緑青

緑青 【ろくしょう】 くすんだ緑色。寺院の装飾や彫刻に用いられる。
 玄関の戸を叩く音がした。
 約束も無いのに誰かが訪ねてくるなど珍しい。怪訝に思いながら、は玄関を開けた。
「………あ」
 そこに立っていたのは翁だった。彼がこの家に来るのは初めてのことである。
 蒼紫と会わなくなって数ヶ月、『葵屋』の人間と会うのは初めてのことだ。もう二度と会うことは無いと思っていただけに、翁の訪問には驚きを隠せなかった。
 言葉を出せずに固まっているに、翁は深々と頭を下げた。
「もっと早くにお伺いするべきじゃったのでしょうが―――――否、儂が口出しするのはご迷惑なのは解っておりますが………。少しよろしいでしょうか」
「……………………」
 もう終わってしまったことを、今更何を話すことがあることがあるのだろう。漸く気持ちの整理がついて、蒼紫のことを考えることも少なくなったというのに。
 相手が誰であれ、にはもう蒼紫のことを話す気は無い。翁は二人の縒りが戻ることを望んでいるのだろうが、蒼紫にその気が無いのなら何を話し合っても無駄なことだ。それどころか、やっと忘れかけている気持ちを思い出してしまいそうで、には苦痛なだけだ。
 だが、わざわざ訪ねてきた老人を追い返すのは、どんな理由があるにしろ気が引ける。このまま何も言わずに追い返したところで、翁も納得しないだろう。
「此処で立ち話も何ですから、どうぞ」
 もう元に戻ることはないと翁に伝えれば、全部吹っ切れるかもしれない。は翁を家に招き入れた。





 じりじりと炙られるように暑い。いつもは静かな寺の墓地も、この季節だけは蝉が大音量で鳴き続けている。まるで蝉の大群に四方を囲まれているかのようだ。
 水を張った桶を地面に置き、蒼紫は墓の前に跪いた。
 この墓の中には、般若たち四人の部下が眠っている。そして今日は、彼らの月命日だった。
 あの日から一年以上が過ぎた。蒼紫にも『葵屋』にも色々なことがありすぎた一年だったが、墓を建て、一周忌の法要も無事に済ませることが出来たことで一つの区切りが出来たと蒼紫は思っている。
 一通りの儀式を済ませる間に、少しずつではあるが気持ちの整理も出来てきている。まだ翁の言うような“自分のための人生”とやらは考えられないが、それでも一頃よりは精神状態も良くなった。納骨や法事は、死んだ者のためだけではなく、残された者のために行なわれるものなのかもしれない。
 死んだ者に対する一応の区切りはついた。それでは生きている人間に対してはどう区切りを付ければ良いのだろう。
 これで終わりにしましょうとに告げることで、彼女への思いは完全に断ち切れると思っていた。終わりを宣言すれば、全ての任務は完了する。それと同じように、終わりを宣言すればに関する全てのことは終了するはずだった。
 けれど実際は、何一つ終わってはいない。考えまいとすればするほどの様子が気になり、余計に忘れることが出来なくなってしまう。自分から別れを切り出したくせに、今頃郁から新しい男を紹介されているのではないかと気になって仕方が無い。
 今更元に戻ることなど望めないが、せめて傷付けてしまったことだけは詫びたいと思う。翁の言う通り、死んだ人間のことばかり思い、生きている人間を蔑ろにするのは如何なる事情があれ、許されることではないのだ。
 きちんとした形でに詫びることができれば、蒼紫の中で決着をつけることが出来るだろう。死者を弔う一連の儀式と同じく、そうすることで気持ちの整理が付くはずだ。
 そのためには手紙ではいけない。直接会って、の顔を見て話さなくては。
 今更どの面下げて会うのかと郁あたりから罵られそうだが、それでも会って詫びなければ意味が無い。たとえ話を聞いてもらえなくても、ただ会うために会いたい。
 自分の思いに、蒼紫は唖然とした。謝ることではなく、会いたいという思いが何よりも強いとは、どこまで自分本位なのだろう。自分の都合で別れを告げておきながら、またに会いたいなど、一体どこまで彼女を振り回そうというのか。
