六花
六花 【りっか】 雪の異称。
なし崩しに『葵屋』に挨拶をしてしまった形になってしまい、いつの間にやら蒼紫とは“公認の仲”とやらになってしまったらしい。何が“公認”なのか本人たちにはさっぱり解らないが周りがそう言うのならそうなのだろう。公認の仲とやらになって変わったのは、外野が静かになったことだろうか。今までは鬱陶しいほどに騒いでいたのが嘘のように静かになった。今まで同様、気にされているのは感じるのだが、遠巻きに観察されているような感じだ。今までのようにわあわあ騒がれるのは論外だが、これはこれでまた気になるものである。
「まあ何というか、静かになったのは良いのですが………」
腕組みをして、蒼紫は困った顔をする。
今までと食事に行く時は、何かしら尤もらしい理由を作って出て行っていたものだが、最近はその必要も無くなった。それどころか、周りが色々な店を調べて教えてくれるほどだ。と同年輩のお近やお増が紹介してくれる店は、非常に参考になって助かっている。
自分が連れて行った店でが喜んでくれれば、蒼紫も嬉しい。二人のことで外野が騒ぎ立てることが無くなったのも、彼にとっては好ましい。だが、この静けさが時々不気味なのだ。
翁たちが大人しくなったのは、二人が正式に付き合っていると誤解しているからだろう。蒼紫とがくっ付いてしまえば、騒ぎ立てて強引に会わせる必要も無いのだ。だが二人が付き合っていると思い込んでいるということは、当然が近い将来に若女将に納まると思い込んでいるわけで、それはそれでややこしいことになりそうだ。
が、蒼紫の心配を他所に、は呑気な調子で、
「静かになったのなら良いじゃないですか。こっちも郁さんが大人しくなってくれて、大助かりですよ」
「しかし、うちの者が大人しくなったのは、さんが若女将になると誤解しているから―――――」
「ああ………」
それについては、も悩ましいところだ。周りが大人しくなるのはありがたいのだが、本格的に若女将候補として見られるのは困る。若女将なんて向いていないのは自分でも解っているし、何より蒼紫と“結婚を前提としたお付き合い”など考えてもいないのだ。
周りは大人しくなったものの、ひょっとして更にややこしい状況になってしまったのではないかと、は急に不安になってきた。少々暴走しすぎる嫌いはあるが『葵屋』の人々は基本的に良い人たちで、そんな人たちを騙すのは気が咎めるというか心苦しい。かといって嘘を本当にするというのは色々と困るわけで、どうにもこうにもいかない。
「どうしましょう………」
「のらりくらりとかわしていくしかないでしょう。あまりうるさいようでしたら、しつこいとさんに逃げられるとでも言いますよ」
今度は蒼紫が呑気に応える番だ。その言葉を冗談と思ったのか、はくすくす笑った。
『葵屋』のただならぬ期待は、蒼紫もひしひしと感じている。それを誰も口に出さないのは、あまり騒ぎ立てるとが逃げてしまうと感じているからなのだろう。このままずっと大人しくしてくれていれば良いのだが、と蒼紫は思う。
がどう思っているのかはっきりと訊いたことが無いから判らないが、蒼紫は彼女と会うのは楽しい。食事をして話をしてそれで終わりだが、そういう友人が今までいなかったから新鮮で楽しいのだろう。公認の仲とか若女将とか関係無く、こうやって長く付き合っていければ良いと思う。
もともとは、いつかが誰かを好きになるまでの繋ぎのつもりで始まった仲だった。特別な感情が割り込む隙の無い、利害だけで近付いた関係だったはずなのだが、最近は彼女と会えなくなる日が来ることを恐れている。操の件で誤解されて避けられていた時、それをはっきりと感じた。頻繁に会うようになって、情が移ったのかもしれない。
「私は逃げるというより、大爆発するって感じですよ、きっと」
くすくす笑いながら、は冗談めかして言う。
