寂寂

寂寂 【じゃくじゃく】 一切のものが動きを止め、音のしないさま。
 大人になると雪が降っても鬱陶しいだけだと思っていたけれど、今年は少し違う。雪が積もったら雪見に行こうと蒼紫と約束してからというもの、は雪が積もるのが楽しみで仕方がない。
 雪が積もるのを楽しみに待つなんて、何年ぶりだろう。まるで子供みたいで、自分でも可笑しいと思う。
 蒼紫と知り合ってからというもの、天気一つ取っても楽しみになっている。彼と会う日に晴れていれば勿論嬉しいし、雨が降っても蒼紫はをそれとなく気遣ってくれるから嬉しい。そして、雪が積もれば彼に会えるのだから、その日が楽しみだ。
 そう思えるのはきっと、蒼紫のことが好きだからだろう。また誰かを好きになるなんて自分でも信じられないけれど、は確かに蒼紫のことを好きになっている。
 蒼紫と会うのはとても楽しい。彼のことを考えると、それだけでドキドキする。はそうだけれど、蒼紫はどう思っているのだろう。
 会っている時の蒼紫は相変わらず無表情で、何を考えているのか未だによく判らないところがある。自分から誘ってきたり、が誘えば会ってくれるのだから、多分好きではいてくれているのだろう。口では何も言ってくれないけれど、きっとそうだ。
 蒼紫は歳の割にはとても晩熟なようだから、の方からそれとなく話を持っていかなければいけないようだ。女からそうするのはどうかなと思うが、このままでは永遠にこの調子のような気がする。
 とはいえ、一体何をどうすれば良いのやら。これまでずっと、女は受身で良いと思っていたから、どう動けば良いのかには皆目見当が付かない。
 こういう時、郁なら上手く立ち回れるのだろう。彼女はと違って男が切れることが無いけれど、それはいつも自分から積極的に動いているからだ。これだと狙いを定めたら郁の方から誘って、いつの間にやら男の方が夢中になっているというのが定番である。毎回上手くやるものだとは感心していたけれど、今はその技を教えてもらいたいと切実に思う。が、教えてもらおうにも、二人のことを根掘り葉掘り訊かれそうで、それはそれで厭だ。
「うーん………」
 は蒼紫のことが好きだ。蒼紫も多分、のことを好きだと思う。そしてきっと、蒼紫はの気持ちに気付いている。
 条件は揃いすぎるほど揃っているのだ。これで次に進めないなんて、ありえない。
 “新しい時代”なのだから、郁みたいに女から誘ってみるべきなのだろうか。それを喜んでくれる男なら良いけれど、蒼紫はどうだろう。保守的な性格のようだから、下手をすると引いてしまうかもしれない。
「うーん………」
 晩熟な上に、何とも扱いにくい男である。そんな男で良いのかと自分でも突っ込みたくなるが、そういう晩熟なところがまた良かったりするのだから、困ってしまうのだ。
 とりあえず、次に会う時には少しでも進展させたい。親しくなって、もうかれこれ半年が過ぎているのだ。いい大人が半年経っても手も握らないなんて、いくら何でもありえないだろう。
 とにかく当面の目標は、手を繋いで歩くことである。志が低いような気がしないでもないが、あの蒼紫が相手なのだから、これくらいで丁度良いだろう。
 問題は、どうやって自然に手を繋ぐかである。今までの数少ない経験を思い返し、は作戦を練り始めた。





 さっきから翁が後ろでうろうろしている。何か言いたいことがあるようだが、予想はついているので蒼紫は知らぬ振りで算盤を弾き続ける。
 “その時”が来るまで二人のことは黙って見守ると宣言したものの、翁は様子が気になって仕方がない。何しろ、これまでずっと女っ気が無かった蒼紫に、漸くそれらしい女が出来たのだ。これは御庭番衆総出で後方支援しなければいけないと思っている。それなのに蒼紫は何も言ってこないし、これでは手伝いようが無いではないか。
 蒼紫さえ相談してくれれば、いつでも手伝う準備は出来ている。女性経験はあってもまともな恋愛はしたことが無いと思われる男だから、きっと何か行動を起こすにも四苦八苦しているに違いないのだ。女を楽しませる会話だとか、女がその気になる雰囲気作りだとか、ちゃんと出来ているのだろうかと心配でたまらない。
 まさかとは思うが、御庭番衆秘伝の技をそのまま使ったりしてはいないだろうか。あれは情報を引き出すために女をたらしこむ技で、普通のお嬢さんに使って良いものではない。情報源と普通のお嬢さんの区別もつかない馬鹿者だとは思わないが、蒼紫だったらありえそうな気がするから怖いのだ。