 やはりに会うべきではない。彼女に謝罪したいというのも、蒼紫の自己満足に過ぎないのだ。このまま会わずに気持ちが風化していくのを待つのが、二人にとって一番良いことだろう。少なくともにとってはそうに決まっている。
 結局、自分は中途半端な人間なのだと改めて思う。御頭としても、一人の男としても。
 何に対しても中途半端な人間なら、は蒼紫から離れられて良かったのだろう。蒼紫と離れて、今度こそ彼女の心の傷を本当に癒せる男に出会えればいいと思う。
 そう自分に言い聞かせるが、それでもに会いたいという気持ちは治まらない。会ったところで今更何も出来ないが、それでも会いたい。
「―――――四乃森さん」
 不意に背後から女の声がした。緊張しているのか、震えるような些か強張った声だが、紛れも無く彼が一番聞きたいと願った女の声だ。
 だが、彼女がこんな所にいるはずがない。此処に来る理由も無いはずだ。
 あれほど会いたいと願っていたはずなのに、実際に声を聞くと振り返ることすら出来ない。一体どんな顔をして振り返ればいいのか、そして何より、振り返ればその途端にの姿が掻き消えてしまうのではないかと恐ろしかった。
 身動ぎもしない蒼紫の背中に、の静かな声が降りかかる。
「翁さんから今日は此処にいらっしゃると伺いました。そのお墓に入ってらっしゃる方々が、その―――――」
 そのまま、は言葉を飲み込むように口を噤んだ。それ以上口にするのは、蒼紫の心の傷に踏み込むことになると解っているのだろう。
 翁から何と説明を受けたのか蒼紫には解らないが、当たり障りのない程度には聞かされているらしい。どう表現すれば良いのか迷っているのか、蒼紫の言葉を待つように押し黙っている。
 蝉の声が一際大きくなった。陽射しも急にきつくなったように感じられる。皮膚がチリチリと痛み、強すぎる光で目の前が白く褪せていくように見えた。
 耐え切れぬように、蒼紫は大きく息を吐いた。あまりの暑さに吐息が冷たく感じられる。
「部下です。俺が、殺した―――――」
 暑さに中てられたのか、蒼紫の身体がぐらりと揺れた。





「どうぞ」
 が冷たい水の入った湯飲みを差し出した。
「ありがとうございます」
 寺の座敷の柱に凭れ掛かったまま、蒼紫は湯飲みを受け取る。
 外にいた時よりは楽になったが、それでもまだ身体の中に熱が籠っているような気がする。熱は籠っているのに頭は冷えていて、うまく血が巡っていないような妙な感じだ。
「軽い暑気中りのようです。今日は暑かったから………」
 水を一口飲んで、蒼紫は囁くような小さな声で言った。
「本当に、今日は暑いですね。暑くて自分が何をしているのか解らなくなってしまうくらい」
 まだきつい陽射しの外を軽く見遣って、も囁くように静かに言う。
 翁から蒼紫の昔話を聞かされた。全てを包み隠さず話してもらったとは思っていないが、語られたことに嘘は無いと思っている。その出来事が蒼紫にとってどれほど大きな傷を残したか、には想像できないほどだ。
 ずっと前、蒼紫は自分のことを「誰も幸せにすることができない人間」だと言っていた。あの時は何を言っているのかには全く解らなかったが、そういうことだったのかと漸く理解できた。長い間共に過ごしてきた部下を目の前で殺され、しかもそれが自分を庇ってのものなら、そうして生き延びてしまったことに罪の意識を覚えてしまうのは、蒼紫の性格では無理も無いことなのかもしれない。“殺した”という表現も、その罪の意識が言わせているのだろう。
 その事件が蒼紫の心に暗い影を落とし、そのせいでに心にも無いことを口走ったのだと翁は言っていた。蒼紫が“心にも無いこと”を言ったのかどうかには判らないが、もしそうならもう一度やり直したい。自分に蒼紫の心の傷を癒せるかどうか判らないが、傍にいることが出来るのなら傍にいたい。
 そう思う一方で、迷いがあるのも自覚している。が傍にいたいと望むことが蒼紫の重荷になってしまうのではないか、傍にいることで要らぬ気遣いをさせてしまうのではないかとも思う。誰かを幸せにすることができない人間だから、と蒼紫がから離れることを決めたのなら、それでも傍にいようとするは“重い女”だ。ただでさえ思い詰める性格の男なのに、自分の存在で更に思い煩わせたくはない。