操とのことを誤解した時のように『葵屋』の面々の前で爆発するの姿を想像したら、蒼紫も可笑しくなってきた。翁たちはを大人しい女だと思い込んでいるから、あんな風に怒る彼女を見たら腰を抜かすだろう。蒼紫だって、あんな烈しい面を持っている女だとは思っていなかったのだ。
「爆発する前に、またいきなり連絡が取れなくなるのではないですか? あの時は本当にどうしようかと思いました」
「あの時は………」
蒼紫の言葉にあの時のことを思い出し、は顔を紅くした。
あの時はとにかく頭に血が上って、蒼紫の顔どころか彼の書く文字すら見たくなかったのだ。今思えば馬鹿みたいだと思うし、何故あんなにも怒ったのだろうかとも思う。
嘘をつかれたと思ったから腹が立った。確かにその通りなのだが、嘘をつかれたのと同じくらいに、操の存在にも腹を立てていたようにも思う。楽しそうに蒼紫に話しかけるだけでなく、彼の腕に飛びつく姿を見た時には全身の血が逆流して卒倒するかと思ったほどだ。
二人が会っているのは周りの雑音を逸らすためで、惚れた腫れたの感情がきっかけなわけではない。だから蒼紫に親しい女がいようと腹を立てる筋合いは無く、の怒りは彼にとっては理不尽なものだろう。
しかもあの時の自分の言葉を思い出すと、嘘よりも操のことで怒っているみたいだ。あれではまるで焼き餅を焼いてるみたいではないか。否、あの怒り方はどう見ても焼き餅である。
今更そんなことに気付いて、は自分でも驚いた。焼き餅を焼くなんて、まるで本当に蒼紫のことが好きみたいではないか。
蒼紫のことは嫌いではない。良い人だと思うし、こうやって会うのも楽しい。けれど、恋の相手としてはどうだろう。
そのまま黙り込んでしまったを見て話題が切れたと思ったか、蒼紫は伝票を取った。
「そろそろ出ましょうか。あまり遅くなるといけない」
「あ……はい」
蒼紫の声にはっとして、は席を立った。
「あら………」
店にいた時は気付かなかったが、外に出ると雪が降っていた。
「傘、持って来れば良かったですね」
空を見上げ、は少し困ったように呟いた。
風は無いとはいえ、前がよく見えなくなるほどの雪である。家に着く頃には頭や肩に積もってしまいそうだ。
「何処かで傘が買えれば良いのですが………」
蒼紫も同じく困ったように空を見上げる。
此処からでは『葵屋』もの家も少し遠い。この時間では、開いている店も無いだろう。蒼紫はこれくらいの雪の中を帰っても平気だが、はそういうわけにもいくまい。雪が止むまでまた店の中で待とうにも、この調子では一晩中でも降り続きそうだ。
どうしたものかと蒼紫が考えていると、が自分を奮い立たせるように明るい声を出した。
「ま、雨よりマシですよ。行きましょう」
「そうですね」
こんな所でぐずぐずしていても仕方が無い。に促されて、蒼紫も歩き出した。
帰る途中に開いている店でもあればと思ったのだが、やはりこの時間ではどの店も閉まっている。雪は相変わらずしんしんと降り続いて、気が付くとすぐに着物に雪が積もってしまう。これでは家に着く頃には真っ白だ。
手袋をしていても手が悴んできて、は手袋越しに息を吐きかけた。毎年のことだが、京都の冬は寒い。
ふと蒼紫の手元を見ると彼は手袋をしていなかった。手袋をしているでさえ指先が悴むほどなのに、素手の蒼紫は特に何も感じていないようだ。彼も人間なのだから寒さを感じないということは無いはずなのだが、店にいた時と表情が変わらないところを見ると平気なのかと思ってしまう。
「手袋、しないんですか?」
世の中には手袋をするのが嫌いとか足袋を履くのが嫌いという人間がいるから、蒼紫もその類の人間なのかもしれない。そういう人間は手足がごわごわする不快感を我慢するより寒さを我慢する方がマシだと思っていたりするのだ。にはとても理解できないが、それは感覚の違いというものなのだろう。
が、蒼紫は少し恥ずかしそうに苦笑して、
「毎年買おうとは思っているんですが………面倒臭くて買いそびれてしまうんですよ」
「……………………」
予想外の答えに、は返す言葉が思いつかない。
