというのに、そのことを話そうとすると未だに声が震える。一方的に約束を反故にされたことが悔しいとか悲しいとか、そういうはっきりとした感情は無いけれど、今でも言葉にしようとすると喉が詰まったように苦しくなる。
 男から結婚は出来ないと言われた時、は泣かなかった。ただ驚いて、呆然としたまま頷いていたと思う。の親も郁も話を聞いて激怒したけれど、その時も泣きもせず怒りもしなかった。そんな自然な感情さえも壊れていたのかもしれない。
 全てを始末して落ち着いた後も、泣くことは無かったように思う。その様子を見て周囲は完全に吹っ切ったのだと安心したようだったが、本当は心と身体がばらばらになって、自分の身に降りかかってきたことにも拘らず、芝居でも見ているかのように現実感が無かっただけなのだ。
 結局、あの件に関しては一度も泣くことも無く、今日まで来てしまった。一度でも泣いていれば、たとえば男の前で泣きながら相手の不実を詰っていれば、今とは違う今日があったのかもしれない。そう思ってはみても、今更どうしようもないことであるが。
 泣くことで感情を整理し、男を詰ることで決着を付けることができていたなら、次の恋に踏み出すことができたのだろうか。誰かを好きになって、また裏切られるのではないかと怯えることは無かったのだろうか。にはもう判らない。
 隣で蒼紫が固まっているのが、雰囲気で判る。こんな話は、よく晴れた今日のような日にはそぐわない。
 このまま話を続けて良いものかとは迷ったが、ここまで話したら最後まで話さなければならないような気がしてきた。蒼紫がどう思おうが、この状況に巻き込んでしまった責任として、全てを話すのが義務のように思えてくる。そのことによって蒼紫がどんな反応を見せようと、は受け入れなければならない。
 一つ深呼吸をして、はゆっくりと口を開いた。
「後で知ったことですけど、その人には遠縁の女性との縁談が持ち上がっていたそうです。実業家のお嬢さんだったそうで、そこの婿養子に入る話が進んでいたらしくて………。要するに、二股かけられていた上に、出世のためにあっさりと捨てられたわけです。よくある話ですよね」
 話しているうちに何故か可笑しくなって、は喉の奥で低く笑う。
 こんなことを話すなんて悲劇の主人公ぶっているような気がした。男に二股を抱えられて捨てられるなんて、よく考えたら何処にでも転がっているような話だ。どこにでも転がっているようなことを2年経っても乗り越えることができないなど、自分がどうしようもなく弱い人間のように思えてきた。
 そう、こんなことさえ乗り越えられないなど、弱い人間なのだ。郁がさっさと忘れろと何度も言うのは正しい。忘れられないの弱さは、責められるべきものなのだ。
 それは痛いほど解っている。頭では解っているけれど、心がついていかない。郁の言う通り、さっさと新しい恋を見つけて乗り越えなければならないのに、心は2年前で固まっているのだ。
「もう2年も過ぎたのですから、さっさと忘れないといけないんですけどね、なかなか………。いつまでも引き摺っているなんて、情けない限りなんですけど」
 重苦しくなってしまった空気を振り払うように、はできるだけ明るい声を出して蒼紫を見上げた。
 けれど、蒼紫は何か考え込むようにむっつりと黙り込んでいる。こんな話をされて、どう反応して良いか分からないのだろう。
 やはり話さなければ良かったと、は今更ながら後悔した。知り合いというほどの仲でもないのに、いきなりこんな重い話をするべきではなかったのだ。
 この重すぎる空気をどうかしなければと思うが、この流れでいきなり話題を帰るのも不自然な気がして、も黙り込んでしまう。時間が経てば経つほどますます気まずくなるのは分かりきっているのだが、それでも何も言えない。
 どうしようかと考えていると、蒼紫の方が口を開いた。
「たった2年では、そう簡単に忘れられないでしょう。心の傷は身体の傷よりも治りが遅いものですから。そう簡単に吹っ切れるものではありません」
「え………?」
 労わるような蒼紫の声に、は驚いて彼を見上げた。
 微かにではあるが彼は微笑んでいて、その声と表情に、の心にずっと乗っていた重石のようなものが少し軽くなったような気がした。
 郁も他の友人も親も、あのことは早く忘れろと言った。いつまでそんなことを引き摺っているのか、とも。だから一日も早く忘れて吹っ切ってしまおうと、いつも努力していた。それが逆にあのことを何度も思い出させる結果になってしまっていたのに、忘れられない自分を責めて、とても苦しかった。
 だからこそ、忘れられなくて当たり前だと言ってくれた蒼紫の言葉が嬉しかった。慰めもも労りも無い何気無い言葉だけれど、今まで言われてきた言葉の中で、一番心の力が抜ける言葉だった。
「私、ずっとこのままでもいいのでしょうか?」
 ずっと張り詰めていた緊張の糸が緩んだように、は呆然としたような頼りない声を出す。
 それに対し、蒼紫は相変わらず目許だけで小さく微笑んで、
「先に進むことは大事でしょうが、急ぐ必要は無い。吹っ切ることができないなら、吹っ切れるまで休めば良い。あなたはまだ若いのですから、いくらでも時間はある」
「それは………」
 それはずっとこのままでも良いということなのだろうか。このままずっと、傷が癒えるまで立ち止まり続けても良いということなのだろうか。
 蒼紫は、に好きな人ができるまで、このままこの茶番に付き合い続けてくれると言ってくれた。このまま立ち止まり続けるということは、それだけの期間を蒼紫に甘え続けるということだ。彼はそれを許してくれるのだろうか。
「四乃森さんは、それでも良いのですか? 私が先に進めないということは、このままずっと四乃森さんを巻き込み続けることに―――――」
「良いですよ」
 の言葉を遮って、蒼紫は優しく言う。
「利用できるものは何でも利用してください。俺がいることで時間稼ぎになるなら、いつまでも付き合いますよ。あなたが迷っている間は、俺にとっても時間稼ぎになりますし」
 最後の言葉は冗談のつもりなのか、蒼紫は小さく笑った。
「………………」
 こういう時、何と言えばいいのかには分からない。普通に礼を言えば済むのかもしれないが、蒼紫がしてくれようとしていることは、“ありがとうございます”という言葉だけでは足りない。
 こんなことに巻き込まれるだけでも迷惑だろうに、のことを守ろうとさえしてくれる。それなのに、にはお返しできることは何一つ無い。
 自分の弱さが情けなくて悲しい。それよりも、守ってくれる蒼紫に何も返すことができない無力さが腹立たしい。
「四乃森さん」
 何か言わなければと思うのだが、言葉が出ない。言葉は出ないのに涙が出そうになって、それを堪えるために目に力を入れる。
 蒼紫の言う通り、彼の優しさに甘えさせてもらえるのなら、少しだけ甘えさせてもらおう。彼に甘えて少し休んだら、そのうち昔のことも吹っ切れる日が来るかもしれない。
「………ありがとうございます」
 涙を見られるのが怖くて目を上げられない代わりに、は深く頭を下げた。
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