 戻れるものなら戻りたい。けれど蒼紫にとって重荷になってしまうのなら、今ここで完全に終わらせてしまいたい。戻るために来たのか諦めるために来たのか、こうして蒼紫と向かい合っている今でもには判らない。
「翁が何を言ったのか知りませんが―――――」
 湯飲みの中の水を見詰めたまま、蒼紫が徐に口を開いた。
「俺の気持ちは、以前お話した通りです。あなたには俺なんかよりももっとあなたに相応しい人を探して欲しい」
 会いたいと切望していたけれど、やはりの顔を見ると同じ事を繰り返してしまう。を失いたくないと思う一方で、彼女を受け止めることに怖気づいてしまうのだ。
 の傍にいられるのなら、ずっと傍にいたい。彼女と穏やかに時を積み重ねることが出来るのなら、そうしたい。だが、守りたかった部下を楯にして生き延びてしまった人間に、そんなことが許されて良いはずがないではないか。しかも蒼紫は、既にを傷付けてしまっているのだ。そんな男に、彼女を幸せに出来るはずがない。
「あなたを傷付けてしまったことは謝ります。謝って済むことではありませんが、申し訳ないとしか言いようがありません。あなたは何も悪くない。だから―――――」
「そうやって勝手に結論を出すの、やめてくれませんか? 四乃森さんはそれで良いかもしれませんけど、私は―――――」
 強い声で蒼紫の言葉に割り込んだものの、そこから続かなくてはそのまま黙り込んでしまう。
 あなたは悪くないとか、自分よりも相応しい人を探して欲しいとか言われても、も簡単に納得できない。それならいっそ、会うのが嫌になったと言われた方が、その時は辛くても諦めがつくというものだ。中途半端に優しくされるのは、かえって引き摺ってしまう。
「私が嫌になったのなら、はっきりそう仰って下さい。そしたらもう二度と四乃森さんの前には現れませんから。翁さんに何を言われても、絶対に会いに行きませんから」
「それは―――――」
 の悲痛な声に、蒼紫は口籠もってしまう。
 別れを決めたのは、のことが嫌いになったからではない。彼女のことは今でも大切な人だと思っている。大切な人だからこそ、自分よりももっと相応しい相手と幸せになって欲しいと思っているのだ。
 自分のように誰かの犠牲の上に生き長らえている人間、修羅に堕ちてかつての仲間に刃を向けた人間は、には相応しくない。誰よりも大切な人だからこそ、そういうこととは無縁な男と幸せになって欲しい。
「俺とあなたは住む世界が違う人間なんです。そんな人間がいつまでも一緒にいてはいけない」
「住む世界? 四乃森さんが老舗の跡継ぎで、私が何の財産もない普通の家の女だってことは、最初から解っていたことじゃないですか! そりゃあ確かに私は老舗の女将になれる器じゃないですけど―――――『葵屋』さんが望むような女じゃないことは解ってますけど―――――」
「そうじゃない!」
 思わず蒼紫は大声を出してしまった。それまでとは打って変わった激しい反応に、はぎょっとして固まってしまう。
 大きく目を見開いたまま見詰めるの顔にはっとして、蒼紫は気まずそうに視線を逸らした。そして仕切り直すように静かに話し始める。
「『葵屋』とか若女将とか、そんなことは関係無い。俺自身があなたには相応しくない、あなたとは違う世界の人間なんです。解ってください」
「………あのお墓の中の方たちのことですか?」
 躊躇うようにぎこちなく、は言った。
 蒼紫にとって辛すぎる出来事だから、そのことには触れないようにしようと思っていた。けれど今の彼を見ていたら、そのことを避けていては先に進めないと痛感した。翁から話は聞いていたが、が思っていた以上に蒼紫は“あの出来事”に囚われている。
 自分だけが生き残ってしまうというのがどういうことなのか、には解らない。解らないけれど、想像を絶する苦しみの中で生きてきたのだろうということだけは解る。自分を庇うために四人もの人間が死んでしまったということ、自分の“今”は四人の人間の命の上に成り立っているという事実は、今までもこれからも決して消えることは無い。