面倒臭くて買いそびれてしまうといっても、手袋を使う期間は3、4ヶ月はあるだろう。いくら何でも買いそびれすぎだ。しかもそれを毎年繰り返しているなんて。そう高いものでもあるまいに、出先で一寸買えば済む物ではないか。その“出先で一寸”というのを忘れてしまうのだろうが。
蒼紫はしっかりしているように見えて、結構惚けたところというか抜けたところがあると思っていたが、これは抜けすぎだ。このまま放置していたら、今年もまた手袋の無い冬を過ごすかもしれない。
日頃のお礼も兼ねて蒼紫の誕生日には財布を贈ろうと思っていたが、手袋に変更だ。こっちの方が喜ばれるかもしれない。
そんなことを考えていると、幸運にも閉店間際の雑貨屋を見つけた。飲食店街が近いから、食事帰りの客を当て込んでこんな時間まで開けているのだろう。
店内で傘を捜していると、手袋を見つけた。こういうところで売られている物だから高級品ではないが、しっかりした暖かそうな品物である。こういう時に誕生日の贈り物を買うのは行き当たりばったりな感じがしないでもないが、こういう時に買った方がすぐに使ってもらえそうな気もする。
蒼紫が傘を選んでいる間に、はそっと離れて手袋を買う。進物用に包んでもらおうかと一瞬考えたが、あまり仰々しいのも逆に引かれそうなので普通の包装にしてもらった。
「この傘にしましょうか。どうしました? 何か買ったんですか?」
丁度品物を受け取ったところで、蒼紫が傘を持ってきた。
「ええ、一寸………」
曖昧に微笑んで、はさっと袋を隠す。手袋を渡すのは外に出てからだ。まさかが手袋を買ったとは思っていないだろうから、きっと驚いてくれるに違いない。
蒼紫が会計を済ませ、二人で店を出た。相変わらず雪は酷いが、もう傘があるから大丈夫だ。
店が見えなくなったところで、はさっき買った手袋を出した。
「これ、使ってください。お好みに合うか分かりませんけど」
「何ですか?」
から紙袋を受け取り、蒼紫は中を見る。
「あ………」
「いつもご馳走になってるから、お礼です。もっと高い物が良いかと思ったんですけど、すぐ使ってもらえるかと思って」
思った通り驚いた蒼紫に満足して、は嬉しそうに言う。
「ありがとうございます。そんなに気を使っていただかなくても良かったのに………」
「だって、今月はお誕生日なんでしょう? 当日は私にご馳走させてくださいね」
「どうしてそれを?」
手袋にも驚いたが、それ以上に誕生日を知っているということに蒼紫は驚いた。誕生日など一度も話題に上ったことが無いし、『葵屋』でも聞いたことが無いはずだ。一体誰から聞いたのだろう。
驚く蒼紫の顔が可笑しくて、はくすくす笑いながら種明かしのように答える。
「郁さんが別館の方から聞いたみたいですよ。それで教えてもらったんです」
「いらんことばかり喋るな………」
そんなところから洩れていたのかと、蒼紫は苦笑した。別館の人間から誕生日の話題が出たことが無かったから、彼らが自分の誕生日を知っていることすら知らなかった。使用人というのは意外と何でも知っているものである。
蒼紫自身、今まで自分の誕生日など意識したことが無かった。子供の頃は御庭番衆の修行でそれどころではなかったし、大人になってからも誕生日を祝う余裕など無かった。元々そういうものを意識しない性質だからそれで不自由は無かったが、こうやって祝ってくれる人がいるというのは嬉しい。
「ありがとうございます」
に傘を預け、蒼紫は早速手袋をしてみる。手袋をするだけで体感温度が随分と違うものだ。
「やはり手袋があるのと無いのでは違いますね」
「そうでしょう?」
微笑む蒼紫に、も嬉しそうにふふっと笑う。続けて、
「雪が積もったら、雪見に行きましょう」
「良いですね。この手袋をしていれば、雪が降っても寒くないでしょうから」
と二人で食事以外で何処かに出かけるのも、きっと楽しいだろう。雪の日の外歩きも、この手袋をしていけば寒くない。
蒼紫も穏やかに微笑んで頷いた。