 その辺りも確認したいのだが、下手に話題を振ると蒼紫はたちまち不機嫌になるものだから、翁もうかうか話しかけることもできない。何とか蒼紫から話を振らないかと念を送っているのだが、見事に無視である。こんなに心配してやっているのに、思いやりの通じない男だ。
「あのな、蒼紫―――――」
さんのことなら、口を出さない約束だろう」
 思い切って話しかけてみたものの、蒼紫の態度はにべも無い。翁の方など見もせずに、パチパチと算盤を弾き続ける。
 確かに口を出さない約束だったが、こういう微妙な問題は杓子定規に約束約束と言えるものではないだろう。紹介してくれた郁への義理もあるし、もしも蒼紫が妙なことをしでかしたら面目が立たないではないか。それに、話がとんとん拍子に進めば彼だけの問題ではなくなるのだ。翁にも一応、途中経過を知る権利はあると思う。
「まあ、約束はしておったがな。しかし儂らも心配でたまらんのじゃ。さんは普通のお嬢さんで、お前が今まで接してきた女とは違うんじゃ。もし今までと同じようにやっているようじゃったら―――――」
「そんなことするかっ」
 何を言い出すかと思えば、そんな心配をしていたとは。蒼紫は呆れて頭が痛くなってきた。
 は利用したら終わりの女ではないのだ。嫁入り前の娘に迂闊なことをするわけがないではないか。蒼紫だって仕事の相手とそうでない相手の区別くらいついている。
 お陰で、蒼紫はまだの手も握っていない。手を握るくらいなら、と思わないでもないのだが、夫でもない男が理由も無く女の身体に触るのはふしだらだと思われるかもしれない。
「それなら良いが………。お前たち、どこまで進んでおるんじゃ? 前にうちに来た時に手は握っておったようじゃったが、あれから進んでおるのか?」
 心配していたことは無いということで安心したのか、翁は急ににやにやしながら追及し始めた。その顔は最早“心配するご隠居様”ではなく、ただの狒々爺だ。
「あれは足場が悪いから手を引いただけだ。お前たちが考えているような意味は無い」
「何じゃ、ではあれから一度も手を繋いどらんのか」
 蒼紫の言葉に、翁はつまらなそうな顔をした。その反応に、蒼紫はますます不機嫌になる。
「相手は嫁入り前だぞ。お前たちが考えているような妙なことが出来るか」
 翁が何を期待しているか知らないが、彼らを楽しませるためにと会っているわけではない。彼女のとの付き合いに関しては、蒼紫のやりたいようにやらせてもらう。
 大体、蒼紫がに何をしようと、翁に報告する義理など無いのだ。彼だってもう子供ではない。そういうことは絶対に無いだろうが、もし万が一何かあったとしてもきちんと自分の力で責任が取れるのだ。
「しかしなあ、手くらいは握っても良かろう」
 蒼紫ももいい大人なのである。一線を越えるのは流石に考えものだが、接吻までくらいならしても良いのではないかと翁は思う。それを手も握っていないとは。
 郁に紹介してもらってから、かれこれ半年以上経っているのだ。先日はの方からわざわざ『葵屋』に出向いてくれて、最近は二人でよく出かけているようだから、てっきり上手くいっているものと信じていたのに。これでは恋人ではなく友人止まりではないか。半年経っても何の進展も無いとなると、の方でも脈無しと判断して、本当に恋人候補から友人に格下げしているかもしれない。
 折角蒼紫に親しい女が出来たというのに、相手から友人としてしか見てもらえないのでは話にならない。今からでも恋人として見られるように作戦を練らなくてはと、翁は鼻息を荒くする。
「すぐにでも行動を起こさんと、さんから見切りを付けられるぞ。折角挨拶に来る気にまでなってくれたというのに、ここで見切りを付けられたら今までの苦労が水の泡だ」
さんは挨拶になんか来てないぞ」
 誤解の無いように一応蒼紫は訂正しておくが、翁の耳には入っていないようだ。
「兎に角、次に会う時は手ぐらい握れ。否、一気に接吻まで持ち込まんと巻き返せんぞ」
「…………………」
 妙な事をしていないかと確認したかと思えば、接吻しろとは。一体翁はどうすれば満足なのだろうと、蒼紫は些かうんざりする。
 だが、手を握るくらいは常識の範囲内であることは解った。接吻も、場合によっては常識内の行動らしい。