 四人の犠牲の上に今があるということは、忘れてはいけないことだとも思う。けれど、そのことに囚われ続けて自分の未来を見ないのでは、四人も何のために自分を犠牲にしたのか解らなくなってしまうだろう。
 “あの出来事”以来、蒼紫の時間は死んでいった者たちの為に費やされてきた。だからこそこれからの時間は蒼紫自身の為に使われるべきだと、翁も言っていた。もその通りだと思う。蒼紫の人生なのだから、誰のためでもなく彼自身のためだけに使って欲しい。
 過去の大きな事件に囚われて一歩も踏み出せない気持ちは、にも解る。それはほんの少し前の彼女自身の姿だから。蒼紫の身に起こった出来事との破談は全く比べものにならないけれど、過去の傷ばかり見て未来を見ようとしなかった姿は同じだ。
 けれどそんなも、蒼紫のお陰で初めの一歩を踏み出すことが出来た。だから今度は彼女が、蒼紫が一歩踏み出すための力になりたい。
 顔を強張らせて黙り続ける蒼紫をじっと見て、は言葉を続ける。
「あのお墓の中の方たちのことを思い続けるのは当然のことだと思います。でもそれと同じくらい、ご自分のことも大切に思ってください。私、四乃森さんのお陰で随分変わることが出来ました。だから今度は私が四乃森さんの力になりたいんです。だから傍にいたいんです。駄目ですか?」
 冷静に話そうと思っていたのに、喋っているうちに興奮してきたのか、最後には縋るような必死な声になってしまった。重い女になりたくないと思っていたのに、これでは台無しだ。
 こんな自分が傍にいて蒼紫を支えることが出来るのか、には判らない。けれど彼の傍にいたい。彼以外の誰かなど、今のにはもう考えられないのだ。
 の激しい口調に気圧されたのか、蒼紫は口を開きかけたまま何も言わない。女にここまで言われて、返す言葉が見付からないのだろう。
 気まずい沈黙に辺りが包まれる。やはりすぐに帰るべきだったと、は後悔した。
 翁からもう一度会って欲しいと言われた時は、もしかしたら蒼紫もあの日のことを後悔しているのではないかと思った。から行動を起こせば、意外と簡単に元に戻れるのではないかと期待もしていた。けれど結果は変わらない。一度壊れてしまったものは、どうやっても元には戻れないのだ。
「………ごめんなさい。今のは忘れてください」
 自分が動けば蒼紫も考え直すなんて、思い上がりもいいところだ。自分が蒼紫にとってそんなにも価値のある女だと思っていたのか。特別美人でもなく、自慢できるような特技も無く、財産も無い、どこにでもいるような平凡な女のくせに。
 そうおもったら、此処にいることさえ恥ずかしくなって、は逃げるように立ち上がった。
 が、部屋を出ようと向きを変えた刹那、引き留めるように手首が掴まれる。
 驚いて掴まれた手首を見ると、蒼紫がじっとを見上げていた。
「忘れません」
 その目はあまりにも真剣で、今度はの方が気圧されてしまう。
「わ……忘れてください。私………」
「すぐに忘れて欲しくなるようなことを仰ったのですか? 勢いだけの口から出任せだったのですか?」
「いえ、そんなことは………」
 確かに勢い余ったところはあったけれど、それだけにの本心だった。蒼紫の傍にいたいというのは、本当に本当だ。
「それなら座ってください。そして話しましょう。あなたには話さなくてはいけないことが沢山ある」
 には話していないことが沢山ある。御庭番衆のこと、御頭だったこと、四人の部下の死の真相、そして蒼紫自身の心の闇―――――隠し通したままの傍にいるのは卑怯なことだ。
 全て話して、それで彼女を本当に失ってしまうかもしれない。けれど、それでも蒼紫には話す義務がある。それが、彼の傍にいたいと言ってくれたに対する誠意だ。
「長い話になりますが、聞いていただけますか?」
 真摯な眼差しに、は小さく頷いた。
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