 多分は蒼紫のことが好きだろうから、彼が行動を起こしても今更拒否はしないだろう。ただ、問題があるとすれば、蒼紫自身のこと―――――
 蒼紫ものことを好きになっている。だが、その気持ちを認めるわけにはいかない。それを認めれば、蒼紫はのために今までと違う自分を求めるようになるだろう。それは許されないことだ。
 四人の部下の命と引き換えに永らえた命は、彼らのためだけに使うと決めたのだ。それを今になって彼ら以外の人間のために、そして何より自分の為に使いたいなんて、虫が良すぎるだろう。
「その件についてはこれで終いだ。二度と口を出すな」
 と同じ時間を過ごすのは、彼女に好きな男が出来るまで。最初にそう決めていたのに、危うく忘れかけるところだった。
 これ以上深入りをしてはいけない。ここで歯止めをかけておかなければ、を傷付けることになるだろう。好きだから、これ以上親しくなってはいけない。
 むっつりと黙り込んでしまった蒼紫の姿に何か察するところがあったのか、翁は何も言わずにそのまま部屋を出て行った。





 そして、待ちに待った雪の日の休日。折角だから風情のあるところへ行こうと、庭園が有名な寺に行くことになった。
 寺なんて随分と渋いものだとは思ったが、どうやら蒼紫はこういう場所が好きらしい。物静かな男だから、静かな場所が好きなのだろう。
 寺が逢い引き(とは思っている)に適当かどうかは兎も角として、たまにはこういう静かな場所も良いかもしれない。少々静か過ぎるのが難点かもしれないが。
 寺なんて、法事か催し物でもない限り、人はいないものだ。こうやって歩いていても、誰ともすれ違わない。音といえば二人の足音くらいなもので、それさえも雪で殆ど消されてしまう。
「静かですね」
「はい」
 が声を掛けてみても、心なしか蒼紫の反応は鈍い。普段から無口な男ではあるが、今日はそれに輪をかけて無口なようだ。
 周りが静か過ぎるから、余計に喋らないのだろうか。確かにこんな静かな中で会話を弾ませるのは、雰囲気を壊してしまいそうな気はする。
 とはいえ、何も話さないというのも不自然だ。特に今日は、は積極的に行こうと決めているのである。何とか上手い具合に手を繋げるよう、話を持っていかなくては。
 まさか、そんなの考えに気付いて警戒されているのだろうか。そんなことを察するほど勘の良い男には見えないが、もし気付かれているとしたらかなり恥ずかしい。
 考えているうちにどんどん悪い方に想像が向かってしまって、は一人で恥ずかしくなってしまう。やはり自分から積極的に動くなんて、には無理だ。
 自惚れではなく、は蒼紫に好かれていると思う。そうでなければ、こうやって二人で会ったりしないだろう。外野を黙らせるためにしても、好意を持っていなければ月に何度も会ったりしない。
 それなら少しくらい蒼紫の方からも食事以上の関係に持ち込もうとしても良さそうなものだが、それが全く無いのだからもどうして良いのか分からない。堅い人だから結婚前の女に触れてはいけないと思っているのか、それとも彼女に好意は持っていても食事以上は踏み込みたくないのか。後者だとしたら、はとんだ勘違い女だ。
 大抵の場合、何度か会っていれば相手が自分のことをどう見ているのか判ってくるものだが、蒼紫についてはよく解らない。に好きな男が出来たと思い込んで家まで来たくらいだから、蒼紫も自分のことが好きだと思っていたけれど、考えてみればそれ以外に彼の方から好意を示すような行動を見せられたことは無いのだ。手紙の件だって翁が背中を押されたのをきっかけに始まったことだし、意地悪く考えれば蒼紫は周りに流されているだけにも見える。
 周りに流されているだけだとしたら、が蒼紫に好意を持っていることさえ彼にとっては迷惑なことなのかもしれない。彼もかつてのと同様、誰かを好きになれない人間だと言っていた。だから、恋をできない人間同士、周りの目を誤魔化すために一緒にいようと約束して今日まで続いてきたのだ。ここでが最初の言葉を翻して蒼紫のことを好きになったと知ったら、彼にしてみれば約束が違うと思うかもしれない。
 久し振りに人を好きになって浮かれていたけれど、浮かれて良いことではなかった。危うくの都合ばかり押し付けて、蒼紫を困らせてしまうところだった。
 でも、が人を好きになれたのだから、蒼紫だっていつかそういう風になれる日が来るのではないだろうか。彼がどんな事情を抱えているのかは知らないけれど、きっとその日は来ると思う。その日が来るまで待てば良いのだ。
 また調子の良いことを考えていることに気付いて、は顔を赤くする。今まではこんなに楽観的になったことなんてないのに。これも恋の効用というやつなのかもしれない。
「どうしました?」
 急に顔を赤くしたに気付いて、蒼紫が怪訝な顔をする。
「あ、いえ………」
「そうだ。此処から少し下り坂になりますから、気を付けて下さい」
「あ、は―――――きゃあっ?!」
 言われた先から、は足を滑らせて仰向けにひっくり返りそうになった。咄嗟に蒼紫がの腕を掴み、空いた手で背中を支える。
 抱きかかえられるように支えられて、他意は無いと解ってはいてもは全身が真っ赤になってしまう。全身が心臓になったようにドキドキして、頭がくらくらする。
 こんなことをされると、ますます蒼紫がに気があると思ってしまうではないか。ただの女友達だったら多分、転びそうになってもこんな風に支えたりなんかしない。
「大丈夫ですか?」
 が真っ赤になっているのは転びそうになったのが恥ずかしかったのだと解釈したのか、蒼紫は今の状況を全く意識していないように尋ねる。どうやら彼は距離感が無いだけで、本当に親切心からを支えてくれていただけらしい。
 拍子抜けしたと同時に、やはり勘違いだったのかとはがっかりした。その気が無いなら無いで、きちんと線引きしてくれないと勘違いしてしまうではないかと、腹も立ってくる。勿論それは理不尽なものだとは解っているけれど。
「大丈夫ですけど………。でも一寸これは………」
「あっ………」
 赤い顔でに指摘され、蒼紫もやっと状況に気付いて慌てて手を離す。
「すっ…すみませんっ。つい………」
「いえ、ありがとうございました。あの、転ばないように気をつけますから」
 謝られるとそれはそれで気まずくて、は俯いて蚊の鳴くような声で応じる。
 ああいう風に抱き止められるのは、別に厭ではなかった。好きな男からそうされるのだから当然だ。だから謝られると、やはり蒼紫にはその気は無いのだと宣言されているみたいで、軽く落ち込んでしまう。
 蒼紫の言動に一喜一憂して、何だか彼に振り回されているみたいだ。人を好きになるというのは大変である。
 浮かれたり振り回されたり、そんな自分にはそっと溜息を付く。蒼紫を好きになる前の自分の方が、もっとちゃんとしていたと思う。人を好きになって駄目人間になるなんて、もしかして自分は恋愛には向いていないのではないかと思うくらいだ。
 俯いたまましょんぼりしているの目の前に、すっと蒼紫の手が出てきた。
「この先も滑りやすいですから、もしよろしかったら………」
「え………?」
 びっくりして、は顔を上げた。
 それはつまり、手を繋いで歩こうということなのだろう。今日こそ手を繋いで歩けるように頑張ろうと思っていたけれど、まさか蒼紫の方から言ってくれるなんて。
 嬉しいのと戸惑いがごっちゃになって、またの顔は赤くなる。蒼紫はただの親切心で言ってくれているのだろうが、それでも手を繋いで歩いてくれるのは嬉しい。
 嬉しすぎて固まっているの姿を困っていると勘違いしたのか、蒼紫は慌てて弁解するように言う。
「いや、あの、足許が悪いから転んでしまったら―――――いや、あの、すみません。大人だからそう転びはしないとは思うんですが、万が一ということもありますし―――――」
 顔を赤くして少し早口でまくし立てる蒼紫の様子が可愛らしくて、は思わず噴き出してしまった。いつも無表情な男が慌てたり焦ったりする姿というのは可愛らしい。
 やっぱりこの人のことが好きだ。落ち着きがあって真面目で優しくて、晩熟で可愛らしくて、こんな人は他にはいない。今はまだ恋愛対象として見て貰えなくても、いつかそう見て貰える日が来るようにしたいと思う。の心の傷を癒してもらえたように、彼女も蒼紫の心の傷を癒せる存在になりたい。
「お願いします」
 嬉しさ一杯の笑顔を浮かべて、は蒼紫の手を握る。
 繋いだ手から、の“好き”が蒼紫に伝えることが出来たら良いなと思う。彼女の“好き”が伝わって、蒼紫の自分に対する好意が自分と同じ種類のものに変わって欲しいと、は心から願った